血糖値激減!
 うふふ。えへへへへ。おほほほほほほほ。うわっはっはっは!え?なにがそんなに嬉しいのかって?なに?聞きたいの?しょうがないなあ。じゃあ、話してやるか。あのね、先日府中病院にまた行ってきたの。そしたらね、そーしたらあ・・・・・あらヤダ、どうしましょう。なんと空腹時血糖値が111に下がっていたんだ。ドッカーン!一ヶ月前が196だったから、これは画期的な数字だ!(基準値は70〜109。糖尿病は126から)
 それと、もうひとつの数値であるヘモグロビンA1cというのは、過去3か月から半年間の総合の結果だから、一ヶ月くらいでは大きな変化は出ないのだが、それでも一ヶ月前の8.6に比べて今回は7.4と目に見える結果が出ている。

 この一ヶ月、自分で言うのもなんだけど、頑張ったからね。インスリンを促す薬も飲んでいるのだけれど、食事療法の効果が絶大なのだ。なにせ毎晩飲んでいた酒を断ち(毎晩浴びるように飲んでいたのが、三日に一度コップに一杯くらいになったんだ)、間食を完全にシャットアウト。食事は玄米をご飯茶碗に軽く一杯。おかずはさっぱり油抜きの和食中心。
 そうした食事療法に加えて、生活自体も随分変わった。府中まで自転車通勤を始めたし、タンタンの朝のお散歩は一時間に引き延ばされた。これをきちっと続けている。案外僕は意志が強いのさ、と自画自賛。えっへん!

 僕自身の努力もあるが、今回の一番の功労賞はなんといっても妻だ。妻の功績は計り知れない。摂取する絶対量が減ってギリギリのカロリーでやっているということは、内容を吟味しないとカロリー以外の要素、つまりビタミンやミネラルといった必要な栄養素がすぐ不足し、栄養失調に陥る可能性がある。
 その意味では、かつてNHKの番組「ためしてガッテン」に出演した時に栄養士さんから教わった経験が役に立っているが、それを毎日の具体的な食事に生かすのは楽ではない。毎日同じおかずというわけにはいかないし、それでいて栄養が偏らないよう配慮しなければならないのだからね。
 新国立劇場で会議などがあって、お昼を自宅で食べられない時には、玄米ご飯のお弁当を作ってもらっている。こうしたことを妻は喜びを持って毎日欠かすことなく実行してくれている。本当に感謝、感謝!でも・・・その割に妻自身の体型は変わらない。体重も減らない。何故なんだろう?どうやら僕のいない間に間食なんかしているらしいぜ。

 また僕の場合、血糖値だけでなく中性脂肪も高めだった。3月3日に検査した時、基準値が50〜149の中性脂肪が169あったのだが、それが一ヶ月の間になんと49となり、少な過ぎるくらいになった。これも、妻がなるべく油を使わないよう調理してくれたお陰だ。

フォアグラ
 僕の顔がほころんでいるのを見て、府中病院の女医さんは、
「でも、油断しないで下さいね。」
と念を押すように言った。分かってらい。でもこれからはたまには赤ワインと一緒に大好きなチーズなども食べたいな。あっ、ほれほれほれ、すぐ欲望が体の内部からふつふつと湧き上がってくるのだ。本当に気をつけてないと、リバウンドなんてあっという間だな。
「それと・・・・。」
「はい?」
「超音波で内臓の状態を調べた結果ですが・・・・シボウカンが見られます。」
「シボウカン?・・・・死亡肝?・・・・ゲッ、肝臓が死んじゃったかな?」
「脂肪肝です。要するにですね。肝臓がフォアグラになってるということです。」
おお、いいこと言うね女医さん。僕フォアグラ大好き!特にステーキの上に乗せて食べると最高!と、彼女に言おうと思ったけれど、目を見ると、
「あんた自身がフォアグラ!分かってんの?」
と語っていた。
 おっとっと、中性脂肪の値が低くなったからと思って喜んでいたら、肝臓がまだ油漬けの状態か。ふうっ、一難去ってまた一難。
「まあそれも、この調子で食生活を続けていれば、自然に治ってくるでしょう。」

 この調子で食生活・・・・・この調子・・・・・要するに、チーズやてんぷらやロースのとんかつやカルビーの焼き肉をガンガンというのは、まだまだ遠い未来の話ということだね。もしかしたらそんな状態には、もう一生なれないのではないか。そこで僕の尻尾はシュウウウウと丸まって股の間に収まってしまった。(僕はタンタンと生活するようになってから、あまりにタンタンと同化しているせいか、自分だけに見える尻尾を持っているのです。それで、体はそのままでも状況に応じて、僕の偽らざる本心の通りに、尻尾が歓喜のためにちぎれるように振られたり、警戒のためにピンと立ったり、落胆や失望のために萎えたり、丸まってしまったりするわけ。でも残念ながら皆さんには見えませんよ。)

 当面の目標は、ヘモグロビンA1cを5点台にすること(基準値は4.3〜5.8)。そのためにはあと2,3か月の精進が必要だな。まあ、実際の話、てんぷらやロースのとんかつは、以前ほど欲しいと思わなくなっている。チーズや赤ワインは少量でいいからたまには欲しいんだけどね。少量でいいから・・・・。

 一ヶ月前より4kg痩せて今50kg台。体型がすっかり変わった。お腹がすっかり引っ込んでサイズの小さいズボンが入るようになってみると、この体型を維持したいという欲が出てくる。もうあの布袋様のような体型には戻りたくない。
 太っている時にはね、そっちの方が指揮してもパワーやエネルギーが出るように思うのだよ。でも、それも錯覚だな。精神的パワーは、むしろ太り過ぎよりも細身の方が集中力をもって出てくるような気がする。まあ、人間ってみんな、現在の自分の状態を肯定的に見たくなるものだからなんとも言えないのだけれどね。

罪と罰
 僕の場合、音楽と読書の間に関係があることが多い。今、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の練習をやっていることもあって、何かロシア文学に触れたくなった。本屋に行くと、例の光文社古典新訳文庫から亀山郁夫訳の「罪と罰」が出ていたので買ってきた。
 本当は、これまで読んだ事のない小説を何か読みたかったのだけれど、以前亀山氏の訳「カラマーゾフの兄弟」を読んで、今何故新訳かという問いの答えを見つけた気がしたことが、僕にこの本を買わせた理由だ。先週の「今日この頃」でも書いたけれど、「ムツェンスク」のチラシの文章を亀山氏が書いていることも関係しているなあ。。
 
 この本は2巻まで出ているので2巻で完結するつもりで買ってきたけど、読み始めてみたら、本当は3巻まであるのだということが分かった。で、その第3巻は、まだ出版されていないんだって。うわあ、困ったな。もう読み始めてしまったぜ。2巻まで読んでしまったらどうしよう。そう思っている内に、あまりに面白いので、あっという間に2巻が読み終わってしまった。おおい、早く続きを出してくれ!といっても、物語はよく知っているのだ。結末も分かっている。大好きなこの作品は、若い時から別の訳で何度も読んでいたのだ。 

整理された名前 
 さて、今回の新訳についてだが、別の訳と比較しながら読んだわけでないので、細かいところについてはよく分からないというのが正直なところ。でも明らかに読み易いなと思う点がひとつだけある。それは、名前が整理されている事。
 亀山氏は第1巻の巻末の読書ガイドでその点について述べている。ロシア人の名前は、名前+父称+姓の三つから成る。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフの正式名称はロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ。最初のロジオーンが名前。ラスコーリニコフが姓。真ん中のロマーノヴィチは、父親から受け継いだ父称で、父親の名前はロマーン。
 長ったらしいこうしたロシア人の名前のお陰で、読者は登場人物の名前を覚えるだけでひと苦労だ。しかもこの正式名称の他にそれぞれ愛称で呼ばれる。ラスコーリニコフの場合は、名前のロジオーンを取ってロージャと呼ばれる。さらに親密感をともなうロージェンカというのもある。
 読者にしてみると、せっかくラスコーリニコフという名前を覚えたと思ったら、作品中の会話ではロージャという聞き慣れない呼び方をされる人物が出てくるので、別の登場人物かと思って内容がちんぷんかんぷんになる。とうとうあきらめて読む事自体を断念してしまう事すら起こりかねないのだ。それこそがロシア文学の最大の壁。
 正式名称と愛称の両方を覚えることは、避けられないことだとしても、せめて愛称はひとつにならないものかということで、亀山氏は、あえてひとりにつき愛称はひとつという原則で統一した。原書で併用されているロージェンカという愛称はばっさり切られて、ロージャのみが用いられた。これはかなり思い切った決断だ。翻訳者としてのプライドが邪魔したり、原作を尊重、あるいは原書に忠実にという配慮がありすぎると決して出来ない。亀山氏は、日本人の読者のことを考え、あえてこのような簡素化に踏み切ったのだと思う。大いに歓迎したい。

ドストエフスキーの魅力
 ロシア文学を読むのだったら、なんといってもドストエフスキーだな。ベートーヴェンになぞらえると、「カラマーゾフの兄弟」が「第九」だったら「罪と罰」は「運命」だ。つまり「カラマーゾフ」よりも随分コンパクトな感じがして、主張したい事が凝縮されている気がする。それでもドストエフスキーだからね。複数の登場人物が複雑な対位法を織りなしていることには変わりはない。

 「罪と罰」第2巻の巻末に載っているドストエフスキーの生涯を読むと、彼が実に破滅的な人生を送っているのがわかる。特に「罪と罰」を執筆した頃は、巨額の借金を抱え、債権者から逃れるために外国旅行に出るが、そこでさらにルーレットの誘惑に負け、なけなしの金を使い果たしてしまう。彼は旅先のホテルで、支配人から、食事はおろか、ろうそくまで拒絶されるという大ピンチに陥った。
「ホテルを一歩も出られない。借金で八方ふさがりだ。」
「即金で三百ルーブル送ってくれるところがあれば、どこでもいいから契約したい。」
 こうした手紙を恋人や友人達に送ったドストエフスキーには、もはやわずかのプライドも残っていない。だが、まさにこうした最中に、不滅の傑作「罪と罰」が生まれたのだ。
彼がラスコーリニコフのような犯罪者の心理や、酒に溺れて犬死にしたマルメラードフのような破滅型の人間の心理に驚くほど肉薄できるのも、こうした自分自身の破滅への傾斜があるとしたら、彼の窮乏生活も「芸のこやし」というところか。

罪とは、罰とは
 でもドストエフスキーの真に偉大なところは、それだけに終わらないところなんだ。彼にしか決して描けないものに、破滅者や犯罪者によって逆説的に描く神の存在というものがある。
 ラスコーリニコフは、「選ばれた者が何千もの命を救うために、ひとつの命をひきかえにする権利がある」という彼の哲学を実行するために、金貸しの老女を殺害する。亀山氏が読書ガイドで書いているように、「この動機、いや哲学にしたがっているかぎり、ほんとうの意味での後悔や罪の意識が青年を訪れることはない。しかし、現実に彼は、すでに体全体で罪の恐ろしさを感じている。」

 彼が体全体で感じている罪の恐ろしさとは一体何か?ドストエフスキーは執筆を開始した時、雑誌「ロシア報知」の編集者カトコフに宛てて売り込みの手紙を書いているが、その中にこういう内容がある。

私の小説には、次のような考えが示されています。すなわち、法による刑罰が犯罪者にもたらす恐怖は、立法者が考えるより、はるかに弱いものだということです。その理由の一部は、犯罪者みずからが、精神的にその刑罰を求めることにあります。
 犯罪者みずからが刑罰を求めるとはどういうことなのか?それより前に、罪を犯した人間というのは、一体どんな精神状態になるのだろうか?恐らく、まずその罪を隠さなければならない必然性によって、自己と他者との間には絶対的な断絶の壁が築かれるだろう。
 一度でも嘘をついたことのある人間だったら誰でも分かるだろう。一度嘘をついてしまうと、その嘘を貫くために人は何度も嘘をつかなくてはならない。その都度、人は真実と違う架空の物語を創作しなければならないし、そこに矛盾が生まれないように嘘の上に嘘を上塗りしていかなくてはならない。そのことによって自己は、他者との自然な関係を断たれて暗黒の密室に完全に閉ざされる。
 その他者からの断絶という状態は、自己にとっては実に耐え難い恐ろしい状態であり、追い詰められた自己は救いを求めてあえぐのだ。

 先ほどのドストエフスキーの手紙にはこういうくだりもある。
神の真実が、世の掟が、その力を発揮し、とうとう彼は自首せざるをえなくなります。たとえ流刑地で朽ち果てようと、いまいちど人々とのつながりを回復するために、そうせざるをえないのです。
いまいちど人々とのつながりを回復するために・・・・・。それが犯罪者の病んだ内面の真実なのだろう。まさに窒息しそうな自己が救いを求める。内面的に救いを求めることは、外面的にはむしろ刑罰を求めるということなのだ。そうして許してもらいたいのだ。誰に?それが、我々が神と呼んでいるものだ。
 自己の内部に入ってこられる存在は二人だけ。秘密を知っているのも二人だけ。すなわち、自分自身とそして神なのだ。

 「罪と罰」で描かれているのは、どのようにしてラスコーリニコフの自己が壊れていくか、それがどのように再生するか、そこに神という存在は介入しているのか否かといった、宗教、哲学、精神科学全てが関わっているような、とても深いテーマなのだ。こんなテーマを扱えるのはドストエフスキーくらいしかいない。

ソーニャ
 さて、この小説で僕が唯一不満なのは、娼婦ソーニャの描き方だ。ニヒリズムに染まった罪の男ラスコーリニコフが更正するために、聖女のような存在ではなく、娼婦ソーニャを登場させたのは良いと思う。ソーニャが自分を突き放す存在ではなく、罪を共有する存在としてラスコーリニコフの内面に入り込んできた設定も良いと思う。
 でもドストエフスキーも男だから、どうしても女性を美化してしまうな。ソーニャだって、貧困の内にある家族を救うために犠牲的精神でこの職業に就いたとはいえ、娼婦ゆえの心の闇があるはずなのだ。
 それはどういうことかというと、殺人が自己を殺す行為だったとしたら、売春もそうなのだ。まあ、もともとセックスが好きでしょうがなくて、相手がどんな男でもセックスさえ出来ればハッピーという女性ならともかく、好きでもない男に、いやそれどころか時にはおぞましいような男に、お金のために微笑みかけその身を委ねる行為は、やはり自分を殺し自己を裏切ることに他ならない。そしてそういう生活が、男性への不信感や様々なトラウマを作り出し、やはり精神を蝕んでくるに違いないのだ。

 そうしたソーニャの闇の部分が、男性のラスコーリニコフやマルメラードフのようには赤裸々に描かれていないところが僕には不満なんだな。まあ僕自身、学生時代に初めて読んだ時には感じなかったことだ。あの頃の僕は若かったから、今よりずっとソーニャのような女性に癒されたいというロマンチックな幻想を持っていたのだ。男は幻想を持ち易いのだよ。
 でも年取って女性に対する見方も変わってきた。かつては女性に対し「自分がこうであってほしい」存在として見ていたものが、よりありのままに受け入れたいという風になってきたのだ。それは悪いことではない。僕は昔よりずっと女性に対して寛容になっているし、ぎらぎらした部分が消えた分、女性の人格全体により関心が移り、女性を混じりけのない気持ちで愛している。
 娘達が生まれてから父親でいる生活が長い間に父性が育ち過ぎて、他の女性を見てもつい父親目線になってしまうというのもあるな。だから新国立劇場合唱団の女性達なんて、もう可愛くて仕方がない。東京バロック・スコラーズの女性もどこもそう。女性大好き! 考えてみると、今の僕には嫌いだという女性が世の中に一人もいないんだ。最近の僕は、ドン・ジョヴァンニとは違う意味で究極のフェミニストだな。なんというお気楽な人生。あっはっはっは!

 ええと、何の話をしていたんだっけ?ああ、ソーニャだ。でもゲーテも「永遠に女性的なるものが、我々を高みに引き上げていく」とファウストで言っているものな。ソーニャの理想化された像はそっとしておこう。ドストエフスキーも男だ。女性を理想化しあこがれを抱いたところで罪ではない。むしろそのあこがれこそが不滅の名作を作り出す原動力になっているとも言える。
 現に、ラスコーリニコフがソーニャにヨハネによる福音書「ラザロの復活」のくだりを読ませる場面は、たとえようもなく美しい。いいなあ。こうした場面が突然現れるのもドストエフスキーの醍醐味。このような美しさに接すると、味気ない写実主義なんてクソくらえという気になる。

 

「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がいよいよ初日
 さて、新国立劇場では「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がいよいよ5月1日金曜日に初日を迎える。公演は1日、4日、7日、10日の4回。

 オーケストラが入ってみるとね、金管楽器が面白いようにバリバリ鳴って、ブラス好きにはもうたまりませんなあ。15人の金管バンダもオケ本体とは別に舞台上やバルコニーで活躍する。東京交響楽団は、こういう近代現代ものになると本領を発揮するね。ホルン、トランペット、クラリネットなど、ショスタコーヴィチで最も肝心のポジションを外国人奏者が固めているのも東響の特徴。コンサートマスターのニキティン氏に至っては、なんとネイティブのロシア人だからね。まあ、聴いてごらんよ。凄いから。

 来週は連休のため「今日この頃」は一週間だけお休みします。その間にi-Pod Actuelleかアナリーゼかなんか仕上げられたら仕上げます。ではみなさん、元気で連休をお過ごし下さい!


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