愛について

 ジークフリートがブリュンヒルデにあげた指輪が、実はラインの娘達のものであったことがヴォータンの知るところとなり、ヴォータンはジークフリートを詰問する。ジークフリートはしどろもどろで答える。
「僕はただブリュンヒルデのことを『こんなに好き!』って示すために、指輪を彼女に贈りたかっただけなのです。」
 この言葉を聞いたブリュンヒルデがどういう反応を示すか確かめるために、ラインの娘達はブリュンヒルデに走り寄る。一瞬の間を置いて終曲の前奏が始まる。

 前奏の中でブリュンヒルデはうなだれているジークフリートに近づき、やさしくささやく。
「あたしのジークフリート。あたしに愛の証をくれる必要なんかないわ。あたし何ももらわなくても、あなたがあたしのことどんなに大切に想ってくれているか分かるもの。」
ここまでをジークフリート牧歌の最初のフレーズの間で言う。そして次のフレーズをいっぱいに使って、ブリュンヒルデはさらにこう言う。
「あなたの愛を感じていれば、もうそれだけでいい。」
 この首筋が痒くなるようなセリフを考えたのは勿論僕。
ブリュンヒルデが、
「何もいらない。何も望まない。この世で一番大切なもの、それを手にしたなら。」
と歌い始めると、その殺し文句に感動したラインの娘達は、おいおいと泣き始める。

 新国立劇場子供オペラ「ジークフリートの冒険」は、来週からオーケストラ練習、オーケストラ合わせ、ピアノ付き舞台稽古、オケ付き舞台稽古へと進み、ゲネプロを経ていよいよ週末の本番へと突入する。今日7月18日土曜日は、その前の最後の稽古場での通し稽古。みんな気合いが入っていた。今年の子供オペラは、昨年からまた進化している。何より音楽と演技のタイミングがぴったりなんだ。

 この終曲への入り方に僕はこだわった。このブリュンヒルデのセリフが生きるか死ぬかは、ラインの娘達の演技にかかっている。彼女たちが、
「奪われたあたしたちの指輪はどうなるのよ?」
という不安から、感動して泣くまでのプロセスが演技的に埋まらないと、これまでの行程が全て無駄になってしまう。勿論ジークフリートとブリュンヒルデの恋人同士が、本当に胸キュンの演技をしてくれないと話にならない。

 たかが子供オペラとあなどるなかれ。こういうところの詰めで本物か偽物かがはっきりする。芝居は全て虚構の世界ではあるが、嘘をつき始めたらとことん嘘で塗り固めなければいけない。一瞬たりとも隙を与えてはいけない。さもないと聴衆は、その一瞬に「嘘」を感じてしまい、サーッと潮が引くように冷めてしまうのだ。では、何のために嘘で固めるのか?それは、嘘の向こうに“真実”を表現したいからなのだ。

愛こそすべて
 「愛があるから何もいらない」なんて、いかにもありがちな、ある意味安易とも言えるセリフだ。でも・・・いや、だからこそ、言葉だけが浮いているこの現代社会の中で、このセリフの本当の意味を伝えたい。ラストのセリフ「愛こそすべて」は単なる夢物語ではない。僕は、愛というものの持つ圧倒的なパワーをみんなに知ってもらいたいのだ。

 何故こうしたセリフが恥ずかしいのか?それは裏を返せば、こうしたセリフが感動的だからだ。それだけに偽物が巷に溢れている。そしてその偽物達に対する一種の防衛本能が、我々に「恥ずかしい」という感情を呼び起こすのだ。

 愛とは、宇宙の中で質量を持つもの同士が引力で引かれ合うように、人と人とを結びつけようとする力なのだ。人間は生まれながらにして「社会的」であることを運命づけられている。社会の中で人間は他人と関わりながら生きてゆく。
 自分の努力を認めてくれるのも他人なら、自分をこきおろし目の敵にするのも他人だ。自分から見てとても魅力的で近づいていきたいと思う他人もいれば、なるべく会いたくないと思いつつも、どうしても関わらなければならない他人もいる。
 宗教で天国に行くのも地獄に堕ちるのも、究極的には、自分が他人とどう関わったかにつきる。つまり自分の利益と他人の利益を完全に切り離してしまうから、裏切り、詐欺、泥棒、恐喝、暴力、殺人などが起こるのだ。

 だから、どんな目的であれ、他人と関わろうとするなら、そこには愛というものがちらつく。このページでも何度か言ったことがあるが、愛の反対は憎しみではない。憎しみは、愛の一つの形なのだ。ゆがんだ愛。不完全な愛、あるいは自分が満たされないところから生まれる、破滅の方にベクトルが向いた愛。それが憎悪であり嫉妬なのだ。愛は人と人との間に生まれる磁力のような力だけれど、プラス極同士のように、互いに遠ざけ合うという反対の磁力をも含んでいるのだ。

愛の反対とは、二人の人間の間に何の力も働かないこと。すなわち無関心なのだ。

完全な愛のお試し版
 それでは完全な愛とは何か?これを考えるのに難しい哲学的考察はいらない。何故なら、人間にはすでに愛のサンプルが提示されている。それは何かというと、またまた先日の村上春樹の小説のようで恥ずかしいんだけれど、実はセックスだ。
 セックスは、神様が人間に与えた完璧な愛のサンプルだ。セックスでは、自分にとって気持ちの良いことが、そのまま相手を歓ばすことになる。その際に、二人とも同じなのではなくて、片方が挿入して気持ちが良いならば、もう片方は挿入されて気持ちが良い。これこそ人間の究極の幸福感なのだ。違っている者同士が違っているままで互いを歓ばせ合う。
 ただセックスの場合は、完璧とはいえ、機能限定のお試し版のような愛のサンプルだ。本能によって制御、支配されているし、極端に強い嫉妬という感情で互いを縛り合う関係の中でだけ成し得る行為なので、特定の相手にしか愛を発揮出来ない。それを無理矢理広げようとするといろいろ問題が起きる。

サンプルから製品版へ
 でも神様がセックスという形で与えてくれたサンプルを研究すると、人間の愛というものは、その個人の器の大きさによって無限の可能性を持っているものであることが分かってくる。
 例えば、人間というものは自分で自分を褒めてみても嬉しくはないけれど、他人に褒められれば嬉しい。愛というものは基本的に他人を歓ばすところから始まるのだ。だから自分がして欲しいと思うことを人にしてあげること、そして人が歓ぶ姿を見て自分のしあわせと感じるようになること。こうしたことに目覚めた人間は、より高次な愛への入り口に立つことになる。
 このような無私の愛はアガペーと呼ばれ、人間を究極的な幸福感を導くのだ。人から受けて幸福だと感じる愛は、受けられない状況が生まれると不幸になるしかないが、人に与えて感じる幸福感は、自分さえ与え続けていれば常に変わらないからである。

 さて、ブリュンヒルデの「何もいらない。何も望まない。」という歌詞は、まさにアガペーそのものだ。サンプルであるセックスから離れて製品版の愛になると“与えきりの愛”となる。日本にも古来から「情けは人のためならず」という素晴らしい言葉がある。
 こうした高次の愛に目覚めるためには、もはや本能や感性だけでは駄目だ。多少なりとも知性と意志の力が必要となる。セックスは動物でも出来るが、ここからは人間の独壇場だ。アガペーにどのくらい目覚めているかについては、個人の先天的な素質にもよるが、僕は家庭での教育の力も決して無視出来ないと思っている。
 戦後、日本人がどんどん利己的になっていて、いじめなどが日常化し、殺伐とした世の中になっていったのも、アガペーを親が子供に教えていないからだと思われる。学校に期待してはいけない。学校などは、特に公立では宗教教育は言わずもがな、道徳や倫理教育を当然のごとくに避けて通ってきたのだから教えてもらえるわけはない。アガペーは本能や唯物主義からは決して生まれない考え方なので、親が人知を越える存在を感じているかどうかが、子供の中に密かに育つ愛の高さ、純粋さに影響してくるのだ。

だから僕は子供オペラで、親に代わって子供達に愛を語るのだ。

僕の作品とアガペー
 僕の全ての作品はアガペーを表現している。「ジークフリートの冒険」でも、全ての冒険物語が「愛こそすべて」という最後のセリフに向かっている。そうなのだ!まさに人生は「愛こそすべて」なのだ。人間は愛するために生まれてきたのだ。言っておくけど、愛されるために生まれてきたのではなくて、愛するためになのだ。
 赤ちゃんや子供は可愛い。だから人生の最初では無条件で愛される人は多い。でも、大きくなって、そのまま愛され続けることは出来ない。それなのに依然と愛されることばかり考える人は、心が幼児のままなのだ。
 愛さなくては!せっかくこの世に生まれてきたのだから!何も相手に望まず、与えるだけ与え、そして自分が与えたことさえ忘れてしまうような大きな愛を持つのだ。これこそ人生の究極的目的だ。どんなに立派な理論を聞こうとも、このシンプルな考えに反対する思想や宗教であるなら、僕は決して信じない。子供オペラに込めた僕の想いは真剣なのだ。

子供達により良い世界を
 8月2日に群馬県高崎市新町文化ホールで上演するNOAH〜ノアの方舟のテーマはエコロジーだけれど、これも本当のテーマは愛だ。かつてフランス革命を起こした人達や幕末の志士たちは、自分たちがしている活動の恩恵を自分たちが受けることが出来るなどとは思っていなかったに違いない。むしろ、自分たちの子供達にどれだけ良い世界を準備してあげられるか、そればかり考えていただろう。そのためには自分たちが犠牲になり、次の時代の踏み石となっても構わないと思って覚悟を決めていたように思われる。
「俺たちの屍を乗り越えていけ。そしてより良い世の中でしあわせに生きろ!」
こうした与えきりの愛に支えられていなければ、彼らの活動はなかったのである。

 ところが現代の大人達は正反対だ。自分達の欲望を満たすことばかりを考え、今の生活の快適さばかり追求したツケがここにきて現れてきている。環境は破壊され、経済は破綻し、自分の子供達の世代が圧迫されているのだ。嘆かわしいことだ!恥ずかしいことだ!

 勿論、環境を破壊した我々は“犯罪者”ではない。法律的には悪いことはしていない。でも、警察にはつかまらないけれど、人間としてどうなのよ、ということは世の中沢山あるのだ。今の世の中では、金銭やものがからまなければ、人をだましても捕まらないし、恋人で二股かけても、妻の他に愛人を作っても、姦通罪で死罪になることはない。でも愛ということをものさしにして物事を計ると、別なものが見えてくる。
 先ほどの話に戻るけれど、愛の反対は無関心なのだ。自然に対する無関心。自分の快適さ以外に対する無関心。他人の痛みに対する無関心。想像力すなわちイマジネーションの欠如と言っても良い。かつての人達にはそれがあった。人類は今、自分達の欲望にまみれている内に、イマジネーションを失っているという、人間として最も動物に近い状態に退化してしまっている。
 愛は善悪の外にいる。そして善悪よりもっと厳しい基準の中で生きている。何度も言うけれど、まさに「愛こそすべて」で、愛さえあればいろいろな問題は全て解決するし、そもそも環境問題もなにもかも起きようがないのだ。

ここにも愛のコンセプトが
 夏は毎年忙しいが、反対に夏ほど僕の内面が充実する季節はない。NOAHの一週間後には、東京バロック・スコラーズの主催するBACH TAGE(バッハの日々)というお祭りがある。この二日目のBACH FEST(バッハ祭)では、当団だけでなく、他に4団体の合唱団が集まり、バッハのモテットを一曲づつ演奏する。そして、それぞれの指導者によるパネル・ディスカッションも計画されている。この活動の発想の源は、ひとつは男声合唱の東京六大学演奏会。それと、意外に思われるかも知れないが、新国立劇場の音楽スタッフ楽屋なのだ。

 新国立劇場のオペラ音楽スタッフ楽屋は、とびきり優秀な指揮者の巣窟である。公演指揮者に万が一不慮の事態が起こった時には、誰でもそれなりに公演を指揮することが出来るだろう。個々の人材がそんな優秀にもかかわらず、特筆すべきは、彼らがそれぞれお山の大将にならずに、見事にチームワークを組んで仕事をしていることだ。それにみんなお互いを認め合っていて仲が良い。楽屋にはいつも笑いが絶えない。これは実は、ありそうでなかなかない事なのだ。
 その雰囲気を僕1人が作ったなんて言うつもりはさらさらない。でも僕がノヴォラツスキー前芸術監督の下で音楽ヘッド・コーチを務めた時、そうした人材集めと環境作りには努めたつもりだ。我が国で最も優秀な人材を、なるべく妥協しないで集めて、そして仲良く仕事出来るよう心を配った。逆な事を言うようだが、プロの場合は、そのために徹底的に能力主義を貫いた。こうした経験を経ていく内に、自分で言うのもなんだけれど、僕にはどうやら自分が関わっている環境の人々を仲良くさせる力が備わっているような気がしてきたのだ。

 このような僕の潜在的な力が、それぞれお山の大将になって孤立しやすい音楽界に、“統合”という新しい潮流を生み出していくきっかけを与えられるのではないか、と僕は思ったのだ。これもね、また違った意味での、僕なりの愛の実践なのだ。
 でも、低いレベルの人達を集めて、ただみんなが仲良しグループを作っただけではつまらないのだ。それぞれ一流のレベルの人達を集め、白熱した議論を戦わせる。ここに価値がある。表面的に仲良くなんかならなくていいのだ。そうした優秀な人達が集まるフィールドを提供する。それだけでも意味があることではないかな。その意味では、今回の参加団体と指導者は、まさに理想的とも言える。さて、どんな会となるか・・・・。

 このように、夏には僕は、僕だけがしようと思いつくような、まさに僕らしい活動をするのです!だから毎年夏が忙しくても仕方がないのです。

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