オペラ指揮者というお仕事〜フリッツァの場合
 リッカルド・フリッツァは期待通りの、いや、期待以上の成果をあげた。彼の強引な態度に反発する歌手もいたけれど、それは群れを成したうねりとはならず、個々の不満にとどまった。と言うと、ああ、やっぱりみんなの賛同を得ないのかと勘違いする読者がいるかも知れないので、あらかじめことわっておく。
 オペラの練習で何の不満も出ないということはあり得ない。いや、僕たちの間では、どのセクションからも何の不満も出ないプロダクションの場合、むしろこれは駄目なんじゃないかと心配する。そしてその心配は大抵当たる。指揮者が八方美人の場合は特にそうで、オペラでは歌手達とぶつかってこそ良いものが出来る。なかなかオペラ指揮者とはシビアな職業なのだ。

 日本人はぶつかることを恐れるけれど、僕たちは仲良しグループを作ることが目的じゃない。ぶつかるのは本気を出して取り組んでいるからであって、ある人の本気と別の人の本気の方向がすれ違った場合、喧嘩のように見える状態になることがある。問題は、それらのプロセスを経て何が出来るかであり、僕たちはプロなんだから、結果のみが全てなのだ。
 むしろ僕たちが最も恐れることは、誰も自分の想いを出し切ることなく、どこにでもあるようなひらめきのない凡庸な作品を創ってしまうことだ。オペラのようなお金のかかる芸術でそれをやることは、芸術の自殺行為につながる。僕たちは、すぐに「税金の無駄遣い」と言われる瀬戸際を生きているのだから。

 指揮者には本番前にいろいろやるべきことがある。オケピット内のオーケストラと舞台上のタイミングやバランスは、舞台稽古の中でしか試すことは出来ない。オケ付き舞台稽古の初日は随所でズレズレだ。でもこれが普通なのだ。あわてることはないのだが、一方で時間も限られている。様々な問題点をなるべく早く解決して本番までもっていかなければならない。その処理能力こそが、オペラ指揮者の真の実力だ。

 歌手達はいつも協力的とは限らない。それどころか、歌手達は本番が近づいてくると皆一様に神経質になってくる。彼等は喉を疲労させないように随所で声を抜いて歌う。これはマルキーレンmarkierenと呼ばれる。だが歌手達は自分では気がつかないだろうが、markierenした場合は、音量だけではなくテンポ感やルバートの具合や表現そのものまでフル・ヴォイスの時とは大きく違ってしまう。
 指揮者は、歌手にマルキーレンされると、バランスをはじめとして舞台稽古で解決するための大事な情報を入手できない。ここで攻防が起きる。すなわち、歌手に声を出させたい指揮者と、無駄に声を使いたくない歌手との攻防である。でも、攻防といっても常に相手を敵と思って戦うだけではうまくいかない。必要に応じてアメとムチを使い分けるテクニックが必要なのだ。ここのところが、前回の「アイーダ」までのフリッツァはまだ上手とは言えなかった。

ルチオ・ガッロVSフリッツァ
 前回までの彼は、はっきり言ってムチばかりだった。ところが今回、彼は随分成長した。その証拠に、あのうるさいルチオ・ガッロがよく彼の言うことを聞いている。

 イアーゴ役のガッロは、ドラマの流れをつかむのが天才的で、自分でどんどん動くだけでなく、周りにも遠慮なく指示する。演出家マリオ・マルトーネの前でも平気で、
「俺はこう動くからね。」
と勝手に動くし、相手役にも
「君は俺に対してこうリアクションしてくれ。」
と注文をつけていく。マルトーネも、ガッロの動きには一目置いている。だって彼のイアーゴ像はあまりに見事だからね。

 そんなガッロは、音楽面でもなかなか譲らない。第一幕の祝宴の場でイアーゴがオテロの副官カッシオをわざと酔っぱらわせていくシーンで、ガッロはゆっくり目に歌いたかった。でもフリッツァはアップ・テンポでやりたい。その攻防は実に興味深かった。

 フリッツァは、最初ガッロのテンポに納得したふりをした。しかしガッロのテンポの揺らし方に関しては、
「遅いなら遅いなりにイン・テンポでやりたい。」
と主張した。
「分かった。」
とガッロは納得。さて、それからが見もの。フリッツァは何日もかけてだんだんテンポを上げていく。
「あのさあ・・・・速くない?」
ある時、ガッロが言う。フリッツァは何気なく答える。
「出来ればこのテンポでやりたかったのさ。」
 その頃には合唱団も周りの歌手もフリッツァのテンポに慣れてしまっている。実は合唱指揮者の僕はフリッツァのテンポを予測していて、彼が来る前の音楽稽古で速めのテンポで練習していた。今回初めから僕とフリッツァのコンビネーションがうまくいっていたのには、彼の音楽的方向を予測しながら作った僕の音楽が、まさに彼の趣味にぴったりだったということも大きい。そんなわけで、合唱団は速いほうが歌いやすいのだ。こうして実質的にみんなを味方につけてしまってから、フリッツァはガッロと交渉に入る。まるで詐欺師みたいだけれど、こうした駆け引きはオペラでは不可欠。

 以前のフリッツァだったら、最初の日で無理矢理自分のテンポを押しつけ、歌手達の反発を煽っただろう。歌手達は徒党を組んでフリッツァに対抗するので、彼は孤立し、歌手達との会話はほとんどなかっただろう。それでも指揮者だから最終的にはみんな言うことを聞かないわけではない。でもそのぎくしゃくした感じは、なんとなくいろいろな形で現れてしまうのだ。
 そのやり方だったら、ガッロは絶対にフリッツァの言うことを聞かなかっただろう。その箇所は、双方譲らず、テンポがズレズレのまま本番を迎え、千秋楽を迎えるまで決して合うことはなかっただろう。前回まではそんな箇所が随所にあった。それでもメゲることなく自分を貫いていたフリッツァは、それはそれでたいしたものだとは思うけれど・・・・・。

 今回は全然違う。ガッロは頭の良い人だから、フリッツァが一度は自分を立てて譲ってくれたことを忘れてはいない。それに、その後彼がきちんとした音楽を創っているのを見抜いている。そして彼は思う。
「なかなかやるな、こいつ。まあ・・・負けてやってもいいか。」
 ある時、ガッロはフリッツァのテンポに乗って歌い出す。その気になったら、ガッロはそのテンポに完璧に乗れるだけじゃない。そのテンポの創り出す雰囲気に乗って、誰よりもカッコ良く歌い出せる。そんなこと俺には朝飯前さ、と言わんばかりに・・・・・。やはりただものではない、ルチオ・ガッロ!

フリッツァの作る音楽
 こうして歌手達と丁寧に向き合っているフリッツァを中心に、説得力のある「オテロ」の音楽は徐々に出来上がっていった。フリッツァの創る音楽にはパッションと同じくらい叙情性が感じられる。以前に比べかなり立体的になり、より構築性が感じられるようになってきた。東フィルも彼に答えてとても良い音を出している。

で、僕のペンライトは・・・・?
 演出家マリオ・マルトーネがフリッツァに気を遣い、指揮者が見えるように合唱を配置してくれたおかげで、僕は今回、一カ所をのぞいてペンライトを使っていない。マルトーネは、
「見にくかったら、フリッツァを見ながら歌ってもいいよ。」
って合唱団に言うんだ。こうなったら僕だって、それでもペンライトをとは主張出来ない。

 でも、第一幕後半のみんなが喧嘩をしている場面だけはそういうわけにいかなかった。舞台稽古で合唱がズレズレになった時、僕はすかさずフリッツァに言う。
「ここだけはどうしてもペンライト使わしてくれよ。そうしないと絶対に合わない。」

 例によって猛烈な反対の言葉が機関銃のように飛び出すかと身構えたが、彼はあっさりと、
「いいよ、じゃあここだけはお前に任せるよ。」
と言うではないか。驚いたのはこっちの方だ。
「え?いいの?」
「ここだけだよ。」
「よし分かった。あとの所は大丈夫。」
その箇所になると、彼は合唱の方を見もしない。全く徹底した奴だなあ。でもそれの方が有り難い。ここはオーケストラもずれやすいところ。オケがずれると何を拠り所に合わせて良いか分からないので、指揮者はオケを合わせることに専念するべきなのだ。合唱は僕が全責任を負って合わせる。彼もそれを知っている。あれ以来、合唱は一度としてズレたことはない。

信頼関係
 僕は、フリッツァと仲良しになったからといって彼の主張を全部受け入れるわけではない。こちらも主張するところはする。でも、彼と約束したところはきちんと守る。合唱指揮者として、彼の音楽的意向には全面的に協力している。でも出来ないことは出来ないと言うし、彼に軌道修正をお願いすることも少なからずあった。
 こうした互いをリスペクトし合える信頼関係が築けたのは、前回の時に本気出して彼とぶつかったからだと思っている。あの時、僕の行動に対し批判的だった人達も少なからずいたが、オペラこそは、西洋文明のみならず、西洋人の行動原理を背負っている総合芸術なので、日本人的事なかれ主義ではとうてい高みには到達できないのだ。対立を通して分かり合えることもあるのだということを僕は言いたい。

 この「今日この頃」が更新される9月20日の日曜日は、いよいよシーズン開幕「オテロ」公演の初日だ。リッカルド・フリッツァの「オテロ」は、きっと歴史に残る公演となるであろう。

村上春樹は天才だあ!
 「ノルウェイの森」を読んで失望した僕は、
「もうこれでだいたい村上春樹は分かったからいいや。」
と思って、村上文学から離れていた。このままずっと無視していようと思っていたけれど、不思議だな・・・・なんとなく心にひっかかるのだ。1Q84という小説の衝撃はそれほど大きかったということなのだろうか。
 そこで意を決してもうひとつだけ小説を読んでみることにした。海外でも評判が高いと言われる「海辺のカフカ」という小説だ。今、この原稿を書いている時点では、まだ読み終わっていない。でも、僕はびっくりしている。熱狂している!この村上春樹という人はやはり天才だったのだ!

 文章を読むと、人間は心の中にその文章から想起された情景や感情を生き生きと描き出すことが出来る。その力を使って小説家は、文章の中に架空の空間を作り出し、そこで主人公や登場人物達を自由に動かしていく。読者は、それを読みながら、ハラハラしたり嬉しくなったり、落胆したり時には怒ったりする。それらは所詮全部あり得もしない作り話なのに、どうして僕たちはこれほど文学にのめり込むことが出来るのだろうか?
 そうした文学の持つリアリティを知っていながら、村上春樹は僕たち読者の感情を弄ぶ。たとえばジョニー・ウォーカーさんが、生きている猫の腹を切り裂き、まだ動いている心臓を食べるシーンでは、僕は胸をかきむしられる気持ちになる。心の中で、
「やめろー!」
とどなる。そんな時、ナカタさんがジョニー・ウォーカーさんを殺してくれる。僕はホッとする。殺人を犯してホッとするって?なあに、そんなのは単に言葉の遊びです。では、どうして架空の物語の文章を読んだだけなのに、こんなに心が乱されるのだろうか?
 それが文学の持つリアリティであり、文学の力というものなのだ。僕たちはあらゆる悲劇を、自分の身に起こり得るものとして、あるいはこの地上で現実に今日にでも起こっているものとして、自分と深く関連づけてとらえるのだ。

 こうした個々の描写と、そこから想起される様々な感情を、まるでパッチ・ワークのように切り貼りして、村上春樹は小説を仕上げていく。彼は我々の真面目な感情を手玉にとって操っているが、その行為を通して人間という摩訶不思議な存在の根源を掘り当てようとしている。まるでドストエフスキーの小説のように、いろんな対立する要素が作品の中で勝手に生まれ勝手に成長し、勝手に生息地を見つけて住み着いている。それについての押しつけがましい結論は特に描かないで、作品自体の流れに任せている。
 村上作品のあらゆる作品に常連として登場する森や隠遁生活や老人やセックスや自殺願望などは、全て象徴的な意味を持つが、リアルな意味づけをそこに求めすぎると、反発したり腹を立てたりしてしまう。むしろ、「これはこれ」と軽く受け流す心の余裕が読者に求められているのだ。ある種のシュール・レアリズムなのだからね、村上文学は。

 こういうことが分かってくると、僕は日本文学において村上春樹以上に、人間存在の深みと本質に踏み込んでいる作家を知らない。全く、驚くべき才能だ!これまで村上文学に触れることなく生きてきた自分はなんという無駄な人生を送ってきたことだろう。だが言い方を変えると、これからの人生、おびただしい数の村上作品をのんびり読んでいく楽しみが残っているということでもあるな。

 僕には小説を読める時間というものはとても限られている。この「海辺のカフカ」をなるべく早く読み終わって、尼崎の「蝶々夫人」と東フィル「午後のコンサート」の勉強に入らなければならない。読書が出来るのは、こうした本業の仕事のわずかの合間なのだ。だから時間の浪費はしたくない。出来れば読んで良かったと思えるような「いいもの」だけを読みたい。そのリストに村上春樹作品という新たな項目が加わった。僕の読書人生にもうひとつ楽しみが増えた。

 それにしても、猫さんとおしゃべり出来るナカタさんの話はとても楽しい。僕はナカタさんのような人が大好きだ。

ナカタさんとハギタさんの会話。
「でも少し前から急に、ナカタは猫さんと話をすることができなくなってしまいました。どうしてでしょう?」
「世界は日々変化しているんだよ、ナカタさん。毎日時間が来ると夜が明ける。でもそこにあるのは昨日と同じ世界ではない。そこにいるのは昨日のナカタさんではない。わかるかい?」

ホシノさんという青年と大島さんとの会話
「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」

ね、村上春樹の世界観は、僕の価値観ととても近いところにあると思うでしょ。

映画アマルフィを観てきました
 フジテレビ開局50周年記念映画「アマルフィ〜女神の報酬」を観に行った。理由はアマルフィという場所に惹かれたからだった。アマルフィは、イタリアのソレントのある半島のちょうど裏側に位置する風光明媚な観光地。紺碧の地中海に迫る切り立った丘に、縦に重なり合うようにして白い石造りの家が建ち並び、その狭い路地や海岸線の美しさに、訪れた人の誰しもが息を呑むという。
 近くにはイタリア好きな晩年のワーグナーが「パルジファル」の花の乙女達のシーンのインスピレーションを受けたという場所もある。以前家族でイタリア旅行した時に、時間があれば行ってみようと思っていたのだが、交通の便が悪いため(船かバス)、限られた日程ではソレントまで行くのが精一杯で見送ることになってしまった。その無念の想いが、僕をこの映画に誘ったのである。

 映画を観た第一印象は、とにかく映像が美しいというひと言につきる。観光映画としては第一級。ところが、肝心の映画の出来はというと・・・・うーん・・・・。実は、僕は小説で先に読んでいた。その小説は、原作かというとそうでもなくて、真保裕一というサスペンス作家がまず映画のプロット作りを頼まれ、その映画を制作していく過程でいろいろストーリーに変更が加えられ、最後に映画が出来上がってから、その映画に反映されなかった部分も含めてあらためて小説にしたものなのだ。
 で、映画と見比べてみると、その小説の方がずっと良く出来ている。というより、映画のストーリー展開は、はっきり言って支離滅裂だ。変更された箇所は全て真保裕一の小説よりもレベルダウンしている。これでは物語が分からん!
 オペラでもなんでも、ヒットする作品は究極的には本にかかっている。つまりはストーリーでありプロットこそが最重要なのだ。でも真保裕一というプロット作りがいながら、どうしてこんな仕上がりになってしまったのかは謎である。いや、本当は謎ではない。作り手の立場に立ってものを考える僕には、誰がどこに手を入れたかが手に取るように分かる。でも僕にはそれをいちいちあげつらうつもりはない。いたずらに敵を作りたくないもんね。ひとつだけ言わせてもらう。どんな理由であれ制作者はこの映画に対する全責任を負っている。大事なことは制作者がこれでいいと思っていることだ。

 ちょっと内容に触れてみたい。まず織田裕二主演というのが最初から決まっていたというこのプロダクションだが、僕の感想を率直に言うと、織田裕二主演でなかったらもっと良い映画になっていたかも知れない。つまりは織田裕二の魅力が全く引き出せていない。 ちょっとニヒルで正義感が強く、その性格が災いしてか、あらぬ事件に巻き込まれていく外交官黒田康作という設定は悪くないね。でも彼が、どうして自分の立場を危うくしてまで矢上紗江子(天海祐希)という女性を守ろうとするのか、そのモチベーションが伝わってこない。真保裕一は、監督が木枯らし紋次郎が好きだというのでその要素を取り入れたなんて言っているけれど、うーん・・・・・織田裕二に木枯らし紋次郎ねえ・・・・。 その監督はこう言っているよ。
「最初は豪華キャストを憧れの地(イタリア)に終結させて、例えば野球のオールスターゲームのような、公式戦とは違う、お祭り要素の多いものを求められているのかな?と、作品の身の置き場がわからなかった。でも、スタッフとロケハンを重ね、キャストと出会っていくうちに、方向性が見えてきました。」
おお!プログラムにこんなこと書いちゃっていいのかな?この言葉ほど、この映画の本質を的確に語っている言葉はないぞ。つまり、こういうことだね。これだけの豪華キャストをイタリアに終結させ、オール・イタリア・ロケという大偉業を成し遂げた時点で、もう制作者的には出来上がってしまったわけだね。本当に歴史に残る良いものを作ろうというより、お祭りをプロデュースして自己完結しているわけだ。観ている方は、これだけお金使っているのに・・・・と思うが、作り手の方はお金を使うことが目的だったようだ。
 
 さて、天海祐希の魅力も充分に生きていない。気の強い女性はよく表現されている。自分を守ってくれる黒田にもきつくあたってしまうが、だんだん追い詰められていく内に、自分で自分を支えられなくなり、黒田の前でとうとう泣き出してしまう。ここなんだが、なんとなく感じさせる黒田への淡い恋心は、もう少し映画でははっきり出せなかっただろうか?黒田も、たとえばトム・ハンクスのように、なんとなくにじみ出る男の色気ややさしさというものがもう少し出せなかっただろうか?映画なんだから、もう少し恋愛のニアミスのスリルまで踏み込んでいたら、この映画は数倍面白くなったような気がする。なにせニヒル過ぎストイック過ぎ。織田裕二はここでは始終渋い顔をして控えめに演技をしているだけ。木枯らし紋次郎だから無理もないか。

 一番残念なのは、アマルフィというタイトルなのに、映画の方は大部分の事件がローマで起こり、ロケの大半がローマで行われていること。それに伴って、小説とは違ってアマルフィという場所の必然性がなくなってしまった。
登場人物が映画の後半で、
「アマルフィは犯人の単なる時間稼ぎだったのか・・・・。」
とつぶやくシーンでは、僕はあっけにとられてから思わず一人で苦笑してしまった。これって、映画の中で自分の映画の反省をしているみたいじゃないか。
 あのアマルフィの海岸線を走る車を追うために、地中海上空にヘリコプターを飛ばして、あんなにお金使って撮影したのに、ストーリー的には犯人の単なる時間稼ぎかよ!ハア、ハア、ハア、!まあ、まあ、一人で興奮しても仕方ないな。

 その内DVDにもなるだろうから、美しい風景にため息をつくのもいいでしょう。言っとくけど、難しいことを考えないで観れば、結構楽しめる映画ではあるよ。

ちょっとネタバレ〜読みたくない人は読まないでね
 ネタバレになるけど、後半矢上紗江子がいきなり拳銃を取り出し、それに対してローマの警察が何も抵抗出来ないで、まんまと矢上と黒田康作を逃がす間抜けぶりを観ていると、よくイタリア人の俳優がこれに納得して演じてくれたなと感謝の気持ちを覚える。
 いくらなまけものの国イタリアだからといって、しろうとの女性が初めて拳銃を持っているのを、あんぐり口をくわえて取り逃がすほどイタリア警察は間抜けじゃないぜ。むしろイタリアはマフィアの国。暴力に屈するのを最も嫌う。時には人の命よりも暴力の阻止を優先する。だからイタリアでは、誘拐事件で被害者が犯人に身代金を渡すと、そのこと自体が犯罪になってしまう。
 だからリアルに考えると、あの場で矢上紗江子は間違いなく射殺されている。そしてそれをかばった黒田もあるいは一緒に命を失っている可能性もある。それよりも拳銃を持つのは、小説では矢上ではなく別の女性だ。これを矢上に持たせたことで、矢上紗江子という人物のキャラクターが支離滅裂になってしまった。いくら自分の娘が可愛いからって、持ったこともない拳銃をかざし、あんな大それた事を指示することなんて出来るわけがないのだ。こここそ、この映画のストーリー最大の弱点。

 その後、行き着く先が・・・・・に、日本大使館かい?あんなに大騒ぎしてローマ中のセキュリティー・システムを止めさせておいて・・・・・・。やはり原案のバチカンというのでは、そうそう簡単に撮影許可は下りないのだね。でも、それではこの映画の前半のミネルヴァ・セキュリティという会社に辿り着くまでのプロセスがみんな意味のない徒労になってしまう。
 バチカンだからこそ、セキュリティー・システムを止める必要があったのだから。日本大使館だったら、娘を誘拐する必要もなく、ただ犯人達が大使館内に侵入すればいいだけの話だ。でも、そうするとこの映画はそもそも成り立たないわけだね。アマルフィという場所も全く必要なくなるし、そもそもアマルフィというタイトルも意味を成さなくなる。

 もったいないな。もっともっと面白くなる可能性を秘めた作品なのに・・・・。オペラでもよくあることなのだ。ちょっとしたボタンのかけ方、かけ違いで、大傑作が生まれたり、大失敗となったり・・・・。でもね・・・必ず原因がある。どこかのセクションで誰かが人知れず才能を発揮したり、人知れず戦っていたり・・・・あるいはその反対に・・・・才能がないが、人々が逆らえないような立場だけを持っている誰かがプロジェクトに紛れ込んでいたり、あるいは中心人物だったり、誰かが判断を誤ったり、誰かが戦いから逃げていたり・・・・。それによって人が死んだりはしないのだろうが、そのツケは必ず巡り巡って自分のところに来る。世の中はそういうものだ。

 ラストのジルベスター(新年の真夜中)の場面はよかった。ありのままのイタリア人のお祭り騒ぎの様子が克明に描かれていた。演技ではなく、自然なままを撮ったという。この映画の最も素晴らしいシーンだ。撮影チームは間違いなく第一級だ!

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