東京の街を歩く

 東京というところはのんびり歩くものではないと思っていた。地下鉄は網の目のように張りめぐらされているし、山手線も中央線もあって、どこへいくにも便利だ。でも最近、時間があると電車に乗る代わりに都内のいろんなところを歩いている。すると東京は、まるで新しい都市のように様々な顔を僕に見せてくれる。
 
 12月23日(水)は、休日なので二時から池袋の東京芸術劇場で読売日本交響楽団の第九公演。僕は出演している新国立劇場合唱団の合唱指揮者として、公演前にダメ出しをして、公演は見守っていて、公演終了後に指揮者と共に出て行くだけなので、労力的には疲れはしない。
 今年の指揮者はフィンランド人のオスモ・ヴァンスカ。とてもエネルギッシュでスコアのすみずみまでが見えるような明快な第九。でも彼のエネルギーに煽られて合唱団が頑張り過ぎて声が荒れないように細心の注意を払う。合唱指揮者というのは、指揮者の注意だけ聞いていればいいというものではない。最終的には、その指揮者の一番良いところが最大の効果をもって演奏会で発揮されるように配慮する。これには経験が必要だ。手前味噌だが、合唱団はヴァンスカの指揮の下で、パワフルでしかもしなやかさを失わない出来に仕上がっている。
 三時半過ぎに公演終了。六時からは、上野の東京文化会館リハーサル室で東京バロック・スコラーズの練習がある。そこで今日は池袋から上野まで歩いてみた。
 
 まずは芸術劇場とは反対側すなわちサンシャイン側に出て、首都高速道路に沿った道を行く。場所が分からなくなるとコンビニに飛び込んで地図を立ち読みし、再び歩く。高速道路の下にずっといろんな店が並んでいるのが新鮮。入りたいなと思う喫茶店などもある。それから首都高と分かれて左折して不忍通りに出る。有楽町線護国寺駅のすぐ横を通る。講談社やいつもバロック・スコラーズの練習をしている文京福祉センターのある音羽通りを右手に見、護国寺を左手に見ながら通り過ぎる。
 不忍通りをずっと直進。白山通りまで来たところで右に折れ、東洋大学を右手に見ながら歩く。東洋大学を過ぎたところで左に折れて本郷通りに出て右折し、ちょっと南下する。もう少し行くと、よく東大アカデミカ・コールが練習している南北線東大前のYMCAの練習場に出るが、そこまで行く前に左折する。ここは下り坂。東京って坂が多いな。だから風情があるとも言える。
 坂を下りると一度見捨てた不忍通りに再び合流。ここは千代田線千駄木駅と根津駅の間。昔ながらの商店街が並んでいて、ひやかし甲斐がある。20年以上も前、日本オラトリオ連盟の練習に通っていた頃、千駄木の練習場に来ていたので、芸大の授業が終わってから夜の練習までの間、よくこの辺を散策していたっけ。なつかしいな。
 根津駅で左折。言問通りの上り坂を上がる。手焼きのおせんべいやさんがあったりして楽しい。買おうかなとも思ったがやめた。で、後で買っておけばよかったかなと後悔した。そんな風にいろいろ迷うのもまた楽し。
 芸大裏手のデニーズで時間調整のためのカフェ・タイム。うーっ、暖かいコーヒーがうまい!って、ゆーか、体がちょっと冷えていた。それから2001年まで務めていたなつかしい東京藝術大学の音楽部と美術部の間を通って、奏楽堂や上野動物園の前を通って、文化会館にたどり着いた。
楽しかった。またいろんなところを歩いてみよう。

村上ワールドへの探求は続く
 村上春樹の短編小説集「めくらやなぎと眠る女」(新潮社)は、先週も書いたように、ひとつひとつの小説を読みながら考えることが多く、しかも読後の余韻が深いため、どんどん読むわけにいかないなあと思いながらも、どんどん読んでしまった。で、あっという間に読み終わった。
 その終わりの方の「偶然の旅人」という話がとりわけ興味深かった。どこが面白いかというと、小説の冒頭に村上氏自身が登場する。そして自分自身に起こった不思議な話をした後、彼の知人の物語に導いていく。それは、偶然とは思えない符合を扱った、いわゆる「共時性」にまつわる物語だ。たとえば、あるジャズ・クラブでリクエストしたいと思っていた曲を、何も言わないのにプレイヤーが弾き出したとか、バークレー音楽院の近くの中古レコード屋で「10 to 4」というLPレコードを買い求めて店を出ようとした途端に偶然入って来た人に時間を聞かれ、無意識に答えたら、自分から発した言葉が10 to 4(四時十分前)だったとかいう話だ。
 その後の知人の物語では、これは神の思し召し以外あり得ないだろうと思うほど「手の込んだ」偶然の物語が紹介された。小説集の中に組み込まれているのだから多少の脚色も含まれているのだろうが、少なくとも大筋では実話を書いたものなのだろう。これを読んでいる内に、僕は村上氏も相当な霊体質だなと思った。

 なあるほど、だから「海辺のカフカ」や「1Q84」のような超自然的な小説を書くことが出来るのだ。なあるほど、だから僕も読んでそれらの小説にめちゃめちゃ惹かれるというわけだ。

 また、「蛍」という小説を読み始めてすぐ、
「あれ?これは読んだことがあるぞ!」
と思った。それもそのはず、これは「ノルウェイの森」の最初の方じゃないか。どうも村上氏の場合、短編で書き始めて一度仕上げた後で、作品がもっと発展したがっているのを感じ取り、長編に化けるということがあるようだ。
 僕は「ノルウェイの森」に対しては批判的だが、この「蛍」は気に入っている。手に取ったら消えていってしまうような青春の不確定さが、蛍という虫にたとえられて、そこはかとない哀愁が漂っている。「ノルウェイの森」でもね、そうした生の希薄さというものは表現されていたよ。でもね、「蛍」よりずっと長くて村上氏が思う存分発展させた「ノルウェイの森」が、間違いなく短編の「蛍」より優れているかといったら、それはまた別問題だな。ちょうど、胃薬のコマーシャルでも使われたショパンの前奏曲集の中にある、わずか16小節しかない第7番イ長調のテーマを引き延ばしてピアノ・ソナタを作ったら、必ず原曲より優れたものになるという保証がないように・・・・。
 「ノルウェイの森」で村上氏が表現しようとした世界は、もしかしたら「蛍」でもう充分描き出されてしまっているのかも知れない。それにしてもこの人、文章の表現力めっちゃめっちゃあるね。短編だとストーリーを追うよりも文章を味わう方に神経を集中するので、学生寮の同居人の描写とかとても楽しめた。

 「めくらやなぎと眠る女」を堪能した僕は、「神の子どもたちはみな踊る」(新潮文庫)という本を買って読んだ。これは阪神大震災にインスピレーションを得て書かれた6つの短編小説の集合だ。短編と言ってもその6つは交響曲のそれぞれの楽章のように内的つながりを持っている。
 でも全体の印象を言うと、震災にまつわる内容の小説というだけで、震災に対して全力で対峙しているという印象は薄いんだな。「かえるくん、東京を救う」というのは面白かったのだけれど、読者にのしかかっている震災というテーマが重いので、単純に面白がったりしてはいけないのではと躊躇してしまう。村上氏は阪神大震災とこの短編の集合をどう関連づけて、何を描こうとしたのだろう?誰か分かる人、教えてくれませんか?だって、あれだけの人が死んだり傷ついているんだもの。慎重に書かないと、読んで怒る人だって出てくるだろう。

まあ、こういう風に謎があるっていうのも、村上文学の特徴か。

 今は「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)という長編小説を読み始めたところ。そろそろ浜松バッハ研究会の「メサイア」をはじめとする来年の演奏会やオペラの勉強を始めなければいけないので、終わりまでスムースに読み続けることが出来るか自信ないが、まだしばらく僕の村上春樹ワールドへの探訪は続く。

不幸の連鎖と自覚されない罪
 自宅近くのバス停で僕は府中行きのバスを待っていた。このバス停は甲州街道に面したファミリーマートの前にある。このファミマの駐車場には、ひっきりなしにトラックや乗用車などの車が入ってきて、いろんな種類の人が買い物をし、そして出て行く。
 その駐車場から一台の乗用車が出ようとしていた。ところが甲州街道を走っている車が途絶えそうもない。乗用車は先頭を甲州街道すれすれに突き出したまま動けないでいる。
そこへ自転車に乗ったおじさんが向こうからやって来た。おじさんは直進しようとしたが、乗用車の頭がふさいでいるので通れない。自分も自転車に乗っていてよくあることなので、単純に乗用車の後ろを通るしかないなと思っていた。ところが、おじさんはそこに止まったまま、何か叫んでいる。その身振りから乗用車の運転手に、
「俺が通るのに邪魔だから後ろへ下がれ!」
というようなことを言っているのだと推測出来る。僕は、
「強引なおじさんだな・・・。」
と思った。
 ついに運転手が折れて、乗用車は下がり始めた。前に出来た隙間をおじさんがひょいと通り抜ける。おじさんはバス停で待っていた僕たちの前を涼しい顔で通っていく。
ドン!
次の瞬間、鈍い音がしたので乗用車の方を振り返ると、あちゃーっ!おじさんに脅されてあわてて下がったからだろう。後ろに控えていた別の乗用車にバックでぶつかってしまった。両方の乗用車から運転手が出てくる。両方とも若い男性。ぶつけられた若者はブスッとしている。ぶつけた若者は必死であやまっている。

 かわいそうだな。ぶつけた方の若者。両方から怒られて・・・・。若者が悪かったわけではない。若者は反省のしようがない。悪いとすれば車をちょっとだけ前に出し過ぎたことくらい。あと、不運だったとすれば、甲州街道を走っている車が途切れなかったこと。そこにおじさんが来てしまったこと。気が動転して冷静さを欠いてバックしてしまったこと。でも、これらって、自分もその立場になったらやってしまいそうなことばかり・・・・。

 強引なおじさんは、自分がもたらした若者の結果なんか知らない。知ったことではない。車がぶつかった時には、もうおじさんははるか遠くをスイスイ走っていた。でも、おじさんが車を無理矢理バックさせなければ、運転手が後ろの車にぶつけることは絶対になかったのだ。
 このように、誰かのちょっとした強引さや悪意が、思わぬところに作用し、思わぬ結果を引き起こす。行為を起こした本人は知らない。でも、それらの作用は、またまた思わぬ連鎖を世界にもたらす。

 若者はぶつけられた若者としばらく話し合っていたが、やがて名刺を交換した。ぶつけられた若者はただちに去っていったが、ぶつけた若者はしばらくそこに留まり、気持ちを落ち着けながら、携帯電話で二、三件電話をかけていた。保険会社かも知れないし、さらにこのちょっとした事件でどこかへ行くのが遅れ、そのおわびの電話をかけていたのかも知れない。
 電話の向こうでは、もしかしたら若者が遅れたことで誰かがちょっといらだっていたかも知れない。また、不運な若者は、その日ちょっと不機嫌になってしまい、いつもだったら、「まっ、いっか」と思えることが許せなくなっていて、ちょっと誰かにあたったりしたかも知れない。こうしてたった一人のもたらした不幸が世界を巡る。こうして世界に不幸が満ちる。これを不幸の連鎖と言う。

 強引なおじさんは「悪人」というほどワルではない。でも悪人の方がいい。何故なら、悪人は自分が悪いと知っているから。悪を自覚しない程度のプチ悪人が一番困るのだ。キリスト教が原罪や罪からの許しを説いているのは、そもそも罪というものを自覚させるため。自覚されない罪や悪が最も人類にとって問題だからなのだ。自覚されない罪を毎日犯す人が半数以上いたら、その社会は確実に滅びに向かう。もしかしたら百万人にひとりしかいない殺人犯をこの世から絶滅させるよりも、二人に一人の強引なおじさんをこの世から絶滅させることの方が人類にとって急務かも知れない。

 最近多くないですか?すぐキレる、あるいはとがめられてすぐ逆ギレする若者達・・・・すぐ怒鳴るサラリーマン・・・・それから軽い気持ちで人の自転車をちょっとそこまで盗んで乗り捨てる人や、ちょっと恋人を二股かける男や、ちょっと嘘をつく女たち・・・・・もちろんたいしたことないんだけれど・・・・僕は案外重要に考える。それらの人達は罪を感じることなく不幸の連鎖を作り出す起爆剤だから。
 オーバーに言えば、不幸の連鎖を止めなければ、世界に未来はない。不幸の連鎖の代わりに親切の連鎖やしあわせの連鎖や笑いの連鎖を、世界には溢れさせなければならない。僕たちがしあわせでいることは、僕たちの権利ではなく、本当は僕たちの義務なのかも知れない。何故ならば、自分がしあわせでいなければしあわせの連鎖を作り出すことは出来ないから。僕たちはしあわせになり、さらなるしあわせを作り出すために神からこの世に送り出されてきたのではないだろうか。

 みなさんにとって来年もしあわせな年でありますように心からお祈りします。僕がこうしてしあわせの言葉を発したくらいで、簡単にみなさんのまわりにしあわせの連鎖が回り出すものでもないことくらい分かっていますが、それでも僕の想いだけは受け取って下さい。
 お正月は一週お休みし、来年から「今日この頃」の更新は基本的に月曜日になります。それは週末にいろいろ行事が多く、とても原稿が書きづらい状態になることが多いという理由と、その行事の記事が一週間遅くなってしまうのが残念という理由からです。早ければ日曜日の夜中に更新終了ということもありますが、あまり期待しないで下さい。来年も楽しい記事をいっぱい書きますので、このページに立ち寄って下さい。

では、本当に良いお年を・・・・。


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