ダン・エッティンガーへのブー

 3月21日の日曜日、「神々の黄昏」カーテン・コールで、指揮者ダン・エッティンガーが舞台上に登場した途端、ブラヴォーの声に混じって激しいブーの叫びが起こった。その瞬間から、その場に立ちつくすダンに向かって、ブラヴォーとブーの応酬となり、劇場全体が騒然となった。
 これをなにか良くないことととらないで欲しい。まあ、ブーだけが一方的に聞かれる舞台だったら問題もあろうが、こうしたブラヴォーとブーが同等に聞かれる舞台というのは、バイロイト祝祭劇場では当たり前で、その指揮者の才能が凡庸ではなくて、彼が作り出す音楽が通り一遍でないことの証明なのだ。

 ブーには確かに理由はある。それは、我々当事者が一番良く知っている。ダンのやっていることをたとえるならば、軽自動車にメルセデス・ベンツのエンジンを無理矢理積んで、時速250キロで走らせているようなものだ。これはあくまでたとえなので、東フィルは別に軽自動車というわけではないことを断っておく。
 ダンは練習の時から、金管楽器に向かって、
「もっと、もっと!」
と要求する。音がバリバリになって割れても、彼はワーグナーのパワーが欲しいのだ。それで5時間以上も吹き続ければ、当然金管奏者はボロボロになる。特に「ジークフリートの葬送行進曲」あたりで、あの遅いテンポであの全開状態で吹かせられて、破綻をきたせないで演奏し終わることなど、日本のどのオケにも不可能だ。それでも彼はいいのだ。というか、彼はそれを全て分かっていてやらせている。あの若さでなんと大胆な!
 勿論木管楽器にも弦楽器にも彼は様々な要求をする。その全てが円熟した表現とは言えないかも知れない。バランスだって万全ではないかも知れない。でも、その結果、世界中でどこにもない彼のワーグナー・サウンドが聴かれるではないか。
 オケには彼の言うことを聞かないという選択肢もあったかも知れない。でも彼の要求を無視し、彼の可能性を閉ざしてしまったら、それは音楽家として罪であると思う。その意味では、東フィルほど真摯に音楽に向かい合っているオケを僕は知らないし、自分たちよりずっと若いダンの要求に、全力を持って応えようとしている東フィルに、僕は最大のリスペクトをもって万雷の拍手を送りたい。

 皆さん聴衆の側にも、ブーという手段を用いて、今の演奏に対して拒絶感を表明する権利は当然ある。気持ちも分からないでもないし、お客というものは、どこまでも我が儘であっていいし、ある意味、我が儘なお客がプロを磨きプロを育てるとも言える。もしかしたら、ダン自身にも、今の彼が全ての面において全ての聴衆に受容されているわけでないことは、知らしめておいてもいいのかも知れない。
 でも僕は皆さんに是非知っておいて欲しい。ダンには未来がある。その内必ず、この東フィルの演奏とブラヴォーとブーの応酬が何を意味し、どこに向かっていたのか、皆さんが必ず理解出来る時が来る。そう僕は予言しておこう。

僕はダンの才能を信じ、ダンのさらなる進化を信じている。

畑中更了さんの訃報
 畑中更予(はたなか こうよ)さんの突然の訃報を聞いて心がかきむしられる思いだ。とても悲しい。自分が歳をとるということはこういうことなのだな。昔から人は死んでいたけれど、歳をとるごとに親しい人の割合が多くなってきて、大切な人がどんどんあちらの世界に行ってしまう。もっと歳をとると、こちら側がどんどん淋しくなってくる一方で、あちらの方が確実に楽しそうになってきて、自分ばかり孤独になっていくのだろう。そうしていつか自分もあちら側の仲間入りをするというわけか・・・・・。まるで予防注射の順番を待っている小学生のように・・・・・。
 畑中更予さんは、日本の声楽界の重鎮である畑中良輔(はたなか りょうすけ)氏の奥さんだけれど、僕達家族はそんなことはつゆとも知らず、カトリック教会の中で知り合ったのだ。だから二人の娘達も小学校時代から、
「はったなっかさーん!」
と親しく呼んでいたのだ。後であの良輔さんの奥さんと知ってびっくりしたし、更予さんの方も僕が同業者と知って驚いたのだ。それ以来とても親しくさせてもらっていた。
 紫色が好きで、紫に身を包んでいて、まるで少女のようにあどけなく純粋で、僕は彼女の笑い顔が大好きだった。今はまだ心が混乱していて何も書けない。思い出ばかりが次から次へと出てくるのだけれど・・・・・。ましてや「安らかに」とか言う気にもならない。そう言えるためには、事実を受け入れる心の状態になる必要があるのだろう。それには時間がかかるのだ。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
 村上春樹の小説はどれも面白いけれど、その中でも極めつきは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だ。僕は、ワーグナーの「パルジファル」を聴くくらい、この小説を読みながらスピリチュアルで神秘的な「体験」をした。

というより・・・・・この人に即座にノーベル文学賞をあげて下さい!

 まず読み始めて驚いたのは、よくまあこんなぶっ飛んだ題材で小説を書こうと思うよなあ、ということだった。冒頭からド肝を抜かれる。博士のところに辿り着くのに、なんであんな大変な思いをしなくちゃならないのだ。それに加えて記号士だのやみくろだの音抜きだの、わけの分からないものがどんどん頭にインプットされてくる。
 平行して描かれているもう一つの物語の方はもっとわけが分からない。高い壁に囲まれた隔離された世界。一角獣の出てくるもの淋しいメルヘン。この二つの物語が交互に出てくる。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の方は、どうやらハードボイルドと言われるものの完全なるパロディだ。特に物語の後半、隠れている博士を探し当てるくだりは、危機一髪の上に危機一髪を重ねていくわけだが、それがヒルだったり大水だったり高い塔だったりやみくろの脅威だったりと何とも馬鹿馬鹿しい。でも、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、案外手に汗を握っていたりする自分がもっと馬鹿馬鹿しい。で、その馬鹿馬鹿しさが楽しい。
 こんな風に全てあまりにも嘘八百が見え見えの小説でありながら、結末に向かってのこのリアリティは一体何だ?そして我々を取り巻く、あまりにも強固なこの三次元の物質世界に対して、その存在への懐疑を突きつける圧倒的な文章力は驚異だ!そのことによって我々は、動かしがたいように見える現実的な日常が、舞台裏から見ると単なるハリボテでしかないと感じられるのだ。

 僕が子供オペラの「スペース・トゥーランドット」を作った時、宇宙旅行の合間に二つの空間をワープする事を思いついた。ひとつは時間の流れが速くなったり遅くなったりする空間。もうひとつは時間がさかさまに流れる空間。そのなかで回文、すなわち「逆さ言葉」などをして遊ぶ。
 これは勿論嘘だ。本当は時間が速く流れても遅く流れても逆さに流れても、その空間の中にいる人達は一緒に流れているわけだから、気がつかないし、回文などしても意味がない。でもいいのだ。楽しければ。
 
 こんな風に途中まで科学的に説明するのだが、そうやって納得させておいて、大事なところで嘘をつく手法は昔から良くある。この小説も、一見とても科学的に説明されているのだが、子供オペラの手口と同じで、とどのつまりは、
「んなこと、あるわけねーだろ!」
という真っ赤な嘘に落ち着く。
 その嘘の中でも特筆すべきは百科事典棒の理論だ。それは百科事典を楊枝(ようじ)一本に刻み込むということで、分かり易く言うと、全体の長さを変えることをしないで、小数点で限りなく細かく情報を刻んでいくことで、どんな膨大な情報も結局は楊枝一本に納まるという理論だ。
 これを人間の思念に応用して、ある限られた人生の時間を百科事典棒的に分解していくならば、思念の世界では人生はいくらでも長くすることが出来、結果として我々は「不死」を手にすることが出来るのである。

「んなこと、あるわけねーだろ!」
という皆さんの声が聞こえてくるような気がするね。でもね、よーく考えてみよう。そもそも我々にとって時間というものはそういうものなのかも知れないのだよ。いや、最近よく思うのだ。すでに55年も生きている僕だが、過ぎ去ってみるとあっという間だったような気がする。あんまりそんな気がするもんで、もしかしたらこれは本当にあっという間だったのではないかと思うのだ。
 いや、僕の人生全体だって、みなさんの人生全体だって、人類全員の人生だって、もしかしたらみんなハードディスクのようなものの中にいくらでも収まってしまうものなのかも知れない。アプリケーションを起動すれば、それはパノラマのように広がって3Dとなり、空間性を獲得して揺るぎない時を刻一刻と刻み出すのだが、保存すればいくらでも短くなり小さくなる。
 いや、それどころか時間そのものが、実は長さも大きさも何もない、我々人類の思念が作り上げているところの、全くもって抽象的な概念に過ぎないかも知れないのだ。つまりはお釈迦様が言うところの色即是空、空即是色ではないだろうか。

 村上春樹の小説の面白さは、こんな深遠な哲学的、宗教的思考に、あのポップ・カルチャー的軽さのストーリー展開でもって、いとも簡単に我々を導くところにある。もし小説というものが、我々の日常の諸相を描いてみるだけにとどまらず、日常の陰に潜む真実を垣間見せてくれるものであったり、時には日常の常識をひっくり返すものであるとしたら、最も真面目な小説らしくない村上春樹の小説こそ、実は小説の中の小説だ!

スキーという啓示
 自分はつくづく極端な性格だと思う。昨年の暮れ、娘二人を連れてスキーに行ったのをきっかけに、突然スキーにハマり、それから余暇を見つけてはスキーに行っていた。そんな時の自分は、
「これは神様が自分に今これをやるように望んでいる」
と確信する。そして、その時間を作り出すために僕はあらゆる努力をする。すると、あらあら不思議!全く時間が作れないと思っていたのに、急に練習が取りやめになったりして、ポコッと時間が空いたりするのだ。
「これは神様が自分に行けと言っているのだ」
と、またまた勝手に解釈して僕はいそいそと出掛けていく。
「そんなことにいちいち神様を出さないでよ!」
と妻は言うが、なあに、こんな時は神様のせいにするのが一番さ・・・・あっ、嘘です・・・神様、許して下さい!アーメン!

ところがある時突然、
「もういい!」
という声が自分の中から聞こえた。そうすると僕はあっけないくらい未練なくそれから遠ざかる。こんな風にして、僕のスキーのシーズンはいきなり終わりを告げた。


 3月20日土曜日、晩の新町歌劇場の練習の前に僕は石打丸山スキー場に行った。このスキー場は、山頂からの眺めが圧巻で、ふもとの平野を自分の腕で抱えながら滑っている開放感がある。といっても、山頂は上級者コースなので、滑り出したら、そんなのんびりしたことは言ってはいられないが・・・・。
 その日は午後2時過ぎまで滑ってから、練習に出るべく帰途についたが、その時僕は、“この冬のスキーというひとつのミッション”が終わったことを悟った。

 スキーは人生に似ている。まあ、どのスポーツでも、それに熱中している人から見ればそう思えるのだろうが、とりわけスキーにはそう感じる要素がある。というのは、同じ所をぐるぐる回るスピード・スケートや、自分で全てをプログラミングし、技を仕掛けていくフィギュア・スケートなどと比べても分かるが、スキーでは、“自分が仕掛けていく”要素と、ゲレンデという“自分に影響を投げかけてくる環境”つまり外的要素とが半々なのだ。それが人生に似ていると言う理由だ。すなわち人生とは、運命に翻弄されながら、その中で自由意志で自分のあり方を選び取っていく営みに他ならない。

 僕は、まるで熱にうかされたようにスキーに熱中しながら、きっとこの向こうに何かがあるに違いないと思ってスキー場に通い続けていたが、その何かをようやく悟ったのだ。神様は、スキーを通して僕に現在の自分の生き方の問題点とその解決の方法を教えようとしていたのだ。

 では、一体どんなことが分かったのか?詳しいことは言っても仕方ないけれど、僕には二つの陥りやすい欠点がある。ひとつは、目の前の傾斜やコブにおびえてスピードを弱めてしまったり、カーヴし過ぎて山に乗り上げてしまう自分と、反対に向こう見ずにスピードを出してバランスを失ってしまう自分だ。その二つが極端なのだ。
 指揮者である自分が目の前にある障害に怯えてスピードを弱めてしまったら、ついてくる人達は失望してしまう。まず自分を信じること。障害の全くないフラットなゲレンデなんて面白くもなんともないだろう。だから障害は来るものと思って恐れたり臆することなくそれに対処すること。
 それから僕は、もう大丈夫と思った瞬間には、今度は油断して上体を起こしてスピードを出し過ぎ、周囲の環境を見なくなり、バランスを忘れる傾向がある。その結果、むしろ難しい所よりも、案外何でもないところで足を取られることがある。だから自分に対しては、順境にあっても常にフォームを忘れず、冷静に自分のテクニックにあったスピードを出しつつ、その自分の限界値を徐々にあげていくよう努力することなのだ。

 こんな風に、今回、自分の人生のヒントとなる啓示は、スキーという媒体を通して現れてきた。実際はもっと細かい事が沢山あって、僕は本当に様々な自己と向き合い、様々なことを学んでいたのだが、最終日になるまで気がつかなかった。
 それが最後の最後で、まるで心の中から霧がふっと一気に消え去って、嘘のようなあざやかさであたりの景色が浮かび上がるように、これまでの学びの全貌が明らかになったのだ。ね、神様もなかなか味のあることをやるでしょう。

 ゲーテも言っているように、この世は全て比喩なのだ。この世で現象として現れているものは、隠れているものを映し出すおぼろげな鏡のようである。我々がそれに気がつきさえすれば、自分の周囲にあるものは全てが神秘的で、暗示的で、スピリチュアルなのである。
 また、この世においては全てが自己への探求であり、自己の発見への道程なのだ。スキーは今のままではもうこれ以上うまくなりそうもないので、来シーズンは始めにコーチについて基本的な力をもっとつけようと思う。それでもう一つクォリティを上げた僕は、もう一段高いところから自己分析をし、自己の限界値を上げる探求をするだろう。僕にとってスキーとは、一種のイニシエーションであるのだ。

カラヤンがこよなく愛した女性
 さて、石打丸山スキー場に行くのに、僕はまた例によって、金曜日の新国立劇場「愛の妙薬」の立ち稽古終了後、高崎線に乗って群馬の実家に来て泊まり、朝早く在来線の鈍行でトコトコと行ったわけであるが、その道中の最大の楽しみが読書にあることは以前書いた。今回も列車旅行用にあらかじめ買ってあった本があった。それは、カラヤンの妻であったエリエッテ・フォン・カラヤン著の「カラヤンと共に生きた日々」(アルファベータ)である。
 エリエッテ・フォン・カラヤンは、クリスティアン・ディオールのトップ・モデルであった時代にカラヤンに見初められ、彼の妻となった。彼女の手記によると、カラヤンはすでにその時、前妻とは冷えた関係にあったため、エリエッテが壊したわけでも奪ったわけでもないという。
 それから結婚。二人の娘をもうけ家庭を築き、自らの腕の中で最愛の人を見送るという体験を彼女は淡々と語っていく。それが大仰な表現になっていない分だけ、妻という立場から眺めた巨匠の生身の姿が感じられて、大いなる感銘を受けた。
 
 その前の結婚生活については知らないが、少なくともエリエッテと共に過ごした時代に限って言えば、カラヤンは最高の夫であり、最高の父親であり続けたようだ。僕は、これだけでとてもカラヤンを信頼出来るし尊敬もするな。カラヤンは、プライベートでは物静かで、思いやりのあるやさしい人だったようで、帝王の尊大さとは無縁の姿がそこには描かれている。
 彼はエリエッテのことを可愛くて仕方がなかったのだろうな。また、二人の娘を持つ家長としての彼は、とてもしあわせな生涯を送ったのだろうな。読後にさわやかな余韻がいつまでも残る本だ。みなさんにもお薦めする。なんといっても出版が中川右介さんのところのアルファベータだからね。

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