ダン・エッティンガーの復活

 やはり凄い才能だ!ダンのマーラーにあらためて衝撃を受けた。4月4日の日曜日、オーチャード・ホールで、ダン・エッティンガーの東京フィルハーモニー交響楽団常任指揮者就任記念公演が開かれた。曲目はマーラー作曲、交響曲第二番「復活」。僕は新国立劇場合唱団の合唱指揮者として参加した。
 すでに先週このページで書いた僕の予想はことごとく当たった。ダンにとってマーラーはまるで空気のように自然な音楽なのだ。彼はまるで水を得た魚のように自由自在にマーラーの音楽の中にどっぷり漬かって、斬新で稀有なる音楽を紡ぎ出した。

 マーラーは楽譜にかなりいろいろな注意書きを書き入れているし、テンポの設定などは、その通り演奏すると支離滅裂な音楽になってしまう危険性を含んでいる。一般に、ドイツ人の指揮者などは、その指示をかなり控えめに実行する事で、作品が陳腐になってしまうことを極力防ぎ、そのたたずまいを端正に保とうとするが、バーンスタインなどは、むしろその指示通りに、あるいはさらにカリカチュアして、むしろマーラーの精神分裂的な面を煽る事で、作品の本質に迫ろうとする。
 ダンもバーンスタインの方向に属する。場所によってはバーンスタインよりもずっと極端で、全てがとっ散らかった印象を受けるが、考えてみるとこれがマーラーの音楽なのだ。マーラーでは、例えば普通のスケルツォで始まるように見える第三楽章なども、曲が進むにつれてどんどんいろいろが強調され、出っ張りだし、拡大し、肥大し、極端にかけ離れたダイナミックスで聴衆を驚かしたり、まるでモンスターのように収拾がつかなくなってくる。
 オーケストレーションも、トランペット一本が裸でオーケストラと対峙するとか、ギリギリのところでバランスを保っているし(もう意図的に保っていないとも言える)、楽想もキッチュとのギリギリの境目で芸術性を保っている(もう境界線を越えてしまってキッチュになっているとも言える)。こうした危機と隣り合わせな状態が、マーラーの音楽の本質であり魅力である。その深淵に、若きマエストロ・ダンは果敢にも挑んでいる。いや、それどころか、その境界線上の断崖絶壁百メートルの上に置かれた平均台をジャンプしながら楽しんで渡っている。

 ゲネプロを聴いていたが、その時点でまだオーケストラは即興的で突発的なダンの棒が読み切れなくて、随所でズレていた。ダンの音楽造りは、そもそも積み重ねではないからね。通常だったら、ヤバい事態なのだが、ダンはオケがズレることをちっとも恐れていないし、それよりも、本番になって何かが降りてきたらまた別の動きをするからねとオケにアッピールしているように僕には見受けられた。
 そして本番になったら、まさにその通りになった。オケは集中していたから、ゲネプロほどはズレなかったが、予想をはるかに超える振り方の違いに、随所で崩壊の危機を孕み、それがまた異常な緊張感を醸し出していた。ダンはもう最初の一音からゲネプロとは何もかも違って振った。彼の前に見えているビジョンそのものがゲネプロとは全く違っていた。彼の感性は全ての制約から解き放たれ、自由になって、無から有を生み出す創造の核融合にも匹敵するエネルギーを全身に浴びていた。演奏は最初の一音から最後の一音に至るまで、実にエキサイティングだった。

 第五楽章になって最初に合唱が入ってくる箇所であるが、ダンは、ゲネプロではもう少し大きく入ってもいいように指示を出していた。でも僕はその指示を信じなかった。というより、本番になって何かが降りてきたら、絶対にそうは思わないだろうと確信していたのだ。
 だから僕は、本番直前、合唱団を集めてダメ出しをした時、あえて合唱団に対して、
「ここはダンではなくて僕の言う事を聞いて下さい。ダンがどう振ってもなるべく小さく出る事。極限に小さく!子音はしっかり発音するにしても、母音に関してはハミングの延長のように口の中に響きを含んで発音する事。小さく出る事を恐れないように。」
という指示を出した。
 そして本番。まさにテンポ・フリーの部分が終わって、合唱が入ってくる瞬間、ダンの心の中がそうなっていることを僕は・・・・読めた・・・・!合唱団は僕のいいつけを守り、「歌を歌ってます」という感じではなく、この世ではないとこから湧き上がってくるいいようのない響きのようにミステリアスに歌い始めてくれた。演奏が終わってダンが僕を舞台上に呼んだ時、聴衆の前でブラボーを浴びながらダンが僕に語りかける。
「お前、合唱の冒頭はやってくれたね。信じられないくらい素晴らしかったよ!」
「でしょう・・・・」

 ダンと僕との連携プレーは、恐らく今後も続いていくだろう。大事な事は、合唱指揮者とは、指揮者の「言う事」だけを聞いていればいいというものではないということ。ヴォータンの隠れた意図を見抜いてジークリンデを逃がし、ジークフリートを生ませる事に荷担して罪を受けてしまうブリュンヒルデのように、合唱指揮者は時には余計な事をする。 不幸な場合には、そのことによって指揮者から不信感を買うことすらあるが、そこは長年の勘を働かせて指揮者の潜在的な真意を読み取り、先取りできるかどうかに命を賭ける。ある意味、その作品を自分で指揮した方がはるかに簡単だが、他人とのコラボレーションを楽しむ僕としては、これもチャレンジアブルであり合唱指揮者の醍醐味でもある。それが、ダンのようにインスピレーションに溢れた創造的な指揮者との共同作業だと、僕の持ち味も百パーセント生かされるというものだ。

 

オペラの稽古場とは戦場?
 「愛の妙薬」の立ち稽古が続いている。演出家のチェーザレ・リエヴィは、普段は穏やかでおとなしい人だが、やはりイタリア人だけあって、内に秘めた感情には激しいものがある。

 その日は全体の荒通し稽古の日。合唱団はやっと全体がつかみかけてきて、最初はつけられた通りの演技をするだけで精一杯だったが、しだいに各自が自主的な演技をするようになってきた。中には僕から見ていてもちょっと過剰な演技かなと思う人がいないわけではなかったが、全体的には相当面白くなってきていた。新国立劇場合唱団の自主的演技能力は、世界的に見てもトップレベルの高さだと僕は自信を持って言いたい。
 ところがある箇所で突然リエヴィが立ち上がり、大声で怒り始めた。一同きょとんとしてしまい、彼が何に対して怒っているのか皆目見当がつかないまま練習が中断してしまった。

 どうも言っている事をよく聞いてみると、合唱団が自分の意図する以上の過剰な演技をしてしまい、合唱団ばかりが目立ってしまってソリストが霞んでしまうということらしい。
それならそうと穏やかに言って、どこまでが彼の意図で、どこからが彼にとってみると過剰なのかをきちんと説明してくれれば何の問題もないのだが、あんな風に、
「余計な事をするな。言われた通りだけをやってろ!」
みたいに言うものだから、今度は合唱団が、
「あっそう!ほんじゃ言われたことだけやるよ。」
という雰囲気になってしまった。それで稽古再開。
 今度は、合唱団は本当に何もしなくなって、先ほどとは見違えるように衝撃的につまらないシーンとなってしまった。これではただの演奏会形式だ。こうした「演技をしない演技力」も世界トップレベルだなあ。あははははは。おっと、笑っている場合ではない。

 あわてたのは演出家。再び合唱団を集めて、
「わたしの意図する方向さえ間違わなければ、もっと自由に演技して欲しいのです。」
と取り繕うが、合唱団は、
「下手に自由に演技してあんな風に怒られるんじゃ、怖くて演技出来ねえわさ。」
とブツブツ言い始める。
僕はこんな時、特にみんなに、
「そんな投げやりにならないできちんと演技しなさい」
とは言わない。そのまま放っておく。演出家は、僕がフォローを出さないのに気付いている。それどころか、僕もみんなと一緒に彼を無視しているのにも気付いている。

 一般社会の常識からすると喧嘩やいさかいのように見えるこうしたことは、オペラの稽古場では日常茶飯事だ。アーティスト同士は、時に自分の気持ちをコントロール出来ないことがあり、互いの気持ちをぶつけ合う。でも、我慢するより、ぶつけ合った方がいい。このようなやり取りを通して、互いの出るところと引っ込むところとの具合を計り合い、コミュニケーションを築いていくのがオペラの現場なのだ。
 演出家が、冷静に指摘することを怠って感情を爆発させるのは、一般社会ではあまり適切なことではないのかも知れない。でも僕は別にアリだと思う。特に今回は相手がイタリア人だから、合唱団員もそこのところよく分かっている。そして、合唱団の彼に対しての反応も、別に意地悪とかではない。これまでの日本人だったら、変に我慢して従うかも知れないし、別の合唱指揮者だったら、
「うるさいから従っておこうよ」
とみんなに指示を出すかも知れない。でもね、それは外国人と付き合う場合、決して良い結果をもたらさないというのが、これまで沢山の外国人と付き合ってきた僕の出す結論だ。むしろ、
「あんたの言う事を聞いていると、こういう風になっちゃうんだけど、どうする?」
というのを実際に目の前で見せることが必要なのだ。

 その後、演出家は何度も合唱団を呼んで丁寧に説明した。さらに合唱団のために一日練習日を取って、どこまでして欲しいか合唱団に伝えていた。そこまでしてくれたので、合唱団の演技もだんだん演出家が望んだ「自由と制約の度合い」を理解してきた。そうやって落ち着いて全体を見てみると、リエヴィの演出では、あるところは思い切ってドタバタに限りなく近づくが、あるところでは意図的に型にはめた集団演技をさせる。そのバランスが絶妙であることが分かってきた。
 こうした演出意図は、なかなかみんなには伝わらないものだ。あるところでドタバタを許容すると、合唱団は、この演出家ではドタバタの演技をやっていいんだねと誤解してしまうからね。今では、合唱団もリエヴィの演出意図を正しく理解してきたし、稽古場にはなごやかな雰囲気が戻ってきた。僕もリエヴィとコンタクトを取り始めた。
 結果的に見ると、あそこで彼が爆発したのは、その目的地に至る最短距離だったのかも知れないと、僕は思い始めてきた。リエヴィは別に意図的にふるまったわけではないけれどね・・・・。

 このように、オペラの現場というのは、日々事件の連続だ。これをうっとうしいと感じたり、真面目に受け取り過ぎていちいち胃が痛くなるような人には向かないかも知れない。幸い僕は、人がわいわい騒いでいるところで仕事をするのが大好きで、こうした事件の連続をむしろエンジョイする人間だから、まさにオペラをやるために生まれてきた人間だとも言える。
 「愛の妙薬」のプロダクションは、素晴らしい舞台になる予感に溢れている。さて、今週からいよいよ舞台稽古です。

ああ、ワイン・・・
 3月30日火曜日には久し振りにM病院に大野誠先生を訪ねた。2週間前に行った採血の結果を聞きながら、今後の食事治療などの方針を決めるためだ。前回の診療から約3ヶ月経っている。事情を知らない方にかいつまんで話すと、僕は血糖値が高くて一年前から食事制限を始め、さらに運動も積極的に行って約10Kg痩せて今日に至っている。痩せていく過程を知らなくて、いきなり10Kg痩せた僕に会う人は、皆一様にびっくりするみたいで、何か深刻な病気でもしているのではないかと勘ぐるのだが、心配ご無用!僕はぴんぴんしております!
 一番ストイックに食事制限をやっていた時期は、その体を維持するカロリーよりも低い値で生活していたので、体重がどんどん減っていったし、空腹に耐える生活がきつかった。でも50Kg台前半まで落ち込んだ時、先生からもうこれ以上痩せない方がいいですよと言われ、食事はその体重を維持する程度とれるようになったので、我慢しているという実感がなくなってきた。
 
 3ヶ月前の治療から今回までの間に、ちょっと困った状況になってきたことがある。それは、生活が食事制限の状態から普通状態に戻ってくるにつれて、お酒に対しても少し緩くなってきたことである。
 ストイックに食事制限していた時期でも、僕は完全にお酒を断つ事は出来なかった。何か人生夢も希望もなくなってしまうような気がしてしまうもの。そこでダイエット・ビールとか飲んでいたのだが、あれはあまりにもまずい。ビールの国ドイツ仕込みの僕としては許せん!やはりビールは発泡酒なんかじゃなくて、きちんとした麦芽100パーセントでなければいけないと思うのだが、一方でビールというものは、カロリーばかり多い割にはアルコール分が弱いので沢山飲まないと酔っ払わないし、大体そんなにセンセーショナルにおいしいものでもない。
 そこで僕の生活は、ビール中心の従来のスタイルから、もっと無駄なく酔えてしかもうまさを味わえるものに変わっていった。というと・・・・やっぱりアレしかないでしょう。そうです。ワインです!ワインこそお酒の女王!最初は良いワインを恐る恐る少量だけ飲んでいた。その内だんだんワインの味というものが分かってきて面白くなってきた。気がついてみたら、だんだん量が増えている。で、最近ちょっと飲み過ぎの感がある。
 でもね・・・でもね・・・・ワインの味というのは一度覚えると、本当にやみつきになってしまうよ。特に値段の割においしいワインに当たった時なんかは、あんた、天国にも登った気分ですなあ。あっはっはっは!ところで天国に行った時にもしワインがなかったらどうしよう。僕は天国に行った時にないと困るものがいくつかあるのだ。それはね、納豆と鰻と、そしてワインだな。まっ、そんなことはどうでもいいのです。
 血糖値は低く保って血液さらさらの状態を維持したいが、さりとて、このワインというやつを生活の中から減らしてしまうとだね・・・・人生の楽しみというやつがなくなってしまうんだな。勿論、ワインを飲んだら死にますよという状態になったらあきらめはつきますよ。そうなったらね・・・・きれいさっぱりとやめますよ。パシーッとね!へっへへ、どんなもんだい!でもね・・・今はそこまでではないからね・・・・だからね・・・・やはり生活のうるおいのためにワインは欠かせないんだな・・・・・と、さっきから何をぐだぐだ言い訳しておるか!
 つまり、生活の中から治療をしているんだという緊張感が失せ、その代わりにワインの量が増えてきたということだ。で、この状態で大野先生の所にいって、どうかということなんだな。正直言って、もしこの状態で良いと言われるとかなりハッピーで、人生の終わりまでこのままで突っ走れるような気がするが、これでもし駄目と言われると、また元の「治療状態」に逆戻りしてしまうようで辛い。だから今回はかなりドキドキだった。

 それで結果はというと・・・・・ヘモグロビンA1cはこれまでの5.3をわずかにオーバーして5.5になっていたが、正常値の範囲でめでたく合格。でもこれは薬を飲んで出ている結果だ。ところがね、今回は一つ変化があった。それは、もうメタボではないので、代謝能力が戻ってきて薬を止めてもあまり変わらない可能性があるので、一度薬をやめて試してみようということになったのだ。
 ごっくん!これはいいような悪いような・・・・・つまり・・・・・薬を止めるのは嬉しい・・・・嬉しいが・・・・反面・・・・これは次に検査にいくまで生活の上で気が抜けないということなのだ。も、もしかしたら、今までのようにお気楽にワインなど飲んでいたら、とんでもないことになってしまうようで・・・・うーん・・・・どうしよう。

誰かこんなわたしに喝を入れてください!

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