鹿鳴館
 新国立劇場では「カルメン」公演と平行して「鹿鳴館」の立ち稽古が進行している。この演目を情熱を持ってプロデュースしていたのは故若杉弘さんだ。原作は三島由紀夫の同名の戯曲、台本と演出は演劇部門芸術監督の鵜山仁(うやま ひとし)氏、作曲は池辺晋一郎氏(いけべ しんいちろう)。指揮は沼尻竜典(ぬまじり たつのり)氏。
 すでに評価の定まっている名作オペラと違って、新作はいつも手探りだ。台本を読み、楽譜に目に通すとだいたいの感じはつかめるものの、やはり役者が実際に動いてみないことには分からない。僕も、今の段階であまり決定的なことを言ってしまうにはリスクが大きいが、先日の稽古場での通し稽古を観客の立場に立って観た感想を言ってみよう。

 まず、僕たちの世界では「本が良い」と言うのだが、原作の三島由紀夫の戯曲が良く出来ている。政界の中心人物影山(かげやま)の生きている政略に満ちた世界と、その政敵である理想家清原(きよはら)との対比や、影山の妻でありながら、その昔清原と愛しあっていた朝子の凛としたたたずまいが鮮やかに描かれている。そうした複雑な人間模様が、鹿鳴館という究極的な虚構の世界の中で絡み合い、クライマックスへと向かう。その道程は古典的ともいえる定石の積み重ねだが、説得力を持って観る者の心にどんどん迫ってくる。
 通し稽古を観ながら、僕は結構感動した。終わってすぐに鵜山さんのところに行った。
「いいじゃないですか。本も良いし、演技処理も適切で、良い舞台になりそうですね」

 オペラ用の台本は、鵜山さん自身が“書いた”というよりも、実際には“刈り込んだ”と言った方が良い。鵜山さんによると、三島由紀夫は、自分の戯曲に関しては常にノーカット上演を強く望んでいたという。しかし、やむを得ない場合の妥協案として、言葉を削るのは仕方がないけれど、その代わり一字一句決して変えるなと主張していたそうだ。
 そこで鵜山さんは、あの膨大な戯曲から必要最小限にセリフを刈り込んでいったわけだ。これは端で見ているよりずっと難しい作業だ。ブリッジの部分など、物語がとぎれないために自分で文章を作れたらどんなにいいだろうと思ったに違いない。ただ鵜山さんの強みは、自分で演出が出来るから、
「ここの無言の部分は、歌手にこう演技させることで解決しよう」
と最終的に出来上がる舞台を視野に入れて作れたことだと思う。そんなわけで、原作からみるとかなりスッキリと刈り込んだ形で作曲家の池辺さんに渡した。
 パスを渡された池辺さんは、ドラマを愛する作曲家。でも、たった一人でドリブルを繰り返していってシュートを決めたり、ロングシュートをかましたりするタイプではない。大事なセリフが来るとオスティナートで伴奏を影に追いやり、歌手に任せる。任せられた歌手が優秀だと、その部分が音楽的にもドラマ的にもふくらみ、それから一息ついたところで、今度は音楽が高揚する。そのタイミングが絶妙だ。
 楽譜だけ見ていた時は正直、
「案外音が少ないな。欲がないな」
と思っていたが、それを大倉由枝江さんや黒田博さんや大島幾雄さんといったスター歌手が堂々と演じると、どんどん間が埋まっていく。それでいて必要なところでは、痒いところに手が届くように音楽がドラマに寄り添う。イタリア・オペラのように話が単純ならばともかく、こうしたドラマを描くためには書き過ぎない方が良いのだと気が付いた。まさにプロフェッショナルな技だ。

 若杉さんの意図も至る所に反映されている。このドラマには飛田(とびた)という影山が雇っている殺し屋がいる。原作ではセリフがあっていろいろしゃべるのだが、オペラ化にあたって若杉さんは、この役から一切セリフを奪い、黙役とした。これがいい。セリフのないことで殺し屋の凄味が強調され、影山のワルぶりが浮き立つのである。

 また、合唱は「憎しみと宿命のヴォカリーズ」というものを歌うコロスとして扱われる。これも原作にはない若杉さんのアイデアだ。原作の戯曲は徹底的にリアリズムのドラマなので、その真っただ中にリアルな群衆ではない無個性な人達が現れてコロスとして歌うというのはどういうものなのかと思っていたが、鵜山さんの舞台処理の仕方もあって、まさにオペラ的な作品として生まれ変わった。

 オペラは元来わざとらしいものだ。メロディーを歌うという行為を伴うため、リアルな芝居の間合いやテンポ感とのズレが生じるのだ。逆に言うと、その不自然さこそがオペラのオペラたるゆえんとも言える。そうすると、たとえは悪いが、丁度臭みのある食材に、もっと香りの強い香辛料やハーブを使うことによって、トータルで存在感のある料理を作り出すように、コロスという純粋演劇的には不自然な要素を投入することによって、リアルな三島の戯曲がシュール・レアリズム的な作品へと変貌した。

 第四幕舞踏会シーンも・・・・・と、ネタバレになるからやめておきましょう。ひとつだけ言っておくけれど、このオペラで合唱団は歌う箇所は少ないくせに、出番は多い。特に舞踏会シーンでは、ダンサーに混じって激しいダンスを繰り広げる。そのため立ち稽古のためにとっておいたかなりの練習時間をダンス・リハーサルにあてた。その成果を見て欲しい。でも、くれぐれも言っておくけど、彼等はダンサーではないからね。でも、とても頑張っているのだからね。

「鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな」
この影山のセリフに象徴されるように、ラストシーンは一種の狂喜乱舞となる。池辺さんの音楽を伴って、演劇では決して表現出来ない世界が展開する。
 
 新作の現場は、疑問符と感嘆符とが交差する創造の火花が飛び交っている。どうなるか誰も分からないし、どうなってもいい。でも、最初に仕掛けた者が、遠く放物線を描いて落下する地点とその落下の仕方をすでにイメージ出来ていたので、仕上がった舞台のイメージは想像出来るのだ。
 そういう意味では、若杉さんは偉大だったなあ!文学への造詣も深かったし、オペラの可能性と・・・・そして限界も知り尽くしていたから、今回の試みが可能だったのだ。

 鵜山さんの演出では、回り舞台がまるでメリーゴーランドかと思うほど、ぐるぐる回る。「アンドレア・シェニエ」のフィリップ・アルローの演出も、回り舞台を多用していたが、回り舞台は価値の転動を表現する。右にあったものがいつのまにか左になったり後ろにいったりする。
 明治維新後、これまでの常識が根本からくつがえされ、人々はとまどいながら生きていく。鹿鳴館のような不自然な華やかさや、西洋かぶれの滑稽さも、こうした流転する時代の生み出した落とし子だ。

 これから稽古は本舞台に移り、本番の舞台美術に囲まれての練習となる。まだ不確定要素に充ち満ちているこの新作。でも、秀逸なるプロダクションとなる予感!

四つの祈りの歌
 6月11日金曜日は、アカデミカ・コールが東京六大学OB合唱連盟演奏会に出演するための藤原義久(ふじわら よしひさ)作曲「四つの祈りの歌」の練習。アカデミカ・コールとは、東京大学のコール・アカデミーという男声合唱団のOB合唱団だ。
「四つの祈りの歌」は、数十年前にまだ若き藤原氏が作曲してコールアカデミーが上演したアカペラ合唱曲を、今回OB六連の為に新たに小編成のアンサンブルのためにオーケストレーションし直したものだ。その編成はちょっと変わっていて、フルート、オーボエ、バス・クラリネット、ヴィオラ、コントラバス、パーカッション(スネア・ドラム、ヴィブラフォン、ウインド・チャイム)、ピアノというもの。

 午後4時。まずはアンサンブルだけの練習。若いけれども優秀なプレイヤー達が集まった。作曲家の藤原氏も同席した。藤原氏はしきりに、
「いやあ、今回元の曲を変えないでオーケストレーションだけしてくれという無理な注文を受けたのです。まるでタイムマシンに乗って若い時の未熟な自分に出遭ったような気持ちで、恥ずかしい限りです」
と言っているが、どうしてどうして!作品そのものは、若い故のエネルギーが溢れていてまぶしいほどだし、その反対に経験を必要とするオーケストレーションは、まさに熟練の極みで、少ない人数なのに驚くほど良く鳴る。つまりは一人の作曲家の二つの世代のいいとこ取りというわけだ。

 アンサンブルだけの合わせが終わると、長い休憩をはさんで夜はアカデミカ・コールとの合わせ。こちらの方は、アンサンブルの若者達とは全く対照的に、平均年齢が驚くほど高い。合唱団員達がアンサンブルの奏者達くらいの頃に歌ったものを、長い時を経て上演するわけだ。彼等はこの曲を良く知っているが、アカペラでしか歌ったことがない。だから、新しいアンサンブルの効果に驚いている。

 この曲は、それぞれ異なった曲想を持つ四つの祈りの歌から成る組曲だが、特異性は使われているテキストにある。第一曲目「前奏曲」は、サンスクリット語による声明のような音楽にラテン語のMiserere mei Deus(神よ、我を憐れみ給え)やギリシャ語のKyrie eleison(主よ 憐れみ給え)といったテキストがからんできて同時進行する。東西の異なった宗教の異なった美意識による異なった祈りが自然な形ですんなり遭遇している。ヴィブラフォンは、ここでは仏教のお寺の鐘のように響き渡る。
 第二曲目「行進曲のリズムで」は、ラテン語のDe Profundus Clamo ad te Domine「深き淵から主に呼びかける」がバスのオスティナートで歌われ、日本語が「傷ついて わたしを呼ぶ お前の夢を見た」と絡んでくる。これに、今回はスネア・ドラムがついた。
「この曲を作った頃はベトナム戦争の真っ最中だったんです。ある時、ベトナム帰りの兵士が都会の真ん中のレストランでひとりポツンといるところを見て、この第二曲目を思いついたのですよ」
と藤原氏は語った。
「藤原さんの心の中で響いていたドラムの響きは、アカペラでも想起されるけれど、こうして初めて具体的に音になってみると、まさに生々しい戦場の音楽になりますね」
と僕は合唱団員もいる前で答えた。
 第三曲目「地球の緑の丘」のテキストは、世界共通言語をめざして人工的に作られたエスペラントという言語によってLumon al la verda tero「緑なす地球に光を」と歌われる。拍の観念を否定し、たゆたうように歌われる。グレゴリオ聖歌のようでもあるが、もっと中性的。それによって藤原氏が、民族性や国境を超えた普遍性を持つ祈りに高めようとしているように僕には感じられる。ヴィブラフォンは、ここではピアノの高音と相まって教会の鐘のように聞こえる。とても美しい曲だ。
 第四曲目「ロンド・アレルヤ」は、変拍子のアクティヴな曲。Cantate Domino 「主に歌え」とラテン語で進んでいくが、途中でエスペラントやサンスクリット語のモチーフが乱入してきて、いかにも終曲という感じ。
藤原氏はこの曲の練習中ずっと、
「なるべく軽く演奏して下さい。まだ重いです!」
と力説していた。

 かつてアカペラ合唱曲で響きの向こう側、すなわち心の中だけに聞こえていたものが、まるでモノクロがカラーになるように、いやそれ以上に二次元のものが3Dになるように浮き出てくる。原曲も好きだけれど、このニュー・ヴァージョンは藤原氏の想いがストレートに伝わって、より深く胸を打つ。

バベルの塔~普遍的言語?
 僕がどういう人間で、普段どんなことを考えているか知っている人達には容易に想像がつくだろうけれど、僕はこの作品に特別の想いを抱いている。この作品のテーマの背後にはとても深い問題が隠されている。特に興味深いのは何といっても言語に対するアプローチ。
 キリスト教は、強大なローマ帝国と結びつくことによって世界宗教へと発展したが、その時、ローマ帝国が使っていたのがラテン語だ。カトリックという言葉が「普遍的」という意味を持つように、ラテン語も普遍性をめざしてキリスト教の布教と共に世界中へと広がっていった。かつてはミサが行われるところでは世界中どこにいてもラテン語が響いていた。とはいえ、二十世紀半ばの第二バチカン公会議によって、ラテン語がミサの義務的言語でなくなり、それぞれの国が自国の言語で行うことを許された時点で、ラテン語もその世界言語としての使命を終了した感がある。

 聖書によると、人類が自らの権勢を誇ろうとして限りなく高いバベルの塔を建てた時、神様がその傲慢さに怒り、互いに意思の疎通をはかれないように様々な言語に分けてしまったという。ならば再び人類の一致を夢見る者にとって、まず言語を一致させるというのは見果てぬ夢なのか?
 エスペラントという人造言語に今回初めて出遭って、少し文法を勉強してみた。これもラテン語を基本にしているが、ラテン語の欠点である文法の煩雑さを全て避けて、単純化していて便利にはなっている。1887年にポーランドのザメンホフが提唱した時は、これがかつてのラテン語に代わる普遍的言語となるかとも思われたが、でもなあ・・・・・・。まあ、僕が言うまでもなく、現在でもこれが実用化される可能性はあまりない。機能的にはともかく、芸術家としての立場から言うと、美的にどうなのかなあという疑問が残るのだ。
 
 言語というのは、便利であればいいというものではないのだ。言葉というのは、多くの人達に使われて初めてその優劣が分かる。エスペラントを沢山の人が使用し、この言語の上に書かれた文学や詩がもっともっと出てきて、民衆が自分の使い勝手が良いように自由に変えていって初めて社会的に認知される。使っている人達の臭いのようなものが感じられないと、言語はその存在を主張できないなあ。

 むしろ現代で普遍的言語といったら英語がそれを担っているのだろう。英語は性の区別もなく、階級の区別もない。どんな高貴な相手に対してもyouで呼べてしまうというのが、ビジネスの世界では有利なのだ。このように面倒くさい事が単純化された事で、今や世界でも独り勝ちの言語となっている。
 でも、アメリカと英国とで発音が全然違うとか、辞書を引いてみるまではどう発音するのか分からないとか、英語にもいろいろマイナス要素はある。ヨーロッパ諸国、特にラテン系の国々は英語を世界言語にする事に対し否定的だ。言語ひとつとっても、世界はなかなかひとつにはまとまらない。

 そういえば、先日「ワイマールのバッハ」の講演会で礒山氏に、
「キリスト教の信仰を持っていない日本人がバッハを聴くことについてどう思われますか?」
と尋ねた方もアカデミカ・コールの団員だった。そうした悩みはこの「四つの祈り」には持たなくていいから楽だね・・・・というより、そうした宗派の個別性あるいは閉鎖性に対する答えを、ここで僕は藤原さんが出してしまっているように感じられる。これからは宗教も哲学も倫理観も、何教に帰依するということではなく、もっと根源的なところで全人類がつながればいいのに・・・・なんでそれが出来ないんだろうね。

 この後、一日合唱だけの練習日があり、さらにアンサンブルと合唱の合わせの日がもう一日あって本番の日を迎える。容赦なくガシガシ練習し、最高のものに仕上げて、他の大学のOB合唱団の人達をアッと驚かせてやりたい。こんな風に新作づいていて、無から手探りで有を生み出すクリエイティヴな生活をしている今日この頃です。


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