バッハの旅~心の旅

7月24日(土)ライプチヒにて
 今回の旅の後半は、バッハゆかりの地を訪ねる。最初はバッハの生涯に沿って、アイゼナハから始まり、ワイマールやケーテンを通ってライプチヒに至るルートを考えていたが、試行錯誤の末、逆に辿ることになった。一番の原因は、ドイツでは月曜日が休館日になることが多く、アイゼナハのバッハ・ハウスやヴァルトブルク城のみが月曜日にやっているので、26日の月曜日にアイゼナハにいる以外に選択肢がなくなってしまったことによる。

 僕たちが24日にライプチヒに向けて出発することを知ったディーターは、僕たちを車で乗せて行ってくれると言い出した。彼は僕たちがバイロイトに滞在している間、和子さんの家に泊まっていた。
「実は、24日にハンブルグの古い友人を訪ね、それからリューベックにいる百一歳の母親の所に一週間ばかり泊まるんだ。だから乗せていくよ」
「ええ?だってハンブルグとライプチヒでは全然方向が違うじゃないか!」
「直線距離ではね。でもアウトバーン路線では、ベルリン郊外を抜けて行くのが一番近いんだ。だからヒロ達を乗せなくてもライプチヒ近郊はどうしたって通るのさ」
 ドイツにアウトバーン(高速道路)を整備したのは、アドルフ・ヒトラーだ。その中でも、ミュンヘンからニュルンベルク、バイロイト、ライプチヒ郊外を通り、ベルリンへと抜ける9番線は、最も重要な幹線。ディーターは、僕たちを降ろすのに一番便利なインター出口と最寄りの駅を、インターネットで検索してくれた。それはライプチヒ空港に近い各駅停車の駅だった。

 出発の朝、ディーターは荷物を持って階段を下りてきた。見るとギター・ケースがある。「わざわざギター持って行くの?」
「これだけはどこに行くにもはずせないんだ。それから中国製のプラスチックで出来たクラリネットだ」

 さあ、出発だ。和子さんにしばしの別れを告げて、僕は助手席に乗り込んだ。妻は後ろに荷物と一緒に乗った。ディーターの車は、日本ではどう考えても車検に通りそうもない古いフォルクス・ワーゲン。鍵も手動。窓を開けるのにも手でぐるぐる回す。なりふり構わないディーターらしい。思わず笑ってしまった。
 アウトバーンを走りながら、僕たちはいろんな話題に花が咲いた。彼は日本の政治について驚くほどいろんなことを知っていた。そして、先日の選挙の感想や、これからの日本のあり方について、おおかた僕と同意見だった。こういうところが、僕が彼と気が合う原因なんだな。それにしても彼は本当にインテリで、なんでも知っている。
 ひとつだけ意外だったことは、彼は福田康夫元総理のことをかなり肯定的に見ていた点だ。
「あの人は知的だった。政治家というよりは学者だったが、考えることも言うこともしっかりしていた。みんなそうは評価していないけれどね」

 ライプチヒ=ハレのインターから高速道路を降りる。僕たち夫婦が降ろされたのは、実にのどかな無人駅。Schkeuditzという名前だ。誰も知らないだろう。僕たちはこのバッハの旅の後、もう一度バイロイトの和子さんの家に戻って一泊してから日本へ帰るが、ディーターとドイツで遭うのは今日が最後。だから僕たちは互いにハグして別れた。ライプチッヒ駅
 その後、妻と二人で何を話すわけでもなくぼんやりしていたら、向こうから各駅停車の電車があくびをしながら来た。こんなのんびりした時間の流れも日本ではあり得ない。僕は通常、少しの暇でもあれば、すぐ勉強とか何か始めてしまうからね。

 ライプチヒの街は、2001年正月に浜松バッハ研究会と共に訪れ、トマス教会において顕現祭の音楽礼拝をトマス教会聖歌隊に代わって演奏した時以来約10年ぶりだ。前回、駅に巨大なショッピング・モールが出来ていたので驚いたが、今回は特に街の景観に大きな変化はない。僕たちは、駅前のNovotelという清潔で近代的なホテルに予約を入れていた。6階の部屋の窓からは、オペラ・ハウスとゲヴァント・ハウスが見える。
 荷物を解くと、そそくさと向かった先は、やはりトマス教会。まずここを見てからでないと何も始めてはいけないような気がする。ここを初めて訪れたのは21年前の1989年。壁の崩壊直前。あの頃は、他の全ての建物同様、ススで真っ黒だった。今は美しいクリーム色に塗り替えられている。

トーマス教会

オルガン・コンサート
 今日は土曜日。午後3時からコンサートがあるはずだ。調べてみたら、10年前に訪れた時には丁度完成したばかりだった「バッハ・オルガン」と呼ばれるトマス教会の横側に設置されたオルガンが、今年10周年を迎えるため、それを記念して毎週バッハ・オルガン・フェスティヴァルが開かれている。今日はアムステルダムのオルガン奏者Jaques van Oortmerssen(日本語の表記は知らないが、おそらくジャック・ファン・オルトメルセン)による「トマス・カントールのバッハ」というタイトルのコンサート。
 プログラムを見ると、初回の6月26日土曜日は、Der junge Bach「若き日のバッハ」。次の週の7月3日がBach in Weimar「ワイマールのバッハ」だって。おいおい、それって僕の東京バロック・スコラーズの演奏会のタイトルと一緒やんけ。コラ!真似すんな!って、ゆーか、みんな考えることは一緒なんだ。
 嬉しかったのは、この7週に渡るコンサートの最終回を飾る8月7日のコンサートは、なんと我等が鈴木雅明氏がオルガンを弾く。おお、やるね!トマス教会のこんなシリーズに組み込まれるなんて、相当認められている証拠だね。日本の星!我らが誇り!頑張れ!

 さて、このコンサートは素晴らしかったが、休憩なしのプログラムにしてみるとかなり長かった。1時間20分もかかった。これはワーグナーの楽劇の一幕分に相当する。しかもシーンがなくてオルガンの音色だけだからね。それに、これは個人的趣味だが、このバッハ・オルガンの音色は、正直言ってあまり好みではないなあ。不思議なことに調律もバロック・ピッチどころか、Chorton 465Hzと、通常のモダンピッチより半音も高い。
 レジスターによってはかなりキンキン耳にさわるが、うーん・・・・このレジスターも、もしかしたらこのオルガニストの趣味かも知れない。バッハ・オルガンを弾いていても、ドイツ風レジスターにはあまりこだわっていない。パリでマリー・クレール・アランに習っていたというから、そうした趣味も入っているのかも知れない。いや、とても確実で上手なヴィルトゥオーゾなのだけれどね・・・・・。
 いろいろ商売柄難癖つけているが、あこがれのトマス教会の大伽藍に響き渡るオルガンの音を聴いていると、かつてバッハもこうした響きを味わっていたのだろうな、と不思議な感動が僕を包むことには変わりはない。ミーハーとでも何とでも言って下さい。バイロイトがワーグナーの聖地であるように、ここがバッハに魅せられた者にとっては、特別の地であることは揺るぎない事実なのだから。

ライプチヒという街
 昼食はトマス教会からも旧市庁舎からも近いツィルス・トゥンネルZill's Tunnelという郷土料理のレストランでドイツ料理(写真はコール・ルーラーデンという料理)。夕食は、ゲーテが足繁く通ったと言われるワイン・レストランのアウワーバッハ・ケラーAuerbachs Kellerで食事。こんな食事ばかりしているとヤバイけれど、やっぱりせっかくドイツに来たんだから存分に味わわなくちゃ。コール・ルーダーデン
 今回、夕食のワインはいろいろ選ばずにおとなしくWein von Fass(お店のお薦め地ワイン)を頼む。白ワインなので僕は鮭の料理を注文した。妻は平目料理。ここで出すものは、他の郷土料理レストランと違って純粋ドイツ料理とは言えないが、洗練された上品な味。辛口プファルツ産白ワインとのマリアージュが最高。

 ライプチヒは、バッハが最後に辿り着き、死に至るまでの27年間も住んだ街。ずっと田舎町を渡り歩いたバッハの唯一の大都会。しかし、正直言って、この街を僕はあまり好きではない。大都会の長所よりも短所の方が目立っている。つまり大都会のおおらかさや風格はなく、むしろ大都会のもつ無関心や冷淡さや殺伐とした雰囲気のみがある。かつての東独時代と違い、街はきれいになっているが、どうも街角の隅々に想念の闇を隠している気がする。
 黒い服を着た若者達が群れを作っては奇声を上げながら闊歩している。そうした群れがあちらこちらにいる。パンクとは微妙に違うがとても雰囲気が悪い。今は夏なので遅くまで明るいけれど、冬場の暗い街角で女性がひとりで歩くのは怖いだろう。かつて壁の崩壊直前に集まってこの国を変えようとしていた、あの若者達の真っ直ぐな眼差しや、真摯な態度とはほど遠い。改革を成就しきれなかった失望が、この街の若者を投げやりなものに変えてしまったのか?
 バッハを崇拝する僕としては、この街も同じように敬い讃えたいが、黄昏時の町並みをぶらぶら歩いている間に頭に浮かんだのは、むしろこの街の雰囲気にバッハは最後まで馴染めなかったのではないかという想いだ。その想いは、後日アイゼナハを訪れた際、ある確信に変わる。その事についてはまた後で書く。

 もともとこの街は、バッハをトマス・カントールとして採用する際、彼の前にテレマンを初めとして数人に打診したが断られ、
「最良の者が得られないならば、中くらいの者で我慢するしかない」
と言いながらバッハを雇い入れたという逸話を持っている。つまりバッハは大歓迎で招かれたわけではない。そして、その後彼がおびただしいカンタータを作曲したり、他に並ぶもののない「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」という音楽史上の奇跡を生み出したりしても、この街は一向にバッハの才能を評価する気配はなかった。
 一方、バッハの方も数々の不満を募らせていったようで、1730年頃を境にして晩年まで、彼とこの街との関係はかなり冷え切ったものとなる。そうしたことが街の持つ性格のせいだとは、これまで考えてみたこともないが、巨匠のゆかりの地を訪れるということは、こんな思いもかけない印象をもたらすこともあるのだ。
 この街に来るまで、バッハを招聘してくれたところは、ワイマールでもケーテンでも、音楽好きの領主がバッハの才能を買ってくれていた。でもここでは、彼は最初からライプチヒ市という得体の知れない“団体”を相手に孤軍奮闘する運命だったのだ。彼自身、初めからこうした彼を取り巻く冷淡さを感じていたに違いない。
 最初の二年間に、教会暦の主日カンタータを全て彼の作曲によって行おうとやっきになって、毎週カンタータを作曲したのも、ライプチヒ市に自分の能力を認めさせようとするあせりから出た行為かも知れない。そしてそれは黙殺されたのだ。そう考えるとなんとなく可哀想だなあ。この街で、バッハは孤独だったのではないだろうか。でも、当時とすればライプチヒのトマス・カントールは最高のポストだったから、晩年のバッハはここに住み続けるしかなかったのだ。

7月25日(日)ワイマール
 僕は、短い間に一箇所でも多く回って、写真を撮ってまた次の場所に移って、というような旅を好まない。ワイマールの街それでは訪れた街の風や雰囲気を味わうことが出来ない。僕にとって旅行とは、その土地から“気”を受けて、自分の精神の中に新しい要素を取り込むこと。そのためには時間が必要だ。
 
 結局、ケーテンを訪れることを僕たちは断念した。ケーテンが大事じゃないということではない。だが、ケーテンはルートがちょっと離れていて、訪れるだけで半日費やしてしまう。旅行は実質3日間しかないので、的を絞らないとどれも中途半端になってしまう。 そこで、25日の日曜日は、一日ワイマールに捧げることにした。ライプチヒからワイマールのバッハ像InterCityExpress(ICE)に乗って約一時間。ワイマールに着いた。ワイマールの街は、以前訪れた時は、殺風景で何もない街という印象だったが、今回は随分違った。ライプチヒから来たせいだろう。善良な雰囲気が街角のあちらこちらに漂っていて、落ち着いた良い街だ。

 僕たちはまずゲーテ・ハウスをめざして歩いた。こちらの街は、みんな中央駅から旧市街に出るのに時間がかかる。日本で何かするのと違って、こちらでは全てがゆっくりと動く。街を散策し、ゲーテ・ハウスをのんびり見ている内にお昼になってしまった。
 昼食は、ツム・ツヴィーベルGasthaus Zum Zwiebelというレストランで、名物のチューリンゲン風焼きソーセージを食べる。大きなソーセージが二つもある。チューリンゲン風焼きソーセージ酢漬けのキャベツであるザウアークラウトSauerkrautの味付けは、地方によって大きく違う。ここでは結構甘口でドロドロしている。
 今回自分で優秀だなと思った事は、食事に口をつける前に写真を撮れたこと。欲望を制御することが可能になった。とはいえ、こうした食事を採る事自体が欲望に抗しきれない証ではないか。

 食事の後、僕たちはゲーテ広場に戻り、タクシーをひろってブーヘンヴァルトBuchenwald強制収容所跡へ向かった。そこは実に想像を絶する世界であった。

ブーヘンヴァルトという解けない謎
 どうしても理解出来ないことがある。何故これほど周到かつ執拗に彼等はユダヤ民族を根絶やしにしようとしたのだろうか?何故これほどの労力を払ってまで、そしてこれほど組織的に冷静に、容赦ない大量殺戮を成し遂げることが出来たのだろうか?
 ヒトラーが狂っていたと言うならば言ってもいい。しかし、ヒトラー一人が提案したとて、誰も賛同せず言うことを聞かなかったなら何も出来なかったではないか。どうしてあれほどの悲劇に至るまでの道程で、誰も止めることが出来なかったのだろうか?仮にユダヤ人達に対する迫害や拷問や殺戮を上からの命令に従って始めたとしても、
「こんなことやってられない!」
とドイツ人達みんなが思えば、それがひとつの流れを生んでいっただろう。ナチの幹部達だって、
「これはあんまりだ!」
と思うこともあったのではないか?
 だったら、いつかどこかでこの愚行は止められたのではないか?どうしてそれが出来なかったのだろう?
 ドイツ人は日本人と違って「お上の言うことだから従わなければ」と無条件で従うほど従順ではないし、通常はあれほどはっきり自分の意見を持っているではないか。それに彼らは見て見ぬ振りとか、まわりに流されるとかいう生き方を、Feigling(臆病者)と呼んで、最も嫌っているではないか。
 ではやはり、これはヒトラー一人の野望ではなく、ドイツ人達の総意であったのか?彼等はそこまでユダヤ人を忌み嫌い、憎悪していたのか?そうは信じたくないが、僕には残念ながらそうとしか考えられない。でもそうだとしても何故この種族自体をこの世から根絶やしにしようとしたのか?

 ワイマール郊外のブーヘンヴァルト強制収容所跡にたたずんで、まずそうした疑問が洪水のように押し寄せてきた。このようなのどかで美しい森と田園風景の中に、わざわざこれほど大がかりな収容所を作り、わざわざ鉄道を引いて遠方からおびただしい数のユダヤ人を運び込んだのは何故?そして、彼等を管理し、暴動が起きないためにも、その数に見合うだけのSSと呼ばれるナチの親衛隊を配備し、宿舎を作ってそこに住まわせ、食料を調達し生活させるなど、こんな無駄に明け暮れていたのは何故?
 だって、これってもの凄い労力なのだ。しかも強制収容所はここひとつではないのだ。こんなことをやっている暇があったら、SS達はむしろどんどん戦争に行ったらよかった。彼等はこんな横道にそれたりせずに、どんどん戦地に行って領土を広げさえすればよかったじゃないか!勿論それだって良くはない。良くはないが、そっちの方がずっと分かり易いし勇ましいではないか。
 何故途中から彼等は、こんな非英雄的で勝利感も達成感もない、卑劣で陰惨で非生産的で無益な行為をメインの仕事とするようになってしまったのか?片方で戦争していながら、もう片方でこんなことをして意識と労力が分散したら、戦争には負けるに決まっているではないか。
 もしかしたらヒトラーは、ユダヤ人を根絶やしにしたいがために争いを起こしたのか?そして同じくドイツ人達は、実はユダヤ人さえ絶滅してくれれば、この戦争はどうなってもいいと思うようになってしまったのか?あるいはもともとそう思うような民族だったのか?

 分からない。何度考えても分からない。よく人は極悪非道な人間のことを「動物的な」とか「畜生のように」とか言う。しかし、残忍な肉食動物でも、飢えていない時には決して無益な殺生はしない。ましてや、このような組織的な大量殺戮を行うなど、高度な知性を持つ人類にして初めて考えつくことだ。
 このような深い罪を犯し得る人類を動物と比べるなんて、動物に対して失礼だ!動物はもっと純粋でひたむきで、そしてもっともっと神に近いと思う。仮に彼等に悪意のようなものがあったとしても、それは突発的で偶発的であって、決して長続きするものではない。

人類の持つ悪意こそは、永続性を持ち執拗であり、宇宙における最もおぞましいものだ。

 ブロイラーの鶏よりもひどい状態でベッドに押し込まれたユダヤ人宿舎の写真を見せられても、いやそれどころか、ブルドーザーで片付けられるうず高く積まれた死体の山や、絞首刑で吊された彼等の姿や銃殺される瞬間の姿を見せられても、不思議と僕の心は大きな感情の高ぶりに包まれたりはしなかった。むしろ僕の全ての感情は心の奥に押し込まれ、深い諦念と失望が支配し、そしてなお「何故?」という疑問のみが大きく広がっていた。

 キリストを救世主と認めず、十字架にかけたかつてのユダヤ人達は愚かで罪深かったかも知れない。でも彼らがメシアを葬ったが故に、当然の罪の報いを受け国を追われて世界中に散らばり、こうした運命に陥るのが当然だと考える者がいたら、それはキリスト教の博愛主義からは最も遠い人間だ。
 罪はどの人間にもあるのだし、キリストは罪を赦すためにこの世に来たのだ。彼は十字架上で、

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです
ルカによる福音書第23章34節
とユダヤ人のために祈っている。キリストがせっかく赦した者を人間が偉そうに裁くのか。それこそ傲慢以外の何物でもないだろう。
 第一パウロはどうだ?彼はキリスト者を激しく迫害していたのに、キリスト自身によって回心に導かれ、キリストに最も近い者となったではないか。このように神が憐れみと恩寵をあらわしているのに、人間は自分たちと違う者を差別し抑圧し排除する。その盲目さは人類が愚か故のことだが、愚か故に人類は次々と愚かな事件を引き起こしてゆく。そして益々愚かになってゆく。その連鎖は止まることがない。これこそ人類の悲惨さだ。

 今回の旅の中で僕が体験すべきであったメインの目的は、実はバイロイト音楽祭のゲネプロでも、バッハゆかりの地の巡礼でもなく、このブーヘンヴァルトであったのかも知れない。それほど強烈だった。ワイマールは僕にとって、ミュールハウゼン時代とケーテン時代とにはさまれたバッハの音楽生活の通過点でも、ゲーテやシラーの街でもなく、ブーヘンヴァルトのある街としてインプットされてしまった。でも、このことを僕は少しも残念に思うどころか、むしろ僕にとって、いつかは必ず通らなければならなかったマイルストーンであるように感じられてならない。

これ以上のコメントも自分なりの説明も今はしないでおきたい。今はただ自分の心の中で静かに繰り返すだけにしたい。ひとつの疑問を・・・・。何故ホロコーストは起きたのか?何故・・・・?何故・・・・・?


7月26日(月)アイゼナハ
 昨晩はワイマールの衝撃を抱えたままアイゼナハ入りした。アイゼナハの市門アイゼナハではバッハハウスの真ん前のホテル・アム・バッハハウスHotel am Bachhausを2泊予約していた。2泊するので中一日あるから、ここを拠点にして鉄道に乗り、アルンシュタットやミュールハウゼンなどを欲張って訪れるという選択肢もあるにはある。でも前も言ったように僕はそうした旅行を好まない。
 
 いいのだ。今回はアイゼナハだけに滞在し、アイゼナハの空気を吸い、アイゼナハを体験する。そしてゆっくりバッハを想い、バッハの何かに近づけたらと願っている。
 実際、アイゼナハという街は小さくて、建物の外側から見学ということだけだったらすぐ見終わってしまう。ホテルにチェックインした後、すぐ前のバッハハウスから見始めてルター通りを3分も歩くとルターハウスがあった。そこを通り過ぎると、バッハが洗礼を受けた洗礼盤のある聖ゲオルグ教会だ。ほらね、もう見終わってしまった。10分もかからない。

アイゼナハのバッハ像

でも旅はここから始まる。旅は外側にではなく心の内側に向かっていく。だから2泊はどうしても必要。

 僕はアイゼナハのホテルをインターネットで予約する時、最初はヴァルトブルク城の横のちょっと豪華な“お城ホテル”にしようと言ったのだが、妻はむしろ街中のこじんまりした静かなホテルが良いと言った。そこで、このホテル・アム・バッハハウスHotel am Bachhausを予約した。これは正解だった。妻の何かを探し当てる嗅覚はいつも確実だ。
 ここは一階がレストランになっている典型的な古いドイツのガストハウスGasthaus。とても素朴で、フロントには通常誰もいない。何かあったらレストランに行くと主人が給仕している。外出する時は自分で鍵を持って出るか、棚に置いていくかする。ライプチヒのノヴォテルのようにカードキーがあるわけでもないし、LANが部屋まで来ているわけでもない。でも、部屋は清潔だし、朝食は充実していてパンはおいしいし、何の不満もない。

街の標識


朝のヴァルトブルク城
 夜はぐっすり寝て、朝6時にひとりで散歩に出る。行く先は勿論ヴァルトブルク城だ。街の外れまで出てバス通りと徒歩の道とに分かれるが、僕は迷わず徒歩の道を行く。こちらの方が近道の分やや険しい。といっても五月の連休前後に登った高尾山などから比べるとどうということはない。バッハだって子供の頃何度となくこの道を歩いただろう。
 途中木の切り株に穴があって、何かが出入りしていた。見るとねずみの巣があって、ちいさいねずみがちょろちょろ行き来していた。可愛い。
そういえば、あの祝祭劇場の「ねずみローエングリン」も昨晩初日を迎えたのだな。聴衆はどんな反応をしていたのだろう? 間奏曲では、化学実験用のねずみが逃げだし、それを追いかける研究所の職員などが描かれていて、ゲネプロではみんな声を出して笑っていたけど、初日でもお客は笑ったのかな?それとも怒って出て行った人とかいるのかな?
 この合唱団員の扮するローエングリンねずみだが、テルラムントとオルトルートの怪しい陰謀の象徴として使っているのかと推測してみれば、他の所では全然関係ない感じで登場したりして、あれから毎日考えているけれど、やっぱりよく分からない。さては単なるウケねらいか?ええと・・・・なんだっけ?・・・・で、今はなんでこんなところにねずみがいるのだ?ま、いっか、そんなことはどうでも・・・・。
 散歩慣れた僕の足で上り坂を20分ほど行くと目の前にその勇壮な建物が見えてきた。おお、なつかしいヴァルトブルク城。それにこのチューリンゲンのなだらかな丘と街の眺め!バッハもこの眺めを原風景として育ったのだ。

朝霧のヴァルトブルク城と街並み


アイゼナハは・・・新町?
 散歩から帰ってきて朝食を取り、9時過ぎにホテルを出るが、妻に、
「ヴァルトブルク城には歩いて登る?」ヴァルトブルク城1
と訪ねると、上り坂は嫌だというので、ホテルの近くのバス停に行って時刻表を見る。あらら、毎時間4分に出るので今行ったばかり。一方、バッハ・ハウスは10時にならないと開かない。でもこういう時間のロスには慣れている。いいのだ。それまで街をブラブラしていれば。
 アイゼナハの街をあてどなく歩く。この街の普通さが僕には好感が持てる。どこかに似ている・・・というより、どうしてこんなになつかしいのだろうと思ったら・・・・・・そうだ、この街は規模といい雰囲気といい、まるで僕の生まれ故郷の新町のようなのだ。時間がゆっくり流れているし、街全体を包んでいる“気”は、和やかで明るい。こうした地方のなんの変哲もない小さい街に生まれたバッハは、きっとおおらかにのんびり育ったのだろうね。

 バッハの音楽は凝っていて一見とっつきにくい。同じ年に生まれたヘンデルとは全く対照的だ。国際的に活躍し、大都会に生活したヘンデルの作風があのように人なつこくて親しみやすいのは意外な気がするだろう。でもね、ある意味“人気がなければ生きてゆけない”都会の音楽事情だからこそ、ヘンデルのような作風になったように僕には感じられるのだ。勿論彼自身、もともとフレキシブルな人間だっただろうが、大都会からフレキシブルさを求められていた面もあるのではないか。
 大都会が常に芸術家の才能を正当に評価するとは限らない。大都会だから難しい音楽を理解し得るとも限らない。いやむしろ、大都会はしばしば表面的で軽薄で我が儘で移り気だ。とりたてて価値のないうわべだけのものにしばしば熱狂するかと思えば、真の才能を平気で見殺しにし、忘れ去る。モーツアルトの才能を無視したパリがそうであった。
 
 バッハは、その生涯においてずっと正当に理解されることなくきたかも知れないが、田舎街を渡り歩いたお陰で、少なくともそうした“大都会の気紛れ”に翻弄されることはなく、才能は無垢のまま温存され、その時代の寵児になるよりも後の時代にその偉大さが発見されるような“奥の深い音楽”を作ることが出来たのだ。
 彼の音楽の複雑さや、24の調性を順番にならべて平均律クラヴィーア曲集を作るなどという妙な几帳面さは、むしろこのような街に生まれ育った彼の素朴で朴訥な性格から来ているのではないか。田舎っぺの方が凝り性なんだ。そして、そうだからこそ、彼はライプチヒのような大都会の生活に最後まで馴染めなかったのではないか。ライプチヒを訪れた時に生まれた僕の疑問は、アイゼナハの街の空気に触れて確信へと変わった。この街の空気こそ、バッハの生き方や創作の全ての原点なのだ。

 さて、バッハハウスでは、ポジティヴ・オルガンやクラヴィコード、スピネットといった歴史的楽器をおねえさんが弾きながら案内してくれたり、なかなか楽しかった。ライプチヒのバッハ博物館よりずっといいな。それからバスに乗ってヴァルトブルク城に行き、身振り手振りの入ったガイドのおばさんの超素晴らしいパフォーマンスを味わい、お昼には、またまたチューリンゲン風ソーセージを丘の上のレストランで食べ、帰りは徒歩でのんびり山を下った。バッハが通った小学校
 朝の散歩とは別のルートで街に入ってふと見ると、以前加藤浩子さんの「若き日のバッハ」講演会の時に写真で見せてもらった、バッハとルターが通ったという小学校があるではないの。うーん、これも僕が通った新町小学校のような感じ。僕は、このバッハという人には田舎っぺ同士、つくづく親近感が湧きますな。
 
 そしてマルティン・ルター博物館に行った。勿論、その前にヴァルトブルク城で、ルターがかくまわれて“ドイツ語聖書の翻訳”という偉業を成し遂げた部屋を見ているので、もう心の準備はすでに出来上がっていた。
 博物館でルターの生涯を辿る。すると、僕の心にルターの精神がスーッと忍び込んできた。ルターとバッハ。二人の精神が僕の心の中で重なり合う。真面目でひたむきで木訥な二つの精神は、二百年の時を超えてひとつに結び合っているのだ。アイゼナハ。二人の巨人を育んだ素朴で偉大なる街!

ルターハウス

この旅の意味するもの
 言葉ではうまく言えないけれど、この街に2日間いたことで、ブーヘンヴァルト以来張り詰めていた僕の心がしだいに癒されていくのを感じた。僕の心は、まるで難く縛られて決して解けないのではないかと思われた結び目が、しだいに糸口を見出されて緩んでくるように、内側から解かれていった。僕の心にはある種の善良な暖かさが芽生えていた。それはバッハの子供時代の精神から来ているように感じられた。
 
 今回の旅の目的は、ブーヘンヴァルトの悲惨さを経験した後で、バッハの原点に戻ることにあったようだ。だから、最初にライプチヒを訪れ、ブーヘンヴァルトを経てアイゼナハに至るこの旅は、あらかじめ神様によって用意されたルートなのではないかと思えてならない!

 これこそが旅の醍醐味!これこそ僕が求めていた旅の姿。思いがけない出遭い。思いがけないひらめき。思いがけない見解。この旅で得たことこそ、これまでの僕に最も欠けていた要素であり、充電を要する状態であったのだ。しかし、なんという充電!
 そしてそれはまた、次なる心の旅への始まりである。ブーヘンヴァルトの問題は、前触れもなくいきなり運び込まれた引っ越しの荷物のよう。無遠慮に僕の心の部屋を占領しているだけで足の踏み場もない。これをこれからじっくり時間をかけて片付けていかなければならない。
 
 僕の人生は、まだまだ沢山の山や谷を越えなければならないようだ。“人間とは何か”という永遠に解けない問題について、僕は考え続けなければならない。今より少しだけ何かが見えてこない内は、僕はまだ死ねない!


Cafe MDR HOME  

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