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マーラー第4交響曲
 僕は今、マーラーの第4交響曲が大好きだ。今度の週末の演奏会で指揮するわけだから、今更何を言っているのかという感じだが、自分でこれほどこの曲に同化出来るとは思っていなかった。この曲って、みんなマーラーの中でどう位置づけているのだろうか?ちなみに僕はこれまで、短いしとっつきやすいなとは思っていたが、第2番「復活」ほどの精神的重みはないし、第5番ほどの整然としたたたずまいもないので、特に重要とも思っていなかった。
 ところが、深く勉強していくにつれ、第4番こそマーラーの本当に言いたいことがぎっしり詰まった最重要の曲であるという認識を持つようになってきた。これからこの曲の魅力を楽章毎に簡単に述べようと思う。

 第一楽章。「むかしむかしあるところに・・・・」で始まるのどかなお伽噺。シャンシャンシャンシャンというベルは、どことなくアルプスの牧草地でのどかに草を食む牛たちのカウベルのように響き、「これから交響曲を聴くのだ」という聴き手の心の構えをいともたやすくぬぐい去る。
 この曲は冒頭からテンポがかなり揺れる。最初にオケ練習をした時に、このテンポ・ルバートについて予想外にかなりてこずった。あれえ?いつも東フィルでプッチーニのオペラをやる時には、当たり前のように出来るのに・・・・と思いかけて、ハッと思った。このオーケストラのメンバー達は、普段コンサート用のレパートリーを演奏している人達なのだ。コンサート用レパートリーと言えば、なんといっても交響曲だ。それでね、交響曲というものは、冒頭からこのようなテンポ・ルバートを伴って始まる曲はあまりないのだ。
 一方、僕はこのテンポ・ルバートに対して全く抵抗感がない。それはどうしてなのだろう?そこでハッと思い当たった。それは・・・・この揺れは、オペラ指揮者であれば誰でも日常的に経験している揺れなのだ。特にヨハン・シュトラウスのオペレッタなどを一度でも振ったことのある指揮者だったら、このルーツをオペレッタに見るという極論すら出したくなるだろう。
 つまり、僕はオペラ指揮者という仕事を長くやっている間に、(レベルは違うが)ある意味同業者として、マーラーのオペラ的感性を理解出来るようになっていたのだ。マーラーは、この交響曲を屈託なく気楽に始めたいと思い、洒落たテンポ・ルバートを導入したわけだ。 
 この辺は、机の上で作曲だけしている専業作曲家には決して浮かばない発想だと思う。だいたい机の上だけで考えて作曲すると、どんどん構造的に突き詰めていって、マーラーのような「とっちらかった」曲造りにはならないわけよ。

 最初のどかな草原だったこの曲は、展開部に入って進んでいく内に、いつしか森の中に迷い込んでいく。あたりはしだいに暗く不気味になっていき、もはや何が出現してもおかしくない状態となる。後ろからバサバサバサと鳥が飛び立つ。視界のはずれに黒い影が動く。顔を向けると何もない。でも確実に自分の周りには“なにか”がいる!そしてついに!うわああああああ!・・・・で、目が覚める。

 あるいは別のたとえ。「むかしむかしあるところに・・・・」でお話しは始まるが、いつしか語っているお姉さんの口が耳元まで裂けて、目は血走り、
「そしておじいさんは、その川から流れてきた赤ん坊の頭を真っ二つに割って食べてしまいました!イッヒッヒッヒッヒ!」
と言うが、それは一瞬の幻影で、よく見るとお姉さんの口は耳元まで裂けたりしていないし、お話しをよく聞いてみると、
「赤ん坊をひろって大事に育てました」
と涼しい顔で言っている。
 さては、あれは夢だったかとも思ってお姉さんを見つめていると、一瞬だけお姉さんがこちらを体中の血液が凝固するようなぞっとする視線でにらみつけるが、また次の瞬間にはうるうるしたブリッ子の視線に変わって・・・・ううううう、ど、どっちが本当なんだよう!と怒鳴りたくなるような音楽です。はい。

 第2楽章。ヤバイぜ。この音楽は。もう妖怪飛びまくり。無調音楽では全然ないが、無調音楽よりもずっと攻撃的かつ挑戦的な音楽。作曲技術的には難しくはないんだよ。でも、普通の感性を持っている者には、こんな風にとても書けない。
 それが中間部に入ると突然のどかな田園音楽になる。frech(あつかましく)という言葉のついたクラリネットの音型は、結構アゴーギクをつけて強調させてもらう。その事でむしろ仲間を掻き回すKYさを表現。
 で、おしまいの方は、なんだか挑戦し続けているのにも疲れてきて、モチーフは解体し、みんなでわけ分かんなくなってきて、まるでやけっぱちのように突然中断する。

 第3楽章。この曲を今回初めて深く理解した。これは「しあわせだった世界への回想」という感じで始まるけれど、本当は、この現世にいながら、悠久なる世界を憧憬する音楽なんだ。この曲を聴いていると、僕の心の中で、この世とあの世との境界線がゆるくなってきて、意識が彼岸に行く。彼岸で響いている音楽や、遠い前世の記憶や、亡くなった人達の魂などを垣間見ることが出来る。
 いつも不思議に思うのは、どうしてマーラーにはこういう音楽が書けるのだろうかということ。どの部分のどのメロディーや和声連結の中に、彼岸を感じることが出来るのか、よく研究してみたらひとつのことだけは分かった。それは、長調と短調の境目がゆるくなると、この世の境界線もゆるくなるということだ。勿論物事はそんな単純なことでは片付けられはしないが、僕が特に強く感じる二箇所についてだけ、譜例で紹介しよう。


(音源再生はをクリック)


この部分については、僕は聴く度に必ず“彼岸の音楽”を感じる。
 この楽章の真ん中くらいでは、いつものマーラーならではの深いメランコリーが表現されているけれど、その苦悩とか痛みとかいうものは、シューマンやショパンなどの“個人的な”苦悩を離れて、まさに“人類の”苦悩にまで高められている。


(音源再生はをクリック)


そうした昇華された苦悩を表現出来る人物を僕は音楽史上にもう一人しか知らない。それは、「マタイ受難曲」を書いたヨハン・セバスチャン・バッハである。

 曲の後半。このまま静かに終わるかと思った矢先、突然オーケストラの最強音で天国の扉が開ける。ここから先は、本当にアブノーマルでインポッシブルな音楽です。そして曲はほとんどアタッカ(休みなし)で第4楽章にニュルリと滑り込んでゆく。

 第4楽章。これは拍子抜けするくらいに何の構えもなく滑り込んでいかなくてはなりませんなあ、あっはっはっはっは!ここは本当に天国なので、地上的な重みから全て解放されていなくてはならないんだ。マーラーには、この軽さがあるから素晴らしい。
 ところが、せっかく辿り着いたこの天国って何だか変だぞ。まず自分で天国にいながら、im Himmel(天国では)と何度も言うのが怪しい。それに牛をほふる聖ルカや、魚を池に追い込む聖ペテロや、料理する聖マルタなど、聖人達の行状がみんな怪しい。聖セシリア達が奏でる天人の音楽の素晴らしさは想像出来るけれど、聖ウルスラがそれを観て笑う一万一千人の若い乙女達の踊りってヤバイぜ。
 僕はソプラノの並河寿美(なみかわ ひさみ)さんに、この曲を決してきれいなだけで歌ってしまわないようお願いした。よくしゃべって、まるで無駄口をたたくように歌うのだ。どうも「なんちゃって天国」みたいだからね。

 終結部はおだやかにのどかにのんびりゆったりのほほんぽわーんと終わらなければいけない。
「あれえ?もしかしてもう終わったのかな?」
と、聴衆が拍手を忘れてくれたら大成功。

 うーん、ここまで一生懸命書いたんだけど、やっぱり言葉で書いてしまうと全然違うものになってしまうな。あのね、この曲の神髄を知りたければ、29日に名古屋の芸術文化センター・コンサートホールにおいで。僕が音楽で表現してみるからね。とみんなを誘っておきながら、僕は自分で自分にプレッシャーをかけるのだ。

 プレッシャーと言えば、この演奏会になんと僕の大親友の角皆優人(つのかい まさひと)君が来てくれるのだ。それとね、僕が座談会をしたクラシック・ジャーナルのカラヤンの特集の次の刊である「マーラーを究める」で、「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」という画期的な論文を載せた前島良雄さんと、「605のマーラー交響曲CDを聴いた!」でそれぞれの交響曲について決定版を選び出した土井尊博さんを連れてくるというのだ。ど、どうしよう!ビビルぜ。に、逃げだそうかな!

トリスタンとイゾルデ
 マーラーが、ワーグナー指揮者としてとても有名だったのは知っているかな?彼は楽劇「ニーベルングの指環」や「トリスタンとイゾルデ」を彼のレパートリーの中心に置いていたんだ。彼の交響曲の管弦楽法は、ワーグナーからの影響なしには語れない。ハイポジションのチェロをヴァイオリンよりずっと高い音域で弾かせて、独特の響きを獲得したり、複雑な内声部の動きや和声連結で陰影のある空間を作り出す手法は、ワーグナー以前には誰もやっていなかったのだから、マーラーの時代に学ぼうと思ったら、ワーグナーのスコアこそが最も良い教師だったわけだ。

 でもマーラーの取り入れなかったワーグナーの利点というものもある。それは、単独の楽器を浮き上がらせる原色主義のマーラーに対して、ワーグナーは、基本的には楽器を重ね合わせることによって中間色を描き出す天才だったということだ。特にそれは「トリスタンとイゾルデ」によって発揮されている。たとえば緑がかった青から少し赤みを帯びた色調に移り、さらに紫がかった青に移っていくというような微妙な色彩感のニュアンスはワーグナーの独壇場だ。

 「トリスタンとイゾルデ」の弦楽器パートは、おそらくワーグナーの全ての楽劇の中でも一番難しいと思う。ヴァイオリンも難しいが、特にヴィオラとチェロ・パートは演奏不可能に近い事を強要される。普通の音階からかけ離れた音型や、ソルフェージュの上級試験問題ですかと思わせる複雑なリズム、それが他のパートの無関係なリズムと同時進行する時の、あのなんともいえない、
「こ、これで合ってるのかいな?」
という不安感。

 指揮する立場からいうと、この楽劇を振るためにはもの凄いエネルギーを必要とする。たとえば第2幕第2場冒頭。二人が興奮と熱狂の内に出遭い、お互いの存在を確かめ合う時の音楽の異常さよ!これをとても冷静になんて振れないし、振ってはいけない。
 それから有名な「おお愛の夜よ降りてこい」の2重唱の、ウネウネと上昇を続け、ついにはクライマックスに辿り着こうとする瞬間の高揚感!全てが「内面で起こっている事件」なので、内的エネルギーを溜め込んでおかなければならない。
 
 「ジークフリート」や「神々の黄昏」全曲を指揮することも楽ではないが、おそらく「トリスタンとイゾルデ」よりはずっと精神的には気楽だと思う。「リング」は叙事的な作品だから。物語を追っていきながらライト・モチーフを浮き立たせ、ドラマ的に処理していけば、あとは作品が語ってくれる。でも「トリスタンとイゾルデ」はそういうわけにはいかない。この作品の内的生命を本当に理解しなければ、この曲には近づいてはいけない。

 いやあ、それでも本当に凄い作品だ。よく作ったな・・・・というより、よくこの作品は世の中に生まれたなと思う。そして、こんな娯楽でもないし、既成宗教でもないし、どこの劇場からも頼まれてもいないし、誰にも望まれていないで、お金の入ってくる宛もないのに、こんな作品の構想を練り、台本を書き、スコアを書いて、上演を可能にしたワーグナーという人物は、完全なる狂人か大天才かどちらかですなあ。ま、後者なんだけどね。だって、果てしないことだよ。気が遠くなる作業だよ。おまけにそれが「ニーベルングの指環」の創作の途中だというんだからね。

 この頃のワーグナーというのは、リングは当然世の中には出ていないので、「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」、あるいはそれ以前の「リエンツィ」くらいしか世の中に出ていないわけだ。だからワーグナー自身の自分の才能に対する自信と、世の中の彼に対する評価との間には相当の差があったわけだ。リストなどは、彼のことをとても評価していたが、それでもワーグナーが「トリスタンとイゾルデ」以降の作品を生み出し得る天才であるかどうかは分からなかったに違いない。おそらく誰にも予想不可能であったろう。
 だからこの頃のワーグナーは孤独で苦しかっただろうな。いやいや、もしかしたらマチルデ・ヴェーゼンドンクに夢中になっていたり、自己の才能に酔っていたので、現在の境遇や将来について憂慮するどころか、案外「なんとかなるさ」とお気楽に暮らしていたのかも知れない。そのくらいではないと天才はやっていけないだろう。

 8月22日の日曜日は、トリスタンの成田勝美(なりた かつみ)さんとイゾルデの並河寿美(なみかわ ひさみ)さん、それにブランゲーネの三輪陽子(みわ ようこ)さんとクルヴェナールの初鹿野剛(はつかの たけし)さんといったソリスト陣が勢揃いして、オケ合わせを行った。
 やはりマーラー・プロジェクトのメンバーにとっても、歌が入るとテンションがググッと上がる。自分たちが演奏している箇所に、まるでジグソ・パズルの抜けたブロックをはめ込むように歌唱の声部がはまると、全てがあるべきところに納まった充実感を覚えるものだ。このソリスト達はみな充実してまっせ!

 イゾルデの「愛の死」は、管弦楽だけでも演奏可能だが、こうやって並河さんの歌唱が入ると、やはり歌入りでなければやってはいけないような気がしてくる。それにしても、マーラーが彼岸の音楽なら、「トリスタンとイゾルデ」の終曲は、まさに涅槃の音楽だ。
 これを涅槃と言ってしまうと、まず仏教関係の人達から怒られそうだし、さらにキリスト教関係の人達からは、そもそも僕がこうした仏教用語を使うことすら言語道断と激しく糾弾されるような気がする。でもね、言っておきますが、「トリスタンとイゾルデ」の音楽は、そもそも愛欲などという俗っぽく狭い領域の音楽ではありませんぞ!「トリスタンとイゾルデ」が愛欲の音楽なんてとんでもない!性愛の音楽ではあるけれど・・・・。何?どこが違うかって?分かってないな、みんな。では説明するからよく聞いてね。

性愛とは、つまりは他者と究極的に関わりたいという欲求と、遊戯の精神とが凝縮された究極の姿なのだ。それこそは、宇宙を貫く創造の根本的なエネルギーなのだ!

 我々人間は他者と関わることを運命付けられている。だから他者を殺したり騙したり傷つけたりすることは悪いことだと教わる。もし、他者がいないで南海の孤島にひとりで住んでいたら、我々に善行とか悪行とかが存在するのだろうか?全ては他者との関係の中で起こり得ることなのではないだろうか?
 そのように他者と関係を結び、その中で社会というものを形成し生活を営むことを運命付けられているのが人間存在であり、そうした人間の、他者と関わりたいと望む欲求こそ、我々が「愛」と呼んでいるものなのだ。

 もうひとつの要素は“遊戯”だ。「たわむれせんとや生まれけん」という言葉があったが、人生とはとどのつまりは遊びなのだ。こう言うと、ふざけるな!真面目に生きているのに!と怒られそうだが、僕は真面目に言っている。人生は遊びなのだ。神様がこの世を作ったのも遊び心からだし、きりんやパンダやふんころがしやウーパールーパーを作ったのも神様の戯れ心から。この世の中で最も素晴らしい遊びを考え出し表現した者を、我々は芸術家と呼び天才と呼ぶ。

そんなわけで性愛と神の遊び心とは実はもの凄く近いところにあるのだ。

 僕の最も尊敬する聖フランシスコは、悟る前には享楽的な生活を送っていたという。釈迦だってそうだ。人生に何の欲求も感じないような真面目一本な人間には、過ちも訪れない代わりに悟りなども訪れはしない。人生に対して貪欲な人間こそが大きな覚醒に辿り着く。それこそが遊戯の精神。これが神の創造の秘密なのだ。
 とはいえ・・・・性愛に身を任せるならば誰でも悟ることが出来るかというと、これは全く違います!勘違いしないでね。

 で、「トリスタンとイゾルデ」に話を戻すと・・・・ワーグナーの天才は、本来法の悦楽と書く法悦が、性愛ときわめて近いところにあることを無意識に探し当てたのだ。涅槃は、この世において、全ての他者との関わりを捨て、全ての遊戯を否定したあとにやってくる虚無の世界ではなく、憧憬と精神の限りない充満と圧倒的な愉悦感を伴って訪れるものであると、「愛の死」終結部のロ長調を聴きながら、神が僕に語っているように感じられる。この全てを解脱した圧倒的な響きの洪水の中で、僕は指揮しながら気を失いそうになるのだ。 
 イゾルデの声部なしでもその法悦感は味わえるが、ヴァイオリンで愛撫するように繰り返されるCis H Ais Gis Gis Fisの音型にからむイゾルデの最後のHochste Lust(最高の歓び~Lustは官能、快楽とも訳される)のHからFisの伸ばしを聞くと、もう鳥肌が立って体が身震いしますな。すごく乱暴な言い方を許していただけるならば、官能美と宗教的法悦とを同時に味わえるのがワーグナーのワーグナーたるゆえんなので、ワグネリアンとは、敬虔でありながら本当はエッチな人のことです。うふふ。

 これから本番まで、マーラーとワーグナーにどっぷり漬かって暮らします。マーラーおたくとワグネリアンのみなさん!8月29日の日曜日の16時に、愛知県芸術劇場コンサートホールに全員集合してください。
Cafe MDR HOME  


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