大野和士と飯守泰次郎

今日この頃
 水泳に行きたいのだが、先先週の土曜日に朝霞のわくわくどーむに行った後、立川の柴崎体育館に二度ほど行ったのを最後に、ひとまず中断した。理由は、この週末、教会でのクリスマス・オラトリオ演奏会でスピーチをしたためと、NHKの録音が7日の火曜日から始まるため。
 え?何故、それで水泳をやめるのかって?それはね、以前のように水泳をして体調を崩すことはなくなったものの、やはり塩素アレルギーが出て、声だけはどうしてもその数日後まで鼻声になってしまうからなのだ。だから声を使う機会がある前にはやめておくのが無難なのだ。とても残念!あんなに楽しいのに・・・・。
 そうなると運動量が少なくなってしまうので、自転車に乗りたいところなのだが、これも先週は天気が崩れていたせいで、なかなか難しかった。自転車に乗って初台に行くためには、いくつかの条件が整わなければならない。

①まず確実に一日中晴れていること
②仕事場が変わらないこと
③荷物が少ないこと

 運動量が少なくなると体が楽になると思うでしょう。でも、僕の場合はその逆である。特に、朝から雨が降っていてお散歩も出来ない状態が何日も続くと、まず体が重くなってきて、かえって疲れやすくなってくる。そして水泳したり自転車に乗ったりする意欲が減退し、それどころかなるべく休みたいと思うようになってくる。体って、限りなく怠惰に流れるものなんだ。
 休みたいと思う時って、本当に疲れがたまっている場合もあるが、たいていはその逆だ。そんな時こそ栄養過多ないしは運動不足の可能性が高い。だから栄養ドリンクなど飲んでも駄目。むしろ運動をして体を活性化させることにより、もっと動きたいなというアクティブな状態に保っておいた方がいい。

 NHKの録音は12月20日過ぎにまでずれ込む可能性が高いので、つまりはそれまで泳ぐことは出来ないだろうな。淋しい。録音が終わったら一度ぶっ倒れるまで泳ぎに行こうか。ま、それまで出来ることといったら自転車だな。自転車も、今のうちにどんどん行っておかないと、真冬はやっぱり行きづらい。運動によって体の中で極端に熱くなってしまう部分と、外気に当たって極端に冷たくなってしまう部分とが出来て、具合が悪いのだ。それと信号で止まると、汗をかいたところがグーッと冷える。運動するのもいろいろ楽ではない。

 NHKの原稿作りは、思ったよりはかどっている。でも、いくらワーグナーが好きといっても、のべつまくなしワーグナーの楽劇を聴くのは、正直言ってなかなか大変だ。この原稿を書いている時点では、「ジークフリート」の原稿が仕上がってNHKにすでに送り、「神々のたそがれ」の原稿も95パーセント仕上がっていて、送るばかりになっている。送ってきたCDは、順次i-Podに取り入れて、朝の散歩から始まり、いろんなところで聴いている。BOSEのノイズキャンセリングのヘッド・フォンに全面依存。これがなかったら、通常業務の多忙な日々の間を縫って時間を捻出することなど決して出来なかった。
 現在「ローエングリン」の第2幕まで聴いたところ。まだ「マイスタージンガー」と「パルジファル」は全く手つかず。
 仕上がるメドは、なんとなく立ってきたが、その間、健康を維持し、順調に仕事が進むことが条件。でもねえ、世の中突発的に何が飛び込んでくるか分からないからね。現にこのNHKの仕事だって飛び込んできたんだから。油断は禁物。録音が全て無事終了したら、本当に人生ハッピー!
 そうしたら、お祝いに年末、群馬に帰った時に、長女の志保と一緒にガーラ湯沢か石打あたりにスキーに行こうと約束している。まだ板と靴はないのでレンタルだけどね。ウエアーだけは先日Chiemseeの素晴らしいのを買ったからあるんだ。でも・・・・1月に白馬に行くまで汚したくないなあ・・・・なんちゃって、まるで気に入った傘を買ったから雨が降って濡れたら嫌だなあというのと一緒だね。

 僕はつくづく思うのだが、自分って本当に楽天的な人間だ。大変なことがあるとね、その後に何か楽しいことを設定して、それを楽しみに生きることが出来るんだ。その後にもまだ果てしなく大変な日々が、まるでディズニーランドの乗り物を待つ人達のように列を成して待っているというのに、これではまるでミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる掃除人ベッポだな。
 つまり、果てしなく掃除すると思うと嫌気がさしてしまうので、一歩先の道路しか見えないように脳がコントロールされているらしい。

大野和士と飯守泰次郎
 面白いな、この二人はタイプが全然違うが、ある点で共通している。それは、やろうと思えばもっと明快に分かり易く指揮出来るに違いないのに、わざとやらないということだ。彼等くらいテクニックがあれば、そう望めばみんなが惚れ惚れするくらい「全てを振ってしまう」ことが出来る。
 でも、そうすると、オケや合唱団にとっては、もうその通りにやるしか他に道がなくなる。何も考えなくて楽だが、どんどん受け身になってしまい、自発的なイマジネーションが生まれる余地がなくなる。
 振っている本人にとっても、自分のアイデア以外のものが偶発的に生まれる可能性がなくなる。初めての場合はいいが、同じ曲を何度もやると、いつも判で押したように同じものしか出て来ないので、自分の中をどうどう巡りするばかりで、自分で自分に飽きてしまう。

 彼等は音楽に“神話”を求めている。“曰く言い難しという魔物”を期待しているのだと思う。だからあえてはっきり振らない。そして、自分が今向かい合っている媒体(オケや合唱団)とのコラボレーションで、予測もつかないようなハプニングが起きるのを期待している。それでいて、それによって生まれるリスクを受け止めるだけの器が彼等にはある。それが証拠に、本当にズレる時には、瞬間的に見事なさばきで修正するテクニックを見せる。そして次の瞬間には、もう何事もなかったかのように、いつもの棒に戻る。

 彼等の練習時の注意は、時に抽象的で、演奏者を煙に巻くようなことを言う。そんな時は、その言っている言葉言葉にそのまま反応して、
「非論理的!」
なんて思ってはいけない。音楽家の言葉というものは、熱に浮かされた詩人が即興的につぶやく詩のようなもの。言っている本人だって、それが合理的だなんて思っちゃいない。もしかしたら、自分で自分が何を言っているのか分かっていないかも知れない。
そんな時は、
「要するに我々に神話や魔物を求めているんだな」
と思って耳を傾けるのが正しい聞き方。

 勿論、分かりにくく振っている指揮者が、分かりにくいから全員良いわけではないし、練習中の注意というものが禅問答のようなものほど良いわけではない。見かけ倒しやハッタリかましの指揮者も同じくらい多い。困ったものだ。では、その違いをどう見極めるか?
 そのためには、振っている指揮者の手の先や棒の先を見てはいけない。目を細めて体全体を見るべきなのだ。そうすると、その指揮者の全身から音楽が溢れているかそうでないかが分かってくる。もし出来るならば、彼等から発するオーラだけを見つめる。そうすれば、その指揮者にどれだけの真実が宿っているか、どれだけ偉大なのかがたちどころにわかる。星の王子様ではないが、
「大事なことは、肉の眼では見えないのだ」。

 大野和士氏は、新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」公演のためのマエストロ稽古。飯守泰次郎氏は、読売日本交響楽団の昭和女子大人見記念講堂における第九演奏会のマエストロ稽古。この二人には何かがある。

共に名演となる予感・・・ふたつの神話が生まれるか・・・・?

ワグネリアンという狂気
 ワーグナーの楽劇を聴きまくっている僕の毎日を「今日この頃」を読んで知っている人達は、僕に対して様々なコメントをくれる。その中で面白い例があったのでここに紹介したい。

 東大コールアカデミー定期演奏会が近づいている。僕はその演奏会で、OB合唱団であるアカデミカ・コールと現役の合同ステージを指揮するが、その練習後に、反省会と称する・・・まあ、つまりは飲み会ですな・・・所に行って一緒に飲んでいた時の話。

 団内指揮者であるK氏は、現役時代のある時、仲間を集めて「ワーグナーの楽劇全作品連続鑑賞会」なるものを企画したという。全曲といっても当時まだ「リエンツィ」以前はリリースされていなかったので、「さまよえるオランダ人」から始まって「タンホイザー」「ローエングリン」と続き、「ニーベルングの指環」四部作と「トリスタンとイゾルデ」「マイスタージンガー」、そして「パルジファル」までの10作品ということになる。 これをK氏の家で、なんと「寝ずに!」、幕間の休みと作品毎の休みをそれぞれ取るだけで、ほとんどぶっ続けで聴き通したそうなのだ。五十何時間とか言っていたな。その間に、熱を出す者、気が狂いそうになって落後する者など出たが、大半は終わりまで聴いたそうだ。

 な・・・なんという無謀な試み。常識ある者ならば、こう言うだろう。
「そんな聴き方になんの意味があるのか?」
と。
しかしながら、こんなことを企画させてしまうのがワーグナーのワーグナーたるゆえんなのだな。ちなみに「ヴェルディ全作品」とか「モーツァルト全作品」とか、あまり思わないだろう。「ロッシーニ全作品」や「ドニゼッティ全作品」などは誰も決して試みないだろう。何故、ワーグナーだけは、こんな風に人を狂気に誘うのだろう。

「山があるから、そこに登るのだ」
というアルピニストの言葉ではないが、あの「神々のたそがれ」「マイスタージンガー」「パルジファル」などの異常な長さをもった作品があると、それに挑戦してみたい欲望にかられるのかも知れない。
 それに作品の難解さや、テーマの深淵さなどが拍車をかける。それには、一回聴いたらみんな分かってしまうような「ロッシーニ」「ドニゼッティ」では駄目なのだ。難解といったって、リヒャルト・シュトラウスでも駄目なのだ。どうしたって、ワーグナーの精神性や宗教性や哲学性が必要不可欠なのだ。だから、そんなことする気にさせるのはワーグナーだけなのだ。そして、そんなことする気になるアホは、男だけなのだ。
 それにしても、かつての東大生って、アホを通り越して、ロマンチストだよな・・・・僕は、結構その話を聞いて感動してしまったよ。今の大学生にそんなことする気概があるか!いや、まあ、別にそんな馬鹿馬鹿しいこと、しなくっていいんだけどね。

 でも、もしかしたらバイロイト詣でをする人達の半数くらいが、そうしたモチベーションに近いものを持っているのかなとも思う。でなきゃ、あんなところまで世界中から駆けつけやしねえや。ワーグナーの楽劇を聴くのって、嫌いな人にとっては拷問のようなものだろう。

 僕も、最初にフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」のレコードを買って聴いた時は、最初背筋を伸ばして聴いていたのが、だんだんダラリとなり、気が付いてみると仰向けになって対訳を頭の上にかざしていた。それもある時顔の上にバサッと落ちてきて、「おお、ヤベエ!」
と思って再び起き上がって背筋を伸ばして・・・そしてまた・・・・の繰り返しだったが、我慢して最後まで聴いた。

そして最後の和音が終わった時に、えもいわれぬ達成感を胸に、ひとりでほくそ笑んだのを今でもはっきり覚えている。

ね・・・馬鹿でしょう、ワグネリアンって。

ミニ・クリオラ無事終了
 こういう演奏会がやりたかったのだ。大きな演奏会場ではなくて、こじんまりとした教会という空間。聴衆の息吹が感じられるその近さ。そこで演奏者が問われるものは、大劇場とは全く違ったもの。
 伴奏はオルガン一台だから音量は必ずしも要らないが、美しい発声や言葉のニュアンスがどこまで表現出来るか?そして僕たち演奏する者は、聴衆に何を伝え、聴衆と何を分かち合うべきなのだろうか・・・・?こう考えると、演奏会の規模は小さくてもハードルは決して低くはない。

 東京バロック・スコラ―ズでは、いつしかこのプロジェクトをミニ・クリオラと呼んでいた。なんとなく可愛い名前。つまり、クリスマス・オラトリオの中から抜粋して曲を構成し、語りをはさみながらオルガン伴奏で演奏していく。ソリストは団内からの選抜メンバー。さらに歌詞をプロジェクターで映し出し、みんなに徹底的に内容を理解してもらおうという企画だ。抜粋曲の構成は流動的なので、来年やるとしたらまた別の曲構成になるかも知れないが、今回は、特に羊飼い達と東方の三人の博士達に焦点を合わせ、スピーチの原稿もそれに沿って作成した。

 ある時、新国立劇場合唱団のメンバーであるテノールの阿瀬見貴光(あせみ たかみつ)君が、「トリスタンとイゾルデ」の練習の時に僕の所に来て、
「三澤さん、上尾の合同教会にいらして下さるそうで、ようこそ!」
と言う。
「どうして知っているの?」
と訊いたら、
「うちら家族が通っている教会で、子供がその教会の幼稚園に通っているんです。教会の行事予定の中に三澤さんの名前が入っているのでびっくりしました」
だって。
 阿瀬見君が上尾に住んでいることは知っていたけれど、世の中狭いね。彼は「カルメン」の公演後、バイクで交通事故に遭って左足を複雑骨折した。でも回復は思いの外早く、もうしっかり歩いて新国立劇場に通っているし、外でもどんどん仕事している。

 そういうわけで12月4日の土曜日は上尾合同教会。ゆったりとした敷地内に、教会と幼稚園が入っていて、日当たりもよく、昼食を食べた後の控え室ではお昼寝したくなってしまった。牧師さんも意欲的で、とても感じよく、こちらが癒された感じ。

 5日の日曜日は聖公会の大宮聖愛教会。こちらは、志木第九の会などの知り合いが沢山来てくれて、満員になってしまった。ツタの絡まる素敵な教会。「ゴースト」という映画の結婚式シーンのロケにも使われたという。昨年入れたというパイプオルガンの響きは、柔らかくて素敵で、僕の想像していた教会での演奏会というイメージにピッタリだった。

 こうした教会でのバッハ演奏を、僕はひとつの原点としたいと昔から思っていたのだ。昨年の大規模なクリスマス・オラトリオ全曲演奏会は、実はこの企画を行うためのレパートリー作りの意味もあった。この企画は、僕が東京バロック・スコラーズを創設した時からの願望だったのである。
 トップ・クラスのオーケストラとソリストと共にクォリティを追求し、大ホールで行う定期演奏会と並んで、こういう活動を東京バロック・スコラーズの両輪としたい。

 ミニ・クリオラは、これから年末の恒例の行事になります。みなさんの中で、うちの教会に来て欲しいなと思う人は連絡下さい。ほとんど手弁当でやっているので、費用はかかりません。って、ゆーか、勝手に押しかけて行って、勝手に演奏します。必要とあらば、勝手に聴衆も動員します。
 いえいえ、怪しい団体ではありません。勝手に家に来て料理を作ってくれて、後で高価な鍋を売りつけるような悪徳業者とは違います。何も押し売りはしませんよ。無心でやってるんです。ただのルーティンとなっている年末第九に対抗して、年末クリオラを流行らそうと、クリオラ布教のためです・・・・いや、違うなあ、そんな大それた事も考えてはいないんです。ただ演奏したいんです・・・・あ、ちょっと・・・気味悪がらないで・・・逃げないでよ・・・ちょっと・・・・あなたの教会でクリオラやらせてーーーーー!

Cafe MDR HOME  

当ホ-ムペ-ジに掲載された記事、写真、イラスト等の無断転載を禁じます。
Copyright ©  2004-2010 HIROFUMI MISAWA All rights reserved.