ロ短調ミサ曲演奏会大成功のわけ
 いつものことであるが、最近は特に演奏会が終わるのが残念だ。終曲のDona Nobis Pacemの最後のフェルマータを切る瞬間、
「ああ、このひとときがもう終わってしまう!」
と切ないような気持ちになってしまう。それほど演奏会で指揮するのが楽しい。

 体重が軽くなってから、体も気持ちも以前よりずっと身軽だ。おまけに自転車に乗ったり泳いだりスキーをしたりしているだろう。そうすると、演奏会で指揮することなど運動量的にはなんでもないのだ。これでも減量するまでは、
「ああ、しんどいなあ」
と思いながら指揮していたのだ。その肉体的しんどさが全くなくなると、後に残るのは指揮をしているという爽快感と、そして音楽に没頭する楽しさのみなのだ。これをまるごと味わえるんだぜ。もうたまんないね。

 この演奏会が成功裏に終わった一番大きな原因のひとつに、僕が超元気であるということが挙げられるような気がする。

究極の暗譜~譜面を脳裏から消す
 数えてみたらバッハ作曲ロ短調ミサ曲を指揮するのはこれで8回目。その全てをこれまで暗譜で振ってきたから、もう頭の中にはほぼ完璧にスコアが描ける。いや、ここまでくるとスコアからも離れているんだ。頭の中でスコアのページをめくっているのだが、それもだんだん面倒くさくなってくる。そこでゲネプロでは、思い切ってスコアをイメージするのをやめてみた。どうなるのかな?
 でも僕は皮膚感覚で音楽を覚えている。次にどの楽器がどう入ってきて、どのテーマがどのように展開していくのか、まるでインプロヴィゼーションしているように、音楽が自分自身の中から立ち上がってくるのだ。これは初めての体験だ。これだけ回数を重ねて初めて到達できる究極の自由感だ!

スピード感と叙情性
 すみません!自画自賛するのを許して下さい。自分で言うのもなんだけど、客観的に見て指揮者として自分の作る音楽は、今は自分の人生の中でも一番いいと思う。何が良いかというと、アレグロのスピード感とゆっくりな曲の叙情性との両方が充実している。その両方に対する感性がこれまでの生涯の中で最も研ぎ澄まされているのだ。おお、よく言うね、自分のことをそこまで・・・。だって本当だもの。

 バッハの場合、スピード感のある演奏をする人は、ともすると叙情性に欠け、反対に叙情的に演奏する人は、重苦しく軽やかさに欠けるきらいがある。最近のオリジナル楽器の奏者達の演奏は、僕には道をなるべく高速で進んで目的地に早く到達したがっているように見えてならない。
 でも、バッハの音楽は、スピード感と同じくらい、カンタービレの要素に充ち満ちているのだ。たちどまって見れば、いたるところに美しいお花畑が広がっているのに・・・・。そのお花畑を作って僕たちが楽しむようにそこに置いてくれているのもバッハ自身なのだ。

ファゴットのカンタービレ!
 たとえばGloriaのQuoniam tu solus sanctusのファゴットのパートは、器楽的に処理してしまうだけではつまらない。僕は、オーケストラのファゴット奏者にカンタービレをけしかける。彼等は最初半信半疑だったが、バッハの一見幾何学的な譜面の中に潜むカンタービレな要素に目覚め、本番前日のリハから見違えるように良くなった。本番ではホルン奏者と相まって目の覚めるような演奏を行ってくれた。この二人のファゴット奏者には最大限の賛辞を送りたい。

かなめは骨盤!
 そしてそれと対照的にGloriaのCum Sancto Spirituや、SanctusのPleni sunt coeliやOsannna in excelsisでは、もう完全にイケイケの超特急の楽しみが広がる。これはね、何度も言っているけれど、スキーで急斜面を駆け下りる時のあのスリルに満ちた瞬間だ。
 またまた自画自賛するけど、今回の僕のこうしたスピード感に満ちた音楽を指揮するスタイルは、恐らく指揮のフォームとしては理想的なものだったと思う。指揮を勉強する人には是非見てもらいたかった。自分で振っていても全ての運動にロスがなく、やりたいことがストレートに奏者達に伝わった。

 ここでみなさんに一番大切なことを教える。これは角皆優人君から教わったのだが、骨盤の位置が大切なのだ。東洋人は特にそうなのだが、人間が楽にしている時というのは骨盤が前傾している。そうすると自動的に背骨が曲がる。ところが、あらゆるスポーツで、背骨が曲がって良いというフォームを持つスポーツは恐らくひとつもない。スポーツでは常に背筋を伸ばすフォームが基本だ。
 でも、それは本当は背筋の問題ではなくて、骨盤の問題なのだ。「骨盤を立てる」あるいは「骨盤を起こす」ということがむしろ目標であり、そのことによって背筋は自然に伸びるし、あらゆる運動に対応出来るアクティブな姿勢が獲得できるのだ。
 スキーの基本姿勢も同じ。急斜面になると膝も曲げるし、かなり前傾姿勢になるけれど、そんな時でも決して骨盤を前傾させてはいけない。常に骨盤を立てていれば、どんなに前傾しても美しいフォームを保てる。このことは百パーセント指揮をする姿勢にも当てはめられるのだ。

ベストメンバー
 ソプラノの飯田みち代さんとアルトの三輪陽子さんのChriste eleisonやEt in unum Dominumの水も漏らさぬアンサンブルは、彼女たちが日常生活でも大の仲良しであることがもたらした自然の姿なのだろうな。全然性格の違う二人だが、どこかトンでるという意味ではよく似ている。
 その飯田さんが畑儀文(はた よしふみ)さんと一緒に歌ったDomine Deusが圧巻だった。そのわけは、畑さんの音符の処理の仕方が、バロック演奏の本道を行くものであり、その畑さんのリードによって、飯田さんの歌にキリリとしたたたずまいが生まれたのだ。リードした畑さんも凄いが、即座に新しい要素を取り込んでいく飯田さんの感性が見事だと思った。
 塩入功司(しおいり こうじ)君のアリアは、先ほど触れたQuoniamのホルンとファゴットあるいはEt in Spiritum Sanctum Dominumの2本のオーボエ・ダモーレなどの器楽ソロとのアンサンブルが絶妙だった。塩入君は新国立劇場合唱団のメンバーなので、アンサンブルに対する感性がある。彼はそれまでオペラばかり歌っていたが、僕が東京バロック・スコラーズのロ短調ミサ曲でバッハの世界に引きずり込んだのがきっかけで、鈴木雅明さんのオーディションを受け、バッハ・コレギウム・ジャパンなどでも歌っている。こんな風に、バッハの音楽にふさわしい人材を発掘するのも僕の楽しみのひとつ。
 それにしてもBenedictusの畑さんの歌は心に染みたね。この曲はとても高いので歌うだけでも難しいが、ここまで聴かせるうたはテクニックだけでは決して到達できない。まさに心のこもった絶唱でした。

 その他、この演奏会のためにわざわざ僕が指名したトランペット奏者松野美樹(まつの はるき)さんも、期待通りの名演奏を繰り広げてくれた。その松野さんが連れてきた第3番トランペット奏者は、長女の志保の大の仲良しで、パリで一緒に勉強した仲なのだ。志保も今は二期会でピアニストとして仕事しているが、こんな風に娘の友人と仕事場で一緒というのも何か感慨深いものがある。

Bravi, Coro !
モーツァルト200合唱団のみなさん!本当にご苦労様。バッハの語法に慣れていないので、最初はかなり苦労しましたが、よくここまで来たね。一週間前の合唱練習で、ようやくみんなの表情がノリノリになってきたので、これはイケると思ったけれど、本番では思った以上にハジケていながらしかもまとまって、奇跡的な演奏会となった。
指導してくれた河辺泰宏(かわべ やすひろ)さんは一番苦労を背負い込んだ張本人だと思うけれど、いろいろが報われたと思います。本当にありがとう!

いやあ、ロ短調ミサ曲って本当に良い曲だね。しかも「マタイ受難曲」のように内容的にシビアで重いというのではないので、出来ればまた明日にでも演奏したい。毎日でもいい。僕って本当にロ短調が大好きなんだ!

今日この頃
先週の新国立劇場では、ヴェルディ作曲「椿姫」の立ち稽古が進む中、プッチーニ作曲「マノン・レスコー」の合唱音楽稽古と、チョン・ミョンフン指揮によるNHK交響楽団定期演奏会「マーラー作曲交響曲第3番」の女声合唱練習に明け暮れた。

「椿姫」は、新国立劇場合唱団にとっては何度目かの再演なので、立ち稽古の回数は少ない。でも合唱団員の中には当然「椿姫」全曲は初めてという新人がいるわけで、彼等にとっては初演よりも再演の方が恐ろしいのだ。
「はい、みなさん当然分かっていますよね。有名なオペラだしね。では、先に行きましょう!」
と言われてもとまどうばかりである。どんなベテランでも「はじめて」というものはあるのです。一方で、もう何度もやっている人は、あまりしつこく練習すると退屈になってしまう。その兼ね合いが難しい。なので全員稽古が終了した後、新人だけ残して丁寧に稽古をしたり、いろいろやり方を工夫する。

立ち稽古に行くと、広上淳一(ひろかみ じゅんいち)さんがエネルギッシュに指揮していた。彼は、自分のアイデアはしっかり持っているものの、稽古場で場面や演技を見ながら、テンポも解釈も修正していく。その柔軟さがいい。というか、オペラには必要だ。
指揮者は、ともすると自分のアイデアがブレるのを奏者に見透かされて馬鹿にされたらいけないと思いがちだ。でも、オペラでは、演出意図や個々の歌手達の演技やリアクションと音楽が密接に関わり合っているので、指揮者があまりにも自分の主張だけ押しつけると、音楽とシーンとがギクシャクとなって困ることが起きる。
優れた指揮者であれば、オペラが「振れない」ということはないが、こうした発想の転換とフレキシブルな感性が、コンサートとオペラを両方こなす時には必要なのだ。そういう意味では、広上さんの資質はオペラに向いているといえる。これで、出来上がった時にどういうドラマが構築されるのか、とても楽しみになってきた。

今回の外国人の主役三人はみんなそれぞれの個性があって面白い。アルフレード役の韓国人歌手ウーキュン・キムは、顔が朝青龍にそっくりだ。本人もそれを分かっていて、わざとシコを踏んだりしてみんなを笑わせている。ところがそのお茶目な性格から想像も出来ないくらい美しい声を持っている。天性の美声だ!韓国人歌手にありがちなパワーで押していくタイプではなく、柔らかくフレキシブルでフレーズ感も伸びやか。現在ドイツの歌劇場で大活躍だというが、彼の歌を聴くだけでもこの公演に足を運ぶ価値がある。
また、いつも新国立劇場に来る時は悪役専門のルチオ・ガッロが、今回は保守的なお父さんのジェルモン役。ガッロの風貌をそのまま見ると、とても、
「あなたのような女性とうちの息子が付き合っていると分かったら、彼の妹の縁談に差し支えるので、息子と別れてやってください」
などというセリフを発するとは思えず、むしろ、
「あんなダセえ息子と付き合うのはやめて、俺の女になれ!」
とヴィオレッタを押し倒しそうに見えるが、どうしてどうして、なかなか独特の味を出して見事に演じている。
ヴィオレッタのパトリツィア・チョーフィも、チャーミングで確実な歌唱と演技。今週は舞台稽古に入っていき、14日月曜日にはもう初日を迎える。

 それに先立つこと11日金曜日と12日土曜日は、マーラー作曲交響曲第3番の演奏会。この曲といえば、昨年11月にマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団でやったばかり。前回は45人の女声合唱で行ったが、今回は5人増えて50人。ところがこのわずか5人の差は案外大きいのだよ。音量の問題ではなく、サウンド作りの問題。1人1人が頑張って歌わなくてもよいというのは、ハーモニーを形成する場合、実に重要な要素なのだ。
 ちなみに僕は、マーラーの全ての交響曲の中でこの曲は一番好きかも知れない。マーラーの人生観が凝縮されて表現されている。特に女声合唱が歌う第5楽章では、第4交響曲と同様、なんちゃって天国が表現されているが、このなんちゃって天国は、案外物事の真実の姿を突いているのだ。たとえば、
「自分は十戒を破りました。ただ泣くしかありません」
という人に対して、
「ふむ、十戒を破ったんだって?それじゃあ、跪いて神様に祈りなさい。そうすればしあわせになれるよ」
とノーテンキに答えるのだが、すぐその後で、
「イエス様を通して全ての人がしあわせになるように」
と説かれる。
 ここでは、罪の中にいつまでも沈み込んでいるのではなく、しあわせになる方法を探しなさいということが語られている。人間はこの世に生まれて、しあわせになる権利と・・・・そして義務を負っている。何故しあわせになることが義務なのか?それは、人は自分が満たされていないのに他人の幸福を心から願うことは難しいからだ。自分がしあわせになれば他人にも優しく接することが出来る。そうして人から人へのしあわせの連鎖が始まる。だから1人の人間がしあわせになるということは、オーバーに言えば世界を変える力を持っているのだ。
そんなことが語られる第5楽章の後で、あの究極の幸福感である第6楽章がくる。その時の感動!いやあ、やっぱりマーラーはいいですな。

一方、プッチーニ作曲の「マノン・レスコー」は、もっともっと頻繁に上演されてもいい作品。若い時の作品でワーグナーの影響を色濃く受けているといわれているが、和声法やフレーズ感覚はプッチーニ独自の世界を持っている。
合唱は大活躍するのだが、それだけに量も多く、音楽的にはちょっと不規則で複雑なので暗譜が大変そうだった。先週末までに覚え稽古をして暗譜がほぼ完了。立ち稽古が始まるのはまだちょっと先だが、どういう舞台が出来るのかとても楽しみだ。


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