初日を迎えるイル・トロヴァトーレ

おひさま
 NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」が終わった。イタリア研修から帰ったら、妻や長女の志保がすっかりハマッていて真剣に見ているので驚いた。僕は3月31日に日本を発ち、6月18日に帰国したので、その間の出来事は全く知らないのだ。
 ドラマはちょうど戦争中で、「お国のために」と教える教師陽子の一生懸命な姿が映し出されていた。それから、戦争が終わり、夫が帰ってきて一歩一歩幸せな家庭を築いてゆく様が描かれてゆく。戦後から最終回までは基本的にほのぼのとしているばかりで、ちょっと物足りない気がしたが、まあ、これから一日を始めるという時には、あまりドロドロしているよりもこのくらいがいいのかも知れないとも思った。

 一番痛々しく胸を打ったのは、戦争が終わって価値観が一転し、陽子が生徒達に戦中から使っていた教科書の文章を墨で塗りつぶすよう指示する場面であった。あの時消されたのは、教科書の「不適切な文章」だけではなく、日本人としての誇りであり尊厳であり、「何を信じて生きていけばいいのか」という価値の拠り所であり、宗教心であり、倫理観であった。それを直接生徒達に向き合って指導した教師達の心中はいかばかりであったろう。
 「おひさま」を見ていて思った。その苦い幻滅と挫折感、精神的喪失感を救ったのは、発展していった日本という国の豊かさだったのではないか。戦後の荒廃した何も無いところから、ひとつひとつ新しく始まる。こんにゃくを蕎麦に見立てて店に出す状態から、しだいに蕎麦が混ざる割合が増え、とうとう本物の蕎麦が出せるようになる。頑張れば頑張った分だけ報われる社会が形成されつつあったのだ。
 その先にはアメリカン・ドリームがあり、電化製品の普及や科学の発達があり、全てが上向きに進んでゆく時代があったのだ。
だから陽子の思い出の中では、全てがハッピーなのだ。ちょっとズルイ感じがしないでもない。

 まあ、これが無い物ねだりなのは分かっている。でも、僕たちが今生きているこの時代は、あの頃とは違う。残念ながら、この二十一世紀はそんなにハッピーではない。一方では物が充分に溢れている中での精神的喪失感があり、多様すぎる価値観の中での「価値の拠り所の不在」があるかと思えば、もう一方では経済的危機と不景気に大震災が追い打ちをかけて、物質的豊かささえ脅かされている現実がある。人は二重の意味で頼るものを失ってしまっているのだ。
 だから、この「おひさま」の後半を観る僕の目は意外と覚めている。若尾文子演じる年老いた陽子が、遠くを見るまなざしで幸せな半生を振り返る時、僕の心を支配しているのもある種のノスタルジーだ。
「よかったなあ、あの時代は。もう失われてしまったけれど・・・・」
と年寄りの繰り言のような・・・・それにね、プラスして僕の場合は別のものが重なるのだ。それは・・・・カラヤン、マイルス・デイビスの時代。あるいはケンプ、カール・リヒター、カルロス・クライバーや、フィッシャー・ディスカウやデルモナコ、マリア・カラスなどいくらでも出てくるが、こうした人達の活躍した良き時代がカブッてくるのだ。
 今の時代、指揮者でも歌手でもピアニストでも、どうしてあのような超ビッグな大スターがいないのだろうか。そのこと自体が、この時代がそれだけつまらない時代になってしまった証なのではないだろうか?

 うーん、神様が人類をあまり祝福していないので、芸術家にもインスピレーションを送ってくれないのかも知れない。

 おっとっと、「おひさま」の話がだんだんあらぬ方向に行ってきたぞ。もうこの辺でやめにしなければ。NHKの朝ドラは、惰性で観ているところもあるのだけれど、僕の場合、これを観ながら朝食を食べて一日を始めるので、是非とも次の朝ドラも頑張って欲しいと思っている今日この頃です。

誰もが書かなかった日本の戦争
 その「おひさま」の話題と少しはカブッてくるかもしれないけれど、本屋でちょっと立ち読みした後で、田原総一朗氏の書いた「誰もが書かなかった日本の戦争」(ポプラ社)という本を買った。感動した。何に感動したかというと、田原氏の、偏見を捨てて真実に向かい合おうとする姿勢にだ。

「この本を書くために、私はジャーナリストになった!」
と本人も語っているように、何故日本はあの大東亜戦争といわれるものを始めてしまったのか?一般に言われているように、大東亜戦争とは本当に「侵略戦争」であったのか?ということの検証が、この本の中で徹底的に行われているのである。
 戦争にまつわる書籍は随分読んだが、この本ほど分かり易い本はないと断言する。まず文章が、子供にも分かるような文体で書いてある。僕はこの点に、田原氏が子供であろうと大人であろうとひとりでも多くの人にこれを読んでもらいたいという想いを込めているのを感じて、胸が熱くなる。それに、様々な検証は、明晰かつ客観的で、その結果としてタブーとされていた部分にも容赦なく切り込んでいき、真実を暴き出している。
 これは現代でも通じることであるが、ひとりのちょっとした保身や気弱さ、あるいはちょっとした意地悪や策略。そうしたものが案外巡り巡って国全体の運命を動かすことがある。それと、現代の常識と当時の常識とのギャップもある。たとえば現代では「侵略」はいけない行為であると簡単に言えるが、日本が開国した頃、先進国といわれる国々は、軒並み植民地を持ち、そこからの搾取を欲しいままにしていた。いわゆる帝国主義たけなわの時代である。その弱肉強食のまっただ中で、日本も列強の餌食にならないために振る舞った事自体は、悪とは言えないであろう。
 そうした明治維新から日清、日露戦争を経ていく日本の姿を、田原氏は克明に描き出しながら、それでも誰がどこでどのような誤った選択をし、どこからどのように日本が「本来の道から」逸れていったかについては、さすがライフワークとして命を賭けているだけあって、容赦なく追求している。そんな時の田原氏の筆は、実に冴えている。

 まあ、これ以上僕がつまらぬ解説をしても仕方がない。この本をみなさんにお薦めします。御自分で読んでみて下さい。これを読むと、今も昔も変わらぬ日本人の体質がよく分かると同時に、自らの国の利権を、恥も外聞もなく求めていきながら、大義名分を後から最もらしくつけていく西洋人の身勝手さもよく理解出来ます。これでみんなキリスト教国だっていうんだから、あきれるよな。イラク戦争を始めた時のブッシュ大統領にも同じようなことを感じたが、彼等は、博愛を説くイエスとどう折り合いをつけているのだろう?

初日を迎えるイル・トロヴァトーレ
 ヴェルディのオペラの台本には突っ込みどころ満載のものが多い。その中でも「イル・トロヴァトーレ」の物語のメチャクチャさは群を抜いている。そもそも、アズチェーナが先代の伯爵の子供をさらってきて火にくべて殺そうと思ったら、間違って自分の子供を殺してしまったなどという事など、どうして信じられようか。母親が自分の子供を間違うか!それなのに、その仇(かたき)の子供を(すぐ殺せばいいものを)今度は可愛がって、ずっと大人になるまで育てたというのはもっと理解不能だ。さらに、終幕にマンリーコが死ぬと、
「仇を取ったぞ、母さん!」
と叫ぶ。仇を取りたかったら、育てている間にいくらでも取れたというのに・・・・。

 第1幕で、レオノーラがセレナーデを歌いに来たマンリーコの胸に飛び込んだと思ったら、実は人違いで、様子を見に来ていたルーナ伯爵だったというのも、「ドン・カルロ」などヴェルディではよくある手法だが、抱きつくまで誰だか分からないって、一体どんな暗闇だ?そのルーナ伯爵の胸に飛び込んだ瞬間をマンリーコが見ていて、
「裏切り者!」
とわめく。レオノーラにとっては人違いするほど暗いのに、マンリーコは即座に認識するのだ。どんだけレオノーラは目が悪くて、どんだけマンリーコは目が良いのだ?
 それにしても、レオノーラが即座に、
「いえ違います。愛しているのはあなた一人です」
とマンリーコに向かって言っているのに、このルーナ伯爵はその時点であきらめないのが愚かだな。むしろ激しい嫉妬に燃えるというが、その時点であんた終わってるでしょ。その前にそもそも、この伯爵に対してレオノーラが愛情らしきものを示したことは一度もないのに、恋敵と呼ぶこと自体が間違っている。土俵上にも乗っかっていないのだ。
 その後の伯爵の行動も不可解だ。彼はマンリーコが戦死したと嘘を言い、さらに自分の地位を使ってレオノーラと無理矢理結婚しようとする。レオノーラは、伯爵から逃れるために修道院に入る。自分が結婚しようとしたら相手が修道院に入ったのですよ。もういい加減に目を覚ましなさい!ところが、このストーカーは、部下を連れて修道院に忍び込み、レオノーラをさらって行こうとする。
 修道院もいい迷惑だね。新しい修道女が入ったと思ったら、そこに男が二人も部下を連れて忍び込んできて、修道院の中で奪い合いの醜い争いをするのだもの。
「あんた、どーゆーつもりでこの神聖な修道院に入ってきたのさ!修道院を何だと思ってるんだ!チャラチャラしてないで顔洗って出直して来な!」
って、僕が修道院長だったらレオノーラに言い渡すな。
「まったく、トンでもねえのがうちの修道院に入ってきたもんだ」
と後の後までその修道院の語り草になること必至であろう。

 話は前後するが、オペラの冒頭、ルーナ伯爵の家臣達が夜通し伯爵の護衛をしている間に、魔女だということで火あぶりになったアズチェーナの母親の話をフェルナンドから聞く場面がある。そしてその魔女の魂が成仏できなくて、ふくろうなどの姿になってお城をさ迷っているという話になるや、真夜中の鐘がけたたましく鳴り、家臣一同が驚いて逃げ出して行くが、なにもそこまで怖がらなくてもと思う。どんだけ弱い家臣達なのだ?

 と、これだけ突っ込みどころ満載な「イル・トロヴァトーレ」の台本であるが、その馬鹿馬鹿しさを払拭してしまうほど、ヴェルディの音楽は素晴らしい。ストーリー的には陳腐だなと思っても、音楽と一緒に聴くと、この音楽には不思議な説得力があり、もの凄いエネルギーに溢れていて、なんだか納得してしまうのだ。やはり大傑作なのだ。
 まだ初期の作風を引きずっているので、伴奏形は典型的なズンチャカチャッチャだが、これが何ともいい!とくにマンリーコの歌うDi quella pira「見よ、恐ろしい炎を」の勇ましさは、単純でありながらヴェルディのどのアリアと比べてもベストだと思う。それを歌うヴァルテル・フラッカーロであるが、立ち稽古の時から抜くことなくハイCを出しまくっている。これは興奮しまっせ。本番もきっと確実に出すよ、僕らのフラッカーロ!

 ヴェルディは、若い時から晩年に至るまで、「歌唱の持つ力を信じる」という創作態度で一貫していた。だから良い歌手を揃えないと、オペラ自体の説得力がなくなってしまう。その点、今回のキャスティングは最適だと思う。
 来日して立ち稽古もしていたタケシャ・メシェ・キザールの降板は残念だったけれど、代役のタマール・イヴェーリのブリリアントな声と清楚な歌唱は素晴らしいし、ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリもカッコ良い。ヴィットリオのように演じてくれると、ルーナ伯爵もストーカーっぽく感じない。むしろレオノーラも少しくらい惚れてもいいのにと思ってしまう。
 彼とは、立ち稽古初日に、指揮者のピエトロ君も気が付かなかった音の間違いを僕が指摘してあげてから仲良くなった。彼の速いイタリア語に付き合うのは大変なのだが、陽気で案外繊細なところもある彼との会話は楽しいし勉強になる。
 アズチェーナ役のアンドレア・ウルブリッヒも豊かな声で役作りも良い味を出している。彼女とはドイツ語で会話している。ある時、彼女は僕に向かって、
「この合唱団は、どんな時でも手を抜かないで真摯に音楽と向かい合っている。こんな合唱団世界中探してもどこにもない。彼等からあたしはどれだけ勇気をもらっているか。どれだけ力づけられているか。ありがとう!」
としみじみと言ってくれた。人に褒められるために音楽をやっているわけではないけれど、同業者に評価してもらえると、やっぱり嬉しいね。特にアズチェーナは、第2幕の有名な「鍛冶屋の合唱」の直後にStride la vampaという、これまた有名なアリアがあるからね。合唱と一体となって歌う場面が多いので、あのような感想が出るわけだ。

 と、これだけ良い歌手達が揃うと、ヴェルディの音楽も輝きを放つ。新国立劇場シーズン開幕の「イル・トロヴァトーレ」、みなさん期待していて下さい!

日本のイタメシ
 今週は外食が多かった。火曜日に人を招待して行ったのは、僕が自転車で初台まで行く時によくランチを食べるCHIANTI本店というイタリアン・レストラン。京王線笹塚駅から甲州街道を越えて小さい商店街を越えて水道道路沿いにある。
 この店は外観がちょっと古くさくて、夜になると赤い電球でCHIANTIと浮かび上がるようにイルミネーションされているので、最初は新国立劇場からの帰り道に見て、何だろう面白そうだなと思っていたのだが、ある時お昼に勇気を出して入ってみたら、生パスタがおいしかった。それから愛用していて、いつもランチメニューに赤のグラス・ワインをつけて食べている。でもランチ以外に行くのは今回が初めて。
 イタリア料理というとスパゲティとピッツァが定番であるが、僕が感動したのは、ミラノを去る直前に合唱団のメンバーが僕を招待してくれた時に食べたタリアータtagliataという肉料理があったこと。しかもかなりあの時の味に近かったことである。それからイタリア語でsalsicciaサルシッチャと呼ばれるイタリアン・ソーセージがおいしかった。イタリアでは、スーパーなどに売っているソーセージはかなりショボいんだけど、お店で食べると、ドイツのソーセージと違って肉が荒々しくて独特の味わいがある。それがここで味わえたのは嬉しかったね。

 木曜日は、新国立劇場では「イル・トロヴァトーレ」のゲネプロ(総練習)だったけれど、NHKホールでほぼ同時進行でやっていたバイエルン国立歌劇場「ローエングリン」の終演をねらって、ゲネプロの後急いで初台からNHKまでバスで行き、バイロイト祝祭合唱団のメンバーでもあるシンガポール人のメンと会った。
 そして彼からバイエルン国立歌劇場合唱指揮者ゼーレン・エックホフ氏を紹介してもらい、その後二人で渋谷の居酒屋にあてずっぽうで入った。僕等日本人にとってはどうということないんだけど、みなさん!外国人を食事に招待しようと思ったら、ヘタに高級な洋食屋に連れて行くよりも、居酒屋の方が断然喜ばれますよ!

 さて、金曜日の夜が空いたので、妻と二人で国立駅の近くのPIZZETTO というナポリ・ピッツァの店に行った。ここはイタリアからわざわざピッツァの焼き窯を輸入したというピッツェリアで、パスタはあるけれど、メニューは決して豊富とは言えない。でも、僕の愛するナポリ・ピッツァの味は本格的でした。
 妻と二人なので、ボトルだとちょっと多いなあと思ってデキャンタで頼んだ赤のハウス・ワインが意外とおいしかったのに驚いたが、何と言っても、食後に飲んだエスプレッソの味が、イタリアから日本に帰ってきていろいろ試した中で最もイタリアの味に近かった。帰り際に店員に言ったらとても喜んでいた。

 あとね、ナポリ・ピッツァだったら「ナポリの下町食堂」というジロー系列の店もおいしい。名古屋には高島屋のあるセントラルタワーズ12階にデリツィオーゾイタリアという店がある。ナポリ・ピッツァに関して言えば、実はここが一番おいしい。PIZZETTOもナポリの下町食堂もかなり良いが、デリツィオーゾイタリアの生地には独特の酵母の香りがするんだ。
 でも、ここはちょっと高いんだ。ランチ・メニューでは前菜付きで1980円。これだけ出してランチを食べようと思うかだな。僕の場合、名古屋に行った時は、モーツァルト200合唱団などでギャラをもらうというのが頭にあるから、ちょっと気が大きくなっているのだ。あはははは。

という風に、最近の日本のイタメシもなかなかやるなあ!


Cafe MDR HOME  

当ホ-ムペ-ジに掲載された記事、写真、イラスト等の無断転載を禁じます。
Copyright ©  2004-2011 HIROFUMI MISAWA All rights reserved.