東日本大震災復興支援コンサート無事終了

二組のゴーグル
 久し振りに東京体育館に行った。以前、背が立たなくて恐怖に陥った50メートル・プールも、今回は何度も往復できて嬉しかった。やはり継続は力なりだね。それに、ここはシャワー時にシャンプー持ち込みOKだし、お風呂もあって極楽極楽!

 このプールの入り口に売店があることを知っていた僕は、ここで新しいゴーグルを買った。競技用ではないかも知れないがSWANS製のワイドなレンズで、密閉感及び装着感抜群!家に帰って説明書を読んだら、別売りの度付きレンズを付け替えるともっと見やすいと書いてある。ほほう、度付きレンズねえ・・・・。
 試しに近くのスポーツ用品店に捜しに行ったら・・・・あった、あった!サンプルで度数をいろいろ試し、眼鏡よりは少し弱めの近視用レンズをふたつ買った。右目と左目が違う度数でも出来るようにひとつずつ売っているのは便利だが、ふたつ合わせるとすでに最初買ったゴーグルそのものよりも高い。まあ、眼鏡を買うことを考えたら安いか!
 家に帰って、買った時のレンズをはずし、つけてみた。おおっ!よく見える!眼鏡として普通に使えるじゃないの。だったら、これを普段の眼鏡がわりにして、街を歩いたり、新国立劇場合唱団の練習につけていてもいいなと思った。
それを長女の志保に言ったら、
「あたしがこの業界で生きてられなくなるから、絶対にやめてね!」
と強く言われた。僕ならやりかねないと本気で思ったらしい。

 何度もつけている内に、なんとなくレンズ同士の幅が狭いような気がしてきた。僕は昔からみんなに目が離れていると言われていた。だから“なごみ系”なのだとか言ってもらえたが、それって褒め言葉なのかなあ?間抜け顔ってことではないのかなあ?ウーパールーパーみたいとかムーミンみたいとか言った人もいたぞ。
 そういえば、最初に買った時にL・M・Sの換え鼻バンドがあった。Lに取り替えてみよう。あれえ・・・ないぞ。妻に訊く。
「黒くって小さい、プラスチックみたいな部品、テーブルの上に置きっぱなしにしたんだけど・・・知らない?」
「あら、いらないものだと思って捨ててしまったわ。もうゴミ収集車が持っていってしまったと思う」
ガッチョーン!ゴミ箱をあさったが後の祭り。すぐ机にしまっておけばよかった!

 仕方がない。またスポーツ用品店に行く。メンテナンスを始めると、とことん自分の居心地の良い状態にしなければ気が済まないのが僕の性格だ。鼻バンドだけだったら、百円くらいで買えるのではとたかをくくっていたが、単体では売っていない。頭部バンドとセットになっている。少々高い。いらないんだけどなあ、頭部バンドはもうあるのに・・・・仕方ないなあ。
 でも、どうせ買うなら、買った時と同じバンドでは芸がないから、バックル付きのちょっと洒落たデザインのバンドとのセットを買うか。さらに高いのでちょっと痛いが、度付きでバンドも洒落ているということになると、泳ぎに行くのがまた楽しみになってくるぞ!でも、なんだかトータルで随分お金を使っているような気がする。

 家に帰って、まず鼻バンドを度付きレンズから取り外し、Lの鼻バンドをつける。それから洒落た頭部バンドを付け替える。テーブルの上には買った時の鼻バンドと、頭部バンドがころがっている。
 おやっ?もしかして、このテーブルにころがっている部品に、買った時のレンズをはめこめば・・・・・僕は自分の机からふたつのレンズを持って来る・・・・おおっ!素晴らしい!残りの部品でもう一組のゴーグルが出来たぞ!バンザーイ!
 って、ゆーか、よく考えたら何の事はない。そのもう一組のゴーグルというのは、買った時のそのまんまのゴーグルやんけ。凄いぞ、二組のゴーグルが出来ちゃった・・・・あれえ、でも、なんか変だぞ・・・・。

 このSWANS製のゴーグルは、二つのレンズ、鼻バンド、頭部バンドから成り立ち、X-SYSTEMといって、レンズの度数やデザインなど、お好みに応じて好きなコーディネートが出来るようになっている。
 ということは・・・・最初から、度付きレンズと頭部バンド+鼻バンドセットだけ買えばよかったわけだ。僕の場合は、最初に普通のゴーグルを買って・・・そこに書いてあった説明書で度付きレンズのことを知り・・・それから遠回りして、遠回りして・・・・結局最初に買った一セットは要らなかったわけね。ガクッ!

 あのう・・・誰か普通のゴーグルいらない?別売りレンズを買うと、なんと度付きにもなりまっせ!

小菅優のモーツァルト
 先日の東京交響楽団の定期演奏会で、シェーンベルクのピアノ協奏曲を弾いた小菅優(こすげ ゆう)ちゃんが、二日目の昭和音楽大学ジーリオでの演奏会で、アンコールにまた武満徹を弾くのかと思っていたら、なんとモーツァルト作曲のハ長調ピアノ・ソナタの第1楽章(KV330)を弾いた。それが本当にびっくりするくらいうまかった。
 あれだけ難曲のシェーンベルクをさておいて、モーツァルトを褒めるのもどうかという気がしないでもないが、モーツァルトはなんといってもその演奏家の音楽性が赤裸々に出てしまうからね。

 このソナタは、何気なく聴いているとさらっと聴けてしまうのだが、譜割りがとてもイレギュラーで、フレージングもモチーフの発展の仕方も支離滅裂一歩手前の、実に革新的な曲なのだ。それを革新的と感じさせないのがモーツァルトの天才というものだ。それだけに、この曲を曲らしく演奏するのは、想像するよりもはるかに難しい。小菅優ちゃんは、まさにモーツァルトそのもののように天衣無縫、天真爛漫に弾きこなした。僕は、あまりの見事さにあっと息を呑んだまま、それを聴き終えた。
 残念ながら、ジーリオの聴衆は控えめなのか、それとも予想しないモーツァルトに意表を突かれたのか、アンコール後の拍手はもっと盛り上がってもいいような気がしたが、驚いたのは、その代わりオーケストラの楽員達がめちゃめちゃ盛り上がっていた。みんな舞台上にいるのを忘れているかのように大きな拍手をして、優ちゃんの方を向いてニコニコ笑っていた。プロには分かるのだね。優ちゃんの弾いたモーツァルトの本当の凄さが。

 前回のサントリーホールの演奏会で、彼女は後半プログラムの「ダフニスとクロエ」を聴くために、普通のジーンズ姿で客席に降りてきた。普通の格好をするとあまりに普通の女の子になってしまうので、多くの客は、それがさっきまで舞台で赤いドレスを着てあのような超絶技巧の音楽を弾いていたピアニストだとは気が付かなかったのではないだろうか。
 終演後、舞台袖に戻ってきた彼女は、まず僕のところに真っ直ぐに来て、
「合唱、素晴らしかったです!」
と言ってくれた。若い子は、こういう挨拶は出来そうでなかなか出来ないものだ。おお、感心な子だな!と思った僕は、
「あなたも、とっても良かったですよ」
と言った。その時、僕に返してくれたニコッとした笑顔が可愛かった。それ以来、僕は勝手に「優ちゃん呼ばわり」している。

 その好印象が残っていたこともあって、ジーリオでの演奏会後、優ちゃんに会った時、僕は彼女に駆け寄って、
「モーツァルトがねえ、本当に本当によかったよ!音楽的でフレージングも申し分なかった。ああいう風にはなかなか弾けない」
と一気に言った。そしたらすぐそばを通りかかった、コンサート・ミストレスの大谷康子(おおたに やすこ)さんも、
「そうよね、そうよね!この子、本当にいいわよねえ!」
と飛び跳ねながら叫びながら僕に同調してくれた。僕は、こんな少女のような大谷さんもとっても好きなのだ。

 それから、僕の部屋のクラビノーバの上にはKV330の譜面が乗っている。昔、発表会でも弾いたことがあるこの曲。勉強の合間に、なんとか小菅優ちゃんのように弾こうと試みるのだが、どうもうまくいきませんなあ。ああいう風には弾けそうで弾けない。まさに、それがモーツァルトの恐ろしさというものだ。
 まあ僕の場合、これからピアニスト・デビューすることは考えてませんから、別に僕のピアノなんか、どーでもいいのだけれどね。


東日本大震災復興支援コンサート無事終了
 僕はプロの音楽家なのに、こういう演奏会の方により精神的充実感を感じるって、一体どういうことなのだろうか?というか、プロの音楽家って一体なんなのだろうか?音楽を奏でるということの前には、本当はプロもアマもないのではないか。音楽は、この地球上の土地が本当は誰のものでもないように、お金なんかに換えることの出来ない天からの恵みに他ならないのだ。

 10月16日日曜日。高崎市新町文化ホールにおいて、東日本大震災復興支援コンサート(小さな街のBIGなチャリティーコンサート)がとどこおりなく行われた。全部で8団体が参加してくれた。それぞれの団体はそれぞれの持ち味をしっかり出してくれ、フィナーレの「手のひらを太陽に」では、出演者全員だけでなく、会場中のお客さんもみんな立って大きな声で歌い踊ってくれた。その溢れるようなエネルギーが、被災地にしっかり届いていく手応えを、誰しもが感じていた。
 我が新町歌劇団も、演奏だけでなく駐車場整理係から出演者が変わる毎の舞台のセッティング係に至るまで、喜んで携わってくれた。その無私の思いが演奏にも表れていた。「おにころ」の「神流川(かんながわ)」では、僕のこの曲に託した自然への畏敬の想いが心を込めて表現されたし、「愛をとりもどせ」では、演奏者も観客もノリノリになっていながら、きちんと言いたいメッセージが届いている手応えを感じていた。そして高崎高校合唱部とのコラボである「大地讃頌」では、予想した通り僕のこれまでの人生でも最も感動的な演奏になった。
 別にノーギャラだからお気楽に演奏出来たので、低い理想の中で満足していたというわけではない。むしろ逆だ。チャリティー・コンサートだからこそ、本当に「いい演奏」を聴衆に提供しなければならないと、むしろプレッシャーにすら感じていたのだ。
 でも「いい演奏」って何なのだろう?何をもっていい演奏と言うのだろう?そして僕は、自分が指揮している団体がどんな演奏をした時に、一番精神的充足感を覚えるのだろう?

 僕は常に、今日得られたような充足感を求めながら、日々の音楽生活を過ごしていた。ところがそれが、自分がプロになって、自分と共演する演奏家のクォリティがどんなに上がっても、少なくともそのクォリティに比例するようには必ずしも得られていないことに欲求不満を覚えてもいたのだ。
 本当は、優れた音楽家であるほど、音楽の本質に触れる演奏が出来る可能性が高いものであるし、またそうでないといけないはずでは・・・・・?それとも、そう考える自分の方が間違っているのだろうか?
 ずっと考え続けていた。そしてこれからも考え続けるだろう。僕は一体どこに行きたいのか?そして、僕と一緒に演奏してくれる人を、一体どこに連れて行きたいのか?でも、最近になっていろんなことがあって、少しずつ糸口がほどけていくような気がする。

 ひとつ分かったことがある。チャリティー・コンサートに来てくれる聴衆というのは、すでに普通の聴衆と違うのだ。自分の買ったチケットが災害の復興支援に役立つことを知っている。その分、他者に対して心が開けている。クラシック音楽の演奏会によく見られるような、冷たい批評家的な眼であら探しをしようと思ってやって来る聴衆は少ない。だから客席の波動が暖かい。僕には感じることが出来るのだ。こうした会場全体に満ちている聴衆の心を一種の波動のようなものとして。

 演奏会とは、演奏家と聴衆の魂が対話し混じり合って作り出すコミュニケーションの場。ある意味、祈りや礼拝行為にも近い霊的磁場なのだ。だから聴衆の霊性が高いと、それが演奏者の霊性を高め、その逆も作用し合う。そうやって音楽を通して、個人対マスではなく、まさにベートーヴェンが「魂から魂へ」と語った個人と個人のやり取りが成立するのだ。そしてそれが集合して、ひとつの霊的なうねりのようなものに発展していく。
 その霊性のレベルを、僕はどうやら人一倍敏感に感じるようだ。だから人が良いと評価する演奏会を少しも良いと感じなかったり、逆に他人が注意を払わないような演奏家をとても評価したりする。
 困ったことには、自分がやっている演奏会でさえ、「他人がとても評価してくれているのに、本人の満足度がとても低い」といったことさえしばしば起こるのだ。その意味で、僕は難しい音楽家なのかも知れない。

 その自分が今最高にハッピーになっている。チャリティー・コンサートだけではなく、僕が関わる全ての演奏会において、今後僕はこういうものを作り出していきたい。極端にいうと、本当はこういうもの以外はいらない。もう若くはないので、あまり回り道はしたくないのだ。名声もいらない。お金もいらない。僕は、自分の納得する音楽だけを奏でたい。

その先に僕を待っているものこそ、僕の人生における自分探しの答えなのだと僕は信じている。


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