MDR太陽光発電所がオープンします!

 この原稿がアップされるまさに今日の朝、僕は太陽光発電の契約書にサインをした。近日中に我が家の屋根には太陽光発電のパネルが設置され、エコ・キュートといわれる給湯器で、日中に行われた発電によるお湯で夜間の給湯が行われるようになる。余った電気は、送電線を逆に使って近所に配られ、その分の電気代は売電として東京電力に売ることになる。
 どうも夢のような話し過ぎて気持ち悪いのであるが、それでも太陽光発電に切り替えたのは、どんなに節電してもある程度は使わなければならない我が家の電気が、今後原発を再稼働するための理由に使われたり、夏の計画停電を引き起こす原因になるのが嫌だからだ。

 今分かっているだけでひとつ難点がある。この太陽光発電は自給自足に近い状態にはなるが、完全な自給自足にはならない。停電になっても太陽光発電があれば、自分の家だけ電気がついているという風にはならない。停電になるとブレーカーが落ちて、やっぱり我が家も停電になる。何故ならば、我が国において家庭の電源は全て電力会社が管理しているからだ。
 その代わり、我が家の太陽光発電は東京電力の管轄下に入り、東京電力の発電所のひとつに登録される。それで、そこから自分の家の分を使い、余った電力はこの発電所から送電するというシステムなのである。契約の用紙に発電所の名前を書く欄があった。
「何もお書きにならなければ、貴殿のお名前がそのまま発電所になりますが、なにかお好きなお名前をつけることが可能です」
と営業の女性がおっしゃったので、名前をつけた。

 MDR太陽光発電所である。みなさんの中で太陽光発電に興味があるけれど様子を見ている人も少なくないでしょう。僕はその人達のためにモニターの役目を担ってみましょう。実際に使ってみてどうなのか?どんな良い点がある一方で、今はまだ見えないどんな欠点があるのか?本当にエコなのか?どんなことが起こり得るのか、みなさんは僕の報告を聞きながら、将来的に太陽光発電の導入を検討されたらいいと思う。
 でも、その前に、設置した途端に大地震が来て家ごと壊れました、となったらシャレになりません。まあ、その時はその時です。命があるかどうかも分かりませんから。心配しても仕方がない。間違いなく言えることは、我々は死ぬまでは確実に生きられるということですから。あはははははは!

手作り的な「ラ・ボエーム」
 新国立劇場では、1月29日日曜日で「ラ・ボエーム」公演が終わった。公演の中日に志保が観に来て、ボロボロに泣いて帰った。粟国淳(あぐに じゅん)さんの演出にとても感心して、
「ああいう、まともな演出だと、ドラマに入り込めていいね」
と言っていた。やっぱり、せっかく「ラ・ボエーム」を観るんなら、お客としては泣きたいものね。
 粟国さんの演出は、昨今の奇をてらっただけのものとは一線を画していて、オーソドックスであるが、かといってただ保守的だけではない。本当にドラマの流れを掌握している者だけが出来る、まさにプロの手腕が随所に観られるのだ。
 僕も舞台袖から観ていたが、第4幕のラスト・シーンなど、特に千秋楽では、ひとりひとりがシーンに入り込んで演技していて、とても胸を打つものがあった。オペラって、有名歌手さえ来ればいいというものではないし、有名歌劇場だから常に感動的な上演を提供できるというものではない。やっぱり、みんなで力を合わせて作り上げるものなのだ。
 手作り的にコツコツ丁寧に仕事をすることこそ最も大切なことだ。世界の片隅の小さな小さな劇場だって、世界的な劇場よりもずっと感動的な公演をすることが可能だ。それこそがオペラの醍醐味だ。

さて、今日からいよいよ「沈黙」に戻るぞ!

Vada a bordo, cazzo !(船に戻りなさい、この糞ったれめが!)
 このイタリア語がブームになっている。また最近では、この言葉を書いたTシャツが世界中に出回っている。何の事か分かる人は偉い!これは、先日イタリアのジリオ島沖で座礁した豪華客船コスタ・コンコルディア号の船長に対して、沿岸警備隊員が発した言葉だ。

 今、僕のイタリア語レッスンは、新国立劇場合唱団員のバリトン歌手K君が加わって3人で行っている。K君は、かつてイタリア留学をするためにある語学学校に通っていたが、その学校の講師だったRさんが、つまり今の僕の先生である。彼の留学がいよいよ近くなったので、彼は学校とは別にRさんに個人教授をしてもらっていたという。

 ある時、僕の「今日この頃」を読んだK君が、
「もしかしてその先生って・・・・・」
と訊いてきたが、話をしてみるとまさに偶然同じ先生であることが分かった。
 それである時僕のレッスンに彼が現れて、試しに一緒にレッスンをしてみたら、とても楽しかったので、それ以来3人でやることにした。レベルも同じくらい。彼の方が長くイタリアに住んでいた分だけよくしゃべれるが、ミラノで語学学校に通ってまだ間もない僕の方が、文法的にはいろいろはっきり覚えている。レッスンは基本的にフリーカンヴァセイションのみで1時間なので、3人でやった方がいろいろ補い合えるし、なんといっても話題が豊富になって語彙的にはとても勉強になるのだ。

 そのイタリア語レッスンに、K君がコスタ・コンコルディア号の話題を提供した。先生は同じイタリア人としてバツが悪そうに、
「恥ずかしい話ですが、自分の船を使って勝手に進路を変えて知り合いのいる島に近づき、警笛を鳴らして合図したり、あるいは自分の彼女を勝手に操縦室に入れて運転させてみたりといった事が後を絶たないのです」
と言うと、Kさんが、
「そういえば、乗り合いバスに乗っていると、運転手が勝手にバスの進路を変えて、自分の知り合いをバス停でもない所で降ろしているなんていう光景をイタリアで見ることもしょっちゅうでしたね」
と答える。
 コスタ・コンコルディア号は、所定のコースを大きくはずれて、180度向きを変え、ジリオ島の沿岸ギリギリに近づいて航行していて座礁したのである。その理由は、船長が乗組員たちに自分の郷里の島を見せるためだったというから、バス停から大きくはずれたところで知り合いを降ろすバスの運転手と発想は一緒である。乗客よりも自分のファミリーを大切にする、典型的イタリア人の行動!

 それにしても、その船長の警備隊員との交信記録はなんだありゃ。
「船が沈みそうになったので、捨てました」
「はあ?捨てた?で、どこにいるんですか?」
「暗くてよく見えません・・・・」
その交信中に、しだいにいらだっていった警備隊員が発した言葉が上のようなものであったというわけだ。

 この言葉がなんとなくおかしみを持つには理由がある。まずcazzoとはちんちんのことである。アメリカ人などが「ファックユー」と言うように、他人を罵倒する時に使う言葉だ。ドイツ語あるいはフランス語では、同じシモネタ系でも排泄系のScheisseやmerde(糞)を使うが、イタリア人は男性器を表す単語を使うのだね。
 以前来日したイタリア人演出家などは、舞台上で歌手達が自分の思った通りに動いてくれないと、
Cazzone !
とののしっていたのがウケた。イタリア語でoneがつくと、なんでも大きいものを表すので、大きいちんちんということになる。これって実は罵倒ではなく褒め言葉?cazzoneと言われて喜ぶ男性の方が多いのではないかな。

 沿岸警備隊員は、最初は一応船長に対し敬意を表しながら敬称であるLei(あなた)を使って交信し始めるが、あまりに無責任な船長の態度に、しだいに怒りをつのらせ、言葉は上から目線になり、最後には命令口調になっていく。その途中で、tu(お前)を使って、
Va a bordo !(船に戻れっつうの!)
と言ってみたかと思うと、また気を取り直してLeiに対するandare(行く)の命令形vadaに戻ったりしている。
 その内、訳が分からなくなって、とうとう、
Vada a bordo, cazzo !
と言ってしまうわけだ。
ニュアンスを伴ってあえて意訳してみると、
「船に戻っていただけないでしょうか、このチンポ野郎め!」
という感じだ。

 奇しくも、新国立劇場合唱団アルト団員であるK・Cさんのご両親は、数ヶ月前に海外旅行をしたが、その時になんと同じコスタ・コンコルディア号に乗って、まさにあの船長さんと3人で写真を撮っている。先日彼女にその写真を見せてもらったが、紛れもないCazzo野郎の船長が写真の中央にいた。彼女は他の団員たちみんなに、
「ご両親、座礁しなくて良かったね」
と言われていた。

 少なからぬ死傷者も出ている今回の事故。冗談では済まされないけれど、この事で他のクルーズ船の船長達が襟を正すきっかけになればいいとは思う。あんな大きな豪華客船でも、ちょっとの気のゆるみであっけなく死傷事故につながるということは、みんな分かっておいた方がいい。

スポーツと瞑想
 プールって図書館に似ていると思う。まず静かなことが似ている。プールサイドにはスイマー達のたてる水音が響くのみ。水泳は、同じスポーツでもサッカーや野球などと違って、みんなでワイワイやるものでないから、誰もしゃべる必要がないのだ。それぞれの問題は全く個別的なものであり、従ってトレーニングの仕方も様々である。
 図書館でも沈黙が支配し、ある者は辞書を引きながら外国語の原書を読んだり、ある者はノートと鉛筆を持って勉強にいそしんでいる。それぞれが、他者に対して閉じられた個別的な空間を形作ることによって、自由に自己の内部と向かい合っている。
 違うところといえば、図書館は知性の香りがするが、プールはある種の行(ぎょう)を行う場という感じがする。けれど、ストイックなところが両者とも共通している。

 昔、芸大に教えに行っていた時には、授業が終わって夜の二期会の練習までの間に、よく芸大図書館に行って勉強していた。喫茶店で勉強するのも嫌いではないけれど、沢山の本に囲まれた、沈黙と知性の香りのコンビネーションの方が断然好きだ。今は大学から離れているので、図書館と親しむ機会がないのがとても淋しい。
 ところが、それと同じ精神的充足感を、僕はプールから得られるのだ。だから僕は、新国立劇場の練習が早く終わったり、逆に夜から始まったりすると、寸暇を惜しんでプールに行く。

 スキーもそれと似ている。ただゲレンデは図書館と似ているというわけでもないなあ。スキーの方がレジャー性が強いし、ゲレンデは静寂というわけでもない。でも、僕がスキーに行く時に必ず本を読む話は先週した。しかも、宗教的な内容の本が多い。先日も、五木寛之著の「親鸞~激動篇」だった。
 今週末は、群馬の新町歌劇団の練習の前に、またまた早朝からガーラ湯沢に行った。その時に読み始めたのは、ジェームズ・レッドフィールド著の第十二の予言~決意の時(角川書店)である。この本は、同じ著者による「聖なる予言」のシリーズの第四作目で、小説の形を取っているが、一種の宗教書と言ってもいい。
 その内容に関しては、また読み終わってから落ち着いて語ることもあると思うが、僕の日頃の人生観とかなり一致する点があるし、1212年12月に世界が滅亡すると言われているマヤ文明の預言を扱っていて、まさにイマの我々に貴重なサジェスチョンを投げかけている。

 スポーツというと、最も宗教から遠いもののように感じられるが、僕にとっては水泳もスキーもとても宗教的である。もしかしたら、それは形を変えた瞑想meditationなのかも知れない。じっとしているだけでなく、自分の肉体と向き合いながら行う瞑想も、世の中にはあるのだ。


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