名演「オテロ」

 4月1日日曜日は、新国立劇場「オテロ」公演初日。第1幕嵐のシーンからただならぬ緊張感が漂っていた。東京フィルハーモニー交響楽団も新国立劇場合唱団も異常に引き締まって緻密なアンサンブルを繰り広げている。
 オテロ役のヴァルテル・フラッカーロが客席から登場し、舞台に登ってその輝かしいリリコ・スピントの声で勝利宣言をする。それに沸き立つ合唱。
「万歳!勝利だ!」
 それから酒盛りの場面になる。キビキビとしたテンポで進んでいく。その間に、イヤーゴがカッシオを飲ませて泥酔させ、醜態を晒す。ジャン・レイサム=ケーニック氏のタクトから出るエネルギーは素晴らしい。合唱団のリズム感の良さと歯切れの良さは僕の自慢の種。ここはこだわって練習したからね。
 イヤーゴ役のミカエル・ババジャニアンは、足の筋肉が肉離れを起こしていて、オケ付き舞台稽古から休んでいた。今日もびっこを引きながらの演技。でもかえってそれがイヤーゴの歪んだ性格を表現しているようでプラスに働いている。
 練習を休んでいたからか、声は逆に絶好調。彼のイヤーゴはひと味違う。前回のルチオ・ガッロと違って、いかにも悪そうなワルというのではない。ワルを隠したワル。これがドラマに深みを出し、全体に陰影を与えている。派手ではないが堅実な実力派。
 デズデーモナ役に予定されていたポプラフスカヤに代わって急遽来日したマリア・ルイジア・ボルシの清楚な歌唱が大好きだ。物静かな彼女は、どことなく神秘的な雰囲気をたたえていて、その透き通るような瞳で見つめられるとドキッとする。イタリア女性は落ち着きなくやかましいというのは嘘だ。結構こういうタイプの女性は多い。
 終わってからのカーテン・コールでは、指揮者のケーニック氏へのブラボー・コールが最も大きかったという珍しい結果となった。やっぱり、公演を引っ張っていくのは指揮者なんだな。ヴェルディの円熟の極みである「オテロ」は、僕の最も好きなオペラの内のひとつなので、これが名演になってくれたのはとても嬉しい!

上尾合同教会でのマタイ受難曲
 朝、上尾に向かう途中、武蔵野線の高架で電車が止まった。
「ただ今強風のため、この先運転をするかどうか検討中です」
ゴォーッという音と共に電車が揺れる。確かにもの凄い風だ。このまま倒れてしまったら、十数メートル下に落ちる。恐い!強風のピークは10分くらい続いた。やがて、電車はゆっくりと動き始めた。

 3月31日土曜日。天気は暴風雨。演奏が始まる3時近くになっても雨風は静まる様子もない。雨だけでなく風も強いため傘もさせないような状態。お客さんなんて誰もいないだろうなと思って恐る恐る聖堂をのぞきに行くと、それでも結構入っている。凄いな、このお客さん達は筋金入りだな。マタイ受難曲を聴きに来るために、こんな風雨の受難をものともしないんだ。
 いつものように僕の解説入りで、マタイ受難曲の合唱シーンを集めて約1時間15分程度の抜粋。でも、やはりバッハの合唱にはパワーが漲っている。群衆合唱にしてもコラールにしても内容が詰まっているので、たっぷり聴いたという感じ。

 終わってから信者さんとお話しした。年配の女性が僕のところに来てこう言う。
「先生のおはなしって、クリスマス・オラトリオの時でもそうでしたけれど、先生の信仰心ややさしいお人柄が伝わってきて本当に大好きです」
いやあ、そんなこと言われると照れちゃうなあ。豚もおだてりゃ木に登るというけれど、もうマッター・ホルンくらい登っちゃってる。
「この時期(今週は聖金曜日もある聖週間。今度の日曜日は復活祭)にこうしておはなし付きでマタイ受難曲に触れられるのって本当にしあわせです。ありがとうございました!」

 いやいや、僕自身にとっても、本当はこの時期にマタイ受難曲の本公演をやりたかったのだけれど、ホールの関係で出来なかったのだ。こっちこそお礼を言いたい。本命のすみだトリフォニー・ホールが7月1日だったら空いているというので即決めてしまったが、僕としては、それでも今の時期にどうしても一度は演奏をやりたかった。
 そこで、以前クリスマス・オラトリオの抜粋演奏会をやった上尾合同教会に話をしてこうして実現したというわけである。伴奏はオルガンのみ。ソリストは団員から出して、演奏会は無料であった。

 この教会の聖堂は、落ち着いた暖かい波動に満ちていて、入っただけで気持ちが安らぐし、実際の音響効果もとてもいい。牧師先生の秋山徹氏の人柄にも魅せられる。この人は信仰深くて大きな人だ。だから信者さん達の雰囲気もいい。要するに、上尾合同教会は良い教会である。

 東京バロック・スコラーズは、技術的なところでは7月の演奏会に向けてもう少し仕上げたいところはあるけれど、ひとりひとりのマタイ受難曲に対する想いが感じられて、今回僕はすごく嬉しかった。
 整っているだけの演奏なんて価値がないし、これだけの内容のある楽曲をやっているのに、熱しないでいられるものか。早い話、音程とリズムさえ合っていれば、そこにどんな思い入れを入れて歌ってもいいのだ。そんなエキサイティング・コーラスが出来ている。
 いいぞ!あとはその各自の想いを整理して、最終的に落とし処を見つけて、バラバラのまま本番にならないようにすればいいのだ。発声、音色、サウンドも整えなければならないが、それはほとばしるものがあるからこそ価値を発揮する。
 この団体は、今や実に僕らしい団体に育ってきているし、僕の理念をどこよりもはっきり実現できるキャパシティを有している。かつて北九州聖楽研究会で、エルンスト・ヘフリガーなどと一緒に生まれて初めてマタイ受難曲を演奏して以来、なんと二十数年間も経っていて、その間に何度となく演奏したけれど、ここにきてついに「僕のマタイ」が実現出来る気がする。

たくましいぞ!東京バロック・スコラーズ!

神の御心
 イエスはゲッセマネで祈る。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」

 この聖句を読む度に不思議に思っていた。イエスの願いと父なる神の御心とはいつも一致しているはずではなかったか?それに、イエスは何故自分の捕縛と十字架上の死を拒否しようとしたのだろうか?
 また、十字架上で息を引き取る直前、イエスは大声で叫ぶ。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
この絶望の叫びの意味は一体何なのだろうか?

 上尾合同教会でのマタイ受難曲抜粋演奏会のためのスピーチ原稿を書きながら、ハッとある考えがひらめいた。
「そうか、そうだったんだ!これで全て謎が解けた!」
と、ひとりで有頂天になったが、その考えは、もしかしたら三位一体という教理からはずれている可能性がある。
 でも、父なる神と子なるキリストは、その聖性において“父と同質”consubstantialem Patriであると言われている。同じsubstantia(質)であっても同一のpersona(人格)ではないので、必ずしも常に一枚岩でなくてもいいのかも知れない。そうでなかったら、そもそも“イエスと父なる神の対話”そのものが成立するわけがない。

 父なる神がサッカー・チームの監督だとする。イエスは誰よりも優秀なフォワード選手だ。イエスは大活躍。ひとりでドリブルでごぼう抜き。どんどん得点を入れる。ところが、そこであろうことか突然監督が命じる。
「イエス、お前の使命はここまでだ!もうすぐ選手交代をする」
イエスは反抗する。
「何故だ?俺はこんなに活躍しているじゃないか!俺は疲れてはいない。まだまだやれるぜ!」
でも、監督は考えを変えない。
「か、監督、なぜ俺を見捨てるんだ?次の選手は一体誰だ?」
監督は思いがけないことを言う。
「パウロだ」
「パウロ?誰だ?知らないぞそんな奴。そんな見知らぬ奴は俺のやり方を踏襲出来ない」
「イエスよ、これから必要なのはお前ではなくパウロなのだ。そしてパウロはお前のやり方を踏襲する必要はない」
「分からない、分からない・・・・」
「それでは言ってやろう。お前は真実のみ語り、真実によってしか行動出来ない男だ。だからこそ、お前のなすべき事は死に至るまで自分の信念を貫くこと。そのことによってお前の存在は不滅なものになるであろう」
「それでいいではないか」
「それでいいのだ。だからお前はもうすぐ死ぬのだ」
「ちょっと待て、いざとなったら奇蹟を起こして俺を助けてくれればいいだろう」
「いや、奇蹟はもう起こさない」
「何故?」
「お前は、“世界中の人間”を救いたくはないか?」
「勿論だとも!俺は生きている内に出来る限りの人間の魂を救いたいのだ」
「出来る限り・・・・それでもたかが知れてる。私の考えていることはもっともっと大きいことだ。それを、お前の思いもつかないようなやり方で実現させる」
「どういうことだ?」
「お前がカリスマ的存在のまま死ぬことで、お前は偶像化されシンボルとなる」
「シンボル?」
「“我らの罪のために十字架にかかって死んだキリスト”というシンボルだ。そのシンボルをパウロが使う。知的なパウロは、ローマ帝国の巨大な権力を逆手に使って、お前の教えを世界宗教にまで発展させる。お前の教えはキリスト教と呼ばれ、遠く離れたジパングという国にまで届く。これが私の戦略なのだよ。」
「聞いてねえぞ、そんなこと。そんな大企業的発想はやめろ!俺は俺の足でひとつひとつゴールを決める」
「お前がいくら頑張っても、お前ひとりではその教えを世界に広めることは出来ない。だがパウロなら出来る。あいつはどこまでも真っ直ぐなお前と違ってしたたかな男だから。ローマ市民権を持っていてギリシャ語も自在に扱えるパウロだったら、アテネでギリシャ人と哲学的議論したって負けないだろう。お前にそれが出来るか?」
「出来ない・・・・でも、出来なくたっていいじゃないか。俺の興味は、アテネ進出よりむしろ娼婦やライ病人達や取税人など見棄てられた人達の魂を慰めることにあるんだ・・・・・」
監督は首を振って、
「違うんだイエスよ・・・・それは価値のあることだが、俺の心は違う。お前の心が世界に向いてない事がお前の限界なのだ。お前の教えは、お前が望もうと望むまいと世界に広がっていかねばならない。それが歴史の流れなのだ。選手交代をする。ベンチに戻れ!」
「いやだ!いやだ!俺は自分の手でひとりひとりの魂を救いたい!」
「ベンチに戻れ!これは命令だ!」
「仕方ない。それが監督のみこころならば・・・・」

イタリア語の先生との会話
「3.11の後、日本人には失望させられっぱなしです」
「でも、僕思うんだけど、日本人もそんなに馬鹿じゃないよ。確かに、ヨーロッパ人のように即座にリアクションはしないだろうけれど、原発だって結局止まっているじゃない。そして再稼働しようとすると、静かだけれど確実な“抵抗の風”があるんだ。推進派の方もその風を読んで、結局稼働に踏み切れない」
「そうね。風ね。両方とも風で動くのね。日本では、全ての面においてゆっくりと静かなのね」
「基本的に、どっちにでもなびけるように両足に重心をかけていて、みんなで空気を読み合って、良さそうな方により重心をかけるんだ。電気がなくて不便な生活と、原発に対する不安、あるいは放射能に対する不安とを天秤にかけている。今は、電気の方がなんとか大丈夫そうな雰囲気なので、反原発の方により重心がかかっているという感じかな」
「なんてその場しのぎの、エゴイスティックな国民かしら。これだけ日本びいきのあたしだけれど、最近ではかなり嫌いになってきているの。この国では“本質的な議論”というのを誰もしないのね」

 最近彼女は、イタリア文化会館でのチャリティ・コンサートの手伝いをしたという。震災の後、在日イタリア人の活動家が行うデモや様々な復興支援及び反原発の活動に積極的に参加している。
 一方、バイロイトに住むWinter和子さんは、妻が石巻で手芸品などで就労支援をしているのを助け、バイロイトでドイツ人相手にバザーを開いて、製品を売ってくれている。その資金と僕の「ドイツ・レクィエム」CDの利益分とを合わせて、これまでに石巻の仮設住宅集会所にミシン3台を送ることが出来た。

 このように在日外国人や在外日本人の行動力とバイタリティには驚かされる一方で、彼らが一様に口にする日本人に対する失望やいらだちにも、共感しないではいられない。
 先日、コンシェルジュがCafe MDR Lounge Barに掲載してくれたビデオを、まだ観てない人は一度は観て下さい。これはドイツのZDFという放送局が作ったドキュメンタリー番組「フクシマの嘘」です。
 こうした情報を日本以外の人達、特に欧米の人達はみんな当然のことのように知っているということは分かっておいて欲しいのです。それが、彼らの行動力の原因なのです。


ドイツZDF フクシマのうそ 投稿者 sievert311

Cafe MDR HOME  

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