「ローエングリン」が名演なワケ

 新国立劇場では、「ローエングリン」公演が、センセーショナルなほどの盛り上がりを見せて快調に進んでいる。マエストロとオケとコーラスの関係は、回数を重ねる毎に密になり、ソリスト達のチームワークも、初日後は互いに相談したり練習したりしているわけでもないのに、どんどんドラマが埋まってきている。
 こんなに全ての歯車が噛み合って、ひとつの方向に向かって互いに刺激し合いながら登り詰めて行けるプロダクションは、僕の新国立劇場における様々な経験の中でも初めてかも知れない。

 原因はいろいろあるが、二人の人物がその鍵を握っていると思う。つまりは、公演で最もブラボーを浴びている二人だ。その一人はマエストロであるペーター・シュナイダー氏。彼のゆるぎない「ローエングリン」に対する音楽的方向性は、単なる才能とか解釈とかいうものをはるかに超えている。彼は、全ての演奏家達に、いつもこの上ない安心感を提供してくれるのである。
 つまりは、彼に任せておけば安心なのだ。びっくりするようなことは何も起きないけれど、別にびっくりさせなくてもいいのだ。「ローエングリン」の神髄が聴ければそれでいいのである。
「それで何か不満でもあるのかね?」
という感じである。何の不満もないのである。
 それに加えて、彼の人柄が素晴らしい。本番中に歌手が演技に気を取られて音楽がずれようが、早く入り過ぎたり遅く入り過ぎたりしようが、彼は全く動じない。それでいて、必要なフォローは全て完璧に行う。短気を起こしたりやけっぱちになる事と無縁であるのは勿論、威張ったり強引に従わせたりすることも決してない。でも、僕達はごく自然に彼の意図を汲んで彼の音楽に従おうとするのだ。何故なら彼を全面信頼しているから。彼に任せておけば全てうまくいくから。
 全ての関係者は、稽古場の初日から、シュナイダー氏と一緒に仕事して、およそ嫌な思いをすることは一度もなかった。オーケストラも気持ち良く弾いているし、全てが調和して、気が付いたら超一流の公演に仕上がっている。鳴り響いているのは、紛れもなく正調「ローエングリン」である。こういうのを巨匠というのである。こういうのを真の職人というのである。

 もうひとりの人物は、ローエングリン役のクラウス・フロリアン・フォークトである。以下、親しみを込めてクラウスと呼ばせていただく。今回のプロダクションでは、クラウスは単なるメイン・キャストということを超えて、明らかに、コーラスも含めて全キャストを音楽的に牽引する役を担っている。
 僕が合唱団の音作りで、特にテノールの響きの理想とするものの頂点にクラウスの響きがある。合唱団全体が柔らかくてしなやかな響きをめざしていると、それをクラウスが彼のソロで引き取って、その柔軟なフレージングで完結してくれる。たとえはあまり良くないかも知れないが、ギル・エヴァンスのアランフェス協奏曲のオーケストラの響きの後にマイルス・デイビスのトランペットが寄り添うように入ってきて、ゾクゾクとするあの感覚に似ている。
 ローエングリンが最初に中空から現れて、姿も見えないで魔法のような美しいソロを歌う。するとそれをソット・ヴォーチェの合唱が受ける。今度は姿を見せたローエングリンがハッとするような輝かしい声で王様に挨拶する。その全てに、響きの関連性が生まれている。こんな絶妙なやり取りで曲が進んでいく事は、聴いていると当たり前のように聞こえるが、普段は絶対こんな風にいかないのである。
 クラウスの凄いところは、あれだけ堂々とした主役を演じていながら、全体の中に自分を隠す術を知っていることだ。自分さえ目立てばいいと思う主役が多いこの世界で、これはほとんど考えられないことだ。彼は、どこでどのくらい自分を主張すればいいか、ここではどのくらいの音量でどのくらい目立ち、逆にここでは相手役をどのくらい引き立たせるために自分がどのくらい下がればいいか、全て把握している。本当に知的で、今出来上がりつつある作品の全体を俯瞰する事の出来る真の芸術家なのだ。だから今回の公演で、作品としてのトータルな仕上がりの完成度が並外れて高いとすれば、彼の功績による。
 それに、練習場や楽屋でのクラウスは、いつも陽気で、みんなに気を遣っている。さらに偉いところは、気を遣っていることを見せないようにしている。それにとても謙虚なのだ。
僕は、ある時彼に訊いた。
「あんな風にチェンジの区域のギャップを感じさせないで聴かせる事って、普通出来ないだろう。やっぱり、生まれた時からそういう喉だったのかい?」
「いやいや、努力したんだよ。何度も何度も練習した。今だってそうだ。でも言えることは先生が良かったんだ」
僕は、感動したね。偉大なる者は常に己の限界を知り、それに挑戦しているのだ。
 いつの間にか、クラウスを中心にクライスKreis(ドイツ語で“環”あるいは“サークル”の意味)が出来ている。今回のキャスト達がみんなモチベーション高く、素晴らしい雰囲気で公演を進めることが出来ているのも、彼のお陰なのだ。勿論、クラウスだけではなく、みんなそれぞれキャラは濃いけれど、良い人達ばかりだ。

 気が付いたら、あと二回でこのプロダクションも終わり。大好きなワーグナーということもあるけれど、こんなに終わってしまうのが淋しい公演も珍しい。合唱団員達のモチベーションもめちゃめちゃ高い。それに彼等みんな大きな達成感を得ていると思う。
 サッカーみたいに、どこどこに勝ったぞ!というのではないのだけれど、これが試合だったら、今の新国立劇場合唱団は、ワールドカップで優勝さえ出来てしまう勢いである。手前味噌だけれど、合唱団は、今や本当に素晴らしい団体に育ってくれた。今の彼等にはトップレベルの技術もあるけれど、なんといっても真心と熱がある。本当に良いものを作るのは情熱以外にないのだ。僕はこんなところで働けることを本当に誇りに思うし、神様に感謝している。勿論、団員一同に心から感謝している。ありがとう!みんな!君たちは最高だ!

さあ、残りの公演にまた全力をかけるぞ!

マタイ受難曲講演会無事終了
 6月10日土曜日は、東京バロック・スコラーズ主催の「マタイ受難曲」カップリング講演会。あいにくの雨模様だったが、沢山の方々に来ていただき、しかもとても手応えのある講演会となった。
 会場となったのは東京都の有形文化財となっている求道会館。入ると正面に阿弥陀如来像があるが、不思議と仏教のお寺という感じがしない。それもそのはずで、この求道会館を建てた近角常観(ちかずみ じょうかん)氏は、浄土真宗大谷派の僧侶でありながら欧州留学の経験もあり、特にマルティン・ルターに深く傾倒しており、この建物の設計もヨーロッパの教会建築にも造詣が深い武田五一氏にお願いしたとのこと。だからとても教会っぽいのである。木を基調とした柔らかい響きのする内部にいるだけで、心が落ち着き、おだやかな気持ちになれる。僕はここがとても気に入った。元々、親鸞も好きなら阿弥陀如来も大好きだからね。これからも折あるごとに使わせていただこう。

 さて講演会であるが、今回は特別な内容のものとなった。元来は礒山雅(いそやま ただし)氏を講師にお迎えして行うわけになっていたのだが、礒山氏がどうしてもライプチヒに行かなければならなくなってしまった。でも、彼の講演を楽しみにしている人達も少なくないので、いろいろ考えた末、ビデオで出演していただくことに決定した。
 これがなかなか素晴らしい内容のビデオなのだ!基本的には礒山氏がカメラの前でお話しされているのだが、団員のS氏のビデオ編集のお陰で、途中、楽譜や名画などがちりばめられながら進行していく。
 全部で30分。これを見れば、初めての人でもマタイ受難曲というのがどういう構造と内容を持った作品なのか手に取るように分かる。まさに永久保存版にしたい理想的な入門案内なのである。

 ビデオ上映会の後すぐに、もうひとりの講師である、聖書学者で立教大学教授の佐藤研(さとう みがく)氏による約40分の講演が続いた。礒山氏が生出演出来ないと分かった時点で、急遽お願いしたのだが、佐藤氏は快く引き受けて下さったし、結果としてお呼びして本当によかった。
 せっかくお呼びしておきながら40分とは物足りないほどであったけれど、その心残りは後半の「三澤洋史の爆弾対談」及び質疑応答で充分補われたと思う。一同、あらためて佐藤氏の学者としてのキャパシティの大きさと引き出しの多さに驚嘆することとなる。

 さて、休憩の後は、僕が15分くらい使って、音資料を聴かせながら、今度のマタイ受難曲演奏会の中で何を表現したいか語った。それから「三澤洋史の爆弾対談」となる。僕は佐藤氏にわざといろいろ意地悪な質問を投げかける。たとえば、
「聖書に表された受難の場面で、現代の聖書学の観点から見て、どこが事実でどの記述が虚偽のものなのですか?」
佐藤氏は淡々とお答えになる。あまりにあっさりとお答えになるので、こちらが拍子抜けするほどだ。
「イエスが捕縛された後、大祭司カイアファのところに連れて行かれて、そこに最高法院の全員が集められて裁判が行われたとありますが、そんな真夜中に全員集めて裁判を行うという事はあり得ません。いろいろな記録を見てもキリスト以前にも以後にもそうした事は行われていませんでした。
それから、ピラトはイエスを許したかったけれど、ユダヤ人の群衆がイエスの死刑を望むので、民に迎合する形でピラトは自らの意に反してイエスを十字架にかけるために引き渡したとあります。これも事実ではないと思います。何故ならピラトは、聖書以外の全ての書物の記述では、まことに残虐な人物として描かれていて、ローマに対する謀反人を全て容赦なく処刑しています。そのピラトが、ユダヤ人を恐れて、嫌々イエスを十字架に引き渡したというのは、あまりにも不自然です」
「では何故そういう記述がなされたのでしょうか?」
「マタイによる福音書が書かれたAD80年代と言えば、キリストが死んでからもう50年以上経っていて、キリスト教はローマ帝国の中でしだいに認知されてきていました。そのキリスト教をローマ帝国の中でさらに布教していくにあたって、ローマ帝国を悪者にしたくなかったという配慮が働いたと思われます。
一方、ユダヤ人にとって異邦人がどんどんキリスト教を信じていく状態の中で、キリスト教をユダヤ人と切り離す必要が生まれてきました。だから、キリストを葬ったのはユダヤ教徒であるとしたかったのです」
「なるほど」
「それに関連しますが、この中で完全にマタイの創作であろうと思われるユダヤ人達のセリフがあります」
「なんですか?」
「それは、ピラトが責任逃れをして手を洗い、『この人の血については、私には責任がない。お前達の問題だからな』と言ったことに対するユダヤ人達の『その血の責任は、我々と我々の子孫にかかってくるように』というセリフです。自分たちでここまで言うはずがないでしょう」

 確かにその通りである。この箇所については、はっきり言って僕はずっとわざとらしいと思っていた。仮にユダヤ人が、イエスをどうしても葬り去りたいと考えていたとしても、自分たちの子孫代々に不幸がのしかかるのを導く発言を、彼らが自分からわざわざ言うことは不自然であると思うのだ。
 結果的に、その発言はある意味成就され、ユダヤ人はイエスの血の責任を子孫代々に渡って負わされる。すなわち、国を追われて世界中に散り散りになり、ナチによるホロコーストをはじめとする様々な迫害や苦難を受けることになる。もしそうしたユダヤ人の悲惨な運命に、この聖句が多少なりとも関わっていたとすると、この聖句は、案外罪作りなのかも知れない。

 このようにして爆弾対談が続き、そのまま質疑応答に移っていった。いろんな活発な質問が投げかけられ、それに佐藤氏が見事に答えていく。なんという熱気のこもった講演会だろう!これは議事録ではないので、全てを書くことは避けるが、僕が最も印象に残った佐藤氏の言葉がある。それはこのような内容であった。
「マタイ受難曲の中には、どうして復活がないのか、ずっと考えていました。勿論、教会暦の中で受難節に演奏されることを目的に書かれたという現実的な理由はありますが、私は、この受難劇の真っ只中にすでに復活があるではないかと思うのです。受難という悲惨な状況を突き抜けると、そこに希望が見えるではないか、それでもう充分ではないかと思えてならないのです。だからマタイ受難曲は復活によって補われなければならないものではなく、これで完結しているのです」
 うーん、なんという深いお言葉!確かに、たとえばペテロがイエスを否認して悔恨の涙にくれるところで、その絶望の涙の向こう側に、ペテロがすでにイエスによって許されている事が見えるではないか。アルトのアリアがその悔恨の気持ちを切々と歌うと、その後のコラールで合唱団は歌うではないか。

私は自分の罪を否定しません
でもあなたの恵みと恩寵ときたら
もっともっと
計り知れないほど大きいのです
私が自分の中にいつも見出す(ちっぽけな)罪などよりも
(意訳責任 三澤)
 佐藤氏の、「受難を突き抜けたところに希望を」という言葉こそ、7月1日のマタイ受難曲演奏会を指揮する僕の、めざすべきものだろう。

 その後の打ち上げでも、いろんな人達が佐藤氏を囲んで質問を投げかけたが、そのひとつひとつに佐藤先生は丁寧に答えていらっしゃった。いやあ、本当に誠実な人だ。そうこうしている内にワインが利いてきて、僕はどんどん気持ち良くなってきて、久し振りにチョー酔っ払ってしまいました。チャンチャン!

注:佐藤氏の聖書の内容についての発言は、佐藤氏の個人的見解ではなく、現代の聖書学においてすでに大半の学者が認める周知の見解です。熱心なキリスト教信者さんの中には抵抗がある方もいらっしゃるかも知れませんが、その反感は、佐藤氏個人に向けられるべきでないことをご理解いただきたいと思います。

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