マタイ受難曲~凄いのが出来るぜ!

今度事故が起きたら僕達は共犯者
 大飯原発が何事もなかったかのように再稼働に向けて動き出している。朝日新聞は、6月23日土曜日の新聞で、政府の大飯原発3、4号機再稼働決定を受けた今年の夏の節電目標の見直し記事をトップに大きく掲げた。それによると関西電力で15パーセントを10パーセントに見直したとある。いかにも、まだまだこれでは足りませんねと言いたげである。もっと、あっちこっちの原発を再稼働させなければ、国民に負担がかかってきますよと言いたげである。

 一方、大飯原発再稼働撤回を求める市民の抗議行動の記事も同じ日に載った。でも、こちらは37面の社会欄の、しかも東京電力の電気代の値上げに関しての公正取引委員会とのやり取りの記事の下に、とても小さく載っているだけである。
 この抗議行動は、首相官邸前に市民らが22日夜集会を開いたもので、主催者発表で約4万人、警視庁調べで約1万人とある。いつも思うのだが、どうしてこんなに数が違うのだろうか?誤差はもちろん出るだろうし、双方多少なりともサバを読みたい気持ちも分からなくはないが、4万人と1万人の違いといえば一見して分かるだろう。ここまで来ると、どちらかが意図的に嘘をついているとしか言いようがない。

 読者の皆さんはどのようにお考えであろうか?たとえば僕は、かつて住んでいたドイツでの新聞報道のあり方を知っているけれど、一流紙といわれる新聞で、このような記事の組み方はあり得ない。もしあえてそうしたら、恐らくその新聞社は沢山の抗議を受けて、オーバーに言えば存続の危機にさえ陥ることだろう。
 ではどこがおかしいか?それは、物事には両面があり、反対の意見があってしかるべきであるという見解が欠けているのである。恐らくドイツであれば、大飯原発再稼働に向けて進んでいるという記事と、それに反対する市民の流れの記事は、同じくらいのウエイトを占めて報道されていると思う。
 いいですか?大飯原発に反対する市民が(仮に警視庁の発表するように1万人だとしても)万単位で集まるって、普通ではないですよ。これは立派な社会現象ですよ。ところが、それをどこのマスコミもきちんと報道しないのだ。どこかのニュース番組で、みなさん、見ましたか?
 テレビというものは、ありのままを映すから真実だと思うでしょう。でも、「取りあげない」という意図的な力の大きさを我々は知らなければならない。実際、テレビにはっきり映ったら、少なくとも1万人と4万人の発表のどちらが本当かという事も見当が付くんだけどな。

 ドイツだけではなくて、一度でも海外に住んだことのある人は分かると思うが、こういう市民運動は必ず報道される。報道されないのは独裁者のいる国家だけだ。つまり、こうしたことを報道するのは民主主義の根幹に関わることなのだ。マスコミは命を賭けてどちらにも偏らない真実の報道をしなければならない。何故なら我々はマスコミを通してしかそうした情報を得ることは出来ないのだから。
 そうしたマスコミのあり方に関して言えば、日本は残念ながら独裁者国家にかなり近いと言わざるを得ない。

 さて、肝心の大飯原発再稼働の話題だけれど、僕はそれに対する反対をこの欄で叫ぶつもりはない。でも、僕達が日本という国に住んでいて、東日本大震災と福島第一原発の事故を経験した国民として、この再稼働に対して無関心でいるわけにはいかないということは強く訴えたい。
 何故なら、今回の決断は、我々が好むと好まざるとに関わらず、いずれ必ず我々に跳ね返ってくるからである。福島第一原発は「知らなかった」で済んだ。でも、これからは「知らなかった」では済まない。何故なら、「我々」が決断したのだから。今度福井方面に大地震や大津波が起きて、大飯原発が壊れて放射能が撒き散らされても、今みんなが東電を責めているように、加害者対被害者という構図は作れないのだ。

 野田総理は、
「私の責任で」
などと言っているが、そんなの信じている人はいないだろう。なんとでも言えるさ。今度事故が起きたときに野田さんが総理大臣である可能性など全然ないし、その時は、その時の総理大臣をはじめとしてみんな責任逃れするに決まっているだろう。

 福島第一原発は、立地条件をはじめとして、いろいろな不備を指摘されていた。でも、それに対応するということになると膨大な費用がかかるということで無視され、結果としてあのような大惨事を招いてしまった。原子力というとてつもないリスクを抱えるものに関わっていながら、“目先の経済原理”が最優先され、事故が起こった後は「想定外の災害」ということで片付けられてしまった。
 そして今回も、結局は“目先の経済原理”が最優先されている。安全性が完全に保証されたから再稼働に踏み切ったわけではない。まあ、百歩譲ってとりあえず安全だとしても、その安全性は震災前の福島第一原発の安全性と五十歩百歩でしょう。それでも、何か起こっても、また「想定外の災害」ということで逃げ切れると政府も関西電力も踏んだんだね。

 国民も国民で、原発は恐いけれど、生活が不便になるのは嫌だと思って、結局はいいとこ取りしようとしていないかな?自分たちの子供の世代に、より良い世界を残してあげようという人の意見より、子供の世代など知ったことではない、今の生活が快適ならそれでいいのだという人の意見が通ったということだよね。
 でも災害が遠い将来ではなく明日来ないと誰が一体保証出来ようか?阪神大震災だって、地震がないと信じていたところに襲ったのだし、東日本大震災と津波の被害だって、騒がれていた東海大地震の盲点を突いて、つまり「想定外」の時に「想定外」の地域で「想定外」の規模で起きたのだから。

 これだけは言っておきたい。こんど事故が起きたときには、僕達みんな共犯者だからね。もう被害者のフリは出来ないんだよ。

マタイ受難曲~凄いのが出来るぜ!
 いやあ、やってもやっても終わんねえ。曲多過ぎ。凝り過ぎ複雑過ぎ。でも、オケでやるとしみじみ感じるが、この作品、偉そうに言わしてもらうと本当に良く出来ている。世の中にもっと絢爛豪華なオーケストレーションの曲はあるだろう。もっと効果的な楽器の使い方はあるだろう。でも「マタイ受難曲」を聴いた後は、他の全ての曲は色あせる。
 ここには、音楽というものが現し得る全てがある。ドラマがあり、音楽的必然性があり、論理があり感情があり、思想があり哲学があり宗教があり、赤裸々な人間の生き様があり、生きる指針がある。怒りがあり、愛があり、憎しみがあり、祈りがあり、絶望があり、希望がある。何度やっても素晴らしい傑作capolavoro(伊)chef-d'œuvre(仏)Meisterstück(独)だ。どうしてこんな作品が世の中にあるのだろうか?

 6月24日日曜日は「マタイ受難曲」のオケ合わせ。オケのメンバーの技術もモチベーションも高い。それ以上に東京バロック・スコラーズの合唱がヤバイくらい白熱している。一方、畑儀文(はた よしふみ)さんの福音史家は本当に凄い。日本にこれ以上うまく歌える福音史家はいないと断言出来るね。他のソリストたちも、みんな心を込めてレシタティーヴォ・アコンパニャートやアリアに取り組んでくれている。久し振りに共演する浦野智行さんのイエスも、いつも通りの木訥な風貌とアプローチながら、イエスの心情にぐんぐん迫っている。

 この精鋭たちと練習をしながら、僕はひとつ決心したことがある。恐らく本番前のプレトークでも言うと思うが、今度の「マタイ受難曲」で、僕は音楽作品を演奏するというよりは、「マタイによる福音書」に表現されたイエスの物語を「ストーリー・テリング」するつもりだ。
 何か目新しい新解釈をするとか、誰もやらないような事をして驚かすとかいうのではなくて、イエスの真実を見つめながら、丁寧に受難の物語を語って聞かせるのだ。それがバッハの望んだことであろうし、「受難曲」という精神に沿ったものであろう。
 レシタティーヴォを弾く僕のチェンバロから紡ぎ出されるひとつひとつの和音は、畑さんや浦野さんの語りと相まって、即興的にドラマの流れを作り出していくであろう。僕はこの曲の全てを知り尽くしており暗譜もしているが、もうそんなことはどうでもいいのだ。
 第1部、第2部とも、両端の合唱曲はドラマの枠組みであり、ここは譜面を閉じて指揮に専念する。でも、中身の部分は、チェンバロの前に譜面を置いて、僕も、今出来上がりつつある「ストーリー・テリング」を一緒に味わいたいのだ。そうして結局は、今この瞬間、ここでなければ決して生まれない、世界でたったひとつしかない「マタイ受難曲」を創り出したい。

僕は確信している。今の東京バロック・スコラーズならば、必ず凄いのが出来るぜ!

マタイ受難曲の聖句
Da nun Jesus war zu Bethanien, im Hause Simonis des Aussätzigen, trat zu ihm ein Weib, die hatte ein Glas mit köstlichem Wasser und goß es auf sein Haupt, da er zu Tische saß.
Da das seine Jünger sahen, wurden sie unwillig und sprachen:
Wozu dienet dieser Unrat, Dieses Wasser hätte mögen teuer verkauft und den Armen gegeben werden.
Da das Jesus merkete, sprach er zu ihnen:

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
イエスはこれを知って言われた。
(マタイによる福音書、第26章6-10節)
 バッハが「マタイ受難曲」で使用した新約聖書「マタイによる福音書」の聖句は、マルティン・ルターがラテン語とギリシャ語からドイツ語に訳したものである。ドイツ文学史上に残る名訳だと言われているが、いくつかの際だった特徴がある。上の文章を見てもらうと分かるが、これだけの文章の中にdaという単語が4つも使われている。いや、それどころではない。マタイ受難曲に使用されている第26章と第27章だけでも、おびたたしい数のdaが使われているのだ。

 これがどうも僕にはとても幼稚な文章に思われるのだ。何故ならdaという単語は、ドイツでは子供がよく使っているからだ。イタリア語でecco、フランス語でvoilaのような言葉で、
「そら!」
とか、
「ほら!」
という感じだ。とても口語的であり、文章の中では今日ではほとんど使われないと言っていい。

 でもdaを独和辞典で引くと、どの辞書も沢山紙面を割いていて、とても用途の広い言葉であることが分かる。
時間的な意味で「その時」「すると」「その頃」
事態、状況を現して、「その場合には」「それなら」「そこで」「それでも」
さらに接続詞として、「・・・だから」「・・・なので」
こんなに意味があるのだから、いざ使おうと思ったらどんなでも使えてしまうわけだ。
ちなみに現代のドイツで最も普及しているドイツ語聖書の同じ箇所ではこのように書かれている。

Als Jesus in Betanien im Haus Simons des Aussätzigen bei Tisch war, kam eine Frau mit einem Alabastergefäß voll kostbarem, wohlriechendem Öl zu ihm und goss es über sein Haar.
Die Jünger wurden unwillig, als sie das sahen, und sagten:
Wozu diese Verschwendung? Mann hätte das Öl teuer verkaufen und das Geld den Armen geben können.
Jesus bemerkte ihren Unwillen und sagte zu ihnen:

 ご覧のようにdaという言葉は一度も使われていない。この箇所だけではなく、現代ドイツ語訳聖書では、全部くまなく調べたわけではないので断定は出来ないが、恐らくほとんど使用されていない。ルター訳があれほどdaで満ちているのに、まるで意図的に周到に避けられているかのようである。

 ルター訳の文章の1番目のdaは、現代訳でals(~の時)という言葉に置き換えられている。2番目は、ルター訳では「食事の席についているイエスの、その頭に」という関係代名詞のような文章に見えるが、「イエスが席に着いていた時に」ともとれるからか、現代訳では「イエスがベタニアで席に着いていた時に」という風に、最初のalsで二つの文章が一緒にくくられている。
 3番目のdaは、ルター訳では「弟子たちがそれを見たので」という理由にとれなくもないが、現代訳ではalsになっているから、「弟子たちがそれを見た時に」ということか。
4番目のdaも、ルター訳では「イエスが気が付いた時に」あるいは「イエスは気が付いたから」の両方にとれるが、現代訳では単に、
「イエスは彼らの不機嫌に気が付いて、彼らに言った」と、ほとんどdaの存在自体が無視されている。

 ルター訳は、このdaがあることで、とても意味が曖昧になっている。つまり、どうともとれる文章がとても多いのである。それが現代訳では、一方で(~の時に)という意味以外考えられないalsという言葉を使い、もう一方で4番目のようにあえて訳さないなどの工夫によって、完全に意味が限定されている。

 僕はこの件に関して、バイロイト音楽祭で働いていた時代、ベルリン国立歌劇場合唱指揮者のエバハルト・フリードリヒや、バイロイト大学教授のディーター・クラインをはじめとして沢山のドイツ人に訊いて回った。
「ルター訳聖書で頻繁に使われているdaって、子供っぽくないですか?」
すると大抵のドイツ人は、
「あっ、そう言われてみればそうかもね」
と言う。そういうものかなと思って、あまり気にもとめていなかったという感じだ。それでも、僕の「子供っぽい」という意見には誰も反対しなかった。
「なんでだろう?」
という僕の質問には、全員がこう答えた。
「ルター訳のドイツ語は、元々格調高いものじゃないんだ。彼は身分の高い教養人達をターゲットとしてドイツ語訳をしたわけではないのだから、もったいぶった表現など使わないで、当時の市民が普通に分かるドイツ語を使ったのだ。彼の目は常に一般市民に向けられていたのだからね」
なるほど、コラールという単純なメロディーを編纂してみんなに歌わせたように、ルター訳の聖書は分かりやすさをモットーに書かれたわけか。こういうところにも、プロテスタンティズムが貫かれているのだな。それをバッハも踏襲したわけだ。

 ルター訳と現代訳を比較してみると、それだけでなくて、使われていた単語の変遷もよく分かる。たとえば、
「イエスは言った」
はルター訳ではJesus sprach.であるが、このsprechenという単語は英語で言うspeakに対応し、speak Englishのように「話す」という意味合いが強い。「言う」という単語は、むしろ英語のsayやドイツ語のsagenが近い。従って英語訳の聖書ではJesus said.であり、現代ドイツ語訳では、当然の事のようにJesus sagte.と書かれている。
 合唱が入ってくる直前に決まり文句のように福音史家によって歌われる、Und sprachen:という歌詞は、現代では誰も使っていないのである。

 このように聖句の単語ひとつ取りあげても、ルターの思想や社会的背景や、言語そのものの時代的思潮というものが色濃く表れている。僕はいろんな箇所について、フランス語、イタリア語などとの比較も行っている。すると、言語によって言い回しや表現の仕方がこうも違うかと思うほど、興味深い相違が感じられて興味が尽きない。まあ、そんな事ここで書き始めたらきりがないのでもう止めるが、「マタイ受難曲」のスコアを読んでいると、言語オタクの僕の、こんな「寄り道」への誘惑が常に僕を悩ましているのである。

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