はかない、だから美しい音楽

 音楽というものは空しいものである。「マタイ受難曲」演奏会から一週間経ってみると、もう遠い昔の出来事のように思われてしまい、あの時に自分が手にしていた演奏の確かな手応えや演奏後の達成感すら、なにか雲をつかむような曖昧さで輪郭をぼかしている。こうやって、人生の全ての営みは、諸行無常なる世界の中で実体を持たず、忘却という恐ろしい深淵に溶け込んでゆく。
 それでも・・・いや、だからこそと言うべきか、音楽は素晴らしい!頼るべくもないはかない時間の中で一瞬にして生まれ、たまゆらのように消えていくからこそ、その輝きはかけがえのないものであり、ことさらに美しいのだ。特に魂にとっては・・・・。
 僕達の魂は、消えてゆく一瞬一瞬に永遠を刻み込んでいる。特に、音楽によって濃密なる時間を過ごした者は、演奏する側であれ聴く側であれ、たとえ表面意識で記憶が薄れても、精神の奥底に決して消えることのないものを刻印する。それは諸行無常の法則を超え、我々の魂の永遠なる核となって、我々の人格を常に内側から照らすのである。

友情万歳
 演奏会直後の更新原稿では、大事なことを書けなかった。それは、僕の親友二人を演奏会に招待したこと。ひとりは、よくこの欄にも登場するプロ・スキーヤーの角皆優人(つのかい まさひと)君。そしてもうひとりは、高崎で税理士事務所をやっている高橋正光(たかはし まさみつ)君である。高橋君は、毎年僕の家の青色申告を見てもらっている。
 多感な高校時代を共に過ごした彼らは、今や三澤先生と呼ばれて偉そうな顔をしている僕の、あんなこともこんなことも知っていて、いろんな弱みを握られている。特に高橋君などは、我が家の家計状態をつぶさに知っているので、現在でも実生活での弱みを握りっぱなしだ。

 僕には友達が少ない。指揮者という職業上、誰ともそう簡単に親しくなれないというのもあるかも知れないが、もともと若い時から友達付き合いが悪くて有名だったのである。特に遊び友達というのは一人もいない。僕は、暇さえあれば家に引きこもり、自分一人で何かをやるのが好きだったから、ほとんど遊びには行かなかったのである。そうした中で、現在まで続いている友達と呼べるのは、恐らくこの角皆君と高橋君の二人だけだ。

 群馬県立高崎高校時代。群馬県一の進学校の流れにさからって、僕は音大受験に方向転換をした。すると同じクラスに、フルートをやっていて、やはり音大に行こうとしている高橋正光君と、水泳部にいてバリバリのアスリートでいながら、妙に繊細でクラシック音楽にめちゃめちゃ詳しい角皆優人君がいた。今から考えると、何という運命!
 高橋君は、あの高名な吉田雅夫氏に師事していたが、結局は上智大学に行き、上智大学管弦楽部の部長になった。角皆君は、すでに僕が何度も書いている通り、フリースタイル・スキーの我が国における草分け的存在となって、それぞれの道を歩んでいく。
 かつて僕達は、はてしなく音楽談義に花を咲かせた。誰かの家に行っては、一緒にレコードを聴き、感想を述べ合った。その内容であるが、当時の僕達にとっては、それはごく普通のことだった。でも、今から思い返してみると、それは決して普通ではなかったのかも知れない。何故か?それは・・・きっと、僕達は音楽に求めるものが、とてもとても深かったのである。

 実は、マタイ受難曲演奏会の後、角皆君とメールのやり取りをしたが、彼の了解を得て、ひとつのメールの文章を紹介しようと思う。僕達が昔から共有していた価値観がいかに特異なものであったか、分かってもらえると思う。

> 友達付き合いの悪い僕は、
> 指揮者という孤独な立場もあって、
> 考えて見ると、友達と呼べる人は本当に少ないんだよね。
> ましてや親友ということになると、本当に角皆君と高橋君くらいしかいないんだよ。
> これからも本当によろしくね。
(ここまでは僕の文章です。以下角皆君の返事)

こちらこそ…。

以下、少し友人が少ないという話です。

 三澤君や高橋、そしてわたしは、音楽を好きだと言うだけでなく、音楽のなかに顕された人間の深みを好きなんだと思う。心や魂の深淵と云ってもいい。ところが人間の深みというのは恐ろしいもので、そこにあるのは、ふつう人が云う美しかったり崇高だったりするものだけでない。

 マーラーなどその典型だけれど、人の深みには恐ろしい感情やぞっとするような現実も含まれている。自分のなかに、ソクラテスもヒットラーもいるという話だ。しかし、ふつうはそんなことに気づかなくていい世界に生きている。

 ところが、ある条件下の「生」を生きると、自分のなかにいるソクラテスや荘子に出逢うし、ヒトラーや青ひげにも出逢う。音楽のなかにそれらを感じられるようになると、ほんとうの友人というのは少なくなると思う。なぜなら、それを感じられるためには、人とはだいぶ違った命を生きる必要があるから。

 ベートーヴェンの交響曲3番や5番の世界と、後期弦楽四重奏やピアノソナタの世界が異なっていて、後期を理解できる人が少ないように。ベートーヴェンの後期を理解するには、それなりの生き方をしてこなければならない。妥協ばかりして生きてきた人に、そんな世界はドアを開かないだろう。そして失敗を知らない人に、その世界は閉ざされたままだろう。

 成功や失敗を繰り返して、そのなかで道を歩み続けた人だけが、次元の異なった世界の美や魅力を感じられるようになるのだと思う。ブルックナーのアダージョにも、そんな世界が広がっている。

 スポーツもふつうのスポーツ好きが見る世界と、ずっと先にある世界とは、まったく違っている。

 人は自分より下の世界しか見えない。遙か上の世界のことはわからない。わたしが高校時代、ショスタコーヴィッチやブルックナーがわからなかったように。

そうした意味で、三澤君は孤独だと思う。
高橋も孤独だと思う。
わたしも孤独だと思う。

だからこそ、親友が貴重で、愛しいのだとも思う。

 角皆君のこの文章には、あれから長い人生を経てきた年輪が刻まれているので、高校生の頃の青臭い会話とは多少は違うだろうが、大事なことは、僕達は若い時からこんな種類の対話を繰りかえしてきたのである。そして、こんな対話が可能な人間しか“親友”とは呼ばなかったし、こんな価値観を共有出来る人しか、自分の人生において必要としなかったのである。
 とはいえ、角皆君や高橋君とはいつも会っているわけではない。それどころか、場合によっては何年も会わないことすらある。でも不思議なんだ。普段は会わなくても淋しくもなんでもないくせに、いざ会うと思うと、とてもとても楽しみで待ちきれないくらいになるんだ。先日もそうだった。マタイ受難曲の本番が来るのが楽しみなのか、彼らに会えるのが楽しみなのかよく分からなくなるくらい演奏会当日が来るのが楽しみだったのだ。

 でも、一方では緊張もしていた。ある意味、彼らはどの批評家よりも僕にとって厳しい聴衆である。彼らは、僕のことを本当によく知っているし、音楽に対する知識もとても深いけれど、そういうことではなくて、そもそも音楽に求めるものが普通の人と全然違うのだからね。たとえみんながどんなに褒めても、演奏会自体が大成功に終わっても、彼らがもし、
「駄目だよ、三澤君!」
と言ったら、きっとその通りなんだろうと思っていた。
 それに加えて、彼ら二人とも、これまでバッハの音楽に対しては、それほどの情熱を示してくれなかった。だからその二人にバッハの音楽で立ち向かうのは相当ハードルが高かったのだ。

 高校時代のある日、角皆君と僕は、ヘルマン・ヘッセの「ナルチスとゴルトムント」を読んで感想を言い合っていた。
「三澤君はナルチスで僕はゴルトムントだ」
「うーん、僕の中にもゴルトムントはいるよ。まあ、君と比べたらナルチスかも知れないがね」
「君はバッハの音楽こそ最高だという。確かにバッハの音楽の中にも、いろんな感情はうごめいているだろうけど、バッハって、結局は信仰の確信があって揺るぎないし、乗せている足の重心は混沌ではなく秩序の方にあるだろう。とてもナルチス的なんだ。僕はもっとベートーヴェンやマーラーのような、苦悩と絶望の中から世界を探るようなゴルトムント的音楽に惹かれるんだ」
「それは分かるよ。でもバッハの中にも苦悩や混沌はあるのだ。たとえばマタイ受難曲の中とか・・・・」
 このかつての平行線の対話の出口を、僕は先日の演奏会で何十年ぶりに角皆君に示したかった。ほら、バッハの中にも沢山の苦悩や絶望や混沌があるだろう・・・・と。まあ・・・でも・・・やはり、それらの人間存在をじっと見つめている慈愛の眼というものを、あの演奏会で聴衆に感じてもらうのが僕の最終目標だったから、やっぱり結局は僕も、そしてバッハもナルチス的なのかも知れない。
 それにしても、あれだけどんな曲でも知っている角皆君が、今日の今日まで聴かないでとっておいたマタイ受難曲を、他ならぬ僕の演奏で初めて聴いてくれたというのは、なんだか嬉しいな。なんとか今年の夏も白馬に遊びに行きたい。ミュージカル「おにころ」があるので難しいのだけれど、時間をやりくりしてもし行けたら、今年はウォーター・ジャンプに挑戦してみようかな。一方、高橋君は、今度の夏の「おにころ」公演のチケットをもう買ったと言っていた。また会えるのが楽しみ!

 写真は打ち上げ終了後にみんなで撮ったもの。左から角皆君、奥さんの美穂さん(僕の水泳とスキーの先生)、僕、妻の千春、高橋君(こいつ、若い時からすぐ酔っ払うんだ。人の奥さんにからむなっちゅうに!)。

友情万歳

畑中良輔氏の偉大さ
 7月7日土曜日。畑中良輔氏の「お別れの会」に行ってきた。あの広い青山葬儀所が人で溢れかえっていた。どれだけの人が畑中氏の死を悼み、多忙な中、しかも蒸し暑い雨の日に駆けつけたことか。
 地下鉄千代田線乃木坂駅から葬儀所に向かう道すがら、すでに聞こえていたが、僕が良輔さん以上に親しくさせてもらっていた奥様の更予さんとの対話の様子が、葬儀所に流れていた。とてもなつかしくて、それだけで涙が出そうになった。

 午後2時に「お別れの会」は始まった。僕の国立音楽大学声楽科時代の恩師、テノール歌手の中村健(なかむら たけし)先生が葬儀委員長を務めていて、冒頭に挨拶を述べておられた。それから何人かスピーチが続いた。
 特に印象的だったのは、戦後のオペラ界を牽引してきた巨人達が次々と夭逝していく中、今やまさに孤軍奮闘のような状態にある演出家の栗山昌良(くりやま まさよし)氏が、鈴木敬介氏の葬儀の時と同様、背筋をピンと伸ばし実に矍鑠(かくしゃく)と「お別れの言葉」を述べられたこと。聞きながら気が付いてみたら、自分の背筋もピンとなっていた。この人は絶対に百歳まで現役でいると確信した。
 また、門下生代表の瀬山詠子(せやま えいこ)さんの「感謝の言葉」は、原稿も持たず、まことに心に染みいる愛情溢れたものであった。門下生による「青の会」の命名は、「ブルさん」のブルをブルーと引っかけたところからきているが、同時に、「何歳になってもどんなにキャリアを積んでも青二才なんだという戒めを心に持って精進すべし」という想いを弟子一同持っているとおっしゃっていたのが印象的であった。

 その後、畑中氏の作曲した歌曲の演奏(大島洋子さん上手!)や慶應義塾ワグネルソサィエティ男声合唱団の大合唱による男声版「タンホイザー大行進曲」の演奏などあって、献花の時間になった。いやあ、びっくらコイた!弔問客が多く、献花は果てしなく続いた。3時15分くらいから始まったが、僕が献花をしたのは、なんと4時半を回っていた。
 献花の間、畑中氏自身の歌う歌曲の数々がエンドレスで会場に流れていた。今さらなんだけど、あらためて驚いた。なんという端正で丁寧で心のこもった“うた”なのだろう!畑中氏は、ヴェルディやワーグナーを歌うような巨大な声量の持ち主ではなかったであろう(高校生の頃聴いたリサイタルでもそのように記憶している)が、そのニュアンスに富んだ表情や、語学的センス、歌詞の精神を読み込む感性、フレージング、和声感・・・・どの曲を聴いても、胸を打たずにはおれない稀有の歌唱がそこに聴かれたのである。
 
 やはり偉大な人であった!こんな人と同時代に生きることを許された僕は、本当にしあわせだったとあらためて感じた。帰る道すがら、お葬式に出てこんなこと思うのもおかしいが、妙に心がすがすがしく、雨空の下でもスキップしたい気分だった。

ピアニストの脳を科学する
 今、面白い本を読んでいる。この「今日この頃」を皆さんが読む頃には、すでに読み終わっているだろうが、それは古屋晋一著の「ピアニストの脳を科学する」(春秋社)である。

リストの「ラ・カンパネラ」などの超絶技巧の大曲を、いともたやすく、華麗に弾きこなすピアニスト。多い曲では一分間に数千個もの鍵盤を打鍵するという調査もあるほどですが、膨大な数の音符をすべて頭の中に記憶し、それを左右10本の指を使って正確無比にアウトプットしつつ、聴く人を心の底から感動させる ような、芸術的な演奏を繰り広げる・・・・・。
そのようなピアニストは、感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力をもったアスリートであり、優れた記憶力、ハイスピードで膨大な情報を緻密に処理できる、高度な知性の持ち主です。
(著者の前書きより)
 そのピアニストがピアノを弾いている時に、脳のどの部分がどのように動いているか、という事を徹底調査したのがこの本である。それを、普通の人、ピアノ初心者、かなり弾けるアマチュア、コンクール入賞者やプロという風に、様々な段階に分けて、脳部位の発達した体積の違いから始まって、それぞれの状況の中で脳の活動がどのように変化するか微細に渡っての研究は、知的好奇心を大いに刺激する。

 その中でも、特に興味深かったのは、初見演奏に関するリサーチである。ピアニストが初見演奏をする時には、実際に指がリアルタイムで弾いている箇所より、少し前の譜面を目が追っている。その際に脳は、わずかな間だけその譜面を「覚える」のである。だから初見演奏の能力にはワーキングメモリー(短期記憶)という能力が深く関わってくるという。
 さらにプロのピアニストは、譜面を見てから弾くまでの間に、音階、アルペジオ、和音などをグループとして理解し、さらに適切な指使いを選び出し、適切な運動性をもって演奏に辿り着くのだ。こう言われてみると、普段何気なくやっていることでも、結構複雑な処理能力を駆使しているんだなあと妙に感心してしまう。いや、それどころか、どういう事に気をつけたら、それぞれの能力を伸ばせるのかというヒントがあちこちに隠されているのである。

 こういうことも書いてあった。
たとえばハーモニー(和声)の認識には、言語の文法を処理する脳部位である「ブローカー野」が関与していることがわかっています。リズムの処理には、聴覚野に加えて、身体の動きをつかさどる脳部位(運動前野、大脳基底核、小脳)が関与しています。そして右の脳が拍子を、左の脳がリズムの中にある規則性(グループ)を処理していると言われています。
 ね、面白いでしょう。僕は、音楽の中でも特にハーモニーに関心がある。確かにこの本に書いてあるように、僕がハーモニーを認識する思考経路は、やはり同じように関心がある語学の文法を認識する思考経路と一緒だ。それとリズムというものが身体能力と一体となっているのは、リズムに乗ってダンスするだけでなく、あらゆる経験から納得出来る。

 この本の後半は、ピアニストの筋肉の使い方が、いかに能率良く省エネで使われているかに言及している。たとえばフォルテで和音をつかもうと上げた腕を、初心者はそのまま力づくで降ろすだけだが、プロは、うまく重力を使い、さらに「しなり」を入れる事で、筋肉を過度に緊張させていたずらに疲労させることなく目的を達することが出来るし、そうした省エネと脱力というものが、長時間の練習や演奏に耐えられる筋肉の使い方を導いているわけである。
 また、ピアニストによって音色が違うという事について、一般的には猫が歩いても同じ音がするというピアノという楽器の構造に関する常識をくつがえしている。打鍵のスピードが同じで音量が同じでも、「鍵盤の加速のしかた」によって、ハンマーのしなりかたが変化し、その結果、倍音構成にわずかな変化があることを突きとめたというのである。
 その他、腱鞘炎をはじめとする、ピアニスト特有の病気に言及したり、とにかく面白くて読み始めたら止まらない。この本は、ピアノを弾かない人にも、音楽に特に興味がない人でも楽しいに違いない。これを読んでいるとつくづく、音楽って局部的とはいえスポーツと一緒だし、音楽家ってアスリートなのだなあと思う。

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