超エキサイティングな邂逅~日中アイーダ

国会議事堂包囲集会に行ってきました!
 7月29日日曜日。午前中は群馬で「おにころ」の練習。それから11:28新町駅発湘南新宿ラインに飛び乗って、新宿に12:59に到着。14:00からの日中合同「アイーダ」公演に出る。その後は、妻と二人で国会議事堂を包囲する反原発集会に行く。僕にとっては初めての反原発集会。なんて濃い一日だろう!

 地下鉄丸ノ内線に乗って国会議事堂前で降りる。驚いたのは、お巡りさん達が多数出ていて、集会に参加する人達相手に、
「こちらの出口からのみ出て下さい」
と巧みに誘導している。ボランティアではなくて、警察官自ら・・・・なんか気持ち悪いな・・・・・でも、その謎はすぐに解けた。出口に着いて前に進もうとしたら、警察官によって強力なバリケードが作られていて、とても前に進めない。国会議事堂を包囲しようとしているのに、近くに行けないように警察によってコントロールされているというわけだ。
 あたりはなんとなく殺気立っている。
「おい!なんでもっと先に行かせてくれないんだ?これ以上国会議事堂に近づかせないってつもりか?」
「ここで抗議活動を行って下さい」
「なにい?」
と今にもつかみかかりそうな不穏な雰囲気が漂っている。

 シュプレヒコールSprech-chorが始まった。
「原発反対!再稼働反対!こどもを守れ!未来を守れ!」
と叫びながら、すごくすごく大切なことに気付かされた。それだけでも今日ここに参加して良かったと思った。それは次の事である。
 僕は、ミサなどの礼拝で、誰に聴かせるわけでもないのに聖歌を歌うという生活を自分の中に持っている。でも世の中の人がみんなそういうわけではない。特に音楽家でそれを知っている人と知らない人との間には、ある種のギャップがあるような気がする。つまり、僕が礼拝で聖歌を歌う時、それは人ではなく神に向かう祈りなのだ。そして、僕が演奏会の本番で指揮している時も、全く同じ心境なのだ。つまり僕は、自分の音楽を「人に向かって」奏でるのではなく、「神に向かう祈りとして」奏でているのだ。

 みなさんは何故今この話を持ち出すのかと思うでしょう。実は、僕は「原発反対!」と叫びながら、
「あれっ、いつもと一緒だ!」
と思ったのだ。最初は、叫びながら、
「これって、誰に向かって叫んでいるのだろう?野田総理かな?マスコミかな?」
とぼんやり思っていたのだが、その内「いつものように」無心になってきたのだ。その時、
「ああそうか!」
と気が付いた。
 つまり、シュプレヒコールは祈りなのだ。これだけの数の見ず知らずの人達が集まって、ひとつの気持ちになって捧げる祈りなのである。そう思ってあたりを見渡すと、かつての運動家とか革命戦士といったものものしい雰囲気とは全く違って、家族連れや、ポケットライトを持った若者や、初老のおじさんなど、普通の人達が、僕達の住んでいる地球や僕たちの未来を守ろうと集まってきている。
 警察が作ったバリケードに抗議していた人達も、シュプレヒコールが始まると、むしろそちらの方に気持ちが集中していき、いいようのない連帯感があたりに漂ってきた。シュプレヒコールが高まっているのと反比例するように、高まっていく内面の静けさに、僕は心打たれて、胸に込み上げるものを感じた。

祈ろう!祈ろう!僕達の地球を守るために!
祈ろう!祈ろう!明日のよりよい世界を創り出すために!
祈ろう!祈ろう!こどもたちに平和で住みよい世の中を準備出来るように!
神よ、われらを守り給え。
天のいと高きところには神に栄光、地にはみこころにかなう人たちに平和あれ!

超エキサイティングな邂逅~日中アイーダ
 7月24日火曜日は、最近の中では最も緊張した日だったかも知れない。我ら50人の新国立劇場合唱団に、北京国家大劇院合唱団50人が加わり、合計100人で「アイーダ」の合唱音楽練習を、他ならぬ僕がつけるのだ。前の日まで日本人だけで練習していたが、一体中国の合唱団がどんな風に準備してきて、一緒にやったらどんな風になるのか見当もつかなかった。

 練習5分前、
「なんかドキドキするね」
と僕がピアノに座っている冨平恭平(とみひら きょうへい)君に言うと、彼も、
「なんですかね。この変な緊張感は!」
と言う。
「バイロイトの方がまだ気楽だったぞ!」
 北京国家大劇院の合唱団のメンバーが入ってきた。あれれれれれ?随分若いな。思ったより洒落た格好をしているし、女声団員達は結構可愛い。話に聞くと、ここの合唱団は結成されてからまだ2年半くらいしか経っていないそうである。しかも合唱団員の平均年齢は、なんと25歳だということだ。平均25歳というとね、半分以上は僕の娘より若いということか。

 練習が始まった。今日はソプラノ中国人、ソプラノ日本人、アルト中国人、アルト日本人という風に交互に座ってもらっている。時々日本人だけで歌わせたり、反対に中国人だけで歌わせたりして、それから両者の擦り合わせをした。
 国家大劇院合唱団を聴いて驚いた。予想していたのと全然違う。若いということもあるのだろう、声が豊かなだけでなく、ピアノからフォルテまで全ての表情が可能な高度なテクニックを身につけているのだ。僕が容赦なく要求を突きつけてもどんどんついてくる。さすが中国全土から厳しいオーディションをして集めただけのことはある。それに、かなりきちんとした指導がなされていると見える。
 ある個所で中国人のテノールだけ抜き出して歌わせたら、あまりの素晴らしさに、僕はつい、
「あのさあ、君たち新国立劇場に来ない?」
と言ったら、めちゃめちゃウケた。

 キャリアは新国立劇場合唱団の方があるし、今回の「アイーダ」の音楽は、僕がすでに新国立劇場合唱団で作り上げていたこともあるが、国家大劇院合唱団のメンバー達は、我々がどういうサウンドでどのように歌っているのか注意深く感じ取り、それに沿って最初は控えめに、それからだんだん自分たちの声を出してくる。とても謙虚で友好的だ。合唱を仕切っている合唱団長の黄小曼Huang Xiaomanさんは、
「この練習は彼等にとって、とても良い刺激になっていると思いますよ。彼等は若いのでまだ何も知りませんから、どんどん教えてやって下さい。どんどん吸収しますから」
と言ってくれた。ありがたいお言葉だ。

 実際、フレージングとかは最初野暮ったかった。音楽作りは荒削りだったと言ってもいい。彼等に欠けていたのは、たとえば、このような表現の時には、どのような音色を出すか、そのためには、具体的にどのように体や喉を使ってどのように息を送るか、といった繊細な表現のための細かいテクニック。でも若くて柔軟な彼等は、約3時間の練習後、見事な変貌を遂げて、たちまち第一級のコーラスに仕上がってしまった。
 さてそうなると、あせるのは我々日本人側の方。
「まだまだ表現が雑ねえ」
などと安心している間に、どんどん追いつかれてしまった。今や、ブリリアントな響きでは完全に彼等に負けている。特に男性のバスの深い声や、トップ・テノールの高い声の輝かしさなど、我々がどう努力してもかなわない点があり、あらためて現在の中国音楽界の凄さに驚く。
 とにかく、このコラボレーションは、双方の合唱団にとって大きな発見と刺激をもたらし、音楽的に予想をはるかに超える成果をもたらしつつある。練習中は双方ともムキになって、
「あまり頑張りすぎないように」
と僕に注意されることもあった両合唱団員であるが、練習が終わるとむしろ共通の目的を持ってつながっている者同士、すぐ仲良くなってしまう。
 国家大劇院のメンバーは、とても人なつこくて明るい。僕とすれ違うと、みんなきちんと僕の眼を見て微笑みながら挨拶してくる。我々のメンバーの誰かが中国のガイドブックを見ていると、
「その店はマズいからやめたほうがいいよ。こっちの方が美味しいからね」
とアドバイスをくれるし、反対に彼らもメンバー達に、
「この近くでおいしい回転寿司ないでしょうかね」
と聞いてくるという。

 7月27日金曜日は、新国立劇場にて第一回目の公演。アイーダ役の和慧He Huiの圧倒的歌唱をはじめ、日中両国からの第一級の声の饗宴は、すでに日本とか中国とかを越えて、世界中のどの歌劇場でも聴けないほどのレベルだった。観客は沸き立ち、ブラボーの嵐であった。その後の打ち上げで、僕たちはもっともっと仲良くなっていった。
 両国の合唱団が持ち曲を披露する時間になった。最初に国家大劇院の女声合唱が美しい中国の歌を披露した。僕たちが大きな拍手を送ると、今度は男性達がホワイエにしつらえた特設舞台に躍り出て来て、歌ったのはなんとプッチーニ作曲「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」。それをテノールといわずバスといわず、全員でユニゾンで歌ったのだ。しかも最後のvinceroの高音のシの音を、バスのメンバーまでもが出していた!もう、びっくり仰天してしまって言葉もなかった。
「ヤベエ、この後僕たちが用意しているのは『ふるさと』だぜ。じ、地味かも・・・」
 でもね、この「ふるさと」の演奏は、案外良かった。というか、手前味噌になるが、我々日本人の合唱団はやっぱり熟成度が違うと思った。トータルな意味での音楽性は、才能や若いエネルギーだけでは到達出来ないのだ。「ふるさと」では、フレージングの適切さが、人々の心に染みいるような情感を醸しだし、レセプションに参加していた文化庁長官をはじめとする方々の心も打ったようだった。その点で、新国立劇場合唱団もまだまだ負けてはいないと思った。日本は成熟度で勝負出来るのである。

 さて、今週はいよいよ北京行きだ。どんな日々が僕たちを待ち構えているのか見当もつかない。でも、これから日本と中国の両国をつなぐのは政治の力ではなく文化なのかも知れないと思うし、僕はいつも通り持ち前の好奇心でなんとか成果を上げて帰ってきたい。

誉子(たかこ)ちゃんのこと
 今年の上半期は僕にとって激動の時であった。死を見つめ、生を見つめ、音楽をする意味を考え、自分の人生を振り返り、これから何処へ行くべきか、半ば強制的に考えさせられている。
 勿論その中には、東京バロック・スコラーズのマタイ受難曲演奏会の成功と、新国立劇場合唱団と共に創り上げた「ローエングリン」の成功という、これまで自分が求め続けてきたものが一つの形に結実したポジティブな出来事もあった。
 でも、同じくらい悲しく辛い思いもしている。驚くべきことだが、これまでの僕の人生は、かなりしあわせで平穏なものであった。はっきり考えていたわけではないが、このままずっとしあわせな人生のみが僕を包んでいくのではないかと漠然と思っていたところに、今年になって根底から揺らぐようなことが起きている。
 ひとつは愛犬タンタンの死であった。僕をずっと見てきた人は、最近になって僕の白髪が進んでいることに気が付いているのではないだろうか。僕の髪は5月のひと月だけでかなり白くなったのだ。今は気持ち的に随分立ち直ってきているが、それでも胸の奥底には基本的に深い憂愁が宿っていて、この先それはもう消えることはないだろう。

 さらに、ここにきて思いがけないところから、もうひとつの死が僕に降りかかってきた。それが誉子(たかこ)ちゃんの突然の死であった。

 誉子ちゃんは“新町歌劇団の子”であった。というのは彼女は新町歌劇団と共に育ってきたのである。浜松バッハ研究会もそうであるが、僕は自分の合唱団の練習の時に、練習の邪魔にさえならなければ、小さな子供を連れて来ても構わないと言っている。浜松では、そうして小さい頃からバッハ研究会の練習を聞いて育った悠(はるか)ちゃんが、愛知県立藝術大学ヴァイオリン科に行って、今度のロ短調ミサ曲では、オーケストラのメンバーとして参加するし、真央(まお)ちゃんはパリでピアノを勉強している。
 誉子ちゃんがお母さんに連れられて新町歌劇団にやって来たのは、わずか3歳の時だった。練習を聞きながらその辺でおとなしく遊んでいた良い子で、時には眠ってしまってソファから転げ落ちてドタッという音で団員達がびっくりしたこともある。
 やがて「おにころ」の子役で参加するようになった。そうこうしている内に、今度は音楽の道を志したいと言うようになり、僕は先生を紹介してあげたりした。そしてめでたく東京音楽大学声楽科に入学。高崎から通っていたこともあり、在学中も新町歌劇団に通い続けた。勿論もう子役ではなく大人の合唱団員に混じって。
 誉子ちゃんのお陰で、老齢化が進んでいた新町歌劇団に若い子達がどんどん入ってくるようになり、入ってくると彼女が面倒を見てくれたので、若い子達が歌劇団になじむのが早かった。彼女はいつも彼らの中心的存在であり続けた。もともと整った顔の可愛い女の子であったが、成熟すると共にハットするほどの美人となっていった。

 2010年には音楽劇「ノアの方舟」で、オリーブの葉をくわえて方舟に戻ってくる“鳩くん”の役を演じた。合唱団員としてではなく、初めて僕は彼女にソロの役を与えた。彼女はその期待に応えて、まぶしいほど新鮮な鳩くんを演じてくれた。公演にクラリネットで参加していながら、誉子ちゃんのメイクをしてあげた次女の杏奈は、彼女の美しさに惹かれて、その後自分のメイクのモデルとして頼んだりしていた。
 とはいえ、常日頃一流のプロの歌手達の歌を聴いている僕からみると、彼女のソプラノは、最近まで未熟なところもあり、
「うーん、まだまだ学生の歌だなあ」
と思っていた。でも最近、彼女の歌は急に変わってきた。いよいよ本気になってきたなと僕は思った。そして、東京音大大学院合格の知らせが僕の所に届いた。幼児の頃から彼女の成長を見続けていた僕が、その通知をきいてどれだけ喜んだか、みなさんも想像できるでしょう。

 7月22日日曜日。新おにころ役の大森いちえいさんをはじめとするメイン・キャスト達が群馬を訪れ、「おにころ」の練習も佳境に入ってきた。誉子ちゃんは、熱があり体調が悪かったにもかかわらず、持ち前の責任感から、おにころ相手役である桃花のカヴァーとしてメイン・キャスト相手に練習に参加していた。後で聞いた話だが、その前の日には、なんと39度の熱が出ていたという。僕は彼女に、
「いいよいいよ、無理しないでね。歌は声を抜いて歌っていいし、高いところは1オクターブ低く歌ってもいいよ。セリフはそれなりに言わないと芝居が成立しないけどね」
と言ったが、彼女は律儀にもかなりきちんと歌っていたし、演技も力を抜かずに演じきった。

 ここからは、おにころ役の大森さんからの話である。
「あなたの瞳のなかに」というナンバーのある場面は、おにころと桃花のラブシーンだ。村人達のために自らの身を犠牲にする使命を負ったおにころに、桃花が背中からすがりつく。
「行かないで!」
おにころは桃花を振り向かせる。ふたりの目が見つめ合う。桃花が驚いて言う。
「あなたの瞳の中に宇宙の川が見える・・・・」

 練習が終わって大森さんと別れ際、誉子ちゃんは、
「大森さんとラブシーンができて、嬉しかったです!」
と言ってきたという。そばにいたお母さんが(お母さんも団員である)、
「娘のラブシーンを見るのは恥ずかしいです」
とおっしゃったので、大森さんは冗談で、
「では今度はお母さんとラブシーンしましょう」
と言った。お母さんもなかなか美人なのである。さすが大森さんである。すると誉子ちゃんが、
「母のラブシーンなんか見たら、今度はあたしが恥ずかしくなります」
と言って、お母さんと二人で、
「大森さん、帰りは気をつけて下さいね。さようならぁ!」
といつも通りの若さ溢れる明るい笑顔で見送ってくれたという。

その次の日の突然死である。運命は残酷である。

 妻の車で誉子ちゃんに会いに行った。演奏会用に新調した真っ赤なドレスを着て、息を呑むような美しさだった。こんなおじさんがくちづけしても起きては来ないだろうけど、王子様がくちづけしたら本当に起きてきてニコッと微笑みかける白雪姫のようだった。あんな清楚で輝くような美しい亡きがらは生まれてから見たことがない。でも、それだけに痛ましかった。

 それから今週の週末の新町歌劇団の練習まで、僕は本当にいろいろなことを考えた。団員達に走るであろう衝撃と、モチベーションの低下が、「おにころ」上演の危機をもたらすのではないか・・・・・実質的にも、誉子ちゃんがいないソプラノ・パートの損失は大きいのだ・・・・いや、それ以前に、こうした状況で果たして僕自身が「おにころ」に取り組めるのか・・・・・「おにころ」を何が何でも上演したいと思うのは自分自身のエゴではないか・・・・解き放たれた心へ・・・愛を取りもどせ・・・などと偉そうなことを言っていながら、なんて無力なのだろう・・・・・何も出来なかったではないか・・・・。

 でも・・・・・「おにころ」は僕が作ったのではない。「おにころ」の中に表現された数々の真実は、僕のような者が自分の頭の中から絞り出せるようなものではないのだ。「おにころ」は光に溢れた作品だ。その光は、僕という媒体を通して神から伝えられたものなのだ。僕はただそれをこの地上にincarnation肉化させただけだ。「おにころ」は、至高なるものの意志によって上演されなければならないものなのだ。何があっても、どんなことが起ころうとも!

 この決心に至って、僕の腹は決まった。団員とこの苦難を共に乗り越えよう!その決心に呼応するように、事務局長からメールが来た。
「お母さんのSさんが『おにころ』の本番に乗ると言っています!」
僕は、その言葉に本当に感動した。誉子ちゃんと新町歌劇団で過ごした20年の歳月。それがSさんはじめ本当に団員達の人生を支えているんだなあと、あらためて思った。
 いいや、そうじゃない。みんなが支えているのはむしろ僕の人生だ。この団のために僕は生まれて初めての大作「おにころ」を創ったし、この団によって「愛果てしなく」も「ナディーヌ」も世に陽の目を見ることとなった。新町歌劇団こそは、僕の活動の原点なのだ!

 7月28日土曜日。新町歌劇団の練習。みんなを集めて話をする。
「『おにころ』が、来てくれた人達の魂を揺さぶる素晴らしい公演になることしか、僕たちには道が残されてはいません。誉子ちゃんのためにも、この悲しみを乗り越えてみんなで立ち上がりましょう!」
 その後の歌劇団の人達の態度は本当に立派だった。僕は、これらの人達と20数年に渡って活動してきたことを、人生最大の誇りに思う。自分が死んだ時に、神様の前に出て、このことだけは厚かましくも言えると思う。
「少なくとも僕は、新町歌劇団を作り、暖かくてやさしくて、どんな人達のどんな感情も受け入れる素晴らしい団員達と共に、長年に渡って活動をしてきました。そのことだけは褒めてください」

 誉子ちゃん!君の素直さ、ひたむきさ、美しさ、やさしさをありがとう!
君は、僕たち新町歌劇団の自慢でした。
「おにころ」のことは心配しないでね。みんなで力を合わせて頑張るからね。
天国でまた逢おうね。
最近は、天国で逢う約束をしている人(&犬)ばかりがどんどん増えて困るよ。そっちの方がずっと楽しそうなんだから。
必ずまた逢おうね。
その日まで、さようなら!
誉子ちゃん、やすらかに!


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