とてつもない遊びLes Vents Francais

三澤洋史   

 9月16日の夜、NHKでレ・ヴァン・フランセLes Vents Francaisの演奏を聴いた。妻と志保と3人でテレビの前に釘付けになった。当たり前のように演奏しているのだが、目の前で繰り広げられているのは、とてつもなく高度な演奏だ。

 レ・ヴァン・フランセとは、ベルリン・フィルの首席フルート奏者であるエマニュエル・パユをはじめとして、普段はそれぞれの場所で活躍しているフランス人のトップアーティストの木管奏者達が、この時だけ集まるアンサンブル集団だ。木管五重奏にピアノのエリック・ル・サージュが加わって6人で活動する。
 グループの名前のventは、フランス語で風を意味する。フランス語では、管楽器のことをinstrment a vent(風の楽器)というので、そのことにも引っかけてある。ventが複数になって冠詞がついてles ventsとなっているのは(普通は風は複数にはならない)、奏者の一人一人が風だということだ。だからLes Vents Francaisは、直訳すると「フランスの風達」という意味。

 特に、エマニュエル・パユの輝かしい音色と、そして何よりビブラートに感嘆した。僕はビブラートにこだわる。歌手でも楽器奏者でも、なんでもかんでもかければいいと思って、のべつまくなし同じスピードのビブラートをかけている人がいるけれど、そんな人にパユのビブラートを聴かせたい。
 フレージングに合わせてノンビブラートから細かいビブラートまで、実に適切なコントロールが利いているのである。とりわけ、フレーズの最後でピアノで消えていくノンビブラートの美しさにハッとさせられることが多かった。

 それから特筆すべきはラドヴァン・ヴラトコヴィチのホルンの安定感と包み込むような音色。って、ゆーか、オーボエもバッソンも、みんなもの凄くうまいんだ。クラリネットのポール・メイエの事はよく知っていた。杏奈がクラリネットをやっていたからね。今さらながら言うけれど、どうもフレンチ式のクラリネットの音色はあまり好きになれないな。
 メイエのクラリネットを聴きながら杏奈のことを思った。日本で仕事をすることを考えなかったら、杏奈もドイツで勉強させたらよかったかなと思う。日本の音楽界では、昔からあれだけドイツ一辺倒だったのに、何故かクラリネットはフレンチが主流で、フレンチでないと仕事が出来ないとすら言われるのだ。
 杏奈はパリに行って、先生に勧められて、よりフレンチっぽい音色のクランポンのクラリネットを買ったけれど、彼女は元来ジャーマンの深くて柔らかい音色を持っていたのだ。プリミエ・プリを取るためにフレンチの音色を追求していたのは本意ではなかったのではないかと、メイエの音色を聴きながら妻と話し合った。でも、ドイツに行ったらクラリネットやめなかったわけでもないかもね。今は、メイクアップ・アーティストの道をまっしぐらに進んでいて、全く後悔はなさそうだし。まあ、フランスものにはメイエの音色は良く合っている。これはこれでひとつの確固たる美学を持っているわけだ。

 圧巻だったのが、プーランクの六重奏曲。みんな曲想やフレージングによってテンポを微妙に動かしているが、それでいて何事もなかったかのように全てがピッタリと合っている。それぞれが自分の感性を全開にして自由に演奏していながら、皮膚感覚で相手の音楽に寄り添っている。随所に遊び心が炸裂する。もう聴いていて興奮しっぱなしだ。志保は、この曲を演奏会で弾いたことがあるので、隅々までよく知っている。こんな時の三澤家はうるさい。
「うわあ、そう来たか!」
「そのアゴーギクでよく合うね!」
「このテンポの変わり目、変わったのが分からないくらい自然だ!」
「あはははは!そこまで遊ぶか!」

 この曲は、あんなハジケまくった末に、終わり方はなんか、食べ物のかすが飛び散らかったダイニング・ルームで、そっとナプキンで口元を拭くようにすまし顔で終わる。素晴らしい曲だ。僕はやっぱりプーランクが好き!

 今度もし来日したら、なにがなんでも時間を作って行ってみたいLes Vents Francais。それまで6人とも元気でいてね。

乱読週間
 今週はいろんな本を、同時進行に、しかも「斜め読み」や「飛ばし読み」したりして乱読している。小説「ジェノサイド」を読んだ後、小説を読むのはしばらく休みにした。9月23日に名古屋でワーグナー作曲「パルジファル」に関する講演会を行うので、その資料集めに入らなければならないのと、あるところから依頼を受けた、ベートーヴェンの第九関係のコンテンツ(中身に関しては、もっと具体的になったら説明します)のプロジェクトのために、シラーとベートーヴェンの第九交響曲との関係を調べなければならないからだ。

 「パルジファル」に関しては、いくつかの文献でライトモチーフを調べたら、本によってライトモチーフの名前が違う。作曲家であるワーグナーは、もともとライトモチーフの呼び方には一切関わっていない。彼が、意識してライトモチーフを用いて作品全体を作り始めたのは楽劇「ニーベルングの指環」からだが、この叙事的作品では、「指環」「剣」などのように疑いようがないほどはっきりしている。
 ところが、「パルジファル」は、「トリスタンとイゾルデ」と同じように、哲学的で精神的で、抽象的な概念を扱っている作品なので、「贖罪」とか「苦悩」とか「悔恨」といった内面的なモチーフが活躍する。だから人によって解釈のズレが出てくるのだ。

 「ピーター・グライムズ」の立ち稽古の時に、新国立劇場の音楽スタッフの城谷正博(じょうや まさひろ)君にそんな話をしたら、彼がShott社から出ているワーグナーのライトモチーフ集なるものを持っているという。そこで、彼から借りてみた。これはなかなか便利だ。2巻に分かれていて、第1巻では「リエンツィ」から始まって「トリスタンとイゾルデ」「マイスタージンガー」までのライトモチーフが網羅されている。第2巻では「ニーベルングの指環」4部作と「パルジファル」が納められている。僕も欲しくなったので、早速Shottのホームページから直接購入した。

 「パルジファル」のライトモチーフに関する資料で、一番役に立ったのは、書物ではなく、Guide to Thematic Material of Parsifalというネット上の英語のサイトだった。

このサイトは、「パルジファル」に関する膨大な研究書だ。その中で、ライトモチーフのコーナーは、ほんの一部だ。それでもかなり詳細にライトモチーフの説明がなされている。これを作った人は凄い!でも思った。こんな素晴らしい研究書をただで簡単に読めてしまうのでは、商売にならないじゃないか。インターネットって奉仕の精神から成り立っているのか?

 一方、第九とシラーとの関係を調べようと思ってネット検索をかけたが、こちらに関しては、ほとんど満足な成果は得られなかった。それで、新宿高島屋の向こうにある紀伊國屋書店に出掛けて行った。驚いたことに、まさに僕の知りたい情報にドンピシャリで答える書物が2冊ほどあった。
 第九のアナリーゼの本も出ていたので、(アナリーゼは自分でも出来るのだが)もしかしたら新しい情報が得られるかも知れないと思って、先の本と合わせて3冊買ってきた。それぞれが安くない本で、3冊合わせて1万3千円もする。僕は思った。第九の本だと、需要があって儲かるので、ネット上でうっかり出したりしないで、きちんと本で売ってるわけだね。

 こういう場合、これまでの常識では、需要がいっぱいある第九に関する書物の方が安くて、よりオタッキーな「パルジファル」に関する情報を得るためには、沢山お金がかかると覚悟していたのに、「パルジファル」に関して言えば、インターネットのお陰で、ほぼタダで得たいものが得られた。ITというものは、このように社会的な常識をも変えていく。

 そうやって、調べ物をしている間に、寄り道のようにして他の本も読んでいる。「ジェノサイド」を読んでから大量虐殺について考えていた。すると偶然、朝日新聞の第1面の下の広告に、ロメオ・ダレール著、金田耕一訳「なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか」(風行社)という本の紹介があった。今忙しくて読めないのを分かっていながら、いつかは読むべきだと、仕事に行く前に府中の啓文堂でとりあえず買ってみた。買ったら買ったで気になって、結局読み始めてしまった。

 この本を読んで、ルアンダにおけるツチ族とフツ族の抗争や90年代前半の内戦と大量虐殺のことは分かった。なぜ世界はルワンダを救えなかったのかそれに、虐殺の具体的な生々しい描写は、そこで実際にPKO司令官をしていた著者だからこそ書けたことだ。
 だが、この本を僕はきちんと読むことが出来なかった。途中で放り出してしまったのではなくて、最後まで読んだのだけれど、斜め読みしてしまったのだ。どうしてかというと、これは、いわゆる悪文と言われる文章である。無駄な描写が多く、どうでもいい事と本当に伝えなければならない事が同じ比重で書いてある。
 こんな時、僕は斜め読みのテクニックを使う。サーッとページを上から俯瞰するように眺めていく。目にいくつかの特徴のある言葉が入ってくる。それをつなぎ合わせていけば、大体このページはどんな内容の事を言っているのかは分かる。その中で、特に心に引っ掛かり、ここだと思う箇所で目を止める。こうして読んでいったら、決して悪い本ではなかった。
 ただ、現場にいた人が書いたから伝えている内容が必ず真実かというと、そこは慎重に見極めなければいけないと思った。時に、作者が自分の立場からものを言っている箇所において、もう少し客観的な角度から考えたいと思うことがあった。僕は、「パルジファル」と第九の準備が一段落したら、別のルワンダ関連の本を読んでみようと思っている。別の人による別の立場から、もう一度客観的にルワンダに向かい合ってみようと思う。それまで、僕自身、ルワンダに関するコメントも控えようと思う。
 でも、間違いなく言えることは、あの100日間で80万にも達したジェノサイド(大量殺戮)は、確かにあったのだ。そして、それが人類の現実なのだ。

メルケルの決断と日本の選択
 そんなわけで、斜め読みしたお陰で、細かい字で500ページ近い分厚い本なのに、すぐ読み切ってしまった。そんな折り、政府が「原発を2030年代中を目標に全廃する」というニュースが入ってきた。僕は驚いたが、よく調べてみると、全廃までの間には、現在止めている原発を再稼働する事や、使用済み核燃料の再処理に関しての決定を先送りしたり、さらに、建設を中止していた新しい原発の建設再開など、不透明なことが多すぎて、とても手放しで喜べる内容ではない。
 そこにもってきて、経団連の会長がマスコミに登場して、原発全廃に反対の意を表明したり、自民党の総裁選の候補者全員が原発全廃に反対する意向を示したり・・・・・。なんだ、これで、解散総選挙で民主党政権が倒れて、再び自民党が政権を取ったら、あっけなくこの全廃宣言はチャラになるのかと思った。
 一方、野田さんは野田さんで、解散総選挙で負けたくないために、苦し紛れで国民にゴマすったのだろう。その割にいろいろが歯切れが悪く、タヌキの尻尾が丸見えなのだ。もう何もかもが馬鹿馬鹿しい茶番劇に思われて、日本の政治のレベルの低さに気が抜けてしまった。

 意気消沈しながら啓文堂をぶらぶら歩いていたら、瞳の中にまるで僕に見つけてもらえるのをずっと待ち続けていたように、あるタイトルが飛び込んできた。それは、熊谷徹著の「なぜメルケルは『転向』したのか」(日経BP社)という本であった。気が付いたら僕はその本を取ってレジーに並んでいた。
 ドイツのメルケル首相の父親はプロテスタントの牧師であり、メルケル自身は、もともと科学者である。まだ壁の崩壊していないベルリンの東ドイツ科学アカデミーの理化学中央研究所で研究していて、その研究テーマにはアイソトープや放射線の研究も含まれていたという。つまり、彼女は放射能についての豊富な知識を持っているのだ。その知識に基づき、彼女は長年に渡って原発推進派に属していたのである。しかし、福島第一原発の事故以来、彼女は原発に対する考えを180度変えたのだ。

「私はあえて強調したいことがあります。私は昨年秋に発表した長期エネルギー戦略の中で、原子炉の稼働年数を延長しました。しかし私は今日、この連邦会議の議場ではっきりと申し上げます。福島事故は原子力についての私の態度を変えたのです。」
(2011年6月9日ドイツ連邦会議でのメルケルの演説より)
 この本の興味深いところは、メルケル首相の「転向」の理由を解明するのがテーマというよりも、むしろドイツ人という民族の思想論であり行動論のように思われる点だ。ドイツの国民が何故、福島第一原発事故からわずか4ヶ月の間に、メルケルの決定を受け容れ、法案を実行に移すことが出来たのか?そこには、単に国民性ということだけでは片付けることの出来ない、大切な問題が横たわっているような気がする。
 福島の事故の後、メルケルは二つの委員会に助言を求めた。それはRSKと呼ばれる「原子炉安全委員会」と「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」である。RSKは原子炉のストレステストを実施したことで知られている専門家の技術者集団である。一方、倫理委員会の方は、通常は、臓器移植や動物実験あるいは遺伝子テストなど、医学に関するテーマを扱うことがほとんどであって、原子力に関してはむしろ素人集団である。
 RSKは、様々な調査の結果、ドイツの原発は日本のような大地震にも津波にもさらされる可能性が薄く、安全性にも問題があるわけではないので、原子炉を廃止する必要はないという結論を出した。にもかかわらず、メルケルはむしろ素人集団である倫理委員会の意見に耳を傾け、全廃という結論を出したのだ。倫理委員会の意見はこうだ。
キリスト教の伝統とヨーロッパ文化の特性に基づき、我々は自然環境を自分の目的のために破壊せず、将来の世代のために保護するという特別な義務と責任を持っている。

人類がリスクを計測できず、制御できないテクノロジーは将来に対する負の遺産であり、子どもたちにそのようなものを引き継いではならない。

原子炉事故が起きた場合、自然が悪影響を受け、現場周辺の人々そして世界全体の人々の食糧確保に、制御不可能もしくは制御が極めて難しい結果が生じる。原子炉事故が最悪の場合にどのような結果を生むかはまだわかっていないし、全体像をつかむことは不可能だ。原子炉事故の影響を、空間的、時間的、社会的に限定することはできない。
 メルケルの転向は、このような倫理観からのものであった。原発を全廃するのは容易ではない。日本の経団連の会長が主張しているように、経済原理から言ったら飛んでもないと考える人は、ドイツ国内でも少なからずいる。だが、ドイツ人が日本人と決定的に違うところは、経済原理よりも何よりも先に、まず「人間としてどうであるべきか?」という倫理観によって行動が規定されたところだ。それがたとえ経済的にマイナスであろうとも、人間としてやるべきことはやらなければならないし、反対にやるべきでない事は断念しなければならないと彼らは考えているのだ。

ドイツ人の行動に関して、この本の中にとても興味深い記事を見た。以下、本文からの引用である。
一例を挙げる。社会主義時代の東ドイツの国境警備兵は、ベルリンの壁を超えて西側に逃亡しようとする東ドイツ市民を見つけたら、発砲、射殺してでも逃亡を食い止めるよう命令されていた。逃亡を阻止した警備兵には金一封が与えられた。しかし、ドイツ統一後、旧西ドイツ出身の裁判官は、逃亡者を射殺した兵士に対して殺人の罪で有罪判決を言い渡した。
兵士たちは「自分は命令に従っただけだ」と弁明した。社会主義時代の東ドイツでは、逃亡者の射殺は法律にかなっていた。しかし西ドイツ出身の裁判官たちは、「人を殺してはならない」という普遍的な原則(自然法)に照らせば、東ドイツ政府の命令は違法であり、兵士たちは自然法に基づく倫理的な判断によって、そのような命令を拒否すべきだったと結論づけたのだ。
 こうしたドイツ人の発想や行動は、周辺の他の国民から見てもやや極端である。だから僕は、それをそのまま日本人も見習うべきだとは思わない。むしろ、それでは旧東ドイツ警備兵が可哀想と、彼らに同情する部分が僕の心にもある。
 でも、欧米人が日本人よりもより個人主義である背景に、こうした自然法の存在があることも無視出来ない事実だ。以前、ミラノにいた時にも述べたが、ストライキをやったとしても、
「自分はそれに賛同しないから電車を動かすよ」
と、彼らは組織の中にいても、自分の価値観で行動している。その結果、ストライキの時でも時々電車が来るというややこしい結果を生み出しているのだが、彼らの社会ではそれを容認しているのだ。
 一方日本では、会社ぐるみで不正行為をしていたのが暴かれた場合、それに荷担していた個々の社員の罪の意識はとても低い。日本はそれを、
「仕方がなかった」
で済ませてしまうことを容認する社会だ。
「わたしが(人間として)間違っていました」
と思う人ってあまり多くないでしょう。
 要するに、日本人には絶対的な価値基準というものがないのである。まわりが右になびけば自分も右になびくだけなのだ。それはある意味楽な社会でもある。自然法に照らした良心の呵責を感じる必要がないのだから。

 現代の日本社会は、価値観や行動の動機について、経済原理をかなり上の方に置いている。これはアメリカの影響が多い。アメリカという国では、投資家たちの欲望を野放しにしていた。そして国ぐるみで自然法を忘れ、サブプライム問題やリーマン・ショックを起こしてしまった。戦後僕達が目標にしてきたアメリカは、挫折し自滅しかけている。それなのに日本は、そんなアメリカをまだ追従しようとしているように見える。
 お金を儲けようとする方法の中に、一般の人は、人を騙したり、盗んだりする選択肢を入れない。それがどんなに楽にそして即座に手に入る方法だとしてもだ。でも、全ての行動のモチベーションの最上位に経済原理を掲げている人だったら、騙したり盗んだり脅したりという選択肢も入れるに違いない。僕には、今の日本はそんな状態のような気がするのだ。
 僕達国民の命よりも経済の方が大事なのでは、と思われる場面が少なくない。ドイツよりもずっと地震や津波の危険性が高い我が国において、たいした備えもなしに、これから次々と原発を再稼働し、再び原発に依存する社会を作ろうとする昨今の風潮を見るにつけ、
「あーあ、今頃ドイツ人は日本人に失望し、軽蔑しているだろうなあ」
と恥ずかしい気持ちになる。

倫理で行動するドイツ人。その凛としたたたずまいが僕にはまぶしい。

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