スカルピア像をめぐって

三澤洋史   

風邪を引いてしまいました
 急に風邪を引いてしまった。熱は出ないが、喉が痛くて咳が出る。なによりも声が変なので、練習に支障が出る。水泳はおろか朝の散歩もここ何日かお休み。お酒も飲まない。練習が終わってビールの一口が待ち遠しいというのは健康な証拠なのだとあらためて思った。体調が悪いとお酒もおいしくないのだ。こんな時に限って、楽天から取り寄せたおいしそうなワインや発砲ワインが家にあまっている。
 運動をしないので、心なしか下腹の筋肉のまわりにうっすらと脂身の膜が出来ている気がする。だから恐くて体重計に乗れない。早く元気になりたいなあ。そしてまた運動した後の爽やかさを味わい、おいしいお酒を飲んで人生を謳歌したい!だって、一番いい季節なんだもの!

日本における大学のあり方
 田中真紀子文部科学大臣が、3つの大学からの設置申請を認可しなかった事で大騒ぎになった。結果的には、田中氏が前言を撤回し謝罪した。自民党をはじめとして野党は、この時とばかり、田中氏や彼女を任命した民主党政権を責め立てる。僕はこの一件の流れとその報道の仕方を見て、この国はおかしいと思う。

 まず、田中氏に悪いところが見あたらない。不正なお金を受け取ったわけでもないし、重大な失言をしたわけでもない。田中氏は、認可を求めますと言ってきた大学に対して、認可しませんと答えただけだ。すでに認可されている学校をさかのぼって却下したわけでもないし、そもそも文部科学大臣には認可を与えない権利はあるわけだろう。それを遂行しただけだ。どこが悪い?
 悪いとすると大学設置認可制度のあり方だろう。この時期になって来年4月から開校する大学の設置認可を求めるというのは、どう考えても遅すぎる。認可が下りてから建物を建て、教授達をはじめとする人材やそれぞれの科で必要な設備を整えるということはあり得ない。だとしたら、全て整えてから認可だけ求め、それが自動的に認められるというのがこれまで常識になっていたわけだ。田中氏がメスを入れたかったのがその常識に対してだったら、至極まっとうな考え方だ。

 僕は、個人的に、日本には大学が多すぎると思っている。僕が留学していた当時の西ベルリンでは、音楽大学と呼べるものはベルリン芸術大学Hochschule der Künste Berlinだけしかなかった。東西の壁が開き、東西ベルリンが統一されて東京に匹敵するような大都市になった現在でさえ、かつて東側にあったハンス・アイスラー音楽大学が加わって2校あるだけだ。一般大学でも、西ベルリン時代ではFUと呼ばれる自由大学Freie UniversitätとTUと呼ばれる工科大学Techinische Universitätの2校だけであった。それでいいと思う。というか、どうしてみんな大学に行く必要があるのだ。

 ドイツでは、本当に大学に行きたいと思う人だけが行く。そしてそれぞれの科で勉強した人は、なるべくそこで勉強したことを職業に生かそうとする。卒業試験で学生に与えるディプロムDiplom(学位)は、公のものとしてドイツ全土に通用する資格だから、学校による格差が生まれないように配慮される。
 たとえば音大でいうと、卒業試験に1という成績をもらえたヴァイオリン科の学生ならば、ドイツのBランク以下の新人オーケストラ楽員のオーディションに無試験でパスするか、それに準じる扱いをうける。反対に、仮に音楽大学を卒業したとしても、3とか4とかの成績だったら全く相手にされないし、その成績が一生ついてまわるので、ドイツ人はむしろ自分が大学に行ったことを隠すと聞く。
 また失業手当に関しても日本と制度が全く違う。ドイツでは、大学卒業時に就職出来なかった場合、まだ働いてもいないのに失業保険をもらうことができる。しかも、それは自分が所属していた科のディプロム取得者が、それにふさわしい職業についた場合に想定される給料額から割り出される分をもらえるのだ。
 ところがその人が、まあいいやと思って、一度八百屋さんで働いてしまうと、次に失業した場合、もう二度とディプロム取得者の額はもらえない。その人が大学のある科を卒業していながら、自分から進んで八百屋さんの待遇で満足したと見なされ、八百屋さんの給料から割り出された分になってしまうのだ。
 そういうシステムだから、ドイツの大学ではディプロムの水準を高くせざるを得ない。当然学生は必死で勉強しなければならない。大学に行く人の割合は日本に比べて圧倒的に少ないが、反面、大学生の学力的水準はドイツの方が圧倒的に高い。

 当たり前の事だけれど、大学とは本来学生が学問をしに行くところだ。遊んだりバイトをしたりしに行くところではない。また自分の勉強した科と全く無関係な有名企業に就職するために4年間暇つぶしをしている場所でもない。有名大学とは、ディプロム取得者の多い大学、あるいは成績優秀者の多い大学のことであって、入学試験の厳しい大学ではない。反対に、駄目な大学とは、そこに入ってもめぼしい卒業試験の成績が得られない大学のことである。
 また、ドイツでは、学生が良い先生を求めてどんどん大学を変える。大学の格差が表向きはないというのをモットーとしているドイツでは、編入が自由なのだ。たとえば、作曲家の細川俊夫君は、かつてベルリン芸術大学で僕と同じ時に作曲を学んでいたが、有名な作曲家リゲティが教えているというので、わざわざ大都市ベルリンからより小さい街のフライブルグ音楽大学に移っていった。良い先生がいる大学には、良い生徒が集まる。当たり前の事だ。

 ひるがえって、日本の大学の大講義室での講義は、今思い出してもゾッとする。僕は国立音大の時代に、村田武雄氏の「音楽鑑賞論」や東川清一氏の「マタイ受難曲」の講義を一番前の席で受けていたが、後ろから聞こえてくる無気力な雑談に、毎回吐き気がするような怒りを覚えていた。
「勉強したくない奴は来るな!」
と後ろを向いて怒鳴りたい衝動を何度抑えたことか。でも気の弱い僕は、「シー!」と言いながら瞬間的に騒音を軽減することくらいしか出来なかった。
 現在でも、様々な大学で講義を受け持つ先生達に僕は同情する。本当に勉強したいとは思っていない者が大学に居るということは、本当に勉強したい者にとっては迷惑なのである。そういう者は大学なんかに来ないで欲しい。そして、そうやって絞り込んでいったら、ほんの一握りの学生しか残らなかったとしたら、それが本来大学で学ぶべき人の数なのである。

 だから僕は、本当に必要な大学だけを残そうという意図に賛成だ。それどころか、この少子化でどこの大学も定員割れしているというのに、まだ建てようとする事が理解出来ない。これから開校するであろう3つの大学は、もしかしたら素晴らしい大学になるかも知れないので、その点でのコメントは控えるが、では、現在すでに存在している大学を文科省が先導して減らしていくことは本当に出来るのだろうか?すでにある大学を査定し、存在価値なしと評価を下した大学に対して閉鎖に追い込むことが本当に出来るのだろうか?誰がどの価値観で査定するのか?すでに働いている教授達の職を奪うことは本当に出来るのか?
 では、反対に大学をどんどん建てさせ、勝手に自由競争をさせ、自然に経営難に導き廃校にさせるという弱肉強食的方法の方がいいと言うのか?それは、倒産する企業を見棄てるのと同じように、痛まし過ぎはしないだろうか?

 こうした、これまで誰もメスを入れなかった問題に田中氏が踏み込んだのであるから、むしろあっぱれというべきである。一番現実的な方法、すなわち、これから設置認可を求める大学を認可しないということで、決して突飛な判断ではない。
 田中氏に問題があったとすれば、それを誰にも相談しないで田中氏だけの勝手な判断で「いきなり」やったということだろう。おそらく日本的な常識的方法であれば、まず現在の設置認可のあり方に対して変更を求め、もっと早い時期に申請及び認可をさせるよう法整備をし、次の申請からそれを実行すればよかったのかも知れない。でも、日本では、その間に何らかの経済原理が働いて、どこからか横やりが入って圧力がかかって、やっぱり元の木阿弥に戻る恐れがある。

 それよりも、愚かなのはマスコミだ。この問題の核心をこそ一番に報道するべきだ。
「田中真紀子、またやっちまった!」
なんて面白がって報道している場合ではないのだ。これを機会に大学のあり方についての本質的な議論が始まることをこそ、僕は是非期待したい。

 

スカルピア像をめぐって
 プッチーニ作曲「トスカ」第1幕ラストシーン。教会堂の中。荘厳な「テ・デウム」の祈りが捧げられる中、警視総監スカルピアはひとり残忍な思いにとらわれている。ローマへの反逆者アンジェロッティをかくまった罪でカヴァラドッシを逮捕し、それをエサに、カヴァラドッシの恋人である美しいトスカを我がものにしようと狙っているのである。

A doppia mira
tendo il voler, né il capo del ribelle
è la piu preziosa.
Ah di quegli occhi
vittoriossi con spasimo d'amor
fra le mie braccia...
L'uno al capestro
l'altra fra mie braccia...
私は二つの獲物を狙っている
より大切な方は反逆者の首ではない
ああ、それはあの勝ち誇った(トスカの)瞳
それが私の腕の中で愛にもだえるのを・・・
ひとりは絞首刑の縄に
そしてもうひとりは私の腕の中に・・・
(以下全て三澤洋史訳)
 オスティナートに乗った祈りの描写とスカルピアの内面告白とのコントラストは圧巻である。このスカルピア像をめぐって、長い間僕のイメージの中で試行錯誤が繰り返されてきた。その昔、留学先のベルリンで見たベルント・ヴァイクルなどが演じたスカルピアに、僕は、欲望に身を任せて我を忘れる男の哀れさを見たりしていた。その方が演技として奥深いような気がしていた。
「それほどまでにトスカに恋い焦がれているのか!」
 でも、それは間違っていたかも知れないと最近思う。イタリア語を、そのニュアンスを含めて自分で直訳出来るようになってみると、スカルピアの像が極めてはっきり浮かび上がってくるのだ。
 スカルピアの像は「オテロ」におけるイヤーゴになぞられることが多い。スカルピア自身が、トスカを使って政治犯アンジェロッティの行方を捜す時に、
Per ridurre un geloso allo sbaraglio
Jago ebbe un fazzoletto... ed io un ventaglio
嫉妬深い男を破滅に陥れるのに
イヤーゴはハンカチを使ったが
私の場合は扇子なのだ
と語っているし、他人の嫉妬心をうまく操って自分の思うように相手を陥れていくところはイヤーゴと似ている。
 しかしながら、イヤーゴと決定的に違うところがある。それは、イヤーゴは、ある意味インターネットのハッカーに似て、オテロが破滅したとて自分自身に直接利益が及ぶことはない。美しいデズデーモナが得られるわけでもない。目的は相手の破滅そのものである。動機は復讐。その復讐のきっかけは自身の嫉妬心と言えるのかも知れない。つまり嫉妬心と復讐という屈折した暗い情熱の間をぐるぐると回っており、彼自身が晴れ晴れとした幸福感を味わうことは決してない。それに、標的となる相手は自分より立場の高い人間なので、パワーハラスメントを使っているわけではない。つまりイヤーゴとは所詮屈折した卑屈で矮小な人間なのである。
 スカルピアの場合はもっと分かり易い。彼の目的は、言ってみればズバリ性欲の充足である。それをパワハラを使って実現させようとしている。しかも、その性欲たるや、かなり変質的なものである。
al piacer mio s'arrenderà.
Tal del profondi amori,
è la profonda miseria.
Ha più forte
sapore la conquista violenta
che il melifluo consenso.
彼女は私の快楽に屈するだろう
かくも深い愛情だからこそ
悲惨さも深いというわけだ
甘い合意などよりも
暴力による征服の方がおいしいのさ

Bramo.
La cosa bramata perseguo,
me ne sazio e via la getto...
volto a nuova esca.
Dio creò diverse beltà,
vini diversi...
Io vo' gustar quanto più posso dell'opera divina!
私は熱望する
熱望するものを追い求める
そして飽きたら捨て去る
それから次の獲物に体を向けるのだ
神は様々な美を創造した
様々な味のワインのように
私は神の作品を出来るだけ味わい尽くしたいのだ
 第2幕前半で語られるスカルピアの告白は、「オテロ」における「クレード」である。CREDOとは神への信仰告白であるが、むろんこのクレードは逆クレードであって、ふてぶてしい神への反逆宣言である。先に述べた第1幕ラストの「テ・デウム」と合わせて、スカルピアの性格描写はとても念入りに行われている。これは、たとえばカヴァラドッシに対する性格描写の少なさと対照的である。
 それではトスカの描写はどうだろう。「美しい歌姫」という以外にポジティヴな情報量に乏しい。恋人であるカヴァラドッシは友人アンジェロッティに対し、こう言う。
E una donna gelosa.
(トスカは)嫉妬深い女なのだ。
 これは強烈である。いきなり聴衆は“嫉妬深い女トスカ”という情報を植え付けられる。そして案の定、トスカは教会堂に入って来るなり、
「誰かいたわね!」
とカヴァラドッシを詰問する。これら一連の事によって、スカルピアがトスカの嫉妬心を利用して自分の思いを遂げるシチュエーション作りが仕掛けられる。このように、このドラマは、全てスカルピア像を際立たせるように展開していく。

 そうした材料が全て揃った上で、第2幕こそは、スカルピアのパワハラ全開となる。驚くべきは、スカルピアは「トスカに愛してもらおうなどとは思っていない」ことだ。
Come tu m'odii !
お前はなんて私を憎んでいるのだろう!
その場所のト書きによると、スカルピアは次のような表情でこのセリフを言うのだ。
con accento convinto e con compiacenza
確信した言い方で満足げに
実はこの歌詞は原作では、
Tu mi odi?
お前は私を憎んでいるのか?
となっていた。プッチーニはこの部分の台本をわざと変えたのである。この違いは大きい。何故なら、原作の文章だと、トスカがスカルピアを憎んでいることにスカルピアが驚き残念がっているようにもとれるからだ。ところがプッチーニが変えた文章では、トスカが、
「こんな男とは絶対に!」
と憎んでいるまさにその状態で、力づくで自分のものにすることに征服の歓びを感じるスカルピアの変質的性格が浮き彫りにされている。
「こうなったら、こんな奴もう殺すしかないだろう」
と聴衆の誰もが思う。それがプッチーニの狙いである。だから、スカルピアが同情を受けるような人間であってはならないのだ。スカルピアには複雑な心理描写はいらない。みんなが「滅んでしまえ!」と思うようなワルに徹すればいいのである。勿論、それでもその向こう側に人間の哀しさを感じる聴衆がいたとしたら、それはそれで否定しないが・・・・。

 彼はトスカに、カヴァラドッシを助けるためには、「処刑をしたという既成事実」だけは作らなければならないと言う。だから空砲による銃殺で死んだように見せかけ、その後はどこでも自由に逃亡するがよいと親切心を見せる。
 僕は昔、そのスカルピアの言葉を信じていた。お人好しにも、
「案外やさしいところあるじゃないか」
と思っていたのである。これが嘘に決まっていると気付いたのは、恥ずかしい話、かなり最近である。
 スカルピアは部下のスポレッタにこう言う。

Scarpia: Il prigionier sia fucilato,
Attendi...
Come facemmo del conte Palmieri...
スカルピア: 囚人は銃殺される
だが注意しろ・・・
パルミエーリ伯爵にしたようにだ
Spoletta: Un'uccisione...
Scarpia: simulata! 
スポレッタ: 処刑・・・
スカルピア: 見せかけの! 
(注:Un'uccisione simulata「見せかけの処刑」という言葉を二人で言っている。イタリア語ではしばしば形容詞が後に置かれるので順番が逆になっている)  
Scarpia: Come avvenne del Palmieri!
Hai ben compreso? 
スカルピア: パルミエーリに起こったように!
よく理解したかな? 
Spoletta: Ho ben compreso.
スポレッタ: よく分かりました。
Scarpia: Va! 
スカルピア: 行け!

この言葉をしゃべる時のト書きが意味深い。
fissa con intenzione Spoletta che accenna replicatamente col capo di indovinare il pensiero di Scarpia
スカルピアは意味ありげな目配せをスポレッタに送る。スポレッタは、スカルピアの考えていることを探り当てうなずく。
 つまり「見せかけ銃殺に見せかけた本当の銃殺」は、この会話の時にすでに仕込まれていたのである。スカルピアは、一方ではトスカの目の前で「パルミエールのように見せかけで」と言うことで彼女を安心させ、同時に、スポレッタにはもうひとひねりした意味を伝えていたのである。
 スカルピアは、Hai compreso?「分かったか?」ではなく、Hai ben compreso?「よおく分かったかね?」と訊ね、スポレッタもHo compreso.ではなく、Ho ben compreso.「よおく分かりましたよ」と答える。ここで、もしスポレッタがSi.「はい」とだけ答えたら、この会話は成立しない。スカルピアが言わんとしている意味をスポレッタが理解出来ていないことになるからだ。Ho compreso.だけでも疑わしい。スカルピアはもう一度スポレッタに確認しないといけないかも知れない。ここでのbenすなわちbene「よく」の言外の意味を、かつての僕には理解出来なかった。語学力の不足であった。
 スカルピアには、最初からカヴァラドッシを釈放するつもりなどこれっぱっちもなかったのだ。トスカを我がものにするのはこの一回限りで、その後は、君たちを自由にするから愛する恋人とどこまでも逃げて行きなさいなどと、この悪党が仏心を出すはずがない。ここで通行許可証を書いてあげたのは、トスカの前でカヴァラドッシの救済に真実味を持たせるため。そして、トスカに自分からスカルピアの腕の中に来させるためである。
 でもその後は・・・・カヴァラドッシを予定通り処刑させ、絶望したトスカを飽きるまで何度も犯し、最後に最も残虐な方法で捨て去るつもりだったに決まっている。唯一想定外だったのは、トスカに殺される可能性を計算に入れていなかったことだ。気が強くても所詮女とたかをくくって油断していたのがスカルピアの敗因であろう。
 しかしながら、スカルピアを殺してもトスカは所詮スカルピアの呪縛から逃れることは出来なかった。カヴァラドッシの偽の銃殺を信じ、カヴァラドッシとの国外への逃避行を夢見ていても、所詮それは叶わぬ夢でしかなかった。考えて見ると、スカルピアとは、これまで世が生み出した全てのオペラの中でも、最も邪悪な人物と言えるのかも知れない。

 さて、新国立劇場では、そんなドラマチックな「トスカ」の初日の幕が11月11日日曜日に開いた。僕達が普通の日本人に呼びかけるように「コウさん、コウさん!」と親しく呼んでいる韓国人のセンヒョン・コウ氏のスカルピアは、そのブリリアントな声で圧倒的なスカルピア像を舞台上で呈示している。日本人では絶対に聴けない声だ。何が違うのだろう。やっぱりキムチ・パワーであろうか。
 ノルマ・ファンティーニのトスカ、サイモン・オニールのカヴァラドッシなど、やっぱりイタリア・オペラの魅力は声でっせ!というか、良い声をただ出すだけではだめで、その声の中にドラマを込めるわけだ。
 ところで、スポレッタ役を演じているのは、僕と同じ歳の松浦健さん。僕がこの世界に入った頃にはもう藤原歌劇団で大活躍していたから、てっきり先輩かと思ってずっとこちらは敬語で接していた。ある時、同級生と分かった。
「なんだ、じゃあ三澤君もタメ口でいこうや!」
と言ってくれたが、そう簡単にタメ口にはなれない。
 この松浦さんのスポレッタが僕は好きだ。スカルピアとグルになって邪悪な事に手を染め、自らもその陰で甘い汁を吸っている怪しい雰囲気が醸し出されているのだ。こうしたサイドプレイヤーの存在が、オペラに味と深みを添えている。Ho ben compreso.の意味ありげな表情も一見の価値あり。オペラの楽しみ方は幅広いなあ!

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