「タンホ」と「愛妙」交互に快進撃!

三澤洋史   

「タンホ」と「愛妙」交互に快進撃!
妻が訊く。
「明日って何だっけ?」
僕が答える。
「タンホ」
「あさっては?」
「愛妙」

 12月に、文化庁スクール・コンサートのワークショップで北海道に行った時、アルト団員のFAさんが「タンホイザー」のことを「タンホ」と呼んでいたのを聞いて、
「タンホ言うな!価値が下がる!」
と怒ったのだが、気が付いてみたらいつの間にか自分で言っている。一方、愛妙(あいみょう)とは「愛の妙薬」のことである。
 日本人はこうやって言葉を短く縮めて言うのが好きである。昔、バイロイト音楽祭で働いていた時、仲良くしていたソプラノ合唱団員のスザンネ・トーマスがそれをとても面白がって、あれもこれも僕に訊ねていたのを思い出す。
 その中でも彼女が大受けしたのが「ドツレク」。ブラームスの「ドイツ・レクィエム」のことである。ドイツ語ではこうやって縮めることをAbkürzung(略語)という。でも実際にはドイツ人はAbkürzungをほとんど使わない。ドイツ・レクィエムのこともドイチェス・レクヴィエムときちんと言う。言うとしたら、TPPとかUSBとかAKBとかのイニシャル3文字くらい(AKBは違うだろう)。一方、フランス人はsympathique(感じがいい)サンパティックをサンパ、マクドナルドをマクドと、どんどん縮めてしまうのに、こういうところにも律儀なドイツ人の国民性が現れている。
 その他、「モツレク」「ヴェルレク」「メンコン」「ドヴォコン」など、スザンネはどれも笑い転げた。ちなみにそれらは「モーツアルトのレクィエム」「ヴェルディのレクィエム」「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲」「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」である。「メンコン」「ドヴォコン」に関しては、楽器指定がないにもかかわらず、言わずと知れたということでこう呼ぶ。

 しかし日本には、僕にとって許し難い略語がいくつかある。たとえば「ヴァーペン」。ヴェルディの歌劇「ナブッコ」からの有名な合唱曲Va pensiero sull'ale dorati(想いよ、金色の翼に乗って飛んでいけ)のことだ。vaヴァーは「行く」の命令形で「行け!」、そしてpensieroペンスィェーロが「考え」とか「想い」とかの意味。それなのに、ペンだけ取って「ヴァーペン」とは何事か!
 また、モーツァルトの「フィガロの結婚」第2幕でケルビーノが歌うアリエッタを「ヴォイケサ」という人が少なくない。これは、
Voi che sapete
Che cosa è amor
というテキストで、voiは「君たち」、次のcheは関係代名詞で、sapete以下をvoiにつなげている。sapete「知っている」che cosa è「とは何か」amor「愛、恋」。だから、「恋とは何かを知っている君たち」となるのだが、これも「ヴォーイ・ケ・サペーテ」なので、サペーテをサで切って「ヴォイケサ」にしてしまったら意味つーじねーだろうーが、このドアホ!

 あっ、失礼・・・コホン!ま、それはともかく、「タンホイザー」と「愛の妙薬」が同時進行していてややこしいが、両方とも快進撃を続けている。転調の難しいアカペラ男声合唱を含む「タンホイザー」で、クォリティを落とさぬよう緊張しながら周到に歌う団員達は、次の「愛の妙薬」では、開放感に溢れてなんと健康的に歌うことか!
 ベルカント唱法を習得している彼らにとって、なんといってもベルカント・オペラは発声的にはホームグランドにいるような居心地感がある。それに、アントニーノ・シラグーザのネモリーノとレナート・ジローラミのドゥルカマーラの二人が繰り広げるアドリブに満ちたやり取りなどを見ていると文句なく楽しい。それでいてネモリーノがニコル・キャベルのアディーナと最後に結ばれる瞬間では、胸がキュンとなる。僕も「愛の妙薬」は大好き!
 でも、一方で、歌いにくかろうが覚えにくかろうが、合唱団員にとってワーグナーで得られるカタルシスや精神的充足感も計り知れない。僕も、「タンホイザー」のラストシーンの合唱を聴いていると毎回涙が出そうになる。こちらは罪、悔恨、犠牲、救済といった重いテーマを扱っているが、そういう難しい事を考えなくても、ワーグナーの音楽の法悦感に酔う。やっぱり、僕はワグネリアンさ!

全く正反対のこのふたつのオペラの組み合わせは、案外双方に良い効果をもたらしている。

忘れさせるマスコミの罪
 ねえ、みんなこう思わない?なんで今になって、
「こっちにも体罰がありました」
「ここにもありました」
ってマスコミが毎日のように騒ぎ立てるのだ?いや、勿論体罰はいけないよ。スポーツだからこそ、体罰なんかなしで正々堂々と指導して欲しいとは思うし、これは体罰というより一種のパワー・ハラスメントだと思う。
 でも、こんな風にまるで面白がるように大騒ぎをして、あっちこっちからほじくり返して、誰かを辞任に追い込んで、まるで嵐のようじゃないか。それで・・・・みんなしだいにそれを見るのもうんざりとなってきて・・・・そして3ヶ月も経ってみい。みんな忘れてしまうんだよ。
 僕が問題にしたいのは、まさにそうした報道姿勢だ。マスコミの本当の意図は、問題を考えさせることよりも、むしろ忘れさせる方にあるように僕には感じられるのだ。それより、じゃあどうして今まで誰も体罰を暴かなかったのだろう?たとえば柔道界だって、本当はもっと以前からいろいろ問題はあったわけだろう?もっと前にメスを入れることは出来たのではないか?それをしなかった報道の怠慢というものはないと言い切れるのか?
 報道というのは、本当は誰も気付かない問題に気付かせ、一番触れにくい所にグサッとメスを入れるのが仕事だろう。それがどうだ。今の日本の報道は、向かって来る権力者には決して手を出さず、それどころか擦り手をしながら寄っていくくせに、背中を向いて逃げるものにはどこまでも石つぶてを投げるという、もっとも卑怯な集団に成り下がっているのではないか。
 その攻撃の仕方は、ある意味“逆いじめ”みたいになっている。それを見ている視聴者も、なんだか、
「ふん、ざまあ見ろ!」
みたいな不健康な気持ちで傍観しているような気がする。それはもう「知る権利」を超えた、単なる「野次馬根性」や「うっぷんばらし」にすら感じられる。
 そして、知識人がもっともらしい顔をして、
「この問題に対して抜本的な見直しを」
と言う癖に、すぐ忘れてしまう。みんな真剣そうなフリだけして、誰も本気で考えてないんじゃないか。

 たとえば、田中真紀子元文部科学相が大学の認可をしなかった問題があったろう。もうみなさん忘れていない?マスコミはあの時、瀬戸際になってノーと言った田中女史だけを責め立てたが、同時に、
「この問題は真剣に議論されなければならない」
とも言っていた。でも、今それを議論しているマスコミはあるか?
「少子化が進んでいるのに、大学は今ある数必要なのか?」
「税金の無駄遣いはしていないか?」
「必要ないと結論づけた大学をどうやってやめさせるのか?」
「誰が具体的に音頭を取って、大学の優劣の審議や新規申請に対する認可の是非の議論を行い、誰がどういう方法で見直していくのか?」
といった問題提起は、現在僕の知る限りでは、少なくともマスコミが先導して報道されてはいない。もしかしたら水面下できちんと進んでいるのかも知れないし、あるいは逆に、ことによったら、今頃どこかの利権がからんで問題が再びうやむやにされている可能性があるかも知れない。だとしたら、こんな時こそマスコミの出番なのではないか。
 このように、報道されないと、我々はいとも簡単に忘れ去ってしまう。それにしても、なんて早く忘れ去ってしまうことか!いや、むしろ僕は思う。これもマスコミの誘導に引っ掛かっているのだ。報道の本当の恐さというのは「報道すること」にあるのではなく「意図的に報道しないこと」にあるのだ。
 注意して見てみようではないか。3ヶ月後に体罰に対して真剣に議論されているか?されていないであろう。その頃には、次のターゲットがマスコミの食い物にされているに違いない。それを許しているのはあまりにも受け身な国民の姿勢ではないか?我々は、報道されるものに、ただその刹那刹那に反応しているだけではないのか?
 このままでいったら、体罰は今だけ異常に問題にされ、その後は再び野放しにされる運命にあるのではないか。こうして結局何も解決しないことになるのではないか。マスコミは、そんな我々を相手に、稼げる時に視聴率を稼ぐだけ稼いで、また次の獲物を狙ってゆくのではないか。
 彼らにとって、我々が忘れてくれた方が都合がいいのではないか。何も解決しなくても本当はいっこうに差し支えないのではないか。福島第一原発だって、未だに放射能を出し続けているし、4号機の危機だって去ったわけでもない。でも、国民の大半の意識からもう原発事故は忘れ去られている。それでも、福島第一原発の隣に住民が戻って通常通りに生活しているなんて思っている人も、さすがにいないだろう。要は、意識からもれているだけだろう。

国民よ!賢くなろう!
そして、マスコミが「報道し過ぎる」ものに惑わされることなく、その陰で「報道されない」ものにもっと注意を向けよう!
そして国民の中に、真の批判精神が育つよう努力しよう!

デジャヴとは高次の僕が観るもの?
 よく思う。僕という意識は、ずっと同じ所にあるのではないかということを。小さい時から、外見も変われば、いろんな経験をして知識も豊富になり、いろんな所も行ったし、いろんな人と付き合い、楽しかったり苦しかったりしあわせを感じたり傷ついたりしてきた僕。でも実は本当の僕自身というのは、ずっと同じ所に留まっているのではないだろうか?
 どんな時も僕がいた。この原稿を書いているこの瞬間にも僕がいる。でもその僕は、小さい時に群馬の家の母屋を建て直す時、棟上げが終わったばかりでまだ柱がむき出しになったままの家の土台で遊んでいた、僕の生涯における最初の記憶の自分と連続的につながっている。僕は僕から決して逃れられない。
 もしかしたらこの自分自身は、僕が生まれる前からずっとあり、死んでからもずっとあるのかも知れない。でも普段生活している僕は、厳密に言うとそういう意味での自分自身とちょっと違う。人間の魂というのは、たとえて言うとたまねぎのようなもので、日常に生きている僕はたまねぎの外側だけれど、こうして意識を研ぎ澄ましてその存在を考える僕自身というのは、もっと内側の精妙な僕なのだ。いうならば「より高次の僕」である。
 僕自身が人生の中で何か馬鹿なことをやらかした時、それが望ましい行為でないのを分かり切っていながら、どうにもならずに自分の感情に任せてしまっていた時、僕は、外側の僕と、より内側の僕が対立しているのを感じた。まさに行為の真っ只中にいる僕と、それを見つめる僕がいたのだ。そして見つめる僕の方が決まって冷静で思慮深く、行為を成す僕を客観的に眺めながら、
「お前は一体こんなところで何やってんだ」
と思っているのだ。

今週は何でもない風景
 僕がデジャヴを見る時、それを見るのもこの内側の「より高次の僕」のような気がする。恐らく「より高次の僕」は、時間も空間も超えていて、夢で景色を見た僕が“その後”現実にその景色を体験するのではなく、夢で見た僕と先日高津倉山頂で見た僕は、同じ僕が同じ時に見ているに違いない。うーん、うまく説明出来ないな。大事なことは、景色を見ることではなく、空間と時間を超越して「より高次の僕」と重なり合うことなのだ。

 2月1日金曜日。再び休日。またまたガーラ湯沢に行く。実はこの日、東京バロック・スコラーズでは、来年の演奏会の会場を確保するため、団員の何名かがいくつかの演奏会場に足を運んでいる。会場確保が極端に難しい都内や都内近郊のホールを予約するためには、こうして実際に足を運び、場合によっては抽選をしなければならないのだ。
 それなのに音楽監督の僕がノコノコとスキー場に足を運んでいるのはとても気が引けるし、何より朝早くからそれぞれの会場に行っている団員に申し訳ない気持ちで一杯だ。でも、みなさん許して下さい!言い訳するわけではないのですが、この先僕は3月12日までただの一日たりとも休日というものがないのです。もう本当に働いて働いて働きっぱなしなのです!新国立劇場では一週間に一日程度休日はあるのだけれど、僕はその休日を別の団体の練習のために全部使ってしまうのである。
 まあ僕ときたら、オフ日があったって、のんびりゆったり体を休めてという性格でもない。それどころか、この時期休日があったらどうせスキーに行ってしまうだろうから、休日を与えても仕方がないというのもあるな。それよりも2月はこのままではスキーにだって行けないのだ。グスン!
 でもね・・・・でも、来週は北海道に文化庁の演奏旅行に行くだろう。札幌に3泊するので、スキー板とブーツを送って、コンサート終了後、近くのスキー場に行こうと思っている。これも、
「何しに行くんだ!」
と怒られそうだが、こうして機会を稼がないと、本当に全然行けないような環境に僕はいるんだよ。同情してね、みなさん!

 さて、再びガーラ湯沢に来たが、不思議な事に今日は先日のように山が神聖に感じられたりはしない。同じように祈ろうとしたが、全然精神状態が違う。だって先週は、僕が祈ろうと意識しなくても、祈り自体が僕を包み込み、自然が限りなく透明で慈愛に満ち、かつ魔法じみていたので、ある種の深い瞑想状態に何の苦もなく入っていけた。
 高津倉山頂に到着。先日と同じ南魚沼平野の景色が僕の前に広がる。デジャヴとほとんど同じ景色・・・しかし・・・しかしである・・・僕はなんにも感じないのだ。ふもとの村の雪景色は先週と同じように美しい・・・空も快晴・・・・でもそれ以上のなにものでもない。まるで魔法が解けてしまって、馬車がただのかぼちゃに戻ってしまったよう。なんと大きな失望!でも・・・これが普通なんだよね。

 それで僕は冒頭に書いたようなことを悟ったのだ。デジャヴを見る僕は「より高次の僕」であり、ある精神状態になることで、20年前の自分と今の自分とが時間と空間を超えてつながるのだ。
「あっ、デジャヴだ!」
と思わないと、それは単なる景色にしか過ぎないだ。

 ま、いいや。毎回そんな精神状態になっていたらそれはそれで困るかも知れない。
「三澤さんがおかしくなってしまった」
とみんなに言われるようになってしまうに違いない。もしかしたら音楽家をやめて宗教家になってしまうかも知れない。ま、そうなったらそうなっただろうが、きっとそこまでイッちゃうことは神様の御旨ではないのだろう。チェッ、空海のようになりたかったのに・・・・。

スキーでビブラート?
 それよりも、その日は午後から風が強くなってきて、とうとうガーラ湯沢は14時で閉鎖されることが決まってしまった。僕はめちゃめちゃ落ち込んだが、リフトに乗っていたら、
「・・・・なお、石打丸山スキー場への振り替えが決定いたしました。ご利用の方は14時までに連絡口のあるリフト・ティルバリーまでお越し下さい。ガーラ湯沢のリフト券のままで石打丸山スキー場全エリアでご利用可能です」
と言うではないか。隣で一緒にリフトに乗っていた若者達がはしゃいでいる。
「おい、聞いたか?ヤッター!」

 石打丸山スキー場は楽しかった。頂上からの上級者コースでは、あまりスノーボードの人達がおらず、スキーヤーが多いので、なだらかで滑りやすいコブが出来ていたし、途中に国体コースという斜度の高いコースでもコブが出来ていた。ガーラ湯沢の厳しいコブを苦労して滑るよりも、このくらいのコブをきちんと滑って成功体験を重ねる方が近道かも知れない。
 今回自分にとって画期的だったことは、初めてショート・ターンのことが分かってきたことだ。白状すると、僕はこれまでショート・ターンのことは、分かったつもりで実ははっきりとは分かっていなかったようだ。特にそれはK2のVelocityという新しいスキー板を履いてから、何となく問題となって噴出してきたのだ。
 Velocityは本当に素晴らしい板なのだが、カーヴィングのキレがとても良いので、気をつけないと体が板に置いておかれる。先週ガーラに来た時、どうも足を取られる瞬間があって、気になっていたので、帰ってからスキーの教則本を読みあさってみた。
 家には何冊も教則本がある。僕はなんでも頭でっかちで、音楽でもスキーでも理屈から入っていく傾向がある。これが自分の長所でもあり短所でもある。だからスキーを始めた時に教則本を買いあさったのだ。
 その教則本を引っ張り出してきて、理想的なショート・ターンのことを調べようとした。ところがどうもきちんとした説明がされていない。たいていは「足を横に押し出せばいい」という程度の適当なサジェスチョンに過ぎない。これでは充分でないんだよう!もっと核心をついた指摘が欲しいんだよう!


 そこで、困った時の神頼みならぬ友頼み。親友の角皆優人(つのかい まさひと)君にメールで訊ねた。以下メールでのやり取り。

僕の質問
ショートターンの場合、ロングターンのように、板が体の後ろから自分を追い越していくというプロセスを感じなくていい?
速いショートターンの場合、足を横に押していくだけでもいい?
角皆君の答え
まず大きなターンだと躰が動きます。
エッジの切り替え時、後方にあった重心が、体軸の移動と共にスキー自体を越えて前方に移動します。
  それに引き替え、ショートターンだと、躰が動くのではなく、スキーを後ろに引くと考えてください。
  大きな体は前後に動かすのがたいへんですが、スキーなら簡単に前後に動かせます。
  これは5センチとか10センチのレベルの話なので、すばやくおこなうことができます。
  ブーツの下に横向きの8の字、もしくは無限大のマーク(∞)があると想像し、
その横向きの8をなぞるような運動になります。
 なんと簡素で的確な答え!今まで誰もそんなことを教えてくれた人はいなかった。足を引いて無限大マークをなぞるのか。∞なのか!それを僕は、今回試してみた。う、生まれて初めて、ショート・ターンで後ろから前に板がキュイン、キュインとリズミックに切れ上がっていくのを体験した。そうかあ!このキレの感じか!ただ、瞬間的な腿の力はそれなりに要るんだな。
 さらに・・・・こ、これは・・・整地においてすでにコブのような動きをしているではないか!谷足に重心をしっかりかけてから抜重すると、まるでジャンプしているようになる。それは知ってはいたんだけど、そうかあ、スキーのたわみのバネをここまで利用してもいいんだ。
 無限大の丸い部分を下から上にキュインとなぞると、そのまま反対側の丸い部分に足を引く。スキーを後ろに引くと、ターン後は自然に板のトップから(あるいはつま先から)雪面に接するため、決してコントロールを失うことがないのか。これだ!これが知りたかったんだよ!もうこれで体が遅れることはない。
 分かった!実は、コブというのは整地で完全なショート・ターンが出来れば、きっと出来るものなんだ。ただ、本当に美しいショート・ターンに辿り着くのは、そう簡単ではない。ベートーヴェンのソナタを本当に美しく弾くのがそう簡単ではないようにね。僕のショート・ターンもまだそれらしくソナタを弾いている状態。スキーは奥が深いんだよ。でも、きっとそう遠くない将来、僕は必ずショート・ターンに精通し、落ち着いてどんなコブでも攻略してみせる。
 僕は断言するけど、スキー界で角皆君ほど頭の良い奴はいないよ。僕の質問にバッチシ答えてくれたばかりではなく、遠い未来への可能性も暗示させてくれるのだ。どの本見ても書いてないことを、いとも簡単に教えてくれた親友に心から感謝!

面白いのは、彼は時々こんな答え方もするのだ。

僕の質問
コブ斜面が割と深い新雪の時、人が滑って硬くなっているところと、柔らかいところの見分けがつかないとする。
ターンの後、スキー板の腹から入ると、硬くなっているところでハジかれるし、
トップから入りすぎると、昨日のようにズボッてハマッて、起き上がれねーし、
ストックもズブズブと雪に入って大変な事になる。
こんな時、どーすんだ?
それでもやっぱりトップから入る?
角皆君の答え
正解はこうなります。
  雪の深さや柔らかさを、繊細に足裏や脚部で感じながら、それぞれに合わせた圧力変化と方向性を与える。
  打楽器的に滑るより、弦楽器や管楽器のような繊細な音量変化とビブラートが大事になります。
 スキーでビブラートだって!こんな風だから、角皆君は知性派だといっても、ただ頭だけでヒネリ出すだけでもない。感性も実に豊かだし、何よりイメージを大切にするんだ。そしてこの知性と感性とのバランスが、僕にピッタリなんだな。

 その日は、ふもとのハツカ石口まで降りてから、送迎バスでガーラ湯沢のセンターであるカワバンガまで戻り、ガーラの湯に入ってサウナと水風呂との間を行ったり来たりし、湯上がりにソフトクリームをのんびり食べてから、東京に戻ってきました。

 一方、団員達のご足労のお陰で、東京バロック・スコラーズでは、2014年2月23日にティアラ江東での演奏会が決定しました。みなさん本当にご苦労さまでした!

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