ワーグナー協会の原稿が仕上がりました!

三澤洋史   

アナログ人間
 2月24日日曜日。今日は、午後の名古屋モーツァルト200合唱団の「パルジファル」の練習の後、名古屋駅前の居酒屋で懇親会があった。その帰りの新幹線の中、ほろ酔い加減でこの原稿を書いている。先日書いたように、北海道に出掛ける直前にノート・パソコンが壊れたので、新しいノート・パソコンを使っている。
といっても買ったわけではない。長女の志保が最近i-Padを買ったので、要らなくなったものを譲り受けた。
「パパもこの際だからi-Pad買ったら?」
と言われたが、やっぱりパソコンの方がいい。
周りを見渡すと結構i-Padを持っている人がいる。何年か前の僕だったらきっと誰よりも先に飛びついていたであろう。でも最近は何かストンと憑き物がとれたように興味が失せてしまった。パソコンは使っているのだけれど、いわゆる「新しもん好き」ではなくなってしまった。携帯電話もスマートフォンではない。これが壊れたらいよいよスマホにするんだろうなあとぼんやり考えてはいるが・・・・。
 理由はいくつかある。一番大きな理由は、スポーツをするようになってから、自分でも驚くほどアナログ人間に舞い戻ってしまったということ。自分の体と向き合い、自分の筋肉を動かし、自分の皮膚感覚を大切にすることに再び目覚めたら、バーチャルなものが嘘臭く思えてきた。譜面は相変わらず譜面作成ソフトで作っているが、出来たファイルをMIDIに変換して音色やニュアンスなど様々な色づけをしてみたところで、生演奏にはとうていかなわないと思って、それ以上に発展させる意欲が湧かない。それよりも、指揮をする時に、筋肉の動かせ方ひとつでオーケストラの音色がどのように変わるかということの方がはるかに興味深い。
 もうひとつの理由として、自作パソコンをする僕にとっては、XP以降のOSにすることによって、ソフトを大量に買い直さなければならなくなるというのがある。ソフト付きのパソコンって最近買ったことがないんだ。高いソフトも少なくないので、みんな買い直したら経費がばかにならない。それに、それぞれのソフトに対しても、別に今ので満足しているんだ。
 そもそも、それぞれのソフトは、基本的にはもうとっくに完成されているじゃないか。また、僕は使いながらソフトにひとつひとつ学習させたりもしている。メーカーは次々と新バージョンを用意し、
「ほら、こんなに良くなりましたよ!」
と改善点を強調しているが、僕がソフトに学習させたものがデフォルトで直っていたり、その他のことも枝葉末節の点におけるマイナー・チェンジにしか見えないんだ。
 最近では添付ファイルで送られてくるWordだってみんなdocxの時代に入っている。僕が使っているのは相変わらずOffice2003でdocだ。それで何が悪い?確かに日本語変換ソフトだけは、IMEはあまりに気が利かないのでAtokの2010バージョンを使っているが、ここさえクリアすれば、この先10年くらいdocでも別にいいんじゃないか。とりあえずdocxファイルも開けるし・・・とまあ、なんとも骨董品的な考え方だとみなさんはあきれているね。

 志保がi-Padを使っているのを横目で見ながら、やっぱりパソコンの方がいいやと思う点もある。i-Padの場合、ファイルの保存場所さえ自分で選べないんだ。このように“管理される”のが、あまのじゃくな僕には気にくわない。このノート・パソコンも、志保から譲り受けた途端に何もかも自分の好みにカスタマイズした。いろんなソフトもバシバシ入れた。新約旧約聖書も英語ドイツ語フランス語の辞書も入っている。i-Padでは、こんな風にソフトをCD-Romから入れられないんだろう。嫌だな、そんなの。
 それから、知り合いが言っていた。具合が悪くなってお店に持って行くと、修理してくれる代わりにどんどん新しいのをくれるんだそうだ。その度にバージョンが上がったものをただでもらえて嬉しいんだけど、これまでのファイルは?という感じで、やっぱり自分だけの持ち物の感じがしないという。
 ということで、どうでもいいことをクドクドと書いたけれど、要するに早い話、僕は自分勝手なワガママ人間でしかも時代から取り残されたアナログ人間なのだということだ。

アナログ人間の指揮法アナリーゼ
 そのアナログ人間は、東京フィルハーモニー交響楽団特別演奏会で、尾髙忠明さんの「グレの歌」の指揮ぶりを見ながらあれこれ分析する。自分もそのうち指揮法の本を書きたいと思っているからね。
 まず尾髙さんのバトンテクニックの素晴らしさに舌を巻く。彼の描くラインの美しさ!それを作り出す筋肉の動き。表現したい音楽を指揮という運動に変える変換の適切さ!全く非の打ち所がない。
 特に今回は150人もの超大編成オーケストラと120人の合唱、それに5人のソリストをまとめるのだから、尾髙さんの指揮法のルーツである斉藤秀雄氏の指揮メソードの威力全開というところだ。
 僕は思う。斉藤秀雄氏の指揮メソードというのは、やはりあらゆる指揮法の中で最も完成されたメソードだなあ、と。ただ、それは基本的にスキーで言うところの伸身抜重だ。それは正攻法という意味であって決して批判的に言っているのではない。それに対して、たとえばカラヤンの指揮は屈伸抜重だ。そしてある意味、斉藤メソードの対極にあるような気がする。その理由を説明しよう。

 Youtubeでカラヤンの若い頃のシューマンの交響曲第4番の練習風景を見てみよう。
冒頭の弾き方にカラヤンがこだわって、オーケストラを何度も止めながら注意している。彼は、冒頭のユニゾンがアクセントだけで片付けられるのを嫌って、彼らしい豊穣なサウンドを妥協なく求めている。その時に彼がするアインザッツのアクションが実に個性的だ。 彼は腕を二本とも真上にまっすぐ上げ、それからゆっくりと下ろしてくる。その間、彼の腕にはずっと力が入っている。それは斉藤メソードで言うところの等速運動であり、次の打点がいつ来るか予測がつかない。それでアインザッツを合わせろというのは、ある意味イジメともとれる。
 しかしカラヤンのサウンドは、その棒でなければ得られないのだろう。彼のアインザッツの軌跡では、スキーにおける屈伸抜重のような、雪とのコンタクトを決してはずさない圧が常にかけられている。

 これに対して、斉藤メソードでは、基本的にアウフタクトの棒が跳ね上げられた瞬間に脱力し、棒の先は放物線運動を描き、次の着地点を予想させる。放物運動とは、跳ね上げにおいての減速と、頂点での停止に近い瞬間、それから加速運動で次の打点に向かう一連の運動である。これは実に合理的な運動であり、合わせるという点から考える限り完璧である。
 しかし脱力を過信してはいけない。あまりに脱力してしまうと、そのアインザッツをどのような音で欲しいのかという情報が抜け落ちてしまう可能性がある。打点という骨格だけが浮き彫りにされ、肉付けが希薄になることが起こり得る。だから点後のラインを貫く意識が必要である。
 さらに、斉藤メソードで指揮する人にしばしば見られることであるが、跳ね上げの後頂点で一瞬止まり、そこからかなり速い速度で打点に向かって一気に振り下ろされる場合がある。これは気をつけないと放物運動からも逸脱している。バッターが打った球が上空で止まってしまい、さらに突然真下に落ちてきたら、外野手はそれをキャッチすることが出来ないのである。
 また指揮者が棒を背中に背負うケースも見られる。そうするともっと危険だ。演奏者から見ると棒が一瞬視界から消えるから。これが僕には、伸身抜重の瞬間に雪とのコンタクトが一瞬途切れるのと似ているように感じられる。整地の緩斜面ではよいけれど、急斜面でしかも悪雪や不整地ではコンタクトが途切れた瞬間にどんなワナが待っているか分かったものじゃない。これは、僕には斉藤メソードの精神からもはずれているような気がするのだが・・・・。
 だから脱力することは大切なのだけれど、伸身抜重の時と同じ注意を斉藤メソードの時にはしなければならないと思う。すなわち放物運動から決して離れないこと。次の打点へのコンタクトをどんな時でも失わないことで。棒の軌跡を常に奏者に見せることである。

 それにプラスして、僕は、状況に応じてカラヤン的な屈伸抜重の要素も取り入れたら、指揮法として本当に完璧になるような気がする。すなわち、場合によっては、合わせることをやや犠牲にしてでもアインザッツのサウンド作りに焦点を合わせる指揮の仕方だ。
 ただこれは、たとえば「グレの歌」のような作品ではリスクが大き過ぎるのでやめた方がよい。とはいえ、ヨーロッパの指揮者達は結構合わなくっても平気なんだよね。お客として聴いていると別にいいんだけど、自分で指揮するとなると、僕も日本人なので合わないのは嫌だ。どっちを取るかという決断は、もう指揮法のテクニックの範囲ではない。ここからは哲学の問題だな。
 でも、望みのままのサウンドも得ながら、きちんと合う方法というのは絶対あるはずだ。これをなんとかテクニックとして体系化する方法はないだろうか?それを見いだせたら、僕は自分の指揮法を確立出来るのにな。

ワーグナー協会の原稿が仕上がりました!
 ワーグナー協会の原稿が書き上がってまさに先ほど先方に送ったばかりである。最初に構想を練っていたものと随分違う仕上がりになった。もっと学術的な論文にしようと思っていたけれど、途中で路線変更をしたのだ。何故なら、みんなが僕にどんな記事を期待するんだろうかと考えたときに、もっと僕らしい文章を書こうと思い始めたのである。
 ちょっとだけネタバレをしよう。前半は、僕のワーグナーの合唱音楽のサウンド作りが少しずつ変化していることに触れ、それが僕のミラノ短期留学の影響であると説明した。後半では、ワーグナーとヴェルディとの微妙なる関係について述べた。実際にはかなり推敲したけれど、一気に書き上げたような軽いタッチに仕上がっている。

 さあ、これでかなり精神的に解放された!でも、原稿に集中していたせいで、今週の「今日この頃」はいつもより短いです。先週は「アイーダ」の音楽練習をしながら「グレの歌」に明け暮れ、その本番の後に志木第九の会に行って「聖パウロ」の練習をして、次の日には名古屋のモーツァルト200合唱団に行って「パルジファル」の合唱稽古。その間を縫いながら原稿を完成したんだもの、我ながらよく働いたと思う。自分で自分を褒めてあげたい。

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