58歳の今日この頃の心境

三澤洋史   

アイーダの練習風景
 オペラの立ち稽古では、歌手達は演技に集中するため基本的に声を抜いて歌う。それはドイツ語でmarkierenマルキーレンと言われる。来日した歌手達は、時々気が向いた時だけフルヴォイスで歌うけれど、その時までその歌手がどんな声なのか分からない。
 「アイーダ」第1幕第1場の練習をしていた時だ。アイーダ役のラトニア・ムーアもずっと小さい声で歌ったり1オクターヴ下げたりしていた。敵国エチオピアがまたもや侵攻してくるという。迎え撃つエジプト軍の最高司令官には女神イシスより神託が下りラダメスが選ばれた。一同は「戦いだ!」と叫び、王女アムネリスはラダメスに対し、
「勝ちて帰れ!」
と言い渡す。群衆もそれに同調。
Ritorna vincitor !(勝ちて帰れ!)
 合唱団は歌いながら両袖に退場。みんなの緊張が抜けた一瞬、ラトニア・ムーアが歌い出した。アムネリスと合唱団のセリフを繰りかえして。
Ritorna vincitor !
その瞬間、合唱団員達の動きが止まった。
「えっ?」
あちらこちらから囁き声が聞こえる。
「す、すげえ!」

 アイーダは身分を隠しているが、実は敵国エチオピアの王女である。そうでありながらエジプトの武将ラダメスを愛してしまっている。自分でも思わずラダメスに「勝ちて帰れ!」と願ってしまったが、それは同時に自国の敗北を意味する。この引き裂かれた二つの思いが彼女を責めさいなむ。それがアイーダの歌う有名な「勝ちて帰れ」のアリアである。
 午後の練習は、彼女のアリアに時間を割く余裕はなく、合唱団や他の歌手達との合わせが目的だったので、レシタティーヴォに入ってから1ページもしない内に演出補の粟国淳(あぐに じゅん)さんによって、
「はい、OK!では午後の稽古終了します!」
と告げられた。
 しかしながら、その次の瞬間、合唱団員やその場に居合わせた全ての人達から拍手と声援が飛ぶ。
「Brava ! Bra----va !」
ラトニア・ムーアに対してである。みんなが聴いたのは何秒でもない。でも、彼女がRitorna vincitor !と歌い出した瞬間に、居合わせた者達はみんな理解したのである。彼女の豊かで深い声の中に、アイーダの二律背反があますことなく表現されていることを。彼女が間違いなく稀有なる歌手であることを。

 これだからオペラはやめられない!聴衆のみなさんには悪いが、オペラの醍醐味は稽古の中にこそあるのだ。「道化師」でジャコミーニが来日し、稽古場初日に、
Ventitre ore !(23時に!)
とハイHを伸ばした時のあの一同の興奮と、それに影響されたその後の合唱団の声の輝き!また「チェネレントラ」でシラグーザがハイC#まで出した時の驚きとか、いくつか後々まで語りぐさになるエピソードに事欠かないのだ。
 ラトニア・ムーアはまさにアイーダという雰囲気そのもの。声も、レオンタイン・プライスやジェシー・ノーマンのような黒人特有のほの暗さや深さを持っている。それがアムネリスのマリアンネ・コルネッティのいかにも白人らしい明るい音色とコントラストを成している。こういうことは、たとえば全員日本人キャストだとなかなか出来ないので、やはり国際的なキャスティングというのはメリットの部分が大きい。

 3月2日土曜日は、第2幕第2場、すなわち凱旋行進曲の場面の舞台稽古。ゼッフィレッリ演出の舞台は本当に素晴らしい。2009年にミラノのスカラ座が引っ越し公演に来て「アイーダ」をやった時もゼッフィレッリ演出だったけれど、新国立劇場の舞台装置の方が比べようのないくらい豪華だ。セットに奥行きがあり、柱に刻まれた象形文字の数々も立体的で、本当に古代エジプトに紛れ込んだような錯覚を覚える。
 舞台稽古の途中、馬が二頭駆け抜けてからアイーダ・トランペットによるファンファーレが始まり、助演達による勇壮な行進となるが、行進の隊列が乱れた。みんなざわざわしている。笑っている者もいる。なんだ、なんだ?しばし練習が中断した後、舞台監督助手のチビタがマイクを持って話し始めた。
「こういうことは起こり得ます」
え?なに?
「でも、よけると隊列が乱れて危ないです。・・・は硬いし臭くないので、落ち着いて踏んでいって下さい。くれぐれも真っ直ぐ進むように」
なあるほど・・・だんだん分かってきた。どうやら馬がうんちをしたらしい。ま、動物だから仕方ない。あんなに舞台上に人がいたら馬も緊張するし、何度も繰りかえさせられたから不機嫌になっても無理はない。暴れ出したりしないだけマシだ。
 しかし、なんだね。助演も大変だね。うんちがあっても踏み越えて直進しなければならないとは・・・・。
花も嵐も(うんちも)踏み越えて
行くが男の生きる道
あははははは!

 「アイーダ」は新国立劇場で3月11日から30日までの間に7回公演。大成功間違いなしだと思います。

ナポリ民謡を歌おう
 分かりそうで全然分からなかったナポリ民謡の歌詞。でも、解き方の鍵をもらうと、あっけなく氷解する。ここのところイタリア語のレッスンでプチ・ブームになっているナポリ方言。一緒に受講しているバリトン歌手のK君が正しく歌いたいので持ってきた。先生はなんといってもカプリ島の隣のイスキア島出身だから、ネイティヴそのもの。

'O Sole Mio 僕の太陽
 
Che bella cosa 'na jurnata 'e sole 太陽の(降り注ぐ)日はなんて美しい
N'aria serena doppo 'na tempesta! 嵐の後の澄み切った空気よ! 
Pe' llaria fresca pare già 'na festa.. その新鮮な空気のおかげでまるでお祭りだ 
Che bella cosa 'na jurnata e sole 太陽の日はなんて美しい 
 
 
Ma n'natu sole でももうひとつの太陽は
Cchiù bello oine, もっと美しいんだ
'O sole mio 僕の太陽 
Sta 'nfronte a te! それは君の顔にあるんだ 
O sole, o sole mio 太陽、僕の太陽
Sta 'nfronte a tte それが君の顔にあるんだ 
Sta 'nfronte a tte それが君の顔にあるんだ 
 
Quanno fa notte e 'o sole se ne scenne, 夜になって太陽が沈んだら 
me vene quase 'na malincunia: 僕はとっても憂鬱になるんだ 
Sotto a fenesta toia restarria, 君の窓辺を去りたくないんだ 
Quanno fa notte e 'o sole se ne scenne, 夜になって太陽が沈んだら 
 
※(繰りかえし)  
(訳 三澤洋史)  

まず最初の鍵
 これはまさに「目からうろこ」。'o sole mioのoは感嘆詞ではなかった!これは、なんと定冠詞なのだ。つまりil sole mioのことなのだ。ということは、libro(本)vino(ワイン)など男性名詞の語尾と同じということなのだ。ナポリ方言では最後の母音をはっきり言わないそうで(フランス語のよう)、その代わりに男性名詞の語尾を定冠詞として据えたのかも知れない。
 ということは、もしかしてひょっとかして、女性名詞の定冠詞はlaではなくて・・・・そう、その通り!2番の歌詞にSotto 'a fenesta(窓の下に)というのがあるけれど、これは標準語ではSotto la finestraのこと。つまりfinestra(窓)やdonna(女性)やpizza(ピッツァ)の語尾と同じaなのだ。
 男性名詞複数形の定冠詞は、もともと標準語でiであるが、女性名詞の複数leは、ナポリ方言では'eだということである。書いた文章の場合、アルファベットの前にコンマがついているのが方言を表すらしい。

二つ目の鍵
 'naはunaのこと。'na jurnataはuna giornata(ある日)のこと。n'ariaはun'aria(ある空気)、'na festaはuna festa(ひとつのお祭り)のこと。'nfronteはin fronte(顔に)という二つの単語がくっついてしまっている。

三つ目の鍵
 南イタリアでは母音の後のtとかpとかの子音は勢いがついて詰まる傾向がある。だからdoppoはdopo(の後に)、a tte はもちろんa te(君に)である。ミラノに住んでいた時に人々が話す会話を聞いていたが、こうした詰まる発音はほとんど聞かなかった。でも、たまに南イタリア出身の人がいると、a casa(家に)をa ccasaという傾向があるのに気付いていた。しかもカーザと濁らずにカーサと言うから、ミラノではア・カーザがナポリではアッカーサとなる。オペラの「カヴァレリア・ルスティカーナ」でa casaという合唱曲があるが、シチリアの物語なので詰まって歌った方がいい。sを濁るか濁らないかは指揮者の趣味に従っていい。

四つ目の鍵
 eはしばしばdi(~の)の意味で使われる。'na jurnata e soleは「ある日と太陽」ではなくて「ある太陽の日」の意味。でも2番の初めのフレーズのように、
Quanno fa notte e 'o sole se ne scenne  夜になって、そして陽が沈む時は
という風に「そして」の意味でも使うからややこしい。

発音の鍵
 sが時々シュと発音される。いつもではないのでややこしい。たとえば、tempesta(嵐)はテンペスタ、festa(祭り)はフェスタと発音するくせに、fresca(新鮮な)はフレシュカと発音されるそうだ。それから、さっきも書いたが、soleの語尾のeは、ドイツ語のように弱められて曖昧母音になるし、frescaのカもはっきりは発音しないという。
 そう言えば、ドイツ人もspriteのことをスプライトと言わずにシュプライテと言い、語尾が曖昧母音のeになるので、まるでドイツ語みたい。なんだか面白い。

その他の鍵
 単語がちょっとずつ違う。法則が分かれば推測出来なくもないんだけど、やっぱり地元の人に聞いた方がいい。先ほど出てきたようにjurnataはgiornata(昼間、一日)のこと。cchiù belloはpiù bello (もっと美しい)のこと。ma n'natu soleは、ma un' altro sole(だが、ある別の太陽)のこと。quannoはquando(の時)のこと。quaseはquasi(ほとんど)のこと。malincuniaはmalinconia(憂鬱)のこと。fenesta toiaはfinestra tua(君の窓)のこと。
 動詞の活用も違って、restarriaはrestare(留まる)の条件法の活用で、標準語で言うとrestereiのことだ。つまり、
「君の窓の下にずっといたいなあ」
という意味。
 Pe' llaria frescaはPer l'aria frescaのことなんだけど、標準語での意味としてはperという単語は使わないで、a causa dell'aria fresca(新鮮な空気の理由で)とかgrazie dell'aria fresca(新鮮な空気のお陰で)という言い方をするだろうとイタリア語の先生は言う。
 se ne scenneもそう。scenneはscendeのことで不定形はscendere(降りる)だ。この場合は再帰代名詞siとneを伴っているので「降りて行ってしまう」と理解出来るが、標準語では使わない。太陽が沈む時は、ほぼ常にtramontare(陽が沈む)という動詞を使う。
 それに加えて意味のない言葉があるからややこしい。たとえばoinèがそうで、「いやあ!」という感じだそうだ。なんだ、一生懸命考えて損した!

 さあ、これで君もオーソレミオが歌えるよ!くれぐれも言っておく。Oは感嘆詞ではないので、あまり大袈裟に伸ばさないこと。どちらかというと「オッソーレ・ミーオ」と詰まる感じの方が近いようだ。

58歳の今日この頃の心境
 3月3日、誕生日を迎えていよいよ58歳に突入した。57歳と58歳とでは全然違う。何が違うかというと、いよいよ60代が目前に迫ってきたのだ。どうしよう。還暦モーグルやるぞ!なんて言っていたけれど、モーグルなんてとても出来そうにない。あれは若者の筋力がないと無理だ。でもコブは自分なりに極めたい。


素顔の58歳

 3月3日日曜日の今日。早朝散歩すると、まだ肌寒い風に春の匂いが忍び込んでいる。遅咲きの梅が満開。その清楚な姿を青空に映し出している。もうスキー・シーズンも終わりに近づいているなあ。春が来るのは嬉しいんだけど、毎年この時期になると複雑な気分。雪も、かき氷かザラメのようになっちゃうし。ああ、札幌のパウダースノウがなつかしい!

 今年は、誕生日に際して大仰に遺言なんて書かない。昨年もう言いたいことは言ってしまったからね。それより、最近デジャヴなんかもあって、かなり自分の精神が研ぎ澄まされている。特にある本を読んで、また一気にスピリチュアルになっている。
 それはゲイリー・R・レナード著「神の使者」(河出書房新社)という本である。著者はプロのギタリスト。原題はThe Disappearance of the Universe、つまり「宇宙の消滅」だ。このままでもいいのに・・・・。もしかしたら「宇宙の消滅」というタイトルにしたら、みんなが科学の本かと勘違いするからかな?

 ある時、著者のところに二人の霊が出現していろいろ霊的な事を教え、彼に本を書くよう薦める。その霊は前世で聖トマスと聖タダイであったという。言っておきますが、こういう本を読む僕を責めないで下さい。58歳を期に正直に白状するけれど(って、ゆーか、もう前から普通に言っているか)、僕は普通の敬虔なキリスト教徒ではありません。自分はとても宗教的な人間なのだけれど、それだけに、若い頃から様々な宗教書を読みあさり、自分の意識は宗派や教義の壁を超えているのだ。
 キリストをとても愛し尊敬しているけれど、同じように仏陀も尊敬している。輪廻転生を信じているし、守護霊や指導霊や精霊達の存在も信じている。おまけにUFOや宇宙人だって信じている。だからこの「神の使者」も抵抗なく読めるわけだ。


神の使者


 さて、この「今日この頃」であえて紹介していながら、はっきり言って、僕はこの本を買うことを万人に強く薦める気にはならない。買っても飛ばし読みや斜め読みをすることを薦めるし、人によってはこの記事を読むだけでもいいかも知れない。一番の理由は長すぎること。この本には無駄が多すぎて、同じことが繰りかえし書いてあるし、第三者にはあまり興味がないことも事細かに詳しく書いてある。恐らく3分の1か4分の1にしても充分だと思う。
 にもかかわらず、人によっては、この本を読んで人生観が変わる人もいるかもしれないとも思う。事実、画期的で衝撃的なことがいくつか書いてある。一番僕にとって新鮮だったことは、時間に対する考え方だ。二人の霊の内のひとりであるパーサという女性の過去世が聖トマスだというが、この本の最後の方では、推理小説ではないけれど大きなどんでん返しがある。
 なんとこの本の著者自身が聖トマスの生まれ変わりであり、パーサという女性は、著者の次の生涯を送る魂なのだそうだ。著者は今生の次の生涯において悟りに至り、それ故にパーサはもう次に生まれ変わる必要がなく、この地上での最後の生となったそうである。
 ということは・・・・次の生涯まで決まっているということか・・・・ということは・・・・この世で僕達が経験することや決断することなども、全てもう決まっていることなのか?この世では、時間は過去から未来に向かって一方方向に流れるだけなので、未来のことは分からないが、どうもあの世ではその流れから完全に解放されているらしい。

 でもね、その事は今の僕には理解出来るのだ。デジャヴの時にも書いたけれど、夢を見た自分とデジャヴを経験した時の自分は、先に夢を見てそれから実体験で見たのではなくて、そもそもbeforeとafterなどというものはなくて、まさに同時に同じ自分が同じものを見ていることに過ぎないことを、僕はあの時確信したのだ。つまり、僕はいつでも僕であって、ここには時間というものは存在しないのである。うーん、どうもうまく言えないな。言葉で言うと伝わらない。
 とにかく、僕達の意識が時間の枠を越えたら、きっと過去にだけではなく未来にも行けるんだ。守護霊というのは自分の過去世の内のひとりがなっているという話を聞いたことがあるけれど、この本のように、未来世の魂が過去の自分に影響を与えるってこともあり得るのだ。まるで映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のような話だ。

 この本によると、そもそも我々がこの世と呼んでいるものは、神の国の実体から見ると夢のようなものだという。それは実にリアリティに満ちた、とてもよく出来た夢ではあるが・・・・。そして、我々が様々な想いを抱いたり行動を起こしたりすることによって、この夢の歯車はいろんな風に回り始める。世界は揺るぎない連続性によって進んでいるように見えるが、もっとフレキシブルなものらしい。この夢の中で比較的覚めている賢者はいるが、イエスはそもそもこの夢そのものから完全に覚めていたという。
 本来「私と他者」とか「私と神」とかは、断絶された二元論で論じられるものではないのだという。「赦すこと」や「愛すること」によって自分という幻を捨てた時、宇宙は消え去り、神という「現実」が存在するのみとなる。それをイエスも仏陀も説いたし、それが我々のめざすべき究極の悟りだというのだ。
 あまりに簡単な悟りの理論。でも僕は、悟りってこんなものだと思うな。だけど簡単だからすぐ到達出来るとは限らない。ピアノだってそうだろう。弾けてみるとなんてことないんだ。でも、弾けない人にとってみると神がかりに見えるし、弾ける人だって、聴衆がいて自意識過剰になると、簡単な曲だって間違ってしまう。無心に弾いている時には、どうやったら間違うのか分からないくらいなのに・・・・。

 この本を読んでから来世のことをよく考える。僕は来世何になりたいんだろう。今生では、自分の生活から音楽がないことなど考えられないのに、来世音楽家になりたいという気持ちがあまりないのだ。
 僕はねえ、本当は・・・・来世はプロ・スキーヤーになりたい!それもフリースタイル!今生でスキーに目覚めたのがあまりにも遅かったから、もうこの人生では楽しむ時間が少ししか残されてないじゃないか。今この歳でスキーにのめり込んでいるのは、来生へのプレリュードがもう始まっている証かも知れない。
 僕の親友の角皆優人(つのかい まさひと)君は、スキーを仕事にしていながら音楽を愛しているだろう。僕と彼とは魂的にとても近いところにあるのを感じている。もしかしたら、僕が来世「音楽を愛するスキーヤー」になり、彼は「スキーを愛する音楽家」になるんじゃないか。そんな気もするよ。
 さもなければ、来生僕は宗教家になる。やっぱり自分の人生において、音楽よりも何よりも常に最大の関心事はスピリチュアルなことであった。僕はいつも人生の真ん中に宗教があった。だから音楽もバッハを愛しワーグナーに惹かれていたのだ。白状するけど、宗教的でない音楽も愛するけれど、正直な話、僕の人生にはなくてもいっこうに差し支えなかった。
 だから宗教こそ僕の行動の源泉なのだ。うーん、そんなこと言っている間に、今生でとっとと悟って、もう来世に生まれてこなくてもいいようにしたらとも思うんだけど、それを妨げる大きな理由があるんだ。あのねえ、そうすると妻が可哀想なんだ。来生でも結婚する約束をしているから、ひとりぽっちにはさせられない。

これが58歳の僕の「今日この頃の心境」。

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