東京バロック・スコラーズ演奏会無事終了

三澤洋史   

東京バロック・スコラーズ演奏会無事終了
 楽しかった!モテット6曲を一挙上演とはかなりハードワークであるとみんな言うのだが、僕にとってはいつもの演奏会と変わらない。合唱団にとっては、確かに、普段はアリアやオケの前奏や間奏などで休みながら歌えるのに、今回は全曲歌いっぱなしだ。しかも、どのパートも気を抜く瞬間すら与えられない超絶技巧の連続だから、ヘトヘトになる気持ちも分かる。でもね、指揮者というものは、どっちみち振り始めたら最初から最後まで休みなしだし、緊張の連続もスキーのコブ滑走で慣れているぞ!
 ただ、演奏の間にスピーチを行っていたので、たとえば第1部などはしゃべって指揮してというのを4回繰り返し、その間に一度も袖に引っ込まなかった。曲を演奏し終わると僕はそのままマイクに向かい、合唱団員達は袖に引っ込んで、次の僕のセリフきっかけで再び入場してくる。僕がしゃべり終わると、もう演奏者はスタンバイしている。
 気が付いてみると、僕は確かに水を飲む間もない。異なる2種目をトライアスロンかなんかのように切れ目なく長距離こなしているような感覚であった。

 それでも、バッハはやっている内にどんどんエネルギーが湧いてきて、ますます元気になってくるのだ。こんな作曲家は他にいない。それだけに、演奏が終わって打ち上げが終わって家に帰って来たらめちゃめちゃ疲れている。どんどんエネルギーが湧いてくるといっても、体自体はそれだけ消耗はしているんだな。
 そのまま10時半くらいにベッドに入り、夢も見ないで朝までぐっすりぐっすり眠った。今朝はお散歩もさぼってゴロゴロしていた。とはいえ、朝の連続テレビ小説(家ではBSで見るので7:30)までにはきちんと起きるんだよ。

 僕は、バッハという作曲家は、最終的には癒し系の作曲家だと思う。でもそれは、誰かの相談を受けて、
「なるほどね・・・君のいうことはよーく分かるよ」
というのとは正反対で、
「何そんなちっちゃいことで悩んでんだ!ほれ、元気出せ!」
と強烈な光で闇を吹き飛ばすようなタイプなのだ。
 ちょうど昨年の今頃、僕は愛犬タンタンをなくして精神も体調も最悪だったのをおして東京バロック・スコラーズの「マタイ受難曲」の練習に出たところ、練習している内にみるみる元気になってきた経験がある。バッハの音楽の強烈なパワーを誰よりもリアリティをもって体感しているひとりであるのだ。

 第一生命ホールという中規模のホールは、モテットのような作品を、聴衆と一体感を持って共有するには理想的だった。音響も良いし、何より客席が近いのが良かった。この演奏会でバッハの音楽からエネルギーをもらって、ひとりでも多くの方が明日への希望を胸に抱いて生きていってくれることを心から祈っている。

 さて、僕達は2週間後の6月8日、9日には秋川きららホールにこもって、モテット6曲の録音をする。それをCDにして販売する予定だ。これはこれで、演奏会と違って勢いだけではダメなので、さらにハードルが高い。でも、アラを取って整っていさえすればいいというものでもない。そんな演奏はその辺にゴロゴロ転がっている。この団体が今回の演奏会で見せたような熱気とメッセージ性は、なんとか録音の中にも注入したいのだ。
 僕は確信する。僕がバッハのあらゆる作品の中でも最も大切に考えているモテットの録音をするとしたら、現在の東京バロック・スコラーズ以外にはない。僕が人生を賭けて取り組んできたバッハへのアプローチが、ここにきてやっと実を結んできたのだ。このチャンスを逃したら、二度とない!

 みんな、ありがとう!さあ、今度は月に向かって飛ぶぞう!ついて来い!あっ、違った・・・でも、まあ、似たようなもんだ。差し当たって、今度はどこにもないCDを作るぞう!
「透き通って、輝いて、どこまでもまぶしくて!」
あっ、これはミュージカル「おにころ」のセリフだが、そこにプラスして、暖かくて、やさしくて、ノリノリで、パッツーンとハジけたCDになる予定です!

結びつく言葉
 東京バロック・スコラーズ演奏会のために礒山雅(いそやま ただし)先生が提供してくれたモテットの対訳は、現代語でとても読みやすく、モテットの勉強をするにあたって、あらためて歌詞の意味を吟味するのにとても大きな助けとなった。
 その中で何カ所か「あれっ?」と思う部分があった。たとえばFürchte dich nicht,ich bin bei dir恐れるな、私はお前のそばにいるBWV228の中にこういう歌詞がある。

Ich bin dein, weil du dein Leben
Und dein Blut mir zugut
In den Tod gegeben.
私はあなたのもの
なぜならあなたが御命と御血とを
この私のために
死の犠牲としてくださったのですから(礒山雅訳)
 ここで、元のテキストにはzugut が分けられてzu gutとなっていたのに、礒山先生はこれを1語として続けて書き、訳もそれに従っていた。zu gutは英語のtoo goodと同じで「良すぎる」という意味なので、僕はこれまで「あなたは自分の命と血を、(私にはもったいないことであるが)死に捧げてくださった」と訳していた。
 でも、もしzuguteという単語を使用するなら、意味は全然違ってくる。zuguteという副詞は3格を伴って「~の役に立つ」とか「~に益する」という意味だ。だからmir zuguteと続けば礒山先生訳のように「この私のために」となるわけである。zuguteではなくzugutとeが抜けているのは、詩なので、シラブルの調整のためによく起きる手法だ。イタリア語でtroncamento(脱落)と言われる。
 では何故バッハはzu gutと切って書いていたかというと、これにも理由がある。恐らくバッハの時代にはまだ切って書いていたのだと思う。そして「良すぎる」という意味のzu gutとの区別は曖昧だったのだろうが、「~の役に立つ」の意味の発展と共に、「良すぎる」と区別するために、しだいにつなげるようになってきたのだと推測する。こうした経路を経てつながるようになった単語は、他にも沢山例があるからだ。

 たとえばSinget dem Herrn ein neues Lied主に向かって新しい歌を歌えBWV225の第2曲コラールのテキストの中にある、
Gleichwie das Gras von Rechen
たとえるならば熊手に掻かれる草
のgleichwieという言葉。これは一見してgleich(同じ)wie(~のように)の二つの言葉の造語であることが分かる。これはバッハの時代にはすでにつなげられていたが、最初は切って書かれていただろう。でも、この場合はつなげてもつなげなくても意味は全く一緒なので問題はないのだ。

 みなさんが良く知っているところでは、ヘンデル作曲「メサイア」のハレルヤ・コーラスで使われているfor everという言葉がある。現代英語ではつながってforever(永遠に)となっているが、ヘンデルの活躍していた当時はまだ切れていた。
現代英語ではeverと単独で使われる場合は、
Have you ever been there ?
そこに行ったことがありますか?
のように「かつて」というような意味で使われることが主であり、everの反対語がneverであるが、当時は「常に、絶えず、ますます」という意味も同じような頻度で使われていたのである。evergreen(常緑樹)というように。だから「メサイア」でもfor ever and everという言い回しがあるわけである。

 こうした単語を調べてみると、興味深いだけではなく、時には言語というものの神髄に触れることがある。たとえばイタリア語のabbastanzaという単語にはいつも悩ませられていた。この単語にはポジティヴとネガティヴとのふたつの意味合いがあって、シチュエーションによって使い分けないといけないからだ。でも、由来を知ってからよく分かるようになってきた。それはこういうことだ。
 abbastanzaという副詞は、a bastanzaという二つの言葉が合わさったものである。僕がそれを知ったのは、ルネッサンス期に活躍したジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)という人の文章を読んでいた時に、a bastanzaと離されて使われていたのを見たからである。
 bastanzaという名詞はbastareという動詞から来た言葉で、「充分であること」という意味を持つ。イタリア人でなくてもヨーロッパ人が頻繁に使うBasta !(もう結構!)はbastareの非人称の3人称活用である。

 何故悩ませられていたかというと、たとえば、
C'è abbastanza spazio.
のような使い方をする時は、「充分なスペースがある」でいいのだけれども、たとえば、
E abbastanza bene.
というと、「まあまあ良い」って感じで、どちらかというとネガティヴなのだ。だから良い順に並べると、
molto bene
bene
abbastanza bene
の順なのだ。
「まあ、いちおう『良い』というレベルには達しているけどね」
という感じなのである。
さらに、
Ti piace Tokyo?
東京は気に入ってるかい?
Abbastanza.
まあね。
Abbastanza?
Cos'è che non ti piace di Tokyo?
まあねだって?
東京のどこが気に入らないっていうんだ?
という具合に、時には険悪にすらなったりする。
 充分であるということは、一応条件は満たしているという意味であるが、言い方を変えると、マイナスではないけれども「評価としてはゼロである」という意味でもある。それが、先の「充分なスペースがある」のように基本的な期待度が低い場合にはいいのだけれど、日常会話で、beneやbuonoのようなポジティヴな単語と合わさった時がややこしいのだ。
 つまり彼らは、普通でも平気でmolto beneとかbravissimoとか言うじゃないか。だから彼らの解答への期待度もmolto beneあたりが平均点なのだ。そこへもってきてabbastanzaなどと答えるとかなりマイナス評価なので、場合によっては怒っちゃう人もいるわけなのだ。この辺は、なかなか日本人には理解しがたいが、こんなところにヨーロッパ文化のあり方が見えるではないか。

 言葉オタクである僕にとっては、こうして、ひとつの事に気がつくと、どんどん芋づる式に興味が広がって収拾が付かない。歌詞をきっかけにどんどんいろいろ深みにハマッていって、肝心の曲の勉強がおろそかになりがちであった。ともあれ礒山先生のおかげで、ひとりで勝手に随分楽しませてもらったのは事実である。


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