村上春樹の正しい読み方

三澤洋史   

今日この頃
 新国立劇場では「カルメン」の舞台稽古が進行し、19日日曜日に初日を迎えた。初日は、ブラボーが飛び交うまずまずの成功。しかしなんだね。オペラ劇場で働いていると、ブラボーが当たり前になってくるから気をつけないといけない。ブラボーなんて一生に一度も自分から発することはおろか、生で聴くこともないのが普通の人達なのだからね。
 僕は、よく思うよ。「素晴らしい」という言葉を一生に一度も発したことのない人も少なくないだろう。しかし僕の業界やまわりではしょっちゅう聞くし自分も言っている。僕自身、人とかけ離れた人生を送っているのだろう。って、ゆーか、指揮者というのをおしごとにしている人、あんまりいないものね。音楽スタッフの楽屋は指揮者だらけなんだけどね。

 さかのぼるが、18日土曜日は、朝10時からの東京バロック・スコラーズ練習の後、群馬に行った。本当は、「カルメン」と平行して進んでいる「蝶々夫人」の立ち稽古があったのだが、ソリストの稽古に集中するために合唱付きの場面は金曜日に集中してやってしまって、土曜日の午後と夜がまるまる空いた。なので急遽新町歌劇団の練習に行くことにしたのだ。
 高崎線新町駅に着き、実家に寄って荷物を置くと、僕はお袋に向かって言う。
「ちょっとこれから新町プールに行ってくる」
お袋は驚いた顔をして、
「ば、馬鹿!この寒空にプールだなんて!あたしゃ、風邪引いてお医者さんに通っているというのに・・・」
お袋にとっては真冬に水泳をするなんて考えられないんだろうなあ。たしかに僕が子供の頃には温水プールなんてものはなかったからね。水泳は夏にするものという確固たる常識があった。
 でも新町歌劇団に練習に行って、「お袋に馬鹿と言われました」と言ったら、なんと団の中に水泳インストラクターが二人もいたし、他に水泳に通っていると言った人もいた。やっぱり、こうして足繁く何かに通っているような人は、いろんな面でアクティブなのかなと思った。だからみんな若いんだ。
 19日「カルメン」初日の後も府中市生涯学習センターに泳ぎに行く。何故そんなに一生懸命通っているかというと、今週の平日のオフ日にガーラ湯沢へスキーに行くからだ。最近はコブを滑っているだろう。整地だけ滑っているのと違って体力要るからね。それに最近書いているように、カーヴィング・スキーからたわみを引き出し、その醍醐味を味わうためにも腿筋が必要だ。だから日頃から鍛えておくんだ。それに、軸の概念とか、水泳がスキーに役立つこと、あるいはその逆もあるのだ。こんな風に、ひとつのことをやると付随していろいろ広がってくる。また、こんな風に先手先手で健康を攻めていくと、病気も逃げていくようだ。みなさん、予防にお金と暇を費やすことを厭わないようにしましょう。

 スキー場の行き帰りには、たぶん東京バロック・スコラーズの次の演奏会の勉強をする。何故なら、スキーをするとバッハの音楽がより近くなるからだ。そのリズムからくる浮遊感とバッハの音楽がそっくりなのだ。特にコブを滑る時の精神状態は、ロ短調ミサ曲のグローリアなどを指揮しているのと同じだ。コブがうまく滑れた時は、ショート・ターンのターン弧がコブの形状にピッタリとはまって、あたかもショート・ターンしたらそこにたまたまコブがあったというような感じになる。難しいパッセージが決まって、最後がピタッと合った瞬間と一緒。抜重の瞬間はタイで引き延ばされて小節線を越えた瞬間。
 僕は、自分のバッハを完成させるために雪山に行く・・・うーん、言い過ぎかな・・・それだけでもねーな。でも、ひとつだけ言っておこう。スキーはある瞬間バッハを超える。バッハよりも素晴らしいものを僕の前に提示してくれる。僕は、これまでどんなに宗教的探求をしても、瞑想しても、スキーをしているある瞬間ほど、深い悟りの境地に至ったことはなかった。
 まず無我が来る、それからトランス状態が来る。それから・・・宇宙全体に満ちあふれる愛を認識する。もちろん、いつでもではない。でも、一回だって体験すれば人生観変わるでしょう。だから二匹目、三匹目の柳の下のどじょうを僕は追いかけているのだ。

 19日の夜は妻がいなかった。僕の一番上の姉の義母が亡くなったので、僕の代わりに20日月曜日の告別式に行くことになり、新町の隣の玉村にある彼女の母親のところに泊まった。姉は渋川市なので、妻は20日の朝に新町の僕の家に寄り、母と姉を乗せて行った。郷里が同じというのはなにかと便利だ。母は葬儀には出ないで、姉の家で留守番をしたそうだ。
 だから、生涯学習センターで泳いだ後は、どこかで食事をしなければならなかった。真っ先に考えたのは国立駅前のPizzettoというピザ屋さんだ。でも、家から遠いし寒いし面倒くさい。それでも、なんとなくイタリアンが食べたい。というので、どうしようかなと思いながら自転車を走らせていたら、家の近くにサイゼリアがあったので入ってしまった。
 入った瞬間はちょっと後悔した。せっかくのディナーなのにファミレスかあと思った。ところが・・・ところがである!ここが案外良いのだ。あまりに安いので大丈夫かいなと思うし、勿論最上の食材は望むべくもないが、値段と味とのバランスを考えると驚きのクォリティだ。 僕のテーブルにはたちまちトマトとモッツァレッラのカプレーゼ、生ハム、エスカルゴ、生ビールとクォーター・リットルの赤のハウス・ワインが並んだ。生ハムなどは、2枚くらいで、ひとりで食べるのには丁度良い。エスカルゴ、意外とうまし!赤ワインもハウス・ワインとしたら悪くない。イタリアのトラットリアあたりのハウス・ワインのクォリティはある。最後はパエリアで仕上げて大満足で店を出た。これで2千円ちょっと。おい、おい、嘘だろう!

村上春樹の正しい読み方(途中ネタバレあり)
 文藝春秋では、この3ヶ月もの間、村上春樹の書き下ろし短編小説を毎回掲載している。それを楽しみに読んでいる。村上氏の作家としての文章テクニックにはますます磨きがかかっている。どの小説も、冒頭から読者を惹き付け、読み始めたら止まらせず、一気に最後まで読み終わらせてしまう。その手腕には毎度ながら舌を巻く。
 ただいつも思う。この人の小説って、どうしていつまでも若者の物語なのだろう?もういい歳なのに、どうしてせいぜい30代真ん中くらいまでの若者の心情にとどまっていて、この年代にしかない閉塞感や失望や孤独感ばっかり描いているのだろう?
 物語には年配の人も登場するけれど、それが不思議な事に、若者の眼から見た年寄りの姿であって、自分の実年齢に近い人間としてのリアリティがない。同じ年代の人達と一緒くたにされるのが嫌なのか、自分だけは若いつもりでいるのか、あるいは精神年齢が30代で止まっているのか?
 今月号に掲載されている「木野」を読んで、特にその想いを強くした。村上氏は若い時にジャズ喫茶を営んでいたと聞く。恐らくその頃の彼の心情にことある毎に回帰していくのか。ちいさなバー、店内に流れるジャズ、ウィスキーといったお馴染みのアイテムが登場する。
 それに加えて、いつものように我々の理性を攪乱するセックスで読者サービスをし、猫や蛇というシンボリックなアイテムで潜在意識を刺激し、邪悪なものからの人知れぬ威嚇で不安感を煽り、結末はまるで水戸黄門の印籠のように、その前に提示した様々な問題を何も解決せずに煙に巻いて終わる。あっ、これは印籠ではないな。印籠は、一挙解決だからな。むしろアンチ印籠、あるいは印籠拒否というワンパターン。

 だから面白いのだともいえる。想像力の豊かな読者ほど、彼の物語をそれぞれの読者のファンタジーで勘違いしながら補うので、10人いたら10通りの読み方が存在する。ただ、そういう人は放っておいていい。問題はもっと真面目な人で、
「村上氏の本当の意図は、こうかな?それともああかな?」
と作者の真意を探りながら悩んじゃう人は気の毒だ。僕のまわりでもそういう人は少なからずいて、僕がこの「今日この頃」で推薦したので読んでみたら腹が立った、なんてコメントをしてくる人も少なくない。そんな時の僕は、まるで自分の落ち度かのように低姿勢になって、村上春樹擁護派に回る。そしてたいてい、
「それじゃ『海辺のカフカ』を読んでみたら」
と一番無難な作品を薦める。
 それにしても、今回は行き過ぎじゃね、と思ってしまった。最後の方で、いつもの「謎めいたアイテム」がなだれ込むように重なって登場し、シュール・レアリズム的に終わる。そのことによって逆に、そうした「煙に巻く」結末そのものが、単なるテクニックに過ぎなかったのかと、読者に気付かせてしまった。結末の過度の饒舌がアダになったか。今回はいつもにも増して、読後に腹が立つ人が多そう・・・・。

(ここからネタバレあり)
 ひとつの例を示そう。カミタは木野に対して、旅に出るように忠告する。そして旅先から、毎週月曜日と木曜日に伊豆の叔母さんに宛てて絵葉書を書くように勧める(というよりほとんど命令する)。その絵葉書には宛先だけ書いて、メッセージは一切書かないように言う。
「なんでだ?」
と読者は思う。その命令の意味が分からん。
 その疑問が小説を読み進めるエネルギーとなっていくが、村上文学に精通した人だったら、その疑問が結末で解かれる期待をしても無駄なのを知っている。しかしながら、村上氏はもっと巧妙だ。この疑問にダメ押しをする。彼はお伽噺につきものの禁制というテクニックを使う。つまり、主人公は、夕鶴や七匹の子ヤギのように約束を破ってしまうのだ。木野は熊本に滞在していた時、カミタの忠告に逆らって、絵葉書にメッセージを書いてしまった。

どうしてそんなことを書いてしまったのか、木野にはそのときの自分の心の動きをうまくたどれない。それはカミタに固く禁じられていたことだった。宛先以外、葉書には何ひとつ書いてはいけません。そのことを忘れないようにしてください。カミタはそう言った。しかし木野はもう自分を抑制することができなくなってい た。(文藝春秋419ページ)
「あーあ、やっちまったね」
と読者は思う。木野は地雷を踏んじゃったね、と思いながら、でもまてよ、どうしてこれがそんなに大変なことなんだ、じゃあこれから一体それがどんな事態を引き寄せるんだろう?と思って読み進んでいく。さて、何が起こるんだ?もう読者の心は止まらない。そんな風に読者の心をつかむ術が天才的なのだ。で、その答えは・・・・当然ながら・・・ない。
 つまりね、村上氏は借金を最初から踏み倒そうと思って借りる人と一緒だ。疑問だけ出して解答は考えなくていいのだ。だったら簡単ではないか。なるべく人が、
「どうして?知りたい、知りたい!」
と思うような疑問を提示するだけでいいのさ。それで、とにかく最後まで読ませて、煙に巻いておしまい。これが彼の手口である。

 とはいいながら何かは残る。そこがまたニクイところだねえ。ただの詐欺師ではない。僕はまるで、プレイボーイにフラれた女が、男の与えてくれたものにまだ感謝しているような状態だ。お人好し的賛辞を捧げることは実に悔しいが、あえて言おう。
「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。
(420ページ)

そう、おれは傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。
そのあいだも雨は間断なく、冷ややかに世界を濡らせていた。
(422ページ小説のラストセンテンス)
主人公は、自宅で妻が他の男と寝ている現場を目撃し、離婚に至った。そのトラウマに向かい合うことを恐れていたということだ。ここで表現されているものは、通常の小説で見られる息づいた感情の世界である。それはノーマルであるが真実であり、それを描写する文章力も秀逸である。
 つまり、このくだりを読む限り一流文学として感動する。こういうのを混ぜるから困るのである。詐欺師は、自分の話に巧妙に真実を混ぜることによって相手をだますという。村上春樹はだましの天才である。

 僕は僕で、だまされるところは、分かっていてあえてだまされ、疑問に対する作者からの解決は期待しないで、自分で勝手に解決を考える。そこが楽しい。たとえば、物語の最後の方で、泊まっている主人公のホテルの部屋を誰かがノックする。それが、禁制を破った結果としてもたらされたものなのかも分からなければ、もちろん誰なのかも分からないまま小説は終わるが、ここからが楽しいのである。
 つまり、あとは僕が自分で勝手に創造し(想像ではない)、この物語を完成する番なのだ。まあ、完成しなくてもいっこうに構わない。著者自らが放り出しているのだから。むしろ困るのは、村上春樹研究家などという人が出てきて、
「ノックしているのは○○○なのです」
などと注釈をつけること。これでは面白くないし、きっと村上春樹本人はもっとあまのじゃくだろうから、
「残念でした、違います」
というに違いない。
 そして「違います」と言っている時に初めて、
「誰ということにしておこうかな」
などと考えるに決まっているのである。
 そんな風に相手が適当なのだから、こちらはもっと適当に関わりましょう。これが村上文学の正しい読み方です。
分かったか!チャンチャン!

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