小保方さんと彼女をとりまく大人たち

三澤洋史   

僕のごく平凡な日常
 早朝散歩を妻とする。彼女は時々さぼるけど、一緒の時はいろいろポツリポツリと話をしながら歩くのがいい。桜は終わってしまったが、木々の緑が日に日に増えてくるのが嬉しい。世界に生命が息づき、大気は晴れやかで、僕達の心も夏に向かって開かれていく。同じ場所を歩く時に見える太陽の高さの違いに驚いたり、ウグイスの鳴き声にハッとしたり、朝は感受性も研ぎ澄まされているようだ。
 散歩から帰ってくると、朝食を食べながらBSのNHK朝ドラを7時半から観る。4月から新番組が始まった。「赤毛のアン」を翻訳した女性の物語。子役も可愛かったけど、大人になった花子を演じる吉高由里子の透明感あるたたずまいが良い。
 それが終わった7時45分には、まだ朝食を食べ終わっていないことが多いので、惰性的に次の番組を観る。ここのところ休んでいたけれど、また火野正平さんの「日本縦断 こころ旅」が始まっている。
 いいおっさんの「ハアハア」と息切れの声を聞いて何が面白いかと思うのだが、同じ自転車に乗る者として、あのユルイ速度で変わって行く景色など、自転車でないと見えない目線が心地良い。それに時々知っている景色が出てくる。先日など名古屋を走っていて、モーツァルト200合唱団の練習場になっている幅下幼稚園のすぐ側を通っていた。
「あれれ、キャッスル・ホテルやんけ」
なんてね。
 火野正平さんって、若い時はめっちゃプレイボーイだったようだね。関係あった芸能人女性を並べるだけで10本の指が軽く終わってしまうそうだ。それでいて、山城新伍が、
「あいつは女と別れる時も後腐れなくきっちりやる」
と言うほど別れ方がきれいで、別れた後も火野さんのことを悪く言う女性はひとりもいなかったという。本当かなあ。
 まあ、とにかく、あの歳になってチョイワルの感じを出しているのがいい。でもすぐへたばるのだ。でもチョイワルなんだ。その両方の安心感が、この番組の人気を作り出しているのだろう。
 この番組のテーマソングを歌っているのは池田綾子さんという人だ。僕は、こういう女性のヘッドボイスが大好きだ。この歌声が流れてくるだけで心が癒される。

この人、武蔵野音楽大学声楽科でドイツ・リートを勉強した後、ウィーン音大に留学している。どうりで基礎がしっかりしている。
 中学校の頃、姉のために親が買ってくれた音楽全集に入っているシューベルトの「鱒」と「春の信仰」を毎日繰り返し繰り返し聴いていた時期があった。歌っていたのはアンネリーゼ・ローテンベルガー。シュヴァルツコップ全盛時代のウィーン歌劇場で、シュヴァルツコップが「薔薇の騎士」の元帥夫人を歌うと、ローテンベルガーはゾフィーを歌っていた。中学校の頃から、僕は女性の頭声にシビれていたんだな。
 それ以外にも、赤い鳥~ハイファイセットのヴォーカリストの山本潤子や、トワエモア出身の白鳥英美子などが大好きである。じゃあ、美空ひばりのひっくり返った高音も好きそうに見えるが、ああいうのは苦手。ヴィブラートが強いのは嫌なんだ。

 「こころ旅」が終わると仕事開始だ。午前中は家に居ることが多いので、この間に様々な仕事をする。スコアを読んだり、作曲したり、編曲したり、ピアノを弾いたり、歌詞の意味を調べたり、原稿を書いたり、メールをチェックし返事を書いたり、そんなこんなであっという間に午前中が終わってしまう。
 こういうと、何の変哲もない日常の風景に過ぎないが、この時間というのは、僕の内面にとってはとても日常などと呼べるものではない。非日常的なもの凄くエキサイティングな瞬間の連続なのだ。勿論劇場内の生活でもそうだけれど、非日常的で創造的な火花を日常というケースに無理矢理詰め込む作業を毎日やっているということだ。そうでないと、毎日がお祭り騒ぎになってしまうのだ。
 もう少し経ったら、みなさんにも発表するけれど、先日もある原稿を書き上がった。昨年の暮れからずっと書き続けていた原稿。それがやっと仕上がったのだ。もうそれだけでお祭りだろう!でもね、そういったことをみんな淡々と進めていくのが僕の日常なのさ。

 さて、午前中の仕事が終わると、お昼を食べて劇場に向かう。これもサラリーマン的にほとんど毎日淡々と出勤し、淡々と帰ってくる。しかしながら、その中で行われていることは・・・・。

 昨日でアルバン・ベルク作曲「ヴォツェック」公演が終わった。合唱は歌う個所が極端に少なく、ソプラノは7小節、アルトに至ってはわずか3小節しかない。しかしこの公演は気をつけないといけない。実は、この公演中に、ひとりのテノール合唱団員は右親指を剥離骨折し、もうひとりのバス団員は、バイクで交通事故を起こして出演不可能になった。
 男声合唱が歌う個所は、ギターやアコーデオンなどのバンダが活躍し、踊りもあって楽しいのだが、このオペラには、あまりのめり込みすぎると不吉なことが起こる。事故のことはともかく、僕のような精神的に過敏な人間は何かを“受けて”しまうので要注意。たとえば終演後ちょっと鬱になったりするのだ。
 だから僕は、この種のオペラに関わる場合、つとめて内容から距離を置くようにしている。勿論、やるべきことはみんなやってるし、作品そのものにも真摯には取り組んでいる。しかしながら、オペラではこういう作品は少なくないのだ。
 たとえば、有名な「カルメン」でさえ、ストーカーと化した元カレが、心変わりしたカルメンを刺し殺すオペラではないか。このオペラの時にも深刻な交通事故を起こした団員がいた。勿論単なる偶然かも知れない。僕の言う事をナンセンスに感じる人もいるだろう。 でも、作品が我々の内面に投げかける力というものを過小評価してはいけない。逆に言うと、だからオペラは観ている者に深い感動を与えることが出来るのであり、そのパワーを僕達当事者は事実として誰よりも実感しているのだから。

 ヴォツェック役のゲオルク・ニグル氏の迫真に迫る演技と歌は見事のひとことだったし、何といってもわれらがエレナ・ツィトコーワさんの美しいマリーが素晴らしかった。スマートでキュートなツィトコーワさんで観ると、変に肉感的でないので、全てが心を病んだヴォツェックの妄想ではないかとも思えてくる。
 この物語の救いのない閉塞感は、そのまま20世紀という時代の閉塞感を表現している。それはまた12音技法というものの閉塞感とつながっている。植民地と搾取に始まり、戦争に明け暮れた時代が、自らにふさわしい物語とサウンドを探し当てたといえる。
 だから僕は、この作品にもはや新しさを感じない。それどころか、これはすでに過去の作品である。21世紀は、これからの我々にふさわしい作品を創造しなければいけない。これから生まれてくる作品が、妻の浮気によって精神錯乱に追い詰められた主人公が妻を殺し自分も溺れて死に、後に残された子供のこれからの不幸を暗示させて終わるような作品では、人類の行く末は淋し過ぎると思わないかい。

 さて、今週はバレエ公演の「カルミナ・ブラーナ」に明け暮れる。19日土曜日に初日の幕が開くが、それまでオケ合わせや舞台稽古を行う。公演の間を縫って、新制作「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」の立ち稽古が始まる。

こんな風に、僕の日常生活は淡々と進んでいく。

小保方さんと彼女をとりまく大人たち
 小保方晴子さんのSTAP細胞論文に関するインタビューをテレビで見た。あれっ、と思った。これは僕の直感に過ぎないが、彼女の目や話しぶりから、意外に真摯な研究者としての態度が見て取れた。少なくとも、この女性はただの浮かれたねえちゃんではない。きちんとこの人の言う事を聞かなければいけないと思った。
 それから、それを報道するテレビ番組のコメントを聞き、次の日の新聞の記事を読んであきれた。街に出ると、スポーツ新聞紙や夕刊紙や週刊誌の見出しが嫌でも目に入ってくる。それらの見出しや記事の中には、目にあまるものが少なくなかった。みんなただ興味本位で騒ぎ立てるだけで、全然問題の本質を考えていない。なんて表面的で不真面目な国民なのだろうと悲しくなった。

 この事件で、僕たちが本当に知りたいと思い、また知るべきなのはひとつだ。それは、STAP細胞なるものが本当に存在するのか、ということだ。もしSTAP細胞がまったく空想の産物であることを分かっていながら、その存在を故意にねつ造しようとして、一連の論文を作成したならば、犯罪にも近い悪意に満ちた行為といえるだろう。
 だがもしその反対に、STAP細胞が、単なる仮説を越えた段階でその存在の可能性を持っているならば、その研究自体を否定するような考えや行動は、人類の進歩に逆行する行為となり得るし、マスコミは、コペルニクスやガリレオを抹殺しようとしたかつての教会の役割を演じてしまうことになる。いいのか、それで?

 理化学研究所は、何故そうした圧力に屈するように「論文取り下げ」などと言い、関係者の処分を決めようとしていたのか。論文を撤回するというのは大変な事だ。それは、
「STAP細胞はでっちあげでした。そんなものはありません。嘘をついてごめんなさい」
ということになってしまうからだ。
 何より、その論文は一度世に出てしまったのである。人々はSTAP細胞という言葉をすでに知ってしまったのである。しかも、本物の画像が存在しないならともかく、代わりの画像を提出したというではないか。
 もし理化学研究所がその論文を取り下げた隙に別の研究者がそれを証明したとしたら、STAP細胞の最初の発見者は誰になるのであろうか?小保方さんは石つぶてを背中に浴びながら理研を追われ、研究者生命を抹殺され、そして別の誰かが英雄になるのか?

 何故僕がこんなにムキになってこの事を言うのかというと、若い才能をつぶしたくないからである。若き日の小澤征爾さんがN響にボイコットされた事件を覚えているであろう。小澤さんはそれをきっかけに日本を離れ、外国で認められて世界的に有名になり、その後逆輸入する形で日本に入って来る。すると今度は手放しで賛辞の嵐だ。今では批評家も誰も賛辞以外捧げてはいけないという雰囲気が漂っている。昔は逆に、小澤さんの才能を守ってくれる人は誰もいなかった。どっちも正しくないと思う。
 このように日本人には真の批判能力がないし、仮にあったとしても社会全体が強固な言論統制の中に置かれている。今日では、その空気を作り出しているのはマスコミだ。小保方さんについても、僕がこのような肯定的な意見を言う事すら、多少の勇気が必要だ。

 小澤さんや小保方さんに限らず、若い才能が摘み取られるようなことはあってはならないが、残念ながら今日でも至るところで起こっている。我が国には、いくら良い才能があってもそれを充分に生かす土壌が育っていないのだ。
 たとえばクリスティアン・ティーレマンのような鼻息の荒い指揮者が日本に生まれていたら、有名になる前に必ずつぶされてしまうだろう。バイロイト音楽祭に登場した時、祝祭管弦楽団の楽員の中でも評価は半々だった。彼が生意気なので、それだけでも嫌っている者がいた。でも、しだいに彼を評価する者が増え、今ではバイロイトになくてはならない存在に彼は育ったのである。育ててくれたのはオケの楽員である。その過程を見ていた僕は、これこそヨーロッパの懐の広さだと感心した。やはり彼らには、若い人材をきちんと評価し、育てようという使命感があるのだ。

 若者はうかつだ。これは今も昔も変わらない。世界中何処も変わらない。僕たちのような年寄りが有能な若者を見ていると、その脇の甘さが手に取るように分かる。それなのに、彼らは自分の才能に対して驚くほど自意識過剰だし、自分の欠点に対しては極度に過小評価をしている。ティーレマンとてそうだった。
 でも、僕達経験者は、その若者にあきれるような欠点があったとしても、そのことだけで彼らの中にある才能を抹殺してはならない。それは僕達の義務である。だって、自分たちだって、若い時にはそうだったのだから。今から思い返すと冷や汗が出ることばかりだ。にもかかわらず、今日の自分があるのは、誰かが自分のことを認め、育ててくれたからに他ならない。その恩を忘れてはいけない。
 日本では、自分におべっかを使ってすり寄ってくる後輩を可愛がってしまう傾向がある。しかしこんな上司や先輩になってはいけない。あなたの中に、その若者が有能かどうかよりも、その若者が自分にとって心地よいかどうかを優先する気持ちがあったら、あなたは人事を左右する立場に立ってはいけない。あなたは、玉石混淆の若者達の中から、本当に光る原石を見分けるべきだ。その判断にはこれっぽっちも自己愛が混じってはいけない。完全に中立的で無私でないといけない。
 僕はむしろ人付き合いが下手だったり、生意気な若者が好きだ。内に何かを持っている者はシャイであることが多いし、引きこもりと創造的な精神とは隣り合わせだ。孤独と向かい合えない者は何も生み出しはしない。また若者は生意気なくらいでないといけない。

 同時に、あなたがもしそのある若者の中に才能を発見したら、決してその若者を甘やかしてはいけない。月並みな言葉だが愛のムチを与えないといけない。たとえば、科学者だったら、研究ノートの書き方から始まって、正しい論文の書き方を徹底的に教えるべきである。論文には論文特有の文章の書き方がある。それをきちんと勉強させることだ。その時は他人の論文をコピー・アンド・ペーストして文体の研究させるのもよい。しかし、いざ英文で論文を書く時には、自分の頭で最初から文章を組み立てて書かせる。当たり前のことである。
「論文にはコピペをしてはいけない」
などとわざわざ教える必要はない。そんなこと言われなくても当たり前、という張り詰めた雰囲気が研究室に漂っているべきである。そうでなかったら、それは指導教官が甘い証拠なのである。
 論文は完璧であるべしと教えないといけない。論文は神聖なのだ。作成の過程でミスやミスと誤解されるような書き方が見つかったら、指導教官は絶対にそんな若者を許してはいけない。ミスを許さないのではなく、ミスを犯すようなたるんだ態度を許してはいけない。そんなことしたら、その趣旨の信憑性すら疑われるような事態を引き起こすのだということを厳しく言って言い過ぎることはない。
 今回小保方さんが、パワーポイントの中にあったファイルを間違って使ってしまったと弁解していたが、そもそも論文の神聖さをナメている。しかしながら、それが軽率であったことを身をもって思い知らされた時は、すなわち自分が抹殺される時というのではあまりに可愛そうだ。そうならないようにムチをあげなければならない時にアメをあげていた無責任指導教官がいるのだ。

 さて、小保方さんはこうしたことを誰からも教わらなかったわけだね。実に不幸な教育を受け、実に不幸な環境にいたわけだ。世界に向けてあんな重要な研究を発表しておきながら、コピペーした文章を載せ、写真を取り違えたわけである。勿論、小保方さん自身のズボラな一面は否定しようもない。誰からも教わらなくても、きちんと論文を作れる人もゴマンといるだろうから。
 でも小保方さんの論文がそのまま認められたら、理研はその恩恵を自分たちの業績としてまんまと受けようとしていたわけだろう。それなのにこういうことが起こったら、弱冠30歳の彼女ひとりに罪を着せて処分しようとしていたんだよね。他の人達はおとがめなしにしようとしていたんだよね。自分たちの保身を図ってトカゲの尻尾だけ切ろうとしていたんだよね。こういうことをするから大人は狡いと言われるのだ。

 結論を言います。
これらはみんな僕たち経験ある大人のせいだ。
大人がだらしないからこうなったんだ。
大人がグズで、
怠惰で、
それでいて傲慢で、
若者を育てようなどとはこれっぽっちも思っていなくて、
かえって生意気な若者に大人げなく悪意を持っていて、
厳しくするべき時に甘やかし、
守ってあげるべき時に冷たく、
教えるべき事は何も教えず、
いざとなったら責任だけをなすりつけ、
強きものにへつらい、
弱きものに居丈高になり、
興味本位に他人のスキャンダルを暴くことには情熱的なくせに、
本当に真実を追究することには無関心で、
いじめられそうな相手は徹底的にいじめ、
有能な芽を全て摘み取ってしまい、
無能で調子の良い者ばかりを世にはびこらし、
世の停滞と没落を煽っているから、
こんな世の中になってしまったのである。

   
 


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