真逆のオペラ同時進行の今日この頃

三澤洋史   

真逆のオペラ同時進行の今日この頃
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」の公演が快進撃を続けている。その合間を縫って同じ舞台で「アラベッラ」の舞台稽古が行われている。舞台スタッフは大変だ。「カヴァパリ」のセットの横と裏側に「アラベッラ」のセットが置いてあり、「カヴァパリ」公演が終わるやいなや、「それっ!」って感じで「アラベッラ」に転換し、翌日の舞台稽古に備えるのだ。それでまた公演に間に合うようにセットし直しの連続だ。勿論、連日違う演目を上演するドイツの歌劇場では、日常的に見られる光景だが、あらためて見ると、本当にご苦労さんだなあと思う。
 「アラベッラ」演出家フィリップ・アルローのいきあたりばったりさは、やはりあまり変わっていなかった。でも、彼がソリストにも合唱団にも放任しているところが、なんと舞台稽古になったら、どんどん良くなってきた。合唱団を含めるキャストの本人同士が自主的に演技の内容をふくらませてきているのだ。
 たとえば「カヴァパリ」演出家ジルベール・デフロは、勝手な演技を決して許さないため、何度稽古を重ねても、作られたものは深められこそすれ変化発展してくることはない。でも、演じる者に能力がある場合は、アルローのようなやり方でもいいのだ。とすると、やはりアルローは、そういうことを見越した良い演出家なのだろう。どうも、全てをあの高笑いで騙されてしまうような気がするのであるが・・・。

 今回、アルローが意図して梃子入れしているのは、ギャグ的な部分。確かに「アラベッラ」には沢山のコミカルな場面がある。田舎の大富豪マンドリカがアラベッラの父親ヴァルトナーの前に現れ、札束をちらつかせる場面や、マンドリカの3人の従者ヴェルコ、ジューラ、ヤンケル(3人とも合唱団から選出)の動きなど、台本の時点で笑いを誘う意図が随所に見られる。
 従来の演出では、R・シュトラウスの音楽の豊饒かつ優美さに圧倒されて、こうした場面が充分に生きてこなかったが、今回は屈託なく楽しめる。妻屋秀和(つまや ひでかず)さん演じるヴァルトナーの各場面では、「わははは」と笑い声が出てしまうところも少なくないだろう。
 やはりシュトラウスはワーグナーとは違うのだ。ワーグナーのように哲学的や宗教的な重い内容を求めてはいけない。極上の音楽が、このような俗的で軽いラブ・ストーリーと合体するところに、逆にシュトラウスの魅力があるというものだ。まあ、一方では僕も、なんでこんな内容なのにこんなもったいない音楽がついているのだろう?と思うこともないわけではない。僕はやっぱりワグネリアンだからね。
 でもシュトラウスのオペラでは「薔薇の騎士」もそうだけれど、いつも終幕でたとえようもなく美しい音楽が果てしなく続き、ついホロリとさせられる。この美への耽溺は、シュトラウス・ファンにはたまらない魅力だ。やはり音楽史上の大天才であることに異論をはさめる者はいないだろう。

それにしても、「カヴァパリ」と「アラベッラ」という真逆のオペラが交互に続き、気持ちの切り替えに苦労する今日この頃であります。

パンク
 5月16日金曜日。「アラベッラ」の舞台稽古は、第2幕まですんなりいったので早く終わるかと思われたが、第3幕になるとあっちこっち引っ掛かって、結局終幕まで辿り着かないうちに9時になってしまった。妻にメールをして「家に着くのは10時半だから」と伝えておいて、ヘルメットをかぶり自転車に乗って新国立劇場の駐輪場を出た。
 今日は方南通りから行くことにした。途中でたまたま「みなみ台商店街」というところを通った。昔ながらの商店街でなつかしい。突っ切ったら中野通りに出たが、見ると、通りをはさんで向こう側もまだ「みなみ台商店街」が続いている。面白そうだなと思い、そのまま初めての道を通ってみた。よく分からないけれど、まあ、どこかで右折すれば、いずれ方南通りに出るでしょう。でもね、こんな時に限ってトホホの神は降臨なさるのだ。まず、道がまっすぐではなかった。勝手に右に湾曲しているかと思うと左に湾曲する。曲がり角があるが直角ではない。それに、走っているとなんか後輪の調子がおかしいぞ。自転車を止めて後輪を指で押してみる。ふにゃあと指がへこんだ。
「ゲッ!パンクだ!」
どうしよう。

 頭の中でいろんな思考が駆け巡った。この時間では自転車屋はどこも開いてないだろうから、最寄りの駅周辺に自転車を乗り捨てて、とりあえずは家に帰らねば。ええと、最寄り駅はどこだ?いつもだと甲州街道沿いを走るからすぐ分かるけれど、今日に限ってどの駅からも遠いところにいる。多分笹塚だ。中野通りに戻ってもいいけど、ベターなのは水道道路めざして歩いて、甲州街道に辿り着くことだな。
 ところがさ、すでに半分迷子になっているんだよね。閑静な住宅街が果てしなく続き、道は曲がりくねっていて、方角すら分からない。ひとり自転車をころがしながらトボトボと大都会の住宅街をさ迷っているのはなんとも心細い。月があっちに行ったりこっちに行ったり。徒歩というのは遅いねえ。自転車はあるんだけれど、役に立たねーし。月の沙漠をあてどなくさ迷う気分。道路に猫がいる。招き猫のように妙に姿勢良く座っている。こっちのあせりも知らずに呑気なもんだ。にらんだらノソノソと歩いて去って行く。ときどきこっちを振り替える。おめえ、僕を馬鹿にしてる?

 向こうに広い道路が見えてきた。水道道路だ!と思ったら、中野通りだった。なんだ、戻っちゃった。まずは甲州街道に出よう。水道道路を越えてふと左側を見たら、あろうことか自転車屋がある。しかも開いている。ここって、昔スーパーだったところだ。最近自転車屋になったのか。今は夜の9時40分くらい。こんな時に開いているなんて・・・うっそー!そんなラッキーなはずはない。これはきっと僕の願望が引き起こした幻影か蜃気楼に違いない!
 恐る恐る店に入る。おにいさんが修理している。
「パンクしたんですけど」
と言ったら15分ほどで直るという。本当?こんなラッキーな事ってある?今日は一年の内で一番ツイてる日ではないか(その前にパンクが・・・)!神に感謝!

 なんだかんだで修理が終わってみたら10時だ。パンクのショックで気が萎えてしまったし時間も遅いしで、これから自転車で家まで帰る気力はない。妻に電話する。
「自転車がパンクした」
「ああ、びっくりした。あらためて電話してくるから事故でも起こしたかと思った。よかったじゃない、パンクぐらいで済んで」
「まあね。で、あろうことか、偶然こんな時間に開いている自転車屋が見つかって今修理したところ」
「あら、ラッキーね」
「これから劇場の駐輪場に自転車を置いて電車で帰るから、府中まで車で迎えに来てよ」
「残念、もうビール飲んじゃった」
なんて素晴らしい妻だろう。涙が出るね。そうなると、もう府中駅からはバスの運行が終わっている時間なので、タクシーで帰るしかない。そのタクシー代を払うのがなんとも癪だ。パンクの修理だけで2500円もかかっているしね。いや、金ならある。金ならあるんだよ。でも悔しいんだ。なんだか、負けた気がするんだ。

 ということで、やっぱり自転車で帰ることにした。これってケチ?意地っ張り?結局家に着いたのは11時半。お腹が死ぬほどすいていた。妻は眠そうな目をこすりながら食事を用意してくれ、すぐ寝てしまった。この時点で僕は翌朝のお散歩を断念し、腹を決めてゆっくりと夜中の食事をひとりで楽しむことに決めた。
 プシュッとビールの缶を空けてコップに注ぐ。口をつける前にテレビのスイッチを入れる。僕の前には何種類かのお刺身と酢飯と海苔が並んでいる。自分で手巻きにして食べるのだ。まあ、このおかずなら、妻がビールを飲んでしまうのも無理はない。もっと練習が早く終わったら、一緒に食べたことだろうね。妻もひとりで食べたのはつまんなかったかも知れないなあ。

 食事を始めながら、チャンネルをぐるぐる変える。どれもつまらない。バラエティ番組は騒々しいので嫌いだ。テレビはやめて、コルトレーンのバラードでも聴くかなと思いながら、BSの3を回した時、いきなり船が難破した場面が飛び込んできた。荒れ狂う海の中に主人公が放り出される。どうやらトム・ハンクスらしい。面白そうなので少し見ることにした。Corvoというシチリアの赤ワインが少し残っていたので、ビールとならんでグラスに注ぐ。
 主人公が目を覚ますとそこは無人島だ。どうやらこれはサバイバル映画らしい。
「おーい!おーい!」
と叫んでも誰もいない。彼の心細さにめちゃくちゃ感情移入出来る。さっきまで、まったく同じ心理状態だったからね。
 火がなかなか起こせなくてじれったい。木をこすり合わせているが、その方法をいろいろ試し学習する。やっと煙が出始める!炎が出る!他の木っ端に燃え移り、焚き火の炎が恐いくらいに燃え上がると、トム・ハンクスは雄叫びを上げながら飛び上がった。気が付いたら、ワインの酔いが回った僕も踊っていた。
 椰子の実だけでうんざりしていた主人公は、今や魚などを焼いて食べることが出来る。人間が生きていくのって大変だなあと思いながら、同時に、人間の「生きたい」という本能ってもの凄いなあとも思える。突然、生きるって素晴らしいことだと感じられてきた。じわーっと感動が胸の中に広がっていく。

 全部見たかったけれど、明日もあるので、途中でスイッチを消してベッドに行った。なんだかんだいっても、今日の一日って、最近の中で最良の日だったりして。こう思うのって、単に僕がお人好しで楽天家なせい?

小さきもの
 小さきものを愛する人は、真の愛を知っている人だと思う。キリスト教では愛に2種類あると教えている。エロスとアガペーである。エロスは、一般的に言われているようなエッチな意味ではなくて、本来は、自分を高めてくれるものを愛する上昇志向の愛を指す。 それと対照的に、「愛される価値のないもの」を無償で愛することをアガペーという。イエスが説いた愛はアガペーであり、イエス自身が「救われるに値しない」罪深い人類のために自分自身を捧げて、アガペーの見本を示したといわれる。


5月の杏樹


 長女志保の娘の杏樹は5ヶ月半になり、寝返りも出来るようになってますます活発になった。笑う、喜ぶ、不満、怒るなどの感情表現もどんどん豊かになってきた。僕が大好きと見えて、僕の顔を見ると叫び声を上げて喜ぶ。もう可愛くて可愛くてたまりませんなあ。 こうした感情は、とどのつまり「可愛い」という言葉に集約されてしまうのだが、この感情を掘り下げていくと、要するに「いのちを慈しむ」ということに落ち着く。杏樹がこの世に生まれてきたことを喜びながら認め、この命を守ってあげようと思い、将来どんな子に育っていくのかなという希望を持つ。そして、自分に出来ることであれば、なんでもしてあげようと、ごくごく自然に思える。
 このような感情が何の努力も要らずして得られることこそが、神様からの恵みなのだと思う。アガペーというとなにやら大袈裟だが、人間は親や祖父母になることで自然に無償の愛を経験出来るというわけだ。

 愛って、本当は「与える愛」だけを指すのではないだろうか。受ける愛は、愛とは呼べないのではないだろうか。というのは、不純な愛は、すべて「受ける愛」あるいは「受けようとする愛」にのみ見出されるからである。性的な愛もそう。ストーカーになったりするのも「愛を無理矢理受けようと」する行為であるし、欲得の絡んだ愛も「愛以外の要素の混じった」愛だろう。むしろ「受ける愛」に純粋な愛を見出す事の方が難しいように思える。
 だから僕達は、愛を受けようと思ったら、一番良いのは、逆説的であるが、
「愛を受けようとすることを忘れるべし」
である。そして無償の愛を経験すべく努力する。そうすれば受ける愛は自然についてくる。

 人よ、小さきものを愛すべし。小さきものを愛することは、万人にとって真の愛を知る最も近道なのだから。自分の子供じゃなくても小さい子を愛したり、犬を愛したり、猫を愛したり、空を飛ぶ鳥を愛したり、花に群がる蝶を愛したり、道端のありんこを愛したりすることだ。要するに他のいのちとつながって、そのいのちを慈しむことが真の愛につながる。。
 人は、そのことによって自分の心の中に光が生まれるのを感じるだろう。その光は、「こういう欲求が満たされたから」増えるものでもないし、「願いが叶えられなかったから」減るものでもない。なにもなくてもそのままで得られる光だ。満たされた、しあわせな光だ。これが神の愛につながる真の愛を得ている証だ。

 そのうち、志保やトミーノが運転する自転車の前か後ろに杏樹が乗るようになったら、じーじは可愛いヘルメットを買ってあげなくっちゃな。それから・・・杏樹自身が自転車に乗れるように、公園に連れて行って練習させなくっちゃな。あっ、自転車も、じーじからのプレゼントにしよっか。うひひひひひひ。
 まだまだ先の話だろ。それに、そーゆーのはアガペーどころか、押しつけがましさ以外の何ものでもないんだ。いらねーっつーのに無理矢理「押し売りする愛」も困ったものである。与える愛は控えめにするべし。そして決して恩に着せてはいけない。恩に着せ始めた途端、それは「受けようとする愛」に変わる。

 やはり、愛とは理屈で言うほど簡単ではないね。じーじは子煩悩という煩悩のかたまりだから。

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