頑張れザック・ジャパン!

三澤洋史   

つかの間の休息
 といっても休息はしていないんだ。先週木曜日にカリニャーニ指揮のヴェルディ「レクィエム」が終わって、来週25日水曜日に僕の指揮する高校生の為の鑑賞教室「蝶々夫人」プロダクションが開始するまで、新国立劇場に通う義務はないというだけの話。
 僕には、志木第九の会のメンデルスゾーン作曲オラトリオ「聖パウロ」の準備をはじめ、いろいろな練習や勉強が山積みになっている。ただ、サラリーマンのように新国立劇場に通い詰めの日々から、つかの間でも解放されるのは、リフレッシュになって良い。
 現在、劇場では「鹿鳴館」の練習が進行している。こちらは冨平恭平君が合唱指揮者を受け持っている。僕は上田の演奏会とヴェルレクを担当し、今週に「嵐の前の静けさ」のようなインターミッションを置いて、来週から超多忙の「怒濤の夏」に突入していく!

頑張れザック・ジャパン!
 コートジボワールのジボワールってなんだろな?と思って調べてみたら、Côte d'Ivoireと書くので、本当はコート・ディヴォワールなんだ。ちなみにivoireは「象牙」のこと。英語ではivoryアイボリーと言い、ほとんど色彩の単語として(象牙色)使われている。
 かつては我が国でも「象牙海岸」と呼んでいたし、英語圏でもアイボリー・コーストと呼ばれていたというが、フランス語を公用語とするこの国が、
「République de Côte d'Ivoireという原語になるべく近く呼んで欲しい」
と各国に要請をしたため、現在日本では、正式には「コートジボワール共和国」と呼ばれている。でもなあ、ジボワールという言い方はないよな。
 NHKもそうだけど、いわゆる国粋主義を担う公的機関では、日本語にディとかヴォとかの存在を認めたくない傾向がある。今は多少変わったのかも知れないが、かつてNHK・FMでバイロイト音楽祭の解説をした時、ヴォータンをウォータンと呼んで下さいと言われた。でも、どうしても下唇を噛んでヴと発音してしまい、その度に録り直しさせられた。
「いいじゃん、少しくらい」
と言ったら、
「いえ、正式には日本語にヴという言葉は存在しないのです」
と言われた。だからワーグナー(ヴァーグナー)でありベルディ(ヴェルディ)でありウィーン(ヴィーン)でありワルトブルク(ヴァルトブルク)城でありベートーベン(ベートーヴェンあるいはベートホーフェン)なのだ。

 まあ、そんなうんちくはどうでもいい。サッカー・ワールドカップのコートジボワール戦が行われたのは、日本時間で6月15日日曜日の午前10時から。僕はその時間、ちょうど東京カテドラルのミサに参加していたので観られなかった。その日は、午後から夜にかけて志木第九の会の集中稽古があったので、テレビで実際に試合の様子を観られたのは夜の10時過ぎ。
 ハイライトを観ていて「うーん!」と思った。本田がシュートを決めたのは、まあ良かったが、どうも試合前から懸念されていたように、ザッケローニ監督の攻撃重視の戦略が裏目に出ているような気がする。つまり、自分たちが相手のゴール付近で攻撃する側に回った時は良いとしても、逆に自分たちのゴール付近での、敵の攻撃に対するディフェンスに甘さを感じるのは僕だけであろうか?

とにかく、次のギリシャ戦では是非頑張って欲しい。

集団的自衛権という詭弁
日本国憲法
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 上記の文章を普通に読んで、現在政府が検討している集団的自衛権を憲法違反だと思わないひとがいたら、頭悪いんじゃないだろうか?それどころか、現在の「自衛隊の存在」すらすでに憲法違反にあたると思うのが正常ではないだろうか?

 はじめにことわっておくが、僕は平和主義者ではあるが改憲論者でもある。だってそうだろう!「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とはっきり断言しているけれど、自衛隊はどう見ても戦力である。戦車だの戦闘機だの軍艦だの銃だの爆弾だのを戦力でないと言い張るなら話は別だが・・・・って、ゆーか、これって解釈の問題ではないだろう。厳然たる事実として陸海空軍その他の戦力を保持しているのだろう。
 そもそも憲法九条がある限り、自衛隊は存在していてはいけない。本当は、我々の選択肢はふたつにひとつしかない。憲法九条を守って自衛隊という軍隊を消滅させるか、憲法改正してこのまま存続させるか。
 僕は、自衛隊というのはあった方がいいと思う。だから改憲論者だ。世界中から武器という武器がみんななくなって、紛争も戦争も消え去る世の中が来るのは理想だし、そうした世の中が来て欲しいとは思うが、かといって、現代の世界情勢を見る限り、ひとつの法治国家が何も武器を持っていないという状態が最善とは思わない。
 尖閣諸島付近で中国の戦闘機が威嚇飛行を行ったときに、我が国の側に飛ばせる戦闘機ひとつないという事を中国が知ったら、中国はただちに尖閣諸島を占領してしまうだろう。いや尖閣諸島どころか、沖縄くらいまで占領されても、我々は何も抵抗出来ないのだ。北朝鮮から飛んで来るミサイルは、これまでたまたま海の上に落ちたが、仮に日本の都市の上に落ちても、口頭で抗議するしか方法がないわけだ。

「今の憲法の中でも、集団的自衛権のような議論が起こるのだから、この上憲法を改正したら、どこまで軍国主義が進んでしまうか分かったものではない。だから憲法改正は絶対にするべきではない」
という考え方がある。しかしそれは極めて日本人的な考え方であって、たとえばヨーロッパ人には絶対理解されないであろう。というより、彼らはその前の段階で、
「何故、憲法違反のままで自衛隊が存在出来たのか?誰も矛盾に感じないままどうして今日に至ってしまったのか?一体日本人はどういう精神構造をしているのだ?」
とみんな思っている。西洋人は、こういう矛盾に対して決して“黙認”できない人種だからね。
 だから、憲法はただちに改正して、大胆にも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持する」としてしまったらいいと僕は思っている。心配することはない。そうしたところで何も変わらないだろう。むしろ我々が、自衛隊に対し、単なる災害救助隊だけではなく(その役目もとても必要でありがたい)、有事の際には我々を守ってくれる組織として認め、きちんとリスペクトを捧げるようになったら、自衛隊員達も張り合いがあるというものだ。
 そうして仮に憲法改正が成し遂げられても、それはそれでいいとして、僕は集団的自衛権に関しては、はっきり言っておくけど反対だからね。

 一方、国内には「憲法第九条をノーベル平和賞に」という運動がある。僕は、宗教人の立場から、それはそれで反対ではない。世界平和のために、日本が勇気を出して全く武器を持たない国家としての模範を示すことは素晴らしいことだとも思う。もし本当にできたならば・・・。
 そのためには国民にもの凄い覚悟が必要だ。もし本当に憲法第九条がノーベル平和賞を取ってしまったら、その後が大変だ。世界遺産に登録された富士山のように、それにふさわしい存在でなければならないからだ。そうなったら、自衛隊のみならず、アメリカの軍隊が日本国内に整備されていることすら問題にされるだろう。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
という“戦力”に、「日本人による」という限定はないのだ。つまり、この国の中には、どんな種類の軍隊もあってはいけないのだ。当たり前でしょう。
 考えてみると、
「いざとなったらアメリカが軍隊でやっつけてくれる」
と思いながら平和憲法を持っていること自体が虫が良すぎるのだ。
 この平和憲法を本当に守るということは、何も軍隊を持たず、アメリカの庇護も期待せず、仮にどこかのならず者国家が日本に攻撃を仕掛けてきても、やられるままでいることを覚悟するということである。国民が実際に犠牲になることで、平和を脅かす国に無言の抗議をする。そこまでしてはじめてこの平和憲法の精神が貫けるのだ。だがみんなそこまで覚悟出来ないだろう。

 もう一度読んでみよう。
「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、 永久にこれを放棄する」
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
である。
 ある意味、恐ろしい憲法である。究極的ユートピア憲法であり、それ故に実現不可能ともいえるほどである。この清冽な憲法のどの文章をどのように解釈したら、集団的自衛権の行使にまで持って行けるのだというのだ?その詭弁の方法を誰か教えて欲しい!

というか、こんなクリアな憲法の条文に解釈の余地などない。もし、安倍首相の詭弁が論破出来ないまま、集団的自衛権にまで憲法解釈が広がるのを許してしまったならば、この国の知性は地に堕ちるぞ!

  
 


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