僕達らしい函館の過ごし方

三澤洋史   

荘厳な男子修道院
「ここでは時間が空間となるのだ」
と、聖杯の城に近づいていく時、パルジファルに向かってグルネマンツが言った。

 函館の街から湾の反対側のかなり離れた場所に位置する燈台の聖母トラピスト大修道院に妻の運転する車が近づくにつれ、まるで時空がゆがんでいるかのような錯覚に陥った。精神が研ぎ澄まされてくる。突然、夢見るような美しい並木道の中にいた。前を見ると、まるで天空に浮かび上がるように修道院の門が見えてきた。

 
トラピストへの道
画像クリックで拡大表示(以降同様)

 ここは、外界から一切遮断され、ひたすら祈りと自給自足の生活に明け暮れる男子観想修道院(*事務局注参照)である。まっすぐな道路が突き当たると、もう車では行けない。右手にある駐車場に車を止め、坂になった歩道を登っていかなければならない。お寺ならば階段に違いないのに、ここはスロープが修道院の門まで続いている。
 門には鉄格子が硬く閉ざされている。その向こうには清楚なお花が咲き乱れた庭があり、煉瓦造りの建物が見える。人影はないが、庭の木々は丁寧に手入れされている。聖杯の城のように、邪悪な心を持つ者が決して辿り着かない魔法が利いているわけではないが、この鉄格子が、修道士達の禁欲的な生活と、我々俗世間の日常とを厳格に隔離しているのだ。


鉄格子の中の世界


 この修道院の裏手の山には、「ルルドの洞窟」がある。南仏のルルドという街のはずれで、ベルナデッタという少女の前に聖母マリアが現れた。その洞窟をかたどったものだ。ここに至るために徒歩で約20分かかる山道は決して楽ではなかった。でも、妻とふたりのハイキングは、“プチ巡礼の旅”という感じで、昔、まだ小学生だった二人の娘達を連れて家族で訪れた聖地ルルドの旅を思い出させた。現在では、東京カテドラルの敷地内をはじめ、至るところに「ルルドの洞窟」の模造はあるけれど、ここがなにか特別な気がするのは、人里離れた山の中だからだろうか?それとも・・・・。


裏山のルルドの洞窟

 帰り道、妻が発見した。森の中のあちらこちらに野生の百合が咲いているのだ!それも、とても不思議な生え方をしている。まるで地面にむき出しになった水道管のような根だか茎だかがずっと伸びていて、あることろで直角に曲がって天を向き、房のようになって複数の花を咲かせる。


修道院の森の百合

 ユリといえばマリアの象徴だ。まさか・・・この森にマリア様の霊的な力が働いているのだろうか?まあ、現実的な考え方をすれば、ルルドの聖母にちなんで、誰かがこの森に百合の球根を植えつけたのかも知れない。でも、仮にそうだとしても、土地の気候や風土に合わなければ、植物は育たない。

 厳格な男子修道院と聖母マリアのコンビネーションは、ミスマッチにも見えるけれど、僕には何故かとてもしっくりくるのだ。男ばかりの世界で、女性的なすべての要素を拒否しても拒否しても、彼らはマリアの慈愛の深さに包まれているのかも知れない。かつて特攻隊員が敵艦に突っ込んでいく時に、
「かあちゃん!」
と叫んで死んでいったように、人は誰しも究極的な母を心の奥底に持っているのではないか。
そういえばゲーテも有名な「ファウスト」の最後で言っている。
Das Eiwigweibliche
Zieht uns hinan.
永遠に女性的なるものが
我々を高みに導いてくれる
うーん、この言葉は、実は僕達が想像する以上に、とても深遠なものを含んでいるのかも知れない。

女子修道院のやわらかさ
 さて、トラピスト男子修道院とは対照的に、トラピスチヌ女子修道院は、開放的でより観光化されている。ここは正式には天使の聖母トラピスチヌ修道院という。修道女達が実際に生活しているエリアが外界から隔離されているのは男子修道院と一緒だが、まずロケーションが全然違う。函館空港からとても近く、市街地からも遠くないことが親しみやすさを感じさせている。


女子修道院


 駐車場に車を入れたら、おじさんが走ってきて、いきなり300円取られたのには驚いた。「僕たちは観光に来たのではなくて巡礼に来たんだよ!」
と言いたかったが黙っていた。
 観光客は、修道院の前庭まで自由に入れる。門に入ると、すぐ立派な大天使ミカエルの像があり、その向こうに美しいマリア像がある。その奥に、男子修道院と同じような「ルルドの洞窟」があるが、観光客が平気で行き来するので男子修道院の裏山のような神秘性はない。その後ろに煉瓦造りの建物が見える。
 要するに、なんだね。あまりにもありがちに整い過ぎて、まるでテーマ・パークのようなのだ。普通の観光客なら、
「なんて素敵でしょう!」
と喜ぶところだろうが、僕も妻もそんな外見や雰囲気にはだまされない。といっても、悪い“気”のようなものは感じられないのでいいのだけれど。
 売店も充実している。ここに来ないと買えないというマドレーヌ(マダレナという)がどんどん売れている。絵葉書やこの修道院を紹介する小冊子、それに十字架像や様々な小物が置いてある。
 売店の隣の部屋は、ちょっとした博物館のようになっていて、修道院内の生活を紹介する写真が飾ってある。みんなで集まって手芸をしたり、畑仕事をしたり、マダレナを作ったり、歌を歌ったり・・・これを見ていて軽い驚きを覚えた。
 ここには男子修道院のような厳格さや悲壮感、あるいは息詰まるような高みへの希求といったものは全く感じられないのだ。それどころか、なんだかとっても楽しそうじゃないか。これは女性という特質から来るのかな?どの写真からも、ある種のやわらかさというか穏やかさが伝わってくる。これはこれで凄いことなのかも知れない。女子は、自分が聖母マリアになれるということなのだろうか?

函館の過ごし方
 こんな風に、せっかく函館に来ても、僕たち夫婦は五稜郭も行かずにこんな所ばかり来ている。最初の日の28日月曜日、4時頃ホテルに着いてから7時の練習までの間にまず何処に行ったかというと、市電に乗って元町の教会群を訪ねた。カトリック信者の僕達夫婦だから、まずはご挨拶にとカトリック元町教会、次いで聖公会の聖ヨハネ教会、そして有名なハリストス正教会など次々と訪問した。


カトリック元町教会

 こんなにいろんな宗派の教会が一個所に集まっているところなんて、なかなかない。この界隈は高台になっていて、函館港が見下ろせるし、ベイエリアから上がってくる幅広い道路が開放感を誘う。後ろを見ると函館山が威圧的にたたずみ、頭の上をロープウェイが気持ちよさそうに行き来している。


丘の上から港を望む

 神戸や横浜もそうだけれど、明治維新の頃に外国人の手が入った港は、キリスト教文化の持つ独特の気品が漂っていて好きだ。その背後には、不平等条約があったり、占領侵略のもくろみなどがアメリカ政府の側にはあったのだろうが、結果として、こうした港町に共通する異国情緒溢れる町並みを作り出しているのだ。そして、これらの街にはみんな“元町”と呼ばれる一角があるのだね。

 さてその晩は、8月7日に演奏会が行われる函館芸術ホールで、函館の人達の合唱練習であった。もっと平均年齢が高い人達を想像していたけれど、だいたいが30代くらいで、高校生も混じっていて20人くらい。もちろん素人の声ではないし、豊かで表現力のある声を持っている。
 練習をつけるとどんどん良くなってくる。二橋潤一先生の「荒城の月」のフーガが心配だったので最初に練習した。ところがきちんと出来ている。塚田君に、
「おい、上手じゃないか!」
と言ったら、
「こんなんじゃ三澤先生が棒をぶん投げて帰ってしまうぞ、と、さんざ脅したからね。でも、ちゃんと出来てよかったあ!」
と胸をなで下ろしている。おいおい、僕はそんな鬼のような人ではないぞ。
「とにかく、新国立劇場合唱団の指揮者が来るんだもの、万全の体制を整えておかなくちゃと頑張った。同級生に恥をかかせたくないしね」
嬉しい配慮。

 練習後は、函館の作曲家佐々木茂氏お薦めの地元の居酒屋に繰り出し、イカや様々な魚の刺身や焼き物に舌鼓を打つ。参加者は佐々木先生の他に塚田君とピアニストの野呂先生で、彼らは僕と妻を招待してくれた。合計5人。
 函館はなんといってもイカだねえ。なんでも地元の人は、透明なもの以外はイカの刺身とは呼ばないそうで、函館出身の人が東京とか出て来て、白いイカの刺身を見て、
「これはなんですか?」
と訊くというんだ。これ、冗談ではなくてホントの話。
 繊維に沿ってたんざく状に切るのがこちらの流儀。生姜醤油をつけて口の中に入れると、コリッとした歯触りが感じられ、次いでなんともいえない甘みがじわあっと広がる。

 佐々木先生の曲は、日常のいろいろな風景を切り取った親しみやすい曲が並ぶ。聴いているお客の顔を想像しながら書いている作曲態度が、僕のそれと共通性を持つなあと思っていたが、話をしてみたら、国立音楽大学の時代に、僕も入っていた創作オペラのサークル「マルメロ座」にいたというではないか。なあるほど、と納得した。
 大学時代にアカデミックな勉強をすることも大事だが、僕は「マルメロ座」で最初は歌手として舞台に立ち、次に指揮者として、そして最後は作曲家として、聴衆の反応を直接感じる体験をした。これを知っている者と知らない者とでは、音楽に対する哲学が違う。
「同じことを書くなら、なるべく分かり易い道を選べ」
というのは、僕の作曲における美学である。難しい音楽を書くのが作曲家ではない。
 共に「マルメロ座」出身の僕と佐々木先生は意気投合し、5人の語らいは夜が更けるにつれて親密度を増し、酒はどんどん進んでいった。居酒屋を出たのは夜半過ぎ。みんなで夜の函館の街を千鳥足で歩くのがことのほか楽しかった。

 函館は当初、28日に僕が単身で飛んで晩に練習をして一泊し、29日に帰ってくる予定であった。でも、今年はこのコンサートと練習が入ったお陰で、7月末にバカンスが全く取れないため、自費で妻を連れて行き、さらにもう一泊して29日にオフ日を作って、プチ・バカンスを楽しもうという計画を新たに立てたわけである。
 そしてオフ日の29日が、最初に書いた修道院の記事の通りである。その日は、午前中に朝市に行ってから、レンタカーを借りて、函館市をはさんで全く正反対に位置する両修道院を訪ねたわけである。
 男子修道院で「ルルドの洞窟」などに行ってのんびりしていたら、もうお昼になってしまったので、また駅前に戻ってきて、朝市の中のお店で「ウニ・イクラ・帆立どんぶり」を食べた。ウニがとろけるように甘かった。
 それから函館山を車で登った。夜景が圧巻だというが、昼間も息を呑むほど素晴らしい。海と空の青さ。ウエストのくびれのような土地に広がる街並み。すぐ眼下にハリストス正教会などが見える。遠くの山並みも爽やか。


函館山

 それから女子修道院に行った。夕方は、レンタカーを返してから、妻とベイエリアを散歩。金森赤レンガ倉庫のあたりは、観光客相手に出来すぎている感じはするが、やっぱり海岸通りの風情があるし、沈み行く夕陽の中をふたりでゆったり歩くのは、とてもロマンチックだった。


金森赤レンガ倉庫

たった一日のオフ日であったけれど、たっぷり精神が癒されリフレッシュ出来た。なんといっても、僕達にふさわしい過ごし方が出来たもの。


夕暮れのベイエリア


 30日水曜日は、午後からこの函館のコンサートの東京のメンバーの練習が、新国立劇場であるので、午前中の便でそそくさと帰らなければならなかった。しかも東京の練習での伴奏者は娘の志保だ。志保が働いている時は、通常、妻が家で孫の杏樹をあずかるのだが、今回は家で受け渡しをしている時間がない。
 そこで、志保が新国立劇場まで杏樹を連れて来て、僕と志保が練習している間、劇場エリア内で妻が杏樹の面倒を見ていた。みんな仕事に来たら志保が杏樹を抱っこしているのでびっくりしている。ということで、期せずして杏樹を合唱団のメンバーに披露することとなった。みんなとっても可愛がってくれたよ。杏樹もみんなに天使の笑顔を振りまいていた。この娘、超サービス精神旺盛!一体誰に似たんだ・・・て、ゆーか、志保、トミーノ、あるいはじーじである僕、誰に似てもこうなるしかないか。

相良先生のこと
 ピアノの恩師である相良京子先生が亡くなった。92歳であった。ご高齢であったので、大きな悲しみはないが、ひとつの時代が終わったことを感じ、実に感慨深い。この先生がいなかったら現在の自分はいない。音楽家である僕を構成している、感性、判断力などをひとつの建造物にたとえたなら、相良先生から習ったことは、その全ての土台と柱を成している。それほどこの先生からの影響力は大きい。

 高校一年の夏、音楽大学に行こうと決心した僕は、家から歩いてわずか3分のところにあった相良先生の家の門を叩いた。その時まで僕は、ピアノというものを一度も習ったことがなかったのである。
「こんにちは、この近くに住む三澤といいます。芸大ピアノ科を受験したいと思って習いにきました」
先生は、誰の紹介もなくいきなり自宅に現れた僕をけげんそうに見つめ、
「げ、芸大ピアノ科・・・、で、あなたは一体これまで、どこでどれだけピアノを習ってきたの?芸大ピアノ科といったら、もうソナタは終えてショパンくらいまで弾けてる?」
「いえ、自分はこれまで一度もピアノを習ったことがないので、バイエルから教えて欲しいのです」
 相良先生が一瞬グラッとよろめいたのを僕は見逃さなかった。しばしの沈黙の後、先生は再び口を開くと、あえぐように言った。
「あ、あなたねえ、それは無理よ、何言ってるの?」
「いえ、自分には才能があると思います」
「さ、才能があってもねえ、今からバイエルから習ってえ・・・ふん、芸大ピアノ科をナメてはいけない」
「とにかくレッスンを受けさせてもらえませんか?」
「うーん、じゃあ来週の○曜日○時、試しにバイエルの好きなところまで持ってきなさい」
ということで、とりあえず門前払いだけは食わないで済んだが、ずっと経ってから先生のいうところによると、一度レッスンしてから体よく追い払おうと思っていたらしい。

 ところが予想に反して、僕は夢中になってピアノを練習した。
「凄い、こんな速く進む生徒見たことないわ!」
先生は、僕に教えるのが楽しくなってきたとみえて、本当に丁寧にいろんなことを教えてくれた。
 なにせ僕は、相良先生に師事するまで、ドレミファソと親指から小指まで弾いた後、どうやってラにいくのさえ分からなかったのだから。それで音大に行こうと思うことが無茶だということすら、あの頃の僕は知らなかった。
 そんなハチャメチャな僕に対して、先生は、ピアノを弾く理想的な姿勢から手の形や指の角度に至るまで忍耐強く教えてくれたのだ。さらに、音楽にフレーズというものがあることや、和声感を感じて弾くことや、モノクロのピアノを弾きながら色彩感を感じることなどなど、本当に本当に沢山のことを教えてくれたのだ。
 思い返してみると、それらの事って、今日に至るまで僕が音楽の中で一番大切に思っていて、練習の中でそれぞれの団体に対して要求していることばかりなんだ。

 結局僕は、芸大ピアノ科には行かなかった・・・というか、行けるわけもなかったけれど、国立音大声楽科から指揮者に転向しようと思った時も、ベルリン芸術大学指揮科で勉強していた時も、ピアノは最も大事な楽器として僕を助けてくれた。そして現在、演奏会のソリストにコレペティ稽古をつける時、スコアを読む時、作曲をする時、ピアノは常に僕のそばにあるし、これからもあり続けるだろう。
 最近、時々相良先生のことを思っていた。何故なら、もう少し経ったら詳しくこの欄でも述べるが、秋に早川書房から僕の本が出版されることになっていて、その「指揮者になるまで」という生い立ちの章で、先に述べたような相良先生とのいきさつが載っていて、その校正などで原稿チェックしているのである。
 そこでしみじみ思うのだ。世の中にピアノ教師はゴマンといるが、良い教師は驚くほど少ない。僕は、最初に当てずっぽうのようにして師事したピアノ教師が、相良先生で本当に良かった。考えようによっては、こんな迷惑な弟子はいなかっただろう。どこまでも無知なくせにプライドばかり高くて生意気な僕を、先生はよくぞ追い出さないで、最後まで面倒見てくれました。

 相良先生!本当にありがとうございました!先生のお陰で、僕は音楽家としてこうして生きていられます。またいつかそちらでお会いして、いろんなお話しをしましょう。その時までお元気で(あっ、安らかに・・・か。うーん・・・でも先生きっと、じっとしてなんかいませんよね・・・あ、ご・・・ごめんなさい!クビにしないでください)!

  

(*)事務局注:カトリック教会の修道会は大きく分けると活動修道会と構想修道会の二つに大別されます。活動修道会は福音宣教、教育・出版、病院や福祉施設などのあらゆる分野で活動します。構想修道会は外的な活動にはたずさわらないでひたすら祈りと人目にたたない勤労によって神の恵みを人々にもたらす修道会です。

 


当ホ-ムペ-ジに掲載された記事、写真、イラスト等の無断転載を禁じます。
Copyright ©  2004-2014 HIROFUMI MISAWA All rights reserved.