本は出版されたけれど~2つの間違い

三澤洋史

本は出版されたけれど~2つの間違い
 待ちに待った10月24日がやって来て、いよいよ僕の本「オペラ座のお仕事」(早川書房)が公に発売された。26日日曜日の朝日新聞にも宣伝が載っている。だからもっと喜んでいいはずなのだが、今僕はちょっとしょんぼりしている。というか、自分で自分が情けない。
 どうしてかっていうと、あんなに念入りに見直したつもりになっていたのに、出来上がった本をじっくり読み返してみたら、ただちに間違いが2カ所も見つかったのだ。しかも、その間違いというのが、実に馬鹿馬鹿しいケアレス・ミスなのだ。
 間違いは、2つともミラノのスカラ座の記事の中にある。ひとつは、魔笛第2幕の合唱付きの5重唱を6重唱と書いてしまったこと(131ページ)。もうひとつは、Pausa è finita.と書かなければならないのにPausa è finito.と書いてしまったことだ(133ページ)。

 済みません。ちょっと言い訳させてね。あらかじめホームページ用に書いていた原稿を手直ししていた場合には、こういうことが起こり得るんだって、今回僕は初めて知った。ホームページの原稿は、僕の場合、時間を限定してチャチャって書く主義なので(そうしないとここまで続いてこれなかった)、ある意味書きっぱなしの面がある。しかしながら、一度ホームページに出してしまうと、何の根拠もないのに自分で内容を過信してしまって、こうやって本にする場合などでも、一字一句というレベルではきちんと見直し出来ていなかったようだ。「5重唱」なんて、タミーノ、パパゲーノにプラスして3人の侍女なんだから、5人に決まっているのに、どこから6が出てきたのか?実に腹立たしい!
 Pausa è finito.はもっといけない。もしこの文章を、イタリアから帰ってきた後で書いていたとしたら、絶対にしない間違いだ。この元原稿はイタリアに行ってすぐに書いた。まだ語学学校に通う前だ。be動詞と一緒に動詞の過去分詞を使った場合、過去分詞の語尾は名詞の性の影響を受けるというのを、頭では分かっていたつもりでも、きっと「(休憩が)終わってしまった」という完了の意味のfinitoという言葉にとらわれていたので、その語尾変化をやり過ごしてしまったのだろう。その語尾変化はドイツ語にはないことだから慣れていなかったというのもある。悔しい。イタリア語は、ラテン語のお膝元だけあって、とても厳密な言葉なのだ。人間は、あんなに適当なのに・・・。
 ついでに言うと、劇場放送でPausa fine.と叫んでいたことは、はっきり聞いていたので間違いないのだが、fineは「終了」という名詞なので、「休憩:終了」というかなりぶっきらぼうな訳の方がふさわしいかも知れない。「休憩時間は終了します」と訳してしまうと、時間を守らない彼らに対して劇場が気を遣っているように感じられるが、その場合はむしろPausa finisce.とfinireの動詞現在形を使った文章の方がふさわしいので、これも読者に誤解を与える可能性があるなあ。要するにスカラ座の劇場側は淡々と休憩の終わりを告げ、みんなは淡々とマイペースで帰って来るということだ。

 こんな風に、せっかく生まれて初めての本が出たというのに、つまらないミスをしてしまって、結構落ち込んでいる。それでも、読んでくれた人達は面白いと言ってくれるし、新国立劇場合唱団の団員をはじめとして、思ったよりも沢山の人が僕の本を買ってくれていることに勇気づけられてもいる。僕が、著者お買い上げで購入した分はたちまちさばけてしまったので、わざわざ追加注文した。ありがたいなあと、いつになく謙虚になって感謝の気持ちで一杯だ。
 もしかしたら、これらの間違いは、すぐに有頂天になってしまう僕をいましめるための天の配慮かも知れない。そうでなかったら、今頃僕は尊大になって、このページでどんな大言壮語を吐きまくっているか分かったものではない。

旅の空とアガとの会話
 この原稿を僕は、豊橋市内のホテルで書いている。昨晩新幹線で三河安城駅まで来て一泊し、今日は平坂小学校で、スクール・コンサート初日を迎えて、その後バス移動して豊橋まで来た。久し振りに子供達のキラキラした瞳に元気づけられた。明日もその次の日もずっと続く。実に楽しみ。
 
 昨日の10月26日日曜日に、関口教会(東京カテドラル)の朝10時のミサに行こうとして、目白駅からバスに乗ったら、あろうことか、新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」公演でドンナ・エルヴィラを歌っているアガ・ミコライも同じバスに乗り込んできた。熱心なカトリック信者の彼女は、来日の間必ず毎週ミサに通っていて、僕も毎回カテドラルで顔を合わせているのだが、それでも同じバスに乗り合わせるのは偶然だ。
 僕たちはドイツ語で話しをしているが、彼女が一枚のカードを出して僕にくれた。見ると、そこには聖母マリアと思われる絵姿と、Megjugoljeという字が書いてある。僕は最初それをマグダラと読み違たが、アガは、
「違うわ、これはメジュゴーリエと読むの。ボスニア=ヘルツェゴビナのある街よ。ここに聖母マリアが出現して、今では聖地になっているの」
と言う。
「ルルドみたいなところだね」
と僕が言うと、彼女は、
「ルルドは、もうマリア様は出現しないけれど、ここはもう30年間も続いて、今日でも奇蹟が起こり続けているの。私はこれを信じているわ。それで、マリア様の願いにふさわしい者になるように日々祈り続けているの」
な、なんと信心深い女性だろう。
 残念ながら「ドン・ジョヴァンニ」公演は、その日が千秋楽。彼女は、今住んでいるミュンヘンに帰っていったが、今年の読売日本交響楽団の第九のソプラノのソリストとして来日するので、また会える。
「東京カテドラルでは、クリスマス・イヴには4回もミサがあって、そのどれも僕が指揮するのでおいでよ」
と言ったら、
「本当は、クリスマスは家族と過ごしたかったけれど、出来ないので、どっちみち行くわよ。読響の第九もたまたま24日だけお休みだしね」
ということで、また12月になったらアガに会える。その時までに、メジュゴーリエのマリアのことをもっとよく調べてみようと思っている。

「アナと雪の女王」徹底的アナリーゼ
 先週このページで「アナと雪の女王」の歌詞について触れた。その時に日本語バージョンの意訳について言及した。それでは他の国では意訳をしていないのかというと、そんなことはない。僕の中では、先週言い切れなかったことがあるので、もう一度ここで取り上げるのをご容赦していただきたい。

 たとえば最初の文章。オリジナルはこうだ。

The snow glows white on the mountain tonight
今夜は、山の上では雪が白く輝き
Not a footprint to be seen
足跡も消されてしまった
A kingdom of isolation
孤立の王国
And it looks like I'm the queen
そして私は その王国の女王のようね
日本語も、この導入については上手に訳していると思う。
降りはじめた雪は 足跡消して
真っ白な世界に ひとりの私
フランス語では、原語に全くない“冬”という季節の言葉が冒頭に登場し、全体の中でも強調されている。
L'hiver s'installe doucement dans la nuit
夜の内に冬がしずかに身を落ち着ける
La neige est reine à son tour
雪は女王そのもの
Un royaume de solitude
孤立の王国
Ma place est là, pour toujours
私の場所はここ 永遠に
(略)
J'ai laissé mon enfance en été
私は幼年時代というを去り
Perdue dans l'hiver
の中に捨て去ってしまった
その後に、日本語で歌われるところの、
「少しも寒くないわ」
という部分が来るのだが、ここのフランス語訳はなんて粋(いき)なんだろう!
Le froid est pour moi le prix de la liberté
寒さは私にとって自由の代償なの
つまりフランス語バージョンでは、この歌全体に“冬”というテーマをあてはめることによって、エルサが「自由を得るためにその代償として暖かさを意図的に捨てた」ことを強調しているのである。こうした国による「のりしろ」をディズニーは認めているんだね。
参考までに、ここの部分のイタリア語バージョンは、
da oggi il freddo è casa mia!
今日から、寒さは私の家なの
と言う。さらに最後のセンテンスだけは、同じオリジナルの歌詞なのに、別の訳があてがわれている。
Da oggi il destino appartiene a me.
今日からは運命は私のものだわ
と、寒さという概念から「運命」という概念にいつしか発展している。
ドイツ語バージョンは、
Die Kälte, sie ist nun ein Teil von mir
寒さは今や私の一部よ

 結局、仏伊独ともに寒さを肯定的に受け入れようとする姿勢を見せているというわけだな。
原文は、
The cold never bothered me anyway
冷たさが 私を煩わせることは決してなかった
なので、どの国もbother(煩わせる)という単語を訳すことを避けて意訳している。しかしながら、日本のように「少しも寒くない」と寒さ自体を否定する訳をしている国はない。 本当は、寒さは寒さとして(心が冷え切っていることも含めて)感じてはいるけれど、それをあえて自分が独りの世界に引きこもるために受け入れざるを得ないという姿勢が、このセンテンスのテーマなのだ。だからイタリア語バージョンでは、最後のセンテンスはあえて「寒さ」という単語から離れて、自分が受け入れるべき“運命”という位置づけをしているのだ。この意味の深さから逃げてはいけない。

 興味深いのは、どこの国も訳していない部分がある。それは、
「ありのままの姿見せるのよ」
の歌詞の出る直前。原文では、
Conceal, don't feel, don't let them know
隠すのよ 何も感じないで 気づかせてはだめ
Well, now they know
でも今は 知られてしまった(彼らは知っている)
原文では、一生懸命努力して隠していたのに、今やみんなに知られてしまったから、
Let it go, let it go
そうなったらもう、なるようにさせるしかないじゃない
Can't hold it back anymore
もう隠すことなんて出来ないもの
という、悲観的で半ばやけっぱちのようなセリフとなるのだが、この「知られてしまった」を、どうやら各国は訳すのを嫌がっているようだ。まあ、勿論、映画を観ていれば、エルサの魔法の力がみんなにばれちゃったから逃げ出したのは一目瞭然なんだけれどね。

フランス語バージョンはこう。
Cache tes pouvoirs, n'en parle pas
あなたの力を隠すのよ 誰にも言っては駄目
Fais attention, le secret survivra
気をつけて 秘密は守られねばならない
Pas d'états d'âme, pas de tourments
心の内も 悩みも
De sentiments
感情も(隠し通すのよ)
と、全くバレちゃったことには触れていない。そして肝心のlet it goは、
Libérée, délivrée
自由になった 解き放たれた
Je ne mentirai plus jamais
もう決して嘘はつかない
Libérée, délivrée
自由になった 解き放たれた
C'est décidé, je m'en vais
決まった 私は行くのよ
と、結構ポジティヴ指向。イタリア語も、「見つかっちゃった」は全くなくて、let it goのくだりは、以下のよう。
D'ora in poi troverò la mia vera identità,
今からは、私は見いだすでしょう 私のアイダンティティを
e vivrò, sì, vivrò per sempre in libertà!
生きるのよ そう 生きるの 永遠に自由の中で
やっぱりポジティヴ。ドイツ語も基本線は同じ。let it goの所は次の通り。
Ich lass los, lass jetzt los
私は解き放つ 今こそ解き放つ
Die Kraft sie ist grenzenlos!
(私の)力は果てしないの
Ich lass los, lass jetzt los
私は解き放つ 今こそ解き放つ
Und ich schlag die Türen zu!
そして扉をバタンと閉めるの
しかしながら、ドイツ語では、この最後の「扉をバタンと」の一文で、自分の中に引きこもる決心は表現されている。全般的に、ドイツ語バージョンは、なるべく原語に忠実にあろうとする。真面目なドイツ人だからね。しかし、そのことによって、1センテンスにあてがわれるドイツ語がとても多くなってしまい、オリジナルの流れるようなイメージはかなり損なわれることになってしまう。聴いていると笑ってしまうよ。

 ところで、次の部分であるが、先週僕はあまり上手に訳せていなかったと思って反省している。実際、ここでは英米の小中学生だって日常的には決して使っていないであろう語彙に満ちている。きっとわざと難しい言葉と表現を使っているのだろうな。
My power flurries through the air into the ground
私の力は 空を抜けて 地を揺るがす
My soul is spiraling in frozen fractals all around
私の魂は あたり一面 凍った結晶体となって 渦を巻く
And one thought crystallizes like an icy blast
そして思いは 氷の突風のように 結晶するの
I'm never going back, the past is in the past
もう決して戻らないわ 過去は過去だもの
このfractalsという単語の意味が、辞書を引いてもよく分からなかった。
ジーニアス英和辞典
fractal: 多面形(多面体)の分割されたどんなに小さな部分でも全体に相似しているような図形
Oxford Advanced Learner's Dictionary
fractal: noun(mathematics,physics)a curve or pattern that includes a smoller curve or pattern which has exactly the same shape
まあ、分かりやすく言うと、fractalとは、雪の結晶のような規則的な形を持った物体のことだ。だから、
My soul is spiraling in frozen fractals all around
は、直訳したら、
私の魂はらせん運動をしている、あたり一面凍った結晶体となって
のように訳すべきなんだろうな。
次の、
And one thought crystallizes like an icy blast
そして思いは 氷の突風のように 結晶するの
は、日本語の訳では、
「花咲く氷の結晶のように」
という風に“花”という単語をあえて使っているが、それはフランス語の、
Et mes pensées sont des fleurs de cristal gelées
私の思いは凍り付いたクリスタル(水晶)の花
を参照し、そこから影響されているのではないかと想像する。それ以外に花を使った訳をしている国はないからね。


 ディズニー映画では、ひとつの作品が発売されると、当然のことのようにワールド・ワイドに広がり、このようにあらゆる国の言葉に訳されて伝えられる。そして、間違いなく全世界でヒットする。それを商業主義だと言ってしまうのは簡単だが、それだけでは、これだけ長い間に渡って、数々のヒットを生み出してきた本当の原因は理解できないだろう。
 子供達がこうした映画に飛びつくのは早いかも知れないが、その子供達を連れて行くのは大人であり、お金を出すのも大人である。ディズニーランドに行くのが子供だけでないように、大人を満足させるからこそ、こうした産業も成り立っていく。その礎を作ったウォルト・ディズニーは素晴らしいと思うし、その精神を引き継いでいる人達も素晴らしいと思う。
 だからこそ、日本語版も、その元の意図をなるべく湾曲しないで伝えることに専念して欲しい。先週号でも言ったが、タイトルを「アナと・・・・」として、主人公をあたかもアナのように強調しなくても、内容が良ければ絶対にお客はついてくる。というより、ディズニーが出すんだから面白いに違いないという信頼関係は、日本のお客との間にも、とっくの昔に築かれているだろうに。
 Frosen(凍り付いた)という原題は、多くの国で「雪の女王」というタイトルに置き換わっている。しかし、アナをタイトルにつけた国は、僕が知っている限り見当たらない。それと、Let it goの訳については、それぞれの国で特徴ある意訳がされている。原文よりもポジティヴ指向で訳されている国も少なくない。けれど、日本のように基本理念がまるで変わってしまっている国はどこにもない。
 これが外来文化の日本への輸入の仕方なのだ、と言ってしまわないで、どうか勇気を持って作って、そして売り出して欲しい。良いものはそのままで受け入れられるのだ、と信じて欲しい。子供達をあなどらないで欲しい。子供達は、大人が思っているよりもずっと、良いものが分かるのだ。これがディズニー映画をこよなく愛する僕の提言である。

 日本語訳の悪口ばかり書いたけれど、最後にひとつだけ、日本語訳の素晴らしい点について触れておこう。アニメの映像と合わせて良く見ると分かるが、訳された日本語の歌詞とアニメのキャラクター達の口の動きがほぼ完璧に合っている。「お」の口の時にはOの母音がきちんと当てはまっている。
「歩きだそう」
の最後の引き延ばされたOは、Let the storm rage onのONに対応している。歌詞として意味が通じながら、このように節目節目の母音を合わせていくのは決して簡単ではない。その点に関しては、全く見事である!ここに、日本語の「お・も・て・な・し」の精神がある!

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