「ドン・カルロ」の寂寥感

三澤洋史

「ドン・カルロ」の寂寥感
 新国立劇場では「ドン・カルロ」の舞台稽古が続いている。指揮者のピエトロ・リッツォがとても冴えている。彼はドイツで活躍しているので、ドイツ語もペラペラだけれど、僕は彼とはわざとドイツ語ではしゃべらず、イタリア語で会話している。歌手達では、特に女性軍が秀逸。

 しかし、あらためて思うけれど、「ドン・カルロ」は名曲ですな。やっぱりヴェルディの全てのオペラの中でも一番好きかもね。
フィリッポ王の「独り淋しく眠ろう」など聴いていると、切なくて泣けてきますよ。
Ella giammai m'amò! 王妃が私を愛したことは一度たりてなかった 
No, quel cor chiuso è a me, その心は私に対して閉じられているのだ
その寂寥感。
 しかしそのすぐ後の宗教裁判長とフィリッポとの2重唱が圧巻だ。国王とて宗教の圧力には屈するしかないのか。個人の幸福への希求をはばむ様々な要素。虐げられる者は勿論だが、虐げる者自身も、その同じ刃で自らを傷つけていくのだ。こうした人間存在の深みにまで、この作品は踏み込んでいる。若い時には絶対に出来ない作品。歳を重ねたヴェルディの内面の円熟がこの名曲を創り上げたといえる。

 今回特に僕の胸を打ったのは、第4幕のカルロとエリザベッタとの2重唱だ。
Ma lassù ci vedremo でも、僕達はあちらで(天で)また会いましょう
in un mondo migliore, もっと素晴らしい世界で
 この音楽を紡ぎ出した魂の色は、「アイーダ」の最後の2重唱とそっくりではないか。またヴェルディ・レクィエムの色でもある。ヴェルディの意識が最も死に近づいた時期の独特の陰りである。この作品自体の結末も含めて、この作品では、すべてが深い諦念によって彩られているのだ。

「ドン・カルロ」は11月27日木曜日初日。12月9日までに5回公演。

親父の7年忌
 11月22日土曜日の「ドン・カルロ」舞台稽古の後、僕は高崎線で群馬県高崎市新町の実家に向かった。妻と次女の杏奈は妻の車で向かい、到着時刻がほぼ一緒になったので、新町駅で僕をひろってくれた。
 実家に着くと、お袋と一緒に住んでいるすぐ上の姉郁ちゃん(郁子)の長女貴子と次女知美(つまり僕の姪達)、及び彼女たちの夫とその子どもたちが来ていた。長男の敦夫君(甥)もいる。さらに、僕に例のロード・バイクをくれた、僕の一番上の姉みっちゃん(通子)の次男雅之君(甥)も来ている。つまり、お袋とうちの家族を合わせると、13人がワイワイ騒いでいた。
 突然、みんなの携帯が一斉に鳴り出した。
「なんだ、なんだ?」
「あ、緊急地震速報だ!」
「ひさしぶりだな」
少し経ってから、来た来た!大きな揺れ。船に乗っているようなゆったりした波。部屋の照明のスイッチの紐が大幅に揺れている。ちょっと3.11を思い出す。
「わあ、結構揺れてる」
テレビをつけた。震源地は長野県北部。あれっ、白馬の方じゃない? 角皆君の家、大丈夫かな?
 でもその後、杏奈がFacebookを見て、
「角皆さんち大丈夫だって。花瓶が落ちて、猫が怖がったけれど、家は無事だって書いてある」
と言ったので、ホッと胸をなで下ろした。

 23日の朝になって、あらためて事の重大さを知った。まさに角皆君の住んでいる白馬村の神城(かみしろ)一帯が被害の中心地になっているではないか。しかも結構建物が倒壊している。角皆君の家はよく大丈夫だったな。まあ、コテージ風の見るからに頑丈な作りではある。
 さて、親父が死んだのは2008年の11月26日だけれど、今日はその7年忌をみんなで行うことになっている。同時に祖母の33年忌も一緒にしてしまおうということで意見が一致した。本当はあと2年くらいあるのだけれどね。
 午前中に渋川からみっちゃんとその長男の修充君(甥)が来て、さらにお袋の妹の栄子さん(叔母)とそのご主人が来た。これでざっと17人。みんなでお墓参りに行った。金だわしやクレンザーまで持ち込んで、苔の生えたお墓をゴシゴシ洗って掃除をしてピカピカにした。それから親父と祖母の2本の卒塔婆を立て、お線香とおだんごをあげ、お祈りをして帰って来た。
 その後、お寿司をとり、オードブルを用意して昼食会。一番上の姉が渋川の道の駅に勤めているのでうどんとそばを持って来て用意した。実ににぎやかな食事会であった。

 僕は、姉たちの子どもたちと大の仲良し。その婿どん達とも大の仲良し。それから虎太朗君をはじめとして、まだ小さい彼らの子どもたちをとっても可愛がっている。新町に行くにあたって、僕は自分の練習用にテニス・ラケットとボールなどを持って行っていたが、すぐ上の姉の長男の敦夫君はテニスが上手だし、他の婿どん達もテニスに興味を持っているようなので、敦夫君の持っているラケットを借りて、みんなで烏川(からすがわ)の土手に行った。著書「オペラ座のお仕事」の生い立ちの章で出てくる、幼い頃から駆け巡っていたあの土手である。
 河川敷にある上武大学のグランドの横に、やはり上武大学の持ち物である誰もいないテニスコートがある。「無断進入禁止」と立て札があるのを横目で見ながら、無断で囲いの網をくぐり抜け、4人でダブルスの感じでラリーを始めた。ところが僕のを含めてラケットは3本しかない。
 一方、雅之君は、最近日曜日毎に野球チームに通っているので、新町にもグローブ持参で来た。彼の所にボールが行くと、彼はラケットで打ち返す代わりに、走り込んでグローブでキャッチし、こちらに投げてよこす。ラリーは滞りなく続いているのだけれど、彼の所に行った時だけ、ひとり変なのが混じっているぜって感じ。でも、そのミスマッチがまた楽しい。

 僕の親父は、孫達を赤ちゃんの頃からずっと目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。だから、盆と正月には何があっても孫達が一同に集まることが習慣になっていた。その孫達がそれぞれ結婚すると、その婿どん達も同じように群馬宅に集まるようになった。これもひとえに親父の人徳である。
「次はお正月だね。また一緒にテニスしよう」
と言い合った。
 貴子の長男の虎太朗君は、最近スキーが得意。ビデオを見せてもらったけれど、チビのくせに結構うまいんだ。
「ひろちゃんと一緒にスキーをするんだ」
と張り切っているが、お正月だと白馬に行ったばかりだから、出来るかな・・・。でも、虎太朗君の前でカッコ良いショートターンと颯爽とした急停止を披露して尊敬の目を注がれたいなあ。
 虎太朗は、この日にかつて修充君や雅之君たちが着た羽織袴を着て、写真を撮り神社にお参りして、七五三を祝ってしまった。


虎太朗の七五三


親父と祖母のこと
 若い頃、僕はよく親父と衝突した。親父にとっては、僕はきっと宇宙人に見えていたに違いない。大工である自分とあまりにもかけ離れた世界に行き、僕の考えていることなど理解するすべもなかったに違いない。
 でも、死んでから、親父の長所ってこんなにあったんだと気付くことばかりだ。まず穏やかで寛容なこと。それから仕事に対して真面目なこと。それらが僕の中で自然に受け継がれ、息づいていることに時々気付いて、驚きを覚えるのだ。
 誠実に家を建てても手抜きで家を建てても、誰もその違いに気付かないけれど、長い年月の間にしだいにそれは現れてくる。地震や台風などの災害があると、本当ははっきりと違いが出るのだが、すでに年月が経っているものは「老朽化という隠れ蓑」でうやむやに出来るだろう。
 しかし親父の背中を見ていた僕は、親父が「きちんとした家を建てる」ということ以外、何も考えていなかったし、ましてや手抜きや材料節約など、一瞬たりとも脳裏を横切ることはなかっただろうと断言出来る。“絶対的善良さの中にいる人間”というものは、邪念の生まれようがないのだ。この“職人気質”を、僕もごく当たり前の空気のように受け継いでいる。

 それから祖母(親父の母)のことについてもひとことだけ書いてみたい。僕は祖母にとても愛された。誰よりも愛された。祖母は、どこかでお菓子をもらってくると、
「これ、郁ちゃんとみっちゃんにはシーだよ」
と言って、よく僕にだけおかしをくれようとした。大抵、すぐに目ざとい郁ちゃんに見つかって、半分取りあげられてしまったが・・・。
 僕の心の最も昔の記憶として残っている情景がある。祖母とお祭りに行った。メリーゴーランドがあったので、僕が乗りたいと言ったら乗らせてくれた。でも祖母は自分では乗らずに端で見ていた。僕は、祖母が一緒に乗ってくれるものとばかり思っていたので、やや不安な気持ちで動き出すのを待った。
 やがてメリーゴーランドは動き出した。しかしそれは自分が予想していたよりも速く動き、僕は恐くなって泣き出した。すると祖母は、動いているメリーゴーランドに飛び乗り、僕を抱きかかえにきてくれた。夢中だった彼女の膝は、メリーゴーランドの縁に引っかかり、無残にも擦り剥け、血がしたたり落ちていた。メリーゴーランドはすぐに止まり、祖母は係の人にこっぴどく怒られた。お袋も誰もそのことを覚えていないが、恐くて泣いたくらいだから、恐らくとっても小さかった頃の思い出であると思われる。
 しかし僕はこのことを一生忘れない。その記憶は、その後僕に祖母に対する絶対的な信頼感を植え付けてくれたのだから。
「この人は、いざとなったら命を賭けても自分を守ってくれる」

 ベルリン芸術大学指揮科を卒業した僕には、ドイツに残って働くという選択肢も当然あった。しかし僕が日本に戻ってきたのは、最愛の祖母が歳を取って体が弱っていたからである。迷いはなかった。
 僕がベルリンから引き上げてきたのは1984年の9月の終わりであった。祖母が亡くなったのは85年の7月。溶けてなくなったロウソクが自然に消えるような、静かな静かな最期だった。
 僕は、息を引き取ったばかりの祖母に頬ずりをして、
「ばあさん、僕を可愛がってくれてありがとうね。ほんとうにほんとうにありがとうね」
と言った。物言わぬ祖母の顔は微笑んでいるように見えた。あれからもう30年近くも経ったんだ。

杏樹のお誕生日
 孫の杏樹がとうとう今週の11月28日金曜日に満一歳のお誕生日を迎える。過ぎ去って見るとあっという間だけれど、あの志保のお腹の上に放り出されたちっこい肉の塊りが、こんな豊かな感情と表情を持った人間のこどもにまで育ってくる変化を目の当たりにすると、1日1日が、こどもにとって(あるいは親にとっても)、なんて発見に満ちた、かけがえのない瞬間の連続であっただろうかと思う。その365回の集積だったとしたら、これは果てしなく長い道のりであったといえるであろう。


1年前の杏樹

 杏樹は、数日前にじーじの見ている前で4歩歩いた。でも、歩行そのものよりもいろいろ興味が分散していて、伝え歩きの時にたまたま2歩歩いたりはするのだけれど、欲がないので、それ以上の画期的な進歩はまだ見せていない。
 言葉も、いろいろ口走ってはいるが、これからなのだろう。「アイアイ」という曲を聴くと「あーいあーい」と言いながら踊ったり、何か物をくれるときには、
「はーい」と言っているつもりがDがついてしまって、
「ダーイ」
と言いながら渡す。
 僕がビールを飲みながら、
「アーッ!」
と無声で美味しがるのが面白いらしく、自分で何か飲むと同じように言う。
見つめていると、時々なんともいえない可愛さが込み上げてきて、泣きたいような気持ちになる。


1年後の杏樹


メロメロじーじの生活はこれからも果てしなく続く。

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