「表現の自由」について

三澤洋史

「表現の自由」について
 先週、イスラム過激派によるテロ事件を受けた大規模なデモについて、民衆の力で自由を勝ち取ってきたフランスを肯定的に書いたが、今日は、それと表裏一体を成す「表現の自由」について書いてみたい。

 人間の基本的な権利として「表現の自由」あるいは「言論の自由」は保障されるべきである。ただ我々は、セクハラやパワハラ、あるいは「いじめ」などの例を挙げるまでもなく、暴力を使わなくても言論のみによっても充分に人を傷つけることが出来ることに目を向けなくてはならない。。
 「表現の自由」だからといって、我々は他人に対して何を言ってもいいというわけではない。また、相手を嘲笑したりおとしめるような風刺画などを無制限に書いていいはずもない。それを侮辱や中傷や名誉毀損に感じた人は、相手の行った行為に対して抗議し訴える権利がある。場合によっては、民事的ないさかいのレベルではなく、立派な犯罪となり得るのだから。

 昔「最後の誘惑」というキリストの「十字架後の人生」を扱った映画が作られた時、欧米では、それに対する激しい抗議運動が起きていた。キリストの生涯がねじ曲げられ、ありもしないねつ造の上に映画が製作されたことが、熱心な信者達にとって我慢ならなかったという。
 僕も観た。確かに事実あるいは史実に基づいたものではないだろうが、救世主という存在意義を考察するために意図的にデフォルメされたストーリー構成は見事で、決して嘲笑や揶揄などの不真面目な態度で書かれたものでないことは一目瞭然であった。
 こうした場合には、抗議する本人が直接侮辱されたわけではないが、その人が信じているキリストという人物像がゆがめられて伝えられたことにみんなが怒っていたわけだ。こんな風に、宗教的な要素がからむと、話はややこしくなる。「最後の誘惑」のように真面目なアプローチで作られたものですら抗議の声が挙がるのだから、最初から風刺などのネガティヴな意図で書かれたものについて、それを命かけて信じている人達が激しい反発を感じるのは必至であろう。彼らひとりひとりが、自分自身のことではなくても「自分の生き方そのもの」が否定されたように感じているのは事実だからだ。

 暴力は確かにいけない。他人を死に追いやるテロ行為は言語道断である。ただ、現代社会においては、言論の方が行動よりも甘い傾向がある。たとえば、AさんがBさんを激しく侮辱し、怒ったBさんがAさんを殴ったとすると、その「殴った行為」によってBさんのみが逮捕されるということが起こる。この場合、本当に悪いのはどっちだろうかというのはモラルの領域で刑事責任の問題ではない。暴力はよくないというのは明らかではあるが、では侮辱行為は許されるのか?
 誤解しないでいただきたい。僕はイスラム過激派の肩を持つつもりはない。ただ、イスラム教がテロ集団を作り出している温床だといって、教祖マホメットやイスラム教徒に対してどんな不真面目な態度をとってもいいのだと誤解する人がいたら、それは「表現の自由」をはき違えていると言いたいのだ。
 テロ行為は容認されるものではない一方で、真面目なイスラム教徒の人達には、彼らにとって侮辱だと感じられるものに対しては、抗議する権利は充分にある。彼らが集まって大規模なデモを行ってもいい。それも「行動」の一種であるが、他人の体を傷つけるものでない行動は、この民主主義の世界では容認されるのだ。その場合、罪を問われるのは、むしろ民主主義の名の下に「表現の自由」をかざしている我々の側にあるのだ。

 確かにイスラム教にテロ行為がいちじるしく多い原因として、暴力行為も容認されるような教義自体を挙げられなくもない。「片手にコーランを、片手に剣を」というモットーや、聖戦(ジハード)という言葉をしばしば聞く。
「自爆テロで命を落としたら、そのまま天国の高いくらいにつけるのだ」
ということを言っていた人もいる。
 しかし、それならキリスト教はどうであったか?イエスは平和を説いたが、魔女狩りや十字軍やカトリック教会の宗教改革への弾圧は暴力でなかったというのか?また、アラブ人達が平和に暮らしていた土地に土足で入り込んできて、無理矢理建国してしまったイスラエルという国は、その存在自体が彼らにとっては暴力ではないか?さらにガザ地区への容赦ない攻撃は、アラブ人にとってはテロ以上に許し難い仕打ちと映ってはいないか?太平洋戦争の末期の神風特攻隊の、
「靖国神社で会おうぜ!」
という合い言葉は、自爆テロリストの心境とどこが違うのだろうか?
 要するに、宗教がからむと、暴力であろうが自分の命がなくなろうが人の命を奪おうがリミットがなくなるのである。宗教は絶対なのだから。その点に関しては、キリスト教であろうと国家神道であろうと誰も人のことは言えない。それなのに、自分たちだけが正しく、相手が間違っているという風に決めつけてしまうのは傲慢であり危険である。
 だから「表現の自由」の権利を振りかざして、この先どんどん風刺画などでイスラム教徒達を侮辱し続けるのだったら、彼らはますます反発し、世界はますます平和から遠のいていく。僕達は今こそ彼らと平和に共生する道を探さなければならないのに、これ以上逆行する行為をしてはならない。

 先週に引き続き、もう一度言う。いや、何度でも言う。
全人類が本当に願ったならば、世界からただちに戦争はなくなり、飢餓もなくなる。
神は忍耐強くその時を待っている。
しかしながら、平和を創り出すのは神ではなく、我々ひとりひとりの手である。
イスラム教徒の手も含めて・・・。

「さまよえるオランダ人」における救済
 新国立劇場では、正月明けの5日からもう「さまよえるオランダ人」の立ち稽古がビッシリ入り、一気に舞台稽古からオケ付き舞台稽古にまで進み、あれよあれよという間に初日を迎えてしまった。
 立ち稽古では、演出家のマティアス・フォン・シュテークマンがソリスト達の稽古をつけ、合唱は、同じ時間帯に平行して別のリハ室で澤田康子さんが演出ノートに従って手際よく稽古をつけてくれた。そんなだから、僕達はソリストがどんな感じなのか、舞台稽古で合体するまでは全くうかがい知ることが出来なかった。練習の全体像が分からないから、先週もこのページで書くことが出来なかったのである。

 僕は、「さまよえるオランダ人」で表現される救済について考えていた。マティアスの演出するラスト・シーンでは、エーリックに絡まれるゼンタに失望したオランダ人が、船に戻ろうとするのをゼンタが止め、むしろ自ら船に乗り込み船もろとも海に沈んでいく。オランダ人はひとり地上に残り、こと切れていく。これを観ている人達は、ワーグナーがト書きで書いたように、ゼンタとオランダ人が結ばれて昇天していくとは感じないだろう。ゼンタはゼンタで自らの身を犠牲にし、オランダ人は「死ぬことで」救済される。
 これを舞台上で見せられると、「オランダ人の救済」というものが浮き彫りにされるのだが、同時に僕にはその救済そのものがとても仏教的に感じられた。もっと月並みな言葉で言ってしまうと、僕は「オランダ人の成仏」と感じたのだ。
 それは「パルジファル」のクンドリも同じで、かつてキリストを嘲笑したことで呪いを受けたクンドリは、ヘロディアスなど様々な妖女となって地上をさ迷っていたが、パルジファルの覚醒によってやはり成仏するのである。クプファーの演出ではラストで死ななかったけれど、ワーグナーのト書きでは、クンドリはentseelt魂が抜けて死ぬのである。というか、クンドリが死んでくれないと、本当は「パルジファル」の救済は完結しないのだろうと思う。
 煩悩の中をグルグル回る輪廻とそれからの解脱と涅槃への到達。この仏教思想に、晩年のワーグナーは特に惹かれていくわけであるが、「さまよえるオランダ人」を書いた若いワーグナーの頭の中には、すでにそれへの伏線があった。それがすなわち、罪を背負いながら7年ごとに陸に上がって救済を願うが、毎回叶えられなかったオランダ人の運命なのだ。7年ごとというのが輪廻なのだろう。
 解脱はオランダ人個人の問題なので、中途半端にゼンタと結ばれながら昇天していくワーグナー自身のト書きよりは、僕にはマティアスの解釈の方が分かり易くてよい。勿論、それではゼンタがまるで犬死にしているようで、ちょっと可哀想だけれども・・・うーん、犬死にだからこそ救済の意味があるともいえる。キリストの十字架上の死だって、この世的には犬死以外の何物でもなかったもの。

 ワーグナーの初期の作品だが、それだけにテーマがストレートで音楽も分かりやすく、僕は個人的にはかなり好きな作品です。今回は、なんといってもゼンタ役のリカルダ・メルベートが絶好調。オランダ人のトーマス・ヨハンネス・マイヤーもいい。合唱も大活躍だよ。

これから1月31日まで5回公演。

かもめのジョナサンとスキー
 オペラシティのくまざわ書店で何気なく目に入った「かもめのジョナサン」。高校生の頃とても流行った本である。日常生活を送るために飛んでいる他のかもめ達と離れて、ただ「より良く飛ぶ」ことだけに命を賭けて練習に明け暮れているジョナサンは、カモメたちの群れから追放されてしまう。しかしジョナサンの飛行がある境地に達したとき、彼は別の世界に飛翔し別の仲間達と出遭う。彼は、さらに自らを解き放っていく。
 哲学的とも宗教的ともいえる内容の物語ではあるものの、カモメの写真が必要以上にちりばめられてページを稼いでいて、肝心の文章そのものは平易・・・というより平凡。文学的価値は必ずしも高いとはいえないなあ、というのが当時の正直な感想であった。
 ところが今回、新たに最終章が加えられ、完成版として登場ということで興味が湧き、手にとってレジーに持って行った。たすきで五木寛之氏が語っている。
「最終章を読んで、わたしは胸のつかえが下りた気がした。今こそ、この結末が必要なのだと感じた」
 この第4章の原稿は、初稿の段階では存在していたという。だが何故か作者リチャード・バック氏はこの章で終わるのを望まず、ストーリーは第3章までで完結したこととされ、1970年に初版が世に出た。40年以上も前の話である。
 ところが、2012年、作者リチャード・バックは、自家用飛行機の事故で九死に一生を得たことをきっかけに、このお蔵入りとなっていた最終章を加えた「完成版」を出すことを決意。そして2014年に第4章は初めて陽の目を見ることとなった。
 何故40年前には第3章で完結した方が良いと作者は思い、何故現代においては第4章があった方が良いと思ったのか?それには、この40年の間の社会と人々の意識の変化が関係しているという。あらゆる価値観の形骸化が進行する現代社会においてこそ、この第4章は意味を成すのだろう。あまりネタバレはしたくないので、気になる人はご自分で読んでみて下さい。ラスト・シーンは、その前が痛ましいだけに感動的だよ。

写真:単行本「かもめのジョナサン」の表紙
かもめのジョナサン


 それよりも、この本を読みながら、高校時代には全く感じなかった心の高まりを感じている。文章は稚拙で、ストーリーの組み立てもありがちで月並みかも知れない。だが、今の僕には作者が言いたいことがビンビンとダイレクトに胸に迫ってくるのだ。
 ジョナサンは一体何をめざしているのだろう?その問いはそのまま、僕がスキーに一体何を求めているのだろうという問いと重なってくる。
「それは目に見える形をとった、きみたちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる・・・・」
肉体に縛られないで真の自分をみつめる。そして究極的な自由に到達する。そのために飛ぶことに集中する。

 1月13日火曜日。新国立劇場はオフ。僕は早朝からガーラ湯沢に行く。僕にとって白馬五竜スキー場は、親友の角皆優人君からレッスンを受けるホーム・ゲレンデであるが、それを実地で反復練習するもうひとつのホーム・ゲレンデこそ、ガーラ湯沢である。ここは新幹線のガーラ湯沢駅がスキー場に直結しているという日帰りスキーには絶好のロケーションであるとともに、260万ダラーをはじめとした難攻不落のコブ斜面が豊富にあるのだ。
 コブ斜面は、どんな上級者にとっても、常に様々な課題を突きつける厳しい場所である。ゆったり滑れば何の問題もない処でも、ひとたびスピードを上げた途端、恐ろしいチャレンジの場と化す。整地では自分の好きにロングターンでもショートターンでも行えても、コブ斜面ではターンの大きさも種類もコブに大きく制約される。だからやっかいなのと同時にだから面白いのだ。
 時々思う。こんなことに精通しても、所詮何の役にも立たないなあ・・・と。でも、それだからこそいいのだ。何の役にも立たないものに没頭することこそ、人生には最も必要なのだ。それが価値がないと言ったら、音楽も、宗教も人生には要らないということになってしまう。普通のカモメのように、メシさえ食えればいいということになってしまう。それでは生き甲斐も夢も何もない淋しい人生になってしまう。

 さて、コブを滑る時に恐怖がないかと言ったら嘘になってしまう。いや、それどころか、恐怖の連続だ。むしろ、ひとつひとつコブを越える度に「恐怖する自分自身と向かい合っている」と言ってもいいであろう。
 逆に、この「恐怖する自分自身と向かい合う」ことが、今の僕の精神には必要なのだ。「恐怖する自分」という負荷に正面から立ち向かい、これを克服する体験を繰りかえすことで、僕は「思考の鎖」を断ち、「肉体の鎖」を断ち、自由に向かうのである。
 「恐いな」と思うと、思わず体が引ける。体が引けるとスキーへのコントロール度が低くなり、下手すると制御不能に陥る。コブの裏側に入って最も斜度が高くなった瞬間に、反対に思い切って体を前に倒し、スキー板のトップから入る。すると板を手なずける事が出来るのだ。
 様々な雪質や形状が自分を襲ってくる。それに対応し、何があってもフォームを崩さない。あるいはリカヴァリーを“冷静”に行う。これが理想である。それには強靱な精神力が要求されるが、本当に要求されるのは実は“強靱さ”ではない。
 一番難しい処で一番うまくいった時というのは、不思議に“何も考えていない時”なのである。まるで他人事のように、自分が恐怖しているということさえも、もうひとりの自分が客観的に眺めている。この時に僕は僕の肉体を超えているといえる。

 僕は、別にアスリートでも何でもないけれど、全てのトップ・アスリート達は、僕の言っていることが理解出来るのではないかと思う。自分の中にもうひとりの自分がいる。それはより高次な自分。瞑想する時や深い祈りの時に浮き上がってくるのはこの自分であり、消し去っていくべきなのは、日常にまみれて様々な想念に染まっている低次の自分だ。
 その高次の自分に、僕はスキーで出遭えるのだ。何故なら、スキーをする時には、僕の身体意識というものが全開となっているからだ。不思議な事に、身体意識から高次の自分を発見する道もあるのだ。そしてアスリート達が最高のプレイをする時は、恐らく宗教的な人間が深い瞑想状態に入っているのと限りなく近い境地にあると思う。
 演奏会で指揮している時も、そのような状態に入ることはしばしばだけれど、それでも僕は、音楽では決して味わえない精神状態をスキーから感じる。それはきっと、音楽では失敗しても死ぬようなことはないが、スキーの場合、下手したら命の危険があるということで、より野生が解き放たれ、身体意識が鋭敏になっているせいだと思う。
 このように僕は、スキーで得た境地を音楽の面で生かそうとしている。けれど、音楽で生かそうと思うからスキーをしているわけではない。夏でも僕の演奏における感覚は鈍くなるわけではないが、はっきりいって冬の僕の感覚は、普段よりも一段と研ぎ澄まされている。
 でも、僕にはまだ予感がある。もっともっとスキーは僕をどこかに連れて行ってくれる気がするのだ。今まで知らなかった未知の世界へ・・・その時僕は、ジョナサンのように自分の体が純白に光り輝くのを感じるだろう。

この先、春になるまで、僕のすべての休日はスキーに捧げられます。

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