連休と「椿姫」

三澤洋史

連休と「椿姫」
 ゴールデン・ウィークの間は、新国立劇場新制作「椿姫」の練習に明け暮れたので、連休の感じがしなかった。昨日5月10日日曜日、その初日の幕が開いた。フランス人であるヴァンサン・ブサールの演出は、徹底したビジュアル系。彼は衣裳も担当しているが、その衣裳が超ゴージャス!でも、照明が暗いので、その衣裳が映えないので残念と思っていた。ところがメイクをやっている次女の杏奈に舞台稽古を見せたら、その暗い照明から漂ってくる衣裳の気品が素晴らしいし、ヴィオレッタの赤い衣裳を引き立てるためで、全て計算されているとのこと。さらに、オーガンジーの紗幕の効果など、随所にユニークなセンスが感じられるということ。なるほどな。観る人が観ると違うんだな。
 舞台にはクラシック調のピアノが一台だけあり、下手側の壁はなんとそのまま巨大な鏡になっている。床面も鏡。舞台上に立って下を見ると、自分の顔がはっきり見える。本番用の衣裳はロングドレスなので問題ないが、私服でカーテンコールの練習をした時、女声団員達が騒いでいるので何かと思ったら、歩く度にパンツが見えちゃうとキャアキャア言ってる。あははははは!

 指揮者のイヴ・アベルはキビキビしたテンポでオケを引っ張っていってくれる。東フィルもしっかりついていって、かなり秀逸な仕上がりになっている。ヴィオレッタ役のベルナルダ・ボブロは、音楽的には申し分ない。コロラトゥーラの技法も完璧だし、フレージングが適切で、僕は彼女と一緒にバッハやヘンデルを演奏してみたい。アルフレード役のアントニオ・ポーリも超美声。
 この作品は、第1幕のヴィオレッタのアリア「そは彼の人か~花から花へ」のように、ドニゼッティなどのベルカント・オペラに通じる部分(つまり軽快な声が要求される部分)があるかと思えば、第2幕以降のように、よりリリカルな重めの声を要求される面もあり、ひとつの作品で要求される要素が分裂しているので、その両方を満たすのは難しい。今回のキャストはふたりともやや軽めの声であるが、この現代的な演出と指揮者の軽快な音楽作りによくマッチしている。
 新国立劇場では、この「椿姫」公演と、次の演目である「薔薇の騎士」の稽古がパラレルで入っている。そこに5月17日日曜日に行われる東フィル・オーチャード定期の「トゥーランドット」演奏会形式の本番が、殴り込みをかけてきて大忙し(こちらは合唱指揮者は冨平恭平君)。みんな、頑張ってこの五月を乗りきろう!

 ゴールデン・ウィーク中には、孫の杏樹が熱を出し、肺炎にまで至ったのでとても心配した。連休でいつものお医者さんにかかれなかったのも不安であった。幸い、連休明けの7日に知り合いのつてで良い小児科を紹介していただき、適切な処置をしてもらうことが出来た。
 わずか1歳5ヶ月の幼児に血液検査やレントゲンや点滴は酷なように思えたが、そのお陰で原因を確実に特定出来、抗生物質を投与したのがピンポイントにバッチリ効いて、その日のうちに熱が下がってみるみる回復したのには驚いた。一時は、あわや入院かとなりかけたのだが、そうならなくてほっとした。しかし、これほどまでに医学は進歩しているのだね。凄いね!
 昔だったらどうだったのだろう?何日も続く高熱になすすべも知らず、その内に体力が持たなくなって・・・と考えただけで身が震える。でも、世の中には、沢山病気で苦しんでいる赤ちゃんや、その赤ちゃんを不安な気持ちで見守る両親達がいるのだね。すべての病気の赤ちゃんのために祈ります。

みんなが健やかに育っていきますように。そして、それぞれの赤ちゃんが、この世に生まれてきた目的に向かって、人生をしっかり歩んでいくことが出来ますように。

共時性~ぶどうの木につながる事
 このホームページでも何度か言及しているが、最近本当にいろんなsynchronicity(共時性)が起こる。その内のひとつを紹介しよう。

 ある人間関係で心を痛めていた。あることがあって僕の発した言葉にその方が怒り、僕の真意が伝わらないままに誤解が誤解を生んでいた。僕は、祈りの中で自分の言葉を反省し、自分の中にも傲慢な部分や、説明不足の部分があったことに気付いたが、同時にその方にも何とか僕の真意を分かってもらえないかと神様に願っていた。

 朝、散歩していたら、僕の歩く道を一匹のザリガニが横切っていた。道路の真ん中を涼しい顔で・・・。
「え?こ、こんなところにザリガニがいるなんて!」
と思って足を止め、よく見ようと思って身を乗り出した。するとザリガニは突然両手を大きく上げてハサミで僕を威嚇した。
「うわっ!」
と僕は思わず飛び退いた。そんな小さなザリガニだから、身をかわす必要もなかったのであるが、いきなり攻撃的な行動に出たので、びっくりしてしまった。
 僕はザリガニをそのままにして散歩を続けた。
「ああ、びっくりした。なんだあいつは!」
と思ったが、歩きながら、そのザリガニのことが気になって仕方がない。何故なら彼は、彼の背後にあった堀から出て来たのは明らかであるが、これから向かう先には水のあるところは全くないので、あのまま歩いて行ったら、エサもないし確実に干からびてのたれ死にしてしまうのが目に見えているのだ。
 すでに彼のところから随分離れていた。あんな生意気なザリガニなんかどうなったって知るもんか、と心では思っていたが、それでもどうしても気になって・・・我慢出来なくなってしまった。気が付くと僕は早足で引き返していた。
「何やってんだ自分は?」
とは思ったけど、ハアハアいいながらさっきのところに戻ってみると、ザリガニは随分前に進んで来ていて、ますますのたれ死にの可能性は大きくなっていた。

 しかし・・・これをどうしたもんかな・・・子どもの頃は、ザリガニをつかまえることなど朝飯前だったはずだが、もう何十年もザリガニは触っていない。やだな、素手でつかまえるんかい?下手するとハサミで手を切られるぞ。でも・・・確か背中をすばやく持ったらハサミも届かずに持ち上げられるはずだよな。僕は、ザリガニの背中に手をかけた。するとザリガニのハサミの手が、なんと後ろまで伸びてきて、僕の手がハサミに触れた。
「ワアーッ!」
 ああ、びっくりした!そこで、何かないかなとあたりを見回したら・・・あった、あった。プラスティックの定規が落ちていた。その定規の上にザリガニを乗せて、彼がそこから出て来たであろう堀の方に歩き出したが、ザリガニが定規の上で暴れるのでどうしても下に落ちてしまう。やっぱり、手で持たないとダメだ。もう腹を決めなければ。怪我してもいい覚悟で意を決して背中をつかむ。ザリガニはやはり背中にハサミの腕を伸ばしてきたが、こちらがひるまずに持ち上げたら、なんとおとなしくなってハサミを引っ込めたぜ。
 そして無事に堀までつかんで持っていた。ところが、堀には柵がしてあり、しかも水面は低いので、手で水際まで持って行けない。仕方ないので、なるべく腕を柵の中に伸ばして、水の中に落とした。チャポンと音がしたが、水はそんなに深くない。見るとザリガニは仰向けになって足をバタバタしている。しばらく見ていたが自力では体勢を変えられないようだ。しょうがねえな、何かないかな、と思ってあたりを見回すと・・・あった、あった・・・全くさっきの定規といい今回の枝といい、どうしてあらかじめ用意されたようにアイテムがころがっているのだ?その枝でザリガニをひっくり返す。しかし、柵と水面までの距離といろいろな角度の関係で、なかなかうまくいかない。

 そうこうしている内に、ジョギングのお兄さんやら、自転車に乗った主婦やらが通る。
「なにやってんの、このおっさん?」
とみんな見てるんだろうなあ。恥ずかしいなあ、と思ったが、もうここまで乗りかかった船だもの、なんとかこのザリガニ君には助かってもらわないと、こっちの気が済まないんだよう!もう僕の心の中では、ただのザリガニがザリガニ君になっている。と、次の瞬間、スッと棒の先にザリガニ君の足が引っ掛かって、クルッとひっくり返った。
「おっ、やった!」
水の中から背中を見せたザリガニ君は、ちょっと静止していたが、やがてスーッと歩き出して向こうの方に消えていく。ふうーっ!
バイバイ、ザリガニ君!元気でね!

 僕は、恥ずかしさもあったし、散歩の時間の遅れを取り戻そうとも思ったので、その場をそそくさと立ち去り、早足で散歩を再開した。歩きながらだんだんおかしさが込み上げてくる。はははは、なんだってこんなことが起こるんだ。僕の目の前にザリガニが平然と横切って、僕を威嚇するって?しかもそのザリガニを自分が助けるだって?あっはっはっはっは!馬鹿みたい!

しかし次の瞬間、僕はハッと思った。あることに気が付いてしまった。もう笑うどころではなかった。

 つまり、これが神様の僕に対する答えだったのだ。僕が成すべき事が、僕がザリガニ君にした一連の行為の中にあったのだ。ようするに神様は、僕にザリガニ君の命を助けさせたいと思ったのだ。ザリガニ君のためにも僕のためにも。
 彼が威嚇する感じの悪いザリガニであろうと、彼は神様とつながっているし、神様に愛されているわけだ。そして僕も、ザリガニ君を助けなければと思って戻った瞬間から、神様とつながっているし、神様に愛されているのだ。
 ザリガニ君は、当然僕に感謝なんかしていない。するわけないだろう。それでもいいんだ。というか、僕が、彼の威嚇にもめげず腹も立てず、それを超えて大きな心を持ち、彼の命のために無心になって助けるために、「道路を歩く一匹のザリガニが僕の前を横切る」という共時性が設定されたのである。

 仏教では、“愛別離苦”と並んで“怨憎会苦”という言葉がある。人生で遭遇する様々な苦しみの内、愛する者と別れなければならない悲しみと同じくらい、苦手な相手と付き合っていかなければならない苦しみがあると釈迦は説いた。もっと極端な例は、自分の目的を妨げようとする様々な敵に出遭わなければならない苦しみでもある。
 その時に、どう対応していくかという事であるが、これは処世術ではなくて宗教だから、人間存在の最も根本的なところから問いかけられる。すなわち、あらゆる人間には“仏性”が宿るという真理である。全ての人間は、それぞれ人生の目的と使命を持ち、その中で様々なところにこだわって生きている。それも仏性故だが、そのこだわりとこだわりが時に対立を生み、敵対関係を生み出してしまう。でも、表面的な部分にだけこだわらずに、相手の中にある仏性を見ようとするならば、相手に対して愛情とリスペクトが生まれ、解決の糸口もおのずと開けてくるのだ。
 そのためには、怪我をするのを覚悟で、ザリガニ君を自らの手でつかむ勇気が必要だ。その勇気が、自分をより大きな包容力のある人間に育ててくれる。

 すごいと思わない?この共時性が、僕を一気にここまで気付かせてくれたのだ。共時性を呼び寄せたのは、別に僕が人より偉いからではない。ひとつだけ理由があるとすると、僕が神様とつながっているということだろう。
 僕は散歩しながら祈っていた。別にそのことを祈っていたのではないのだけれどね。祈りというよりボーッと瞑想していたというのが近いな。ともあれ、朝の散歩は今や僕にとっては欠かすことの出来ない、一日のはじめの祈りと瞑想の時なのだ。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、 わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
ヨハネによる福音書 第15章5節

鹿の王
 本屋大賞第一位の上橋菜穂子著「鹿の王」(角川書店)を読んだ。累計100万部突破と書いてあったけれど、けっして読み易い本ではなかった。「ハリー・ポッター」や、かつての「ゲド戦記」などのようなファンタジックな冒険物語の体裁を整えていて、戦いの場面も少なくないが、同時に「細菌と人体との関係」や「免疫の秘密」といった医学上のテーマをも扱っていて煩雑であり、これ本当にそんな大衆的な人気を博しているのかなと不思議に思った。
 場所の名前も登場人物の名前も覚えにくいのは、架空の国だから仕方ないが、中途半端に漢字を使っているのがかえって分かりにくくしている。それに人間模様が入り組んでいて、誰が誰の味方で、誰が誰にどういう感情を持っているかというのが把握しづらい。さらに、上下巻に分かれていてとても長い。上巻を読んでいる途中では、終わりまで読破できるだろうかという一抹の心配があった。

 だいたい本屋大賞を取るような作品というのは、こういうのが多い。一般受けするような小説ではなく、玄人受けというか通好みでやや地味。一体どういう読者を想定して書かれ、どういう人が一番喜ぶんだろうかと、読みながら思う。サスペンス&アドベンチャー好きで医学オタク?なんのこっちゃ!まあ、こういう種類の小説を評価し、紹介するために本屋大賞の存在価値があるのだろうな。
 それだけに、作者の小説家としての才能には疑問をはさむ余地もない。シチュエーションを把握するのに時間がかかったが、分かってくると、物語の構想の組み立て方や、登場人物のキャラクターの設定、各場面の文章による描写力には揺るぎないものを感じる。下巻に入って、異なる“二人の主人公”と、それを取り巻く人びとがだんだんつながってきたあたりから俄然面白くなってきた。小説でないと表現できない様々な要素を織り込み、まさに小説を読む醍醐味というものを我々に教えてくれるといえよう。

 女性作家だからか、濡れ場のようなものがない。いや、別になくてもいいんだよ。それが作品全体にストイックな印象を与えている。その一方で、孤独な主人公ヴァンが、母親の遺体のそばでひろった幼い娘ユナに対する情愛を自らの内に育んでいく過程とか、○○(ネタバレ防止のため名前を伏せる)との距離を少しずつ縮めながら愛情を深めていく過程とかの描写にもの凄く労力を傾けている。
「もうじれったいなあ。早く、くっついちまえ!」
と思う読者もいるだろうが、こういう内面の機微のようなものを描くのが一番難しいのだ。そうして、いつの間にか二人の間には揺るぎない信頼と愛とが育っているわけだ。さらに、小説の中ではそれ以上に発展するのを見せないのも憎い。それが読後感をいっそう爽やかなものにしている。


鹿の王


 小説というものにおけるプロの技を心ゆくまで味わいたいと思ったら、強くお薦めする作品であるが、上巻の半ばまでは忍耐が必要な本でもあるので、覚悟して読み始めてね。

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