なでしこ、よく頑張った!

三澤洋史

なでしこ、よく頑張った!
 プロ野球なんかで、自分はビール飲みながら、
「あ、なにやってんだ、馬鹿野郎!」
なんて叫んでいるおじさんがよくいるが、本当はそういうことをアスリートに向かって言うべきではないと思う。特に今回の女子サッカー・ワールドカップ決勝戦の結果については、戦ってもいない者が偉そうに上から目線でいうのを、僕は許さないからね!
 これはもうアメリカが強かったとしか言いようがない。前半わずか5分くらいの間にあれよあれよと2点取られ、前半16分までの間に4点取られた。こうなると、出足が悪かっただの根性がどうのという問題ではとうてい済まないことは明白だ。実力の差はいかんともし難いのだ。それでもなでしこが2点返しただけ偉い。最初のアメリカの勢いからしたら、10点以上取られても不思議はなかった感じだからね。
 ふうっ!でも、辛いよね。負けたアスリートって。だから僕は昔からスポーツに苦手意識があったんだ。今でも、音楽の世界においても競争とか勝敗とかは嫌いだ。コンクールも好きじゃない。考えてみると、最初になでしこジャパンが優勝した時の、行きと帰りの空港の出迎えの違いに人生を見る気がしたよね。「勝てば英雄、負ければただの人」って感覚が、スポーツを取り巻く我々の世界の常識みたいになっているから嫌なんだ。
だからあえて声を大にして言いたい。

なでしこ、よく頑張った!あなたたちを僕は誇りに思う。

コーヒーとジャズ
 よく上島珈琲に行く。コーヒーがおいしいのと、純乳脂肪のクリームがあるのと、茶色の粗糖があるのと、ジャズがかかっているというのが理由だ。よくここでスコアの勉強をする。総譜を読みながら頭の中で和声を鳴り響かせているが、一番邪魔にならない音楽は、間違いなくジャズだ。
 何故なら、ジャズでハーモニーを担っているのは唯一ピアノで、バッキングの瞬間だけ和音が鳴り響き、それ以外はベースとソロ楽器の2声のポリフォニーだけなのだ。ジャズ以外のジャンルの音楽は、反対に、みんな持続する和音を響かせているので、これが空間を埋め尽くしてしまうから邪魔になる。
 ということで、ジャズには空間がある。どちらかというとスキスキの空間。この空間とマイルス・デイビスのトランペットとの関係がイカしている。僕がマイルスのロック音楽をあまり好まないのは、ロックというがっちりとした強固なリズムの中では、マイルスの空間性が発揮出来ないというのがある。まあいい。今はマイルスを語るときではない。コーヒーの話をしよう。ジャズとコーヒーは合う。コーヒーの香りを楽しみながら味わう空間とジャズの鳴る空間とが似ている。あっ、マイルスのラウンド・アバウト・ミッドナイトがかかっている。そう、この原稿を僕は護国寺の上島珈琲で書いている。
 この世にコーヒーという飲み物があるのは神様に感謝だ。飲んでいる時に至福感があるのだ。僕は、午前中家に居る時には、必ず10時半にカフェタイムをとる。その時のコーヒーは必ず自分で淹れる。豆もミルで挽いてね。自分だけのやり方があって、少しの味の違いも許さない。だから妻にも誰にも触らせない。反対に妻や娘達は、みんな僕のカフェタイムを楽しみにしている。

 コーヒーをずっと飲み続けられるよう、今後も体調を維持していきたい。そしてこの人生が終わっても、天国にもコーヒーがあるといいなあ。

この一週間
 先週の「今日この頃」で書いたけれど、火曜日に名古屋駅で足止めをくった原因の新幹線火災事故は、実は大騒ぎだったんだね。岐阜の小学校でワークショップをやった後、帰りの新幹線で疲れを癒しつつ更新原稿を仕上げて、なんて考えていたのが甘かった。ようやく動き出した上り新幹線は徐行運転や停止しまくりで、のぞみなら通常1時間40分ほどで東京に着くはずが、満員のデッキで約3時間立ちっぱなし。疲労困憊この上なかった。
 それでも、孫の杏樹が寝てしまう前になんとか家に辿り着いたので、僕の顔を見るやいなや喜んで、
「じーじ!じーじ!」
という元気な叫びをあげる彼女に励まされ、その晩の内に先週の更新原稿を書き上げることが出来た。エネルギーを与えてくれた杏樹に感謝!

 でも、旅が重なると疲労も重なる。まあ、そう言いながら次の水曜日にはプールに行った。でもそういう疲れとは違うんだなあ。体はプールでリフレッシュしたが、神経が疲れているようだ。頭の芯がずっとツーンと鳴っている感じ。
 特に水曜日は、中断していた「おにころ」のオーケストレーションが気になって仕方なかったから、Finale(譜面ソフト)と首っ引きとなり、余計目や神経に悪い状態になった。新国立劇場では、高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」の立ち稽古が始まり(今回の指揮者は石坂宏さん)、オケ合わせを経て現在舞台稽古まで進んでいるが、先週の残りの時間のほとんどはパソコンに向かっていたといっていい。

 「おにころ」のスコアは、終曲「宇宙の川」が終わっていよいよ「カーテン・コール」に入った。つまり、あと一歩のところまで来ている。といっても、それはスコアの話で、その後パート譜を作って(譜面ソフトではワンタッチで出来る)、それを奏者がめくりやすいようにレイアウトを施さないといけない。それから、膨大な量のプリントアウトをして群響に渡す。だから、最終工程まではもうちょっとかかる。
 それでもね、やっと先が見えてきたぞ!これが終わったら、なんかお祝いに楽しいことをしようっと!なんだ?楽しいことって?高級レストランとかいろいろあるが、今差し当たって最も楽しいことというのは、なんといっても杏樹と遊ぶこと。なんだいつもと一緒じゃん!
 今彼女にジャンプを教えている。
「せえのっ!」
とかけ声をかけて、膝を屈伸させ、台の上から床に敷いたマットレスに向かってピョンと飛び降りるんだ。ある時から、まるで体操選手のように素晴らしく着地出来るようになった。それからというもの、普通の床の上でもジャンプしまくっている。話は古いけど、ベビー・キョンシーにしか見えない。

 土曜日は、「蝶々夫人」のオケ合わせの後、晩の志木第九の会の練習までの間、東京体育館に行った。いやあ、土曜日の午後なんかに東京体育館なんかに行くもんじゃないね。50メートル・プールはいっぱいで、いつもはのんびり低速レーンで泳ぐのだが、人が3メートル毎に泳いでいてとても落ち着いて泳げる環境ではない。だから中速レーンに行く。うーん、これもねえ・・・後ろから速い人が来るんじゃないかと思うと落ち着かない。
 最近ちょっとだけ上達して、体が水平になって自分がカヌーかサーフボードのように感じられてきた。抵抗が減りストロークも進むようになったので、2ビート・キックでも以前よりはだいぶ速くなったとは思うのだが、僕の場合、なるべく有酸素運動に近い状態で泳ぐのが目的なので、せかされるのは嫌なんだ。中速といっても、みんなそんなに速くは泳いでいない。それでも、僕はいつもよりつい速いペースで泳いでしまう。このままでは明日以降筋肉痛になるかもな。
 スキーでも水泳でも、仕事に差し支えない程度に行うことをモットーにしている僕は、通常プールに行ったら必ず1000メートル以上泳ぐところを、今日は700メートルで切り上げて、あとは温泉気分でお風呂にゆったり入った。東京体育館は一回600円と高いけれど、シャンプーや石けんを使えることと、このお風呂があるのがいい。すっかりくつろいでから、のんびり志木に向かった。

 志木第九の会では、久し振りに初鹿野剛(はつかの たけし)君が来ていた。彼は、長らく僕のアシスタントを務めてくれていたが、愛知県立芸術大学の常勤になり、結婚もして名古屋に住み始めたので、東京バロック・スコラーズの指導も辞めたし、都内での仕事を随分整理している。
 でも、7月12日日曜日に催される志木市のサマー・コンサートに志木第九の会が参加して、現在練習中のベートーヴェンのハ長調ミサ曲のグローリアを演奏するにあたって、団としては彼に指揮を頼んだので上京して来た。その晩の練習が終わったら、その足で夜行バスで名古屋まで帰って行った。愛妻の元へ。うふふふふ。

 練習では、最初に初鹿野君に振ってもらった。それから、僕が練習をつけ、最後にもう一度彼に振らせた。サマーコンサートの指揮者は彼だけど、最終的には10月の演奏会で僕が指揮するので、合唱団が混乱しないように彼にも僕のテンポで振ってもらう。
 彼の指揮ぶりは、ちょっと前の僕の振り方に似ていた。彼が指揮した直後の僕のコメントはこう。
「初鹿野君、以前の僕だったら、うんいいね、と言うだろうが、僕自身が最近随分変わったんだ。ひとつだけダメを出すけれど、レガートは肩からではなく肩甲骨から振り給え!」
「け、肩甲骨ですか?あの・・・水泳の話ですか?」
「そうだよ、水の中で泳ぐように振るのだ」
合唱団員達みんなで大爆笑。でもね、これはマジな話、本当なのだ。現に、二度目に振った時、初鹿野君のレガートが明らかに良くなった。レガートのラインが滑らかになったのだ。これで重心移動をX軸にすると文句なし・・・ええと・・・コブの話ですかあ?あはははは。水泳でもコブでも指揮でも究極的にはX軸なんだよ。
 そういえば、名古屋でモーツァルト200合唱団を指導している山本高栄君も、一度彼が上京した時にレッスンをして放物運動を教えたら、その後自分で反復練習していたようで、先日岐阜から名古屋に練習に行った時、彼の棒が画期的に上達しているのに驚いた。放物運動は、指揮法の基本中の基本だが、これを本当に極めれば、それだけでかなりのレベルまで行けるのだ、とあらためて思った。
 僕は忙しくて誰も弟子をとれる状態ではないが、今の自分なら、良い指揮法の教師になれるような気がする。実は複雑なことは何もない。最もシンプルな基本を極め尽くすこと。うーん、人生でも同じかも知れない。愛を極め尽くせば、聖人にまでなれる。

神や仏の愛はどこまで広い?
 さて、愛の話が出たところで、もう少し愛を語ろう。先日の新幹線で焼身自殺を遂げた人のことを想っているんだ。なに?同情する必要なんかないって?まあ、それはそうなんだが、僕は最近、こういう事件が起こると、すぐに親鸞を思い出すのだ。そして親鸞がこうした人達をどのように見ていたか、これらの人達に対してどのように“救い”ということを考えていたか、ということに思いを馳せることが多い。
 キリスト教では、自殺者に対して厳しいが、自殺をしたらもう永久に救われないのか?もうホントにホントに魂的に終わりなのか?それでは、あまりにむごいような気もするのだ。

 善人なおもて往生す いわんや悪人をや

 悪人だって、なにも好きこのんで悪人になっているわけではない。誤った行為を犯してしまう人は、みんなそれをせざるを得ないような状態に(慢性的であれ突発的であれ)追い込まれている。それらの人達の内面は様々なものに脅かされている。その結果、その心には闇が巣食っているのである。
 一方、善人の心の中には光がある。本当に満たされている人は、他人に対しても自分自身に対しても攻撃的になる必要がないし、愛に溢れ、穏やかでやさしいわけだから、周囲の人達もその人に好感を持ち、本人も益々しあわせで満たされていく。さらにそのことで往生(救い)という未来が待ち受けている。もう良いことづくしである。
 でも悪人はどうか?悪人は悪人であることによってますます人から嫌われ、針のムシロの上に座るような精神状態に追い込まれていく。もしかしたら、その人生のはじめから人に愛される環境になく、ずっと疎まれていたかも知れない。だとすれば、悪人になってしまうことが運命付けられていたという人だっているかも知れない。人間ってそんなに強くないもの。その強くないことを誰が責められましょう。悪人の心は、決して平安を得ることなく不幸で淋しい。さらにそのことで往生や極楽浄土にも縁がなく、神にも見捨てられている。

 親鸞は、こうした人達にこそ、救済の手を差し伸べるべきだと思ったのであろう。油をかぶった人は、火をつける瞬間泣いていたという証言がある。親鸞的に言うならば、彼は、すでに己の行為の報いを受けていると言えるのだ。悲しくて辛くて、生きる希望を全て失ってしまったということであれば、もう充分ではないか。救済の門をくぐらせてあげたい。

 でも・・・どうも引っ掛かる点があることも事実だ。死ぬのは本人の自由であったとしても、ここまで人を巻き添えにすることはないだろう。彼は本当に“新幹線内で大勢の人達を巻き添えにしながら死ぬ”必然性に追い込まれていたのか?と、問うならば、その問いに“然り”と即座に答えることは難しいであろう。 
 それは、言葉を変えると、仏から見て、どこまでが“同情の余地”であり、どこからが、
「いいかげんにせえよ!」
ということなのか、という問題である。自殺は仕方ないとしても、「大勢を巻き添え」というのは、新たに生まれ出た悪意である。それは「目立ちたい」という虚栄心から出た意識的な行為であり、これでは衆生救済を旨とする親鸞も阿弥陀如来も困ってしまいますよね。それでも救ってくれるんだろうか?阿弥陀如来は?

 一方、キリストの生き方を見てみよう。彼は、売春婦に対してだって、
「売春婦をやめてからわたしのところに来なさい!」
とは言わなかった。そこまで寛容でやさしい反面、自分のことを正しいと思っているパリサイ人や律法学者達に対しての攻撃には、容赦なかった。
 この不思議な行動の理由として考えられるのは、神様から見たら善人も悪人も50歩100歩だということかも知れない。
 こういうたとえはどうかな。たとえば僕から見て、同じくらい下手くそなAとBという歌手がいたとしよう。AがBを見て、
「Bの歌は最低ですね、俺の方が数段うまいでしょう」
と僕に得意げに言ってきたとする。僕は恐らく、
「Aはこの程度のレベルで自分が立派な歌手だと思っているのか」
と反感を持つに違いない。
 一方Bは、自分の歌が充分でないことを知っており、
「どうやったらうまくなれるでしょうか?」
と僕に尋ねてきたとする。僕がどちらを可愛がるかは一目瞭然だよね。僕から見たらどっちも取るに足らないくらい下手なんだ。だったら、せめて可愛げがある方を選ぶな。
 このように、僕達の視線から見た善人、悪人の線引きは、神様の前には全く役に立たないようだ。神様からしてみたら、売春婦と律法学者との差さえ、取るに足らないものなのかも知れない。神様の視点は全然別のところにあるのかも知れない。

 うーん・・・彼は、可愛げもないかも知れないけれど・・・それでも救われるのか・・・阿弥陀如来はそれでも救おうとなさるのか・・・反対に、見切りをつけるのか・・・「謙虚でないし反省してないから救わない!」と言われれば、やっぱりなあ、仕方ないよなあ、とも思うが・・・「それでも救ってみようと努力しましょう!」と言われたら、なんとなく嬉しくないですか?イヨッ!それでこそ神!「神は愛なり」だもんね。やっぱ、人類を無限に愛してくれているんだ。最後のひとりまで救い切る覚悟なんだね・・・と、どこまでもその慈悲にすがりたくなる。

 こんなこと考えている僕は、もしかしたらキリストの愛も阿弥陀如来の慈悲も親鸞の救済への情熱も、なんにも分かっていないのかも知れない。でもね、どんな人でも、いつかは救われると信じたいんだ。間違って死んじゃった後でも、敗者復活戦をさせてあげたいのだ。
 どんな放蕩息子でも息子は息子じゃないか。親は息子がどんなにグレても見棄てられないだろう。「勘当だ!」と言うには言うだろうが、「ごめんなさい」と帰ってくるのをずっと待っているのではないか。

どうなんだ?神は?仏は?救いは?



 


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