「おにころ」と宇宙の真理

三澤洋史

夏風邪引いた!
 毎年、夏になると妻と冷房のことで喧嘩する。僕は暑いのが苦手だから、寝る時すぐにエアコンをつけようとするが、妻はエアコンがきらいで扇風機で過ごそうとする。僕は、逆に扇風機だと風にやられて声がおかしくなったり喉がいがらっぽくなったりする。そこで口論の末、お互い妥協するわけであるが、双方に満足がいくわけがない。
 ところが、今年は妻があっさりエアコンに同意して、我が家ではあっけないくらい仲良くエアコンの夜を過ごしている。なんといっても、この連日続く猛暑日だ。エアコンなしでは生きていられないでしょ、ほらね、妻よ、分かったか!と勝利に酔いたいところだが、なんと僕の方が夜のエアコンにやられて夏風邪を引いてしまった。
 夜中に起きた時に寒くて喉が痛く咳が出始めた。日中でも、エアコンの強いところに長時間居ると、妙に体が冷え切ってしまう。体が急な温度変化についていけなくて、困っているのが感じられる。まあ、さいわいそんなに重症にならなかったし、8月10日現在、ほぼ直ってきているので心配はいらない。それにしてもこの暑さは異常だね。
 夏風邪引き始めの日、渋谷駅と地下鉄表参道駅の中間の青山通り沿い~閉じてしまった『こどもの城』の近く~の会社で、午後に打ち合わせがあった。渋谷駅から坂を上がっていく途中、息を吸えば体温よりも高い熱波が肺に入り、あたりの景色がかげろうのようにゆらぎ始め、この東京砂漠でのたれ死にするのではないかとマジで思った。
 打ち合わせまで10分くらいあったので、コンビニにちょっと入った。するとコンビニの中は人でいっぱい。しかもみんな僕と同じように、何かを探すフリして暑さをしのぎながら時間稼ぎをしているぜ。自分も時間稼ぎしていると見られたら嫌だなと思ったので、何も買わないわけにはいかず、必要ないものを買ってしまった。
 そういうわけで、ここ数日は泳ぎに行っていないし、朝のお散歩もお休み。お酒も飲んでいないのでびっくりだね。まあ、これから「おにころ」も佳境に入るし、お盆にはマーラー「復活」の集中稽古もある。その前にちょっとだけ休んでおけと、神様が命令してるんだと思って、おとなしくしていよう。

「おにころ」と宇宙の真理
 8月9日日曜日。「おにころ」本番まで、あとちょうど2週間に迫ってきた。今日は無理矢理通し稽古。まだいろいろ細部には突っ込みたいところ満載であるが、このへんで通しておかないと、この場面のあと小道具などをどこにおいて、どちらの側で何を持ちながらスタンバイしなければならないか、とか、次の場面までどのくらい時間があるのか、とかがよく分からないまま舞台稽古に突入してしまうのである。
 また、通常練習では最近やっていない場所とかあったりして、特に記憶が薄い場面を把握し、今後の練習の目安にするために、出来ても出来なくても心を鬼にしてスルーし、全体の仕上がり具合を俯瞰することが必要なのだ。
 ということでソリスト達も全員集合して通した。うーん、無理矢理通した。止めたかったけど止めなかった。ならぬ堪忍するが堪忍である・・・・あははははは。あっ、チケットを買ったみなさん。心配しないで下さい。まだ本番まで2週間あるからね。今晩も練習で、昨日問題だった個所をビシビシとシゴキまくるのだ。ま、あんなにうまくいった「嘆きの歌」だって、2週間前には本番まで辿り着けるかどうか分からなかったのだからね・・・え?ちっとも安心出来ないって?・・・へーき、へーき、いざとなったらミサワマジックがあるのだ。チチンプイプイ・ヘソのゴマ!エイヤー!これで本番はバッチシ!

 ただね・・・・そんな状態だけど、結構感動した。それも、思わぬところでググッときた。妖精メタモルフォーゼがおにころに彼の使命を教える場面がある。メタモルフォーゼは空を見上げ、宇宙の川を見せる。

おにころ 木が輝いている
花のささやきが聞こえる
山が歌っている
メタモルフォーゼ 風の歌、水の調べ、雲のときめき、
そして大地の息吹
おにころ うわあ! 
大きな光の川! 
音楽が、溢れるように、そこから降りそそいでいる!
メタモルフォーゼ 世界は歌なのです。 
宇宙は音楽なのです。 
そして、それは光でもあるのです。 
この光の川は、宇宙の生命そのものなのです。
全て生きとし生けるものは、 
この光の秩序によって生まれ、 
この流れの中で、 
自分の生命を花開かせています。
天がその存在を許している限り、 
なにびともそれを否定する権利を持ちません。 

 あらためて聞いてみると、結構難しいことを言っている。初演当時、僕のアシスタントをしながら振り付けをしてくれたSさんは、
「こんな難解なこと、子供のおにころに分かるはずないでしょ。もっと簡単な言葉にしたらいいのに・・・」
と言っていた。確かにその通りである。でも、まだ30代半ばの僕は、自分の初めての大作で絶対このセリフを妖精に言わせてみたかったのだ。マーラーが「嘆きの歌」で自分がずっと温めてきた思いの丈を一気に吐き出したように、僕も吐き出したかったのである。

 先週の「今日この頃」でも触れたが、僕は当時ドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナーに傾倒していた。それで、このミュージカルでは、彼の思想から「天体の音楽」と「アーカシック・レコード」というふたつのアイデアを取り込んでいる。

 「天体の音楽」とはこうだ。この世が神の永遠なる世界から分かれて生まれた瞬間、時というものが生まれた。その時と共に生まれたのがリズムである。リズムはこの世の全てを支配する。心臓の鼓動、呼吸、昼と夜、地球が太陽の周りを一周するリズム。
 鍵盤の中央のAは、1秒間に440回振動する。ひとつの音を1秒間響かせるのさえ440回の振動が必要なのだ。その音と音を沢山使って作られた音楽では、無数の振動が飛び交っているわけだ。その振動を宇宙大に広げてみよう。
 もし我々に、悠久の時を一瞬にして捉える感覚があったらどうだろうか。天体の動きさえ、ひとつの振動ととらえ、それらを組み合わせて「天体がひとつの音楽」であることを悟るのではないだろうか。
 そう、宇宙は、極小のレベルから極大のレベルまで音楽なのであると、シュタイナーは説くのだ。リズムだけのことではなく、メロディーやハーモニーに至るまで、宇宙は音楽的秩序に従って成り立っている。これがシュタイナーの天体の音楽の思想なのだ。

 一方、「おにころ」の中で語られている「天の川」とは天(あま)の川ではない。これは、シュタイナーだけでなく、沢山の宗教者や神秘家達が語る「アーカシック・レコード」と言われるものである。
 アーカシック・レコードとは、人類がこれまで作り上げてきた壮大なる想念の流れであり、その中に我々ひとりひとりの経験や獲得したものも含まれる。それは過去と現在だけでなく、そのまま未来にも続いている。予言者や予知能力のある人は、このアーカシック・レコードの流れから、未来を知るといわれる。
 アーカシック・レコードには、人類が、どのような想いを抱き、どのように行動してきたことによって、どのような事を招いたかなどがつぶさに描かれている。釈迦が縁起の法を説いたり、イエスが博愛を説いたりしたのは、彼ら救世主と呼ばれる人たちの意識は、時に支配されるこの世を超えて、アーカシック・レコードの流れを読み解き、人類の全ての過去と、その悲惨さの原因、災いの種を見通すことが出来たからだ。それだけでなく、さらにその未来の姿までもが分かったからなのだ。
 では、アーカシック・レコードが未来まで続いているのなら、未来はもう決まったものなのか?これは、どうもそうだともそうでないとも言えるもののようである。もし完全に決まったものであるならば、イエスや釈迦がどう道を説こうが、どう警告しようが無駄ではないか。
 こういう比喩が使えるかも知れない。交差する二つの道を二台の車が猛スピードで交差点に向かって走って来る。運転手には相手の車は見えない。そのままいくと互いに衝突するのは必至だ。それを上空から見ている者がいて警告を発し、どちらかの車がスピードを弛めれば衝突は避けられる。アーカシック・レコード的に言うと、未来とはそういうものだ。イエスや釈迦は上空から人類の運命を見ることが出来る者であり、それらの警告を聞くならば、未来は変えられるのである。
 こんな壮大な真理が「おにころ」台本の背景にはある。僕が愛を説くのは、愛こそが、全ての悲惨さや災いを遠ざける最強の武器だからだ。この妖精メタモルフォーゼのセリフとその後のミュージカル・ナンバー「メタモルフォーゼ」で、僕はウルウルする心を抑えるのがやっとだった。

 「おにころ」を書いた時、まだ僕の音楽人生は始まったばかりだったし、30代半ばの僕には、人に認めて欲しい想いや、様々な欲望や邪念があった。分かりやすく言うと、若い時は、偉そうなことばかり言っても、言ってることとやってることが違っていたのだ。 
 今、還暦を迎えて、いろいろな雑念が過ぎ去ってみると、あらためて「おにころ」に盛り込まれた真理に胸を打たれる。自分の生き方は、昔よりもずっとシンプルになってきているので、自分の表現するメッセージに、自分の日々の行動が矛盾しないで済むし、だからこそ、自分の発する言葉にも重みを感じる。

 通し稽古をしてもう一個所ウルウルした場所がある。それは、いじめられて泣いて帰って来たおにころと、その育ての親うめとの会話。

おにころ 僕がここに居て本当にいいのか?
うめ おにころ!お前はうちらのたった1人の息子だよ。
おにころ でも・・・・。
うめ おにころ、よおく聞いておくれ。お前は確かにあたしから生まれた子じゃないよ。でも神流川の河原でお前がうちらについて来た時、あたしは思ったんだ。この子は神様からの授かり物に違いないってね。

 内田もと海さんの表現する、母親としての深い愛情に心打たれる。僕は、「おにころ」の中で、主人公おにころをめぐる2人の女性を描き分けている。その2人のうち、作品を作った当時は、どちらかというと、おにころの内面の理解者である桃花の方に自分のシンパシーがより傾いていたかも知れない。
 うめのアリアには、あえて伝統的オペラの手法、それもプッチーニの蝶々夫人の「ある晴れた日に」と同じ変ト長調のシンフォニックな曲調を選び、地上的な愛を表現しているのに対し、自分が最も気に入っている「あなたの瞳の中に」というおにころと桃花のラブ・デュエットには、シンセ音による宇宙的広がりを求めた。
 あの頃の僕には、同世代の伴侶が母親よりもずっと近い存在だと認識されていたのだろう。おにころの真意を深く理解している桃花は、おにころが自己犠牲で川に入っていく瞬間でさえ、おにころの行動を静かに見守るのに対し、おにころが元気でそばにいてくれさえすれば嬉しいうめは、おにころを失うことに対してあんなにも泣き叫ぶ。
 でも、その後親として子供達を育て、孫まで生まれた現在の自分にとっては、いわゆる親から子を見る目線が育っている。だから、うめの「この子は神様からの授かり物」というセリフにさえウルウルきて、さらにおにころが川に入っていくシーンは涙で見ていられない。子を失う親の悲しさは理屈ではないのだ。

 こんな風に、自分で生みだしておきながら「おにころ」を受容する自分自身が変化している。「おにころ」は、僕の作品であって僕の作品ではない。今回一番強く感じるのは、この作品を世に降ろすのは天の意志であるということだ。最初からずっとそうだったのだけれどね。
 だからこそ、還暦を迎えた自分は、今こそ満を持して、無私なる気持ちで、天の意志を伝えるメッセンジャーに成り切らないといけない。逆に今だから出来るのだろう。この「おにころ」に僕は自分の60年の生きざまを賭ける!

 さて、来週はお盆のためお休みします。マーラー「復活」ウィーン行きのための集中稽古とかありますし、次の更新の時には、「おにころ」がすでに終了しているんだなあ。
僕にとっては怒濤の夏まっさかりのレポートを再来週にお送りしましょう。それが、喜びに満ちたレポートであることを祈ります。
では、みなさん、お元気で!



 


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