「三つのイタリア語の祈り」再演

三澤洋史

世界は今・・・
 先週書いた「いつくしみの特別聖年」のことなど、一部のカトリック教徒の話題なので、一般の人達は誰も気にかけないだろうと思っていた。ところが12月8日晩のニュースをはじめとして、その後テレビに何度も出てきたので驚いた。その報道の仕方には、もっと驚いた。
 それは、どれも「バチカン前代未聞の厳戒態勢」というようなタイトルで、「いつくしみの特別聖年」が始まる12月8日の開扉の儀式に際して、ローマ中でテロリストに対するものものしい警備が敷かれたという内容であった。
 テレビに映し出されていたのは、儀式に参列する人達に対しての、空港の出発ロビーのような厳重な手荷物検査の様子であった。肝心なMisericordiae Vultus(先週号参照~いつくしみのみ顔)の意味に触れている報道はほとんどなかった。
 皮肉なことだ。教皇フランシスコは、イスラム教への理解やイスラム教徒達との対話をも宣言していて、この特別聖年は、まさに彼らに心を開く教会の姿勢を示しているのに、その集まり自体がISの標的になるかもしれないなんて・・・。

 一方アメリカでは、次期大統領の最有力候補といわれている共和党のドナルド・トランプ氏が、
「すべてのイスラム教徒のアメリカ入国を拒否すべきだ」
という発言をしたことが話題に登っている。そのほとんどの報道は、それを失言として否定的な見地からなされているが、演説のビデオ映像を見て驚いた。彼がイスラム教徒に対する発言をした途端、会場から発せられたのはブーイングどころか、それを支持する大歓声であったのだ。
 その映像の直後、番組のコメンテイターは言っていた。
「彼は、アメリカ人の本音を代弁して支持率を上げてきたんです」
へええ、これがキリスト教国であるはずのアメリカの民衆の本音なんだね。やっぱり、愛とか平和とか共存とか寛容とかはただの建前にしか過ぎなかったんだね。
 一応、今は建前の声の方が大きいので、この人が大統領になる確率は薄いと言われるが、でもね、僕は聞いちゃったもんね。トランプ氏の発言に対する賛同の叫びを。あの人達は、すでにその瞬間に、国内に住んでいるすべてのイスラム教徒を差別し侮蔑している。本当に偽善的な国である。
 考えてみたら、かつてのジョージ・ブッシュだって元祖「こんな人」だったのだろうし、「こんな人で」なかったオバマ大統領だって、銃規制の試みは挫折するし、何か決断する度に「弱腰だ」と言われ、様々な圧力に抗しきれず、結局、今では不本意ながら「こんな人」に限りなく近くなっている。

 今、世界は大きな曲がり角に来ている。それは、どういう曲がり角かというと、我々が善だと信じていた民主主義及び資本主義が、本当に“どんな時でも善であり得るか?”という問いかけが成されている時なのだと思う。
 多数決の原理では、たとえばトランプ氏の演説に歓声を上げるような民衆が大多数になると、それが客観的な善悪の基準からみてどうであろうと、“数さえ多ければ是”の原理で、彼は大統領になり、彼の政策がどんどん実行されていくのだ。
 正しい民主主義が実現するためには、国民のひとりひとりが賢くあり、さらに私利私欲を離れたところでの判断力が求められるが、国民が愚かである場合、それはただちに衆愚政となる。これが民主主義の落とし穴。
 資本主義もそうである。儲かりさえすれいいというモラルのない者達が集まって作り上げた資本主義は、結局誰のためにもならない停滞した社会を作り出す。サブプライム問題やリーマン・ショックで、我々は懲りているはずであるが、それでも利潤の追求をめざす自由を妨げることは出来ない。
 安倍首相は、景気の立て直しを図った時、大企業の利益がだんだん社会の下部に降りてきて最後にはみんなが潤うというようなことを主張していたが、大変な理想主義者だね。大企業の社長がみんな松下幸之助のような善良な人間だって信じているのだろう。そうでないと無理だから。しかし、みんなのまわりを見回しても、松下幸之助はなかなかいなさそうだろう。それどころか、どこを見ても欲の皮が突っ張っている目をしているではないか。

 ということで、結局のところ、全ては“我々ひとりひとりの生き方”に還ってくる問題なのである。でも社会全体にそうした倫理観を問う空気がない。素晴らしい人格者がどんどん出てくる精神的土壌がない。アメリカも日本も・・・。ここが一番問題なのだ。
 繰りかえすけれど、みんなが私利私欲からちょっと離れて、他人のしあわせを望む人間にならなければ、社会は平和にも豊かにもならないのだ。残念ながら、そこに向かってちょっとでも進んでいる気配もないなあ。
 その意味では、イスラム教徒達に対しても、なにか我々の方が優れているというような勘違いはただちにあらためて、我々はもっと謙虚にならないといけない。

「三つのイタリア語の祈り」再演
 12月13日日曜日。赤羽会館。東大コールアカデミーの演奏会の第3部で、再び僕の作曲した「三つのイタリア語の祈り」を指揮した。アカデミカ・コール専属ピアニストの三木蓉子さんは、初演時にはバルセローナ留学中だったので、前回公演の時には水野彰子さんが弾いたが、アコーデオンの津花幸嗣さんとコンサート・ミストレスの藤田めぐみさんをはじめとする他のメンバーは全て前回通り。
 第2曲目のPreghiera Semplice(単純な祈り~聖フランシスコの平和の祈り)の途中にはそれぞれのプレイヤーにとって超絶技巧の個所がある。でも、みんな事前に個人で練習してきてくれていたので、オケ練習は初回からスムースに運んだ。バランスをかなり調整したので、前回聞こえない音も聞こえてきたし、5人の弦楽器奏者からは重厚なサウンドが出てきた。弦楽器とピアノとのバランスを調整し、最後に男声合唱とのバランスを直したら、おお!見違えるようなサウンドが出来た。
 面白いのは、初演時には、作曲家としての自分が前面に出ていた。ところが再演となると、一度自分の書いたスコアを客観的に見るのだ。これを人の作品のように冷静に眺め、サウンドのコンセプトを決め、練習の道筋を決める。こうした指揮者としての仕事の仕方が今回は前面に出ていたというわけだ。なるほど。きっと、マーラーなんかも「復活」交響曲とかを再演するとき、こんな眼で自分の作品を観ていたのだろうな。

 さて僕は、プログラム原稿に文章を載せた。これを書いていたのは11月半ば。すべて原稿を書き終わって、最後の見直しをしたら提出するばかりになっていたが、そこにパリの同時多発テロ事件が起きた。そこで、僕は原稿を白紙に戻し、新しく書き直した。それが、この原稿の巻末に掲げる文章である。
 そして、現役のコール・アカデミーとOBのアカデミカ・コールのメンバーを相手に、この文章のような練習をつけ、本番でもこの文章のように演奏した。特に第2曲目の演奏中、僕の胸は、今まで感じたこともないほど熱くたぎっていた。聖フランシスコの想いが僕の想いと重なった。平和への希求は、単なるロマンチックな願望とは全く違う次元で、僕の体から高く飛翔していく。多分霊的な感性が鋭い人が見ていたら、僕の全身は炎に包まれていたに違いない。そして、その熱気は、第3曲目の「すべてを包み込む限りなく女性的なもの」である聖マリアへの讃歌へ吸い込まれ、癒しと安堵の響きとなって会場を潤していく。
 みんなみんなよく答えてくれた。本当に感謝している。手前味噌であるが素晴らしい演奏であった。ただね、僕の願いは、この演奏会を無事に終わらせることで満足ではなかった。聴衆が喜んでくれたことで事足れりではなかった。この演奏会がうまくいったからって、手放しでバンザーイと喜ぶ気持ちにはならないのだ。何故か?
 今でも、僕の中にあるのは、ずっとずっと無力感だけ。それと戦う自分の信仰心だけ。つまり、こんな世の中にあって、自分が平和のなかにぬくぬくと身を置いていて、呑気に「平和の祈り」を唱えている間に、世界には、国を追われ、着るものも食べるものもなく、寒さに震え、明日の命さえ知れない数え切れない人達がいるのだ。
 自分に出来ることは祈ることだけだけれど、それだって、本当に本当に、イエスがゲッセマネの園で祈ったように血の汗をしたたらせながら祈っていると言えるのか?

 来年になったらミサ曲をひとつ書こうと思っている。アカデミカ・コールから依頼されている。これも、自分が自分の音楽の中にどれだけ凝縮した祈りの境地を込められるか、という挑戦である。ミサは、自分自身の罪を見つめ悔い改める「キリエ」から始まり、「我らに平和を与えたまえ」という「神の子羊」で終わる平和への道程である。
“いつくしみの特別聖年”の産物として、このミサ曲を、僕と同じ洗礼名である教皇フランシスコに捧げたい。まだ、なんにも出来てないので、なんともいえないけれど・・・・。

プログラム原稿
12月13日日曜日第62回東京大学音楽部コールアカデミー&第6回東京大学音楽部女声合唱団コロ・レティツィア合同定期演奏会
第3ステージLe Preghiere Semplici三つのイタリア語の祈り

 この原稿を書いている数日前、パリでイスラム過激派による大規模なテロ事件が起きた。コンサート会場では無差別な銃乱射が行われ、市内では同時多発的に自爆や発砲が相次いだ。ISが犯行声明を出し、そして米仏両国はただちにISの本拠地であるシリアへの空爆を開始した。世界が、ますます平和から遠のいてゆくことを思って、僕は深い悲しみとやりきれなさ、そして、そんな時代に生きている自分の無力感を感じている。
 ニューヨークで9.11が起き、その報復の意味も込めて米軍主導によるイラク戦争が勃発した。その時、テレビに映し出されるミサイルのピンポイント攻撃の映像を見ながら、僕は漠然とした不安を感じていた。圧倒的な武力の差にイラク軍は為す術もなかった。しかし、このあまりにもスマートな爆撃の映像の下で、憎悪をたぎらせているであろうイラク人達を思う時、これがそのままで済むはずがない、と確信していた。その予感の通り、地下に沈潜した憎悪は、ゾンビのように甦り、今世界を震撼させている。僕達は、出口の見えない穴倉の中をあてどなくさまよっている。

主よ、私をあなたの平和のための道具とさせて下さい
憎しみのあるところに愛を
侮辱のあるところに許しを
対立のあるところに一致を
疑いあるところに信ずることを etc.
 この「聖フランシスコの平和の祈り」が空しく聞こえてしまう。今、世界は、この祈りの正反対の状態である。愛どころか地は憎しみに覆われ、許しどころか侮辱を与え合い、一致どころか対立はますます強まり、互いを信じられるすべを持たない。
こんな時に祈っている場合か、という意見もあろう。でもそれ以外に何が出来る?病に苦しむ我が子の前の母に何が出来るのかと問うのと一緒だ。祈る以外に何が出来るのだろうか?この弱き被造物に。
 三つのイタリア語の祈りを作った時、こんな風に、祈りというものの意味を根本的に考える状態に追い込まれようとは夢にも思わなかった。しかしながら、今あらためてこの3曲の祈りに向き合ってみると、イエスが我々に与えた「主の祈り」も、第3曲目の「アベマリア」も、教会の歴史における長い風雪に耐え、様々な戦乱や悲惨さの中で必至に祈られ続け、今日に至っていることに気が付く。だからこそ、これらの祈りの言葉の中には、磨き抜かれたパワーが宿っているのだ。
 「平和の祈り」を、僕は火のような情熱的な音楽で彩った。それは、平和を実現するためには、よほどの強い意志と情熱がなければ成し得ないことを示す。だが同時に、最終的な平和に到達するためには、聖母マリア的な母性が必要だとも思う。母性は、全てを受け容れ包み込むが、その癒しの中で我々は情熱と力を育むことが出来るからだ。

 祈ろう!祈ろう!祈ることしか出来ないからではなく、どんな無力感の中にあっても、少なくとも僕達は祈ることができるから!そして、祈りのもつ力を信じているから。
世界に平和が来るまで、祈って、祈って、祈り続けよう!

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