お袋のいない大晦日と新年

三澤洋史

お袋の入院と聖夜
 今年最初の更新原稿は、楽しさ満載・・・と言いたいところだが、残念ながらそうでもない。でも考えてみれば、人生とは楽しければ良いというものでもない。信仰を持つ者として、僕は、自分の心の平和がなんらかの条件付きのものであってはいけないと常に思っている。なにものによっても妨げられることのない絶対的平和を内に持つことこそ、信仰者としての内面のあり方であり、その絶対的平和の心で常に平常心で生きていくことこそ、信仰者としての生き方でなければならない。
 そのためには、自分に降りかかってくる様々な事柄を、ある絶対的な存在からの必然的表象と捉える宗教的受容が不可欠である。自分の全てを、自己の弱さも含めてその絶対的存在に委ね切る覚悟と、それによって自分が“至高なる存在による絶対的な愛”によって守られているという揺るぎない確信を持つことが必要である。

 昨年の12月22日。お袋が緊急入院した。脳内出血である。妻から第一報を聞いた時、僕はサントリー・ホールにいて、読売日本交響楽団第九演奏会の本番が始まる直前であった。その第九演奏会の終了後、名古屋に向かうことになっている。翌23日は、愛知祝祭管弦楽団の「ラインの黄金」の初稽古。その後に「ラインの黄金」に関する講演会と、さらに懇親会が予定されている。
 第一報を聞いただけでは、お袋の生命がどの程度危険な状態にあるのかも分からなかったので、僕は体を硬くし母親を失うことを覚悟した。勿論そうなったら、名古屋行きを全てキャンセルして、ただちに群馬に向かわなければならない。
 群馬の姉のところに電話をし、詳細を聞く。どうやら、ただちに命にかかわるほどではなく、開頭手術が必要という事態でもなさそうであった。それなので、とりあえず名古屋には行く事にした。しかし、新幹線が東京駅を発車した瞬間、ここでお袋に背を向けて遠くに向かうことで、後で後悔するようなことにならなければいいが・・・と、実に後ろ髪を引かれる想いであった。

 23日。妻が僕の代わりにお袋のところに車で行ってくれた。一方僕は、駅前のホテルから朝練習会場である東海市に名鉄電車で向かう。愛知祝祭管弦楽団のメンバー達と再会するのは、ウィーン以来である。みんな僕が来るのを楽しみにしてくれていたので、
「ああ、来られて良かった!」
と心から思った。
彼等は、僕が行く前に何回か練習をしていたが、まあ、演奏会は来年の9月だから・・・あははは・・・ま、初回はこんなもんでしょう。しかし・・・初回のこんなもんが、本番になると、あんなもんに変質してしまうのだから、アマチュアは恐い!特にこの団体からは、演奏会が近づいてくるにつれて、なんだか信じられないオーラというかエネルギーというか霊気のようなものが出て来て、あれよあれよという間に名演になってしまうのだから、一種の妖怪集団といってもいいのだろう。
 練習後の講演会では、ワーグナー協会の人達も少なからず来てくれて盛会であった。ただ、この講演会は、むしろ団員が「ラインの黄金」という楽劇の構造を知り、指導動機Leitmotivを解明する事で曲への興味を深め、練習のモチベーションを高めることが主目的なので、一般の人にとって楽しいものであったか分からない。もし、必要とあらば、これとは別に、演奏会に来てくれる一般の聴衆向けの講演会を夏にあらためて行ってもいいかなと思った。
 その晩は懇親会もあって深夜に帰宅した。次の日は24日でクリスマス・イヴ。僕が聖歌隊の指揮をしているカトリック関口教会(東京カテドラル)では、5時、7時、10時、0時のミサがあり、さらに翌25日は朝の10時からミサがある。この全てに立ち会わないといけないので、体力を温存しておかなければならない。しかし、お袋の容態が心配だ。
 妻は、僕が23日の深夜に帰宅すると、ベッドの中でこう言った。
「明日、ミサの始まるまでに群馬に行ってこない?あなたは疲れているだろうけど、お母さんは待っていると思うの。あたしが車で乗せていって、関口教会の5時のミサに一緒に出るから」
「ええ?でも、立川教会の6時のミサでオルガン弾くんじゃなかったっけ?」
「若い子に代わってもらうわ。関口教会の5時のミサを受けた後、あたしは家に帰るからね。志保と杏奈と(孫の)杏樹は、立川教会に行くと言っているので、その後みんなでクリスマスの夕食をしようと思う」
「そうか、分かったよ」

 ということで、24日の朝、妻の車で群馬に向かう。お袋は、思ったより元気であった。普通にしゃべっているし体の麻痺もないようである。医師の説明をお願いした。MRIの画像が映ったコンピューターのディスプレイを一緒に見ながらの説明である。なんと便利な世の中になったものだ。
 出血した脳の場所が左側の空間を認識するところだったので、目としての機能は働いているが、左側の空間が認識できないということである。その部分が根本的に治る可能性はないので、あとはリハビリで少しでも改善することを期待するのみである。出血は止まっているので、病院として出来る治療にはもはや限界がある。つまり、もういつ退院してもいいけれど、その後のケアについてはいくつか可能性の中から選択しなければならない。自宅でデイケアあるいはデイサービスなどと連携してやっていく方法。介護付きの施設に入る方法etc.である。
 若い女性の医師。とても頭が切れる。説明は実に明解で疑問の余地もない。まあ、しかし・・・西洋医学というのはどうして、こう、黒か白か右か左かという感じで、なんか温かい血の通った感じがしないんだろうね。病院も、はい、やるべきことが終わったから、ベッドの数も少ないので出て行って下さい・・・的な感じで、とても冷たいと感じた。

 さて、今日はクリスマスイヴ。本当は東京オペラシティで読響第九の公演をやっているが、僕は宗教上の理由ということで失礼させてもらい、カテドラルに来ている。前年に引き続き、0時のミサまで全て出席して指揮をし、次の朝の10時のミサもやるので、宿泊しなければならない。
 前年は、初めてなので妻と二人で向かいの椿山荘に泊まった。とても豪華でよかったが、毎年そんな贅沢をするわけにはいかない。そこで山本量太郎神父に相談したら、なんと司祭館に来客用の部屋があるので、そこに泊めてもらえることになった。生まれて初めて司祭館に泊まる。
 関口教会でのミサは、通常の主日でも心が洗われる気がするが、特にクリスマスのミサは、聖マリア大聖堂全体が浄められている感じがして、大きな至福感の中で時がゆったりと流れていく。おびただしい人達がミサに参列するけれど、聖堂自体も大きいので、ごったがえしている感じはしない。かえって、みんなの聖歌がひとつになって響いたときには、他の教会では決して得られない一体感がある。二階後方にあるパイプオルガンから音が降り注いでくる。真夜中の0時のミサが最も霊的に研ぎ澄まされていた。やはり聖夜のミサは0時が基本なんだね。

 25日は10時のミサの後、一度自宅に帰り、夜に再び都心に出直してきて、池袋の東京芸術劇場で第九。しかし26日の日帰り大阪公演は同行することが出来なかった。お袋の退院後のあり方をその日に決めなければならないのだ。それで、今回は24日と26日と2公演も合唱指揮者が欠席することとなってしまった。指揮者の上岡さんはじめ、関係者には本当に申し訳ありませんでした。
 26日、午前中から妻の車で群馬に行って、二人の姉と相談した結果、とりあえず介護付きの有料施設に入ってもらうこととなった。左側の空間が認識出来ないからといって、では右側を見てスタスタと歩けるかというと、そんな簡単なことではない。全体のバランス感覚がおかしくなっているから、すぐそばのトイレにすらひとりでは行けない。慣れてくればいろいろ落ち着いてくるだろうが、退院後家に帰っても、とても姉ひとりでは手に負えない。
 それで、病院が紹介してくれた施設を見学に行き、とても良いので即決めて、手続きをしてきた。それからお袋の病院に行き、そこに入る同意を得るための説得をした。お袋は、退院したら家に帰りたいと思っているに違いないので、この説得には時間がかかるだろうなと予想していたが、彼女も自分の状態をしだいに把握してきているようで、
「これじゃ家に帰って自分でトイレにも行けないよね。頭全体がもやもやしているしね・・・・分かったよ。しばらく慣れるまでは、手厚く看護してくれる所に居た方がいいね」
と、あっけなく同意してくれた。ふうっ!これで一件落着か・・・・。

白馬?
 ところで、恒例の暮れの白馬行きのことである。もちろんお袋のことがあるので、半分あきらめていた。妻は、お袋が倒れた時点で、早々と白馬行きをやめた。
「あたしは群馬に行ってお母さんの面倒を見るからね」
妻は、これまでにも何度も群馬を車で往復してくれた。その上にお袋の面倒を進んでみてくれる。なんと出来た妻。それに引き替え僕は・・・・。僕だって、スキーなんかしている場合じゃないだろうと皆さんは思うだろう。僕ももちろん思っていたよ。
 でも今回はちょっと特別だった。僕の上の姉の次男のまーちゃん(つまり甥)と、下の姉の長女の貴子(姪)とその夫のあゆむ君&やんちゃなスキー少年の虎太朗が白馬に集結して一緒に滑る事になっていたのだ。これはこれで大事なことなんだ。もちろんお袋の容態次第なのだけど・・・・。

 僕の親父が生きていた時は、孫達をとても可愛がり、彼等が来るのをとても喜んでいた親父を慕って、僕の甥や姪達が、成人になっても盆や正月には必ず群馬に集まっていた。だから僕達はとても仲良しなんだ。親父は2008年に死んだが、その後は僕が中心となってみんなを実家に集めた。もちろんお袋がいたので、
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
と僕の母親に集まるという感じであった。それがさらに発展し、しだいに共通の話題や趣味を共有するようになってきた。
 昨年の正月は、1月3日にみんなでノルン水上スキー場に行った。すると、それまでスキーにそんなに興味のなかったまーちゃんが、自分でスキー板とブーツを買うようになり、週末毎に、虎太朗を連れてスキー場に行く貴子夫婦に同行するようになった。最初は僕と一緒に行こうと言ってきたのだが、僕のオフ日は平日なので一緒にはいけないのだ。そんな風に親戚の中でスキー熱が盛り上がり、暮れには白馬に行こうということで意見が一致していた。
 僕が、お袋のことで行かないとなったら、彼等もみんな旅行を中止するだろう。彼等にとってもおばあちゃんだからね。そうしたら僕達一家つまり僕と志保と杏奈と杏樹の4人、それにまーちゃんと貴子達一家の合計8人のペンション予約を、このハイシーズンにキャンセルしなければならなくなる。キャンセル料の支払いは避けられないし、ペンションとの関係も微妙になる。もちろん、お袋の生命が今日明日というのだったら、そんなことも言ってられないが、このように長期戦の様相を呈してきた状態ならば、先々のことも考えて、この旅行は中止すべきではないと判断した。

全て基本が大事~素晴らしいボーゲン・レッスン
 ということで、とりあえず白馬には行った。でも、ひとつだけ困った事が出来た。それは、前回は妻が杏樹の面倒を見てくれたので、志保も杏奈もスキーに専念することが出来たのだが、妻が居ないとなると、みんなで交代して杏樹を見なければならない。志保と杏奈は、角皆君の奥さんである美穂さんによる個人レッスンを予約していたが、それはキャンセルすることを余儀なくされた。
 僕も、彼女たちを放っておいて自分だけスキー三昧というわけにもいかなくなった。そこで角皆優人君の1日個人レッスンの予約を半日レッスンに切り替えてもらって、見られるときには杏樹を見た。

 そのレッスンであるが、今回はお袋のことが心に引っ掛かっていて、気持ちの面でもとてもイケイケという感じにはならない。そのことを角皆君に伝えた。でも彼はさすがだな。どんな条件下でも最良のレッスンをする。
「シーズン始めには基本的な練習をするのが一番。やみくもに難しい斜面に突っ込んでいっても、基礎が上達していなければ、結果的にそのシーズン全体でもたいした進歩は期待できないんだ。それよりも、初心に返って、重心移動から始まって、いろんな基本的なポイントを確認しつつ、だんだん難しい斜面に進んでいくのが結局は一番の近道なんだよ」
ということで、以前もそうだったけれど、基本中の基本のボーゲンから始めた。

 しかしながら、これはただのボーゲンのレッスンではない。ボーゲンというフォームを使いながらも、とても高度なレッスンを展開する。このへんが角皆君の引き出しの多さでもあり、ボーゲンというものの懐の広さでもある。
 志保は、この時間、娘の杏樹の面倒を妹の杏奈に任せてたまたまゲレンデに出ていた。彼女は、僕たちとは別に勝手に滑るつもりでいたが、角皆君が、
「このレッスンだったら志保ちゃんも一緒に出来るから加わったら?」
と言うので一緒に加わった。さらに今日レッスンのない美穂さんも加わったので、4人での超贅沢レッスン。
 準備体操の後、まず中級斜面で角皆君が言う。
「まずボーゲンで降りて行って、今重心をかけている谷側のスキーの前方に重心を移動してみよう」
「ん?ちょっと新しいやり方だな」
 初心者向けには、ボーゲンは、谷側と反対側の板に重心をあずけること(つまり左右の重心移動)によって次のターンを導くものだが、前方への重心移動というのは、あまりボーゲンでは指示されることはない。それはむしろ中級以上の精密なパラレルの動作である。
 パラレルにおけるターンの始まりは、スキー板の先(トップ)ないしは足の意識で言うとつま先に重心が乗っている。それが、ターンが進むにつれてしだいに重心を後ろに移動していき、最後はカカト加重で仕上げる。それから再び、よっこいしょと前方へ重心移動するのだが、そのきっかけを作り出すのがストックである。それをわざとボーゲンでやるわけである。
「なるべくゆっくりやってね。三澤君、速すぎるよ!」
ゆっくりというのは・・・かえって難しい・・・が・・・なるほど・・・ボーゲンでゆっくりやると、自分の重心が刻一刻とどのように移っていくのかが確認できる。こうして、無意識のうちにやっていることを意識化することが重要なんだ。
 パラレルが出来る人でも、ターンの切り替え時の“クロス・オーバー”と言われる「後ろから前への重心移動」がよく分かっていない人が多い。それと、その切り替えを導き出すストック・ワークをタイミング良く出来ない人も少なくない。けれど、コブ斜面を滑るためには、ストック・ワーク&クロス・オーバーの連動した動きを理解していないと、ほとんど不可能だ。これは本当に重要なドリルだ。しかもボーゲンでやるのは、パラレルよりも難しいのだ。
「次は、子どもがよくやるように、真下を向いてのボーゲン。つまり全制御というやつです。まっすぐ行って止まるだけ。では僕についてきてね」
 ところがここはかなり急斜面。油断して滑り始めたらなかなか止まらない。
「次は、半制御です。片方のスキーはまっすぐ谷に向かっていて、反対のスキーだけで制御するよ」
うううっ!片方の太股にめっちゃ重圧がかかってくる。
「このモモの内側の筋肉というのは、普段ほとんど使われないんだ。水泳でも全く使わない。まさにスキーでしか使わない筋肉といっていいんだけれど、スキーでは、ここの筋肉が弱いと話にならないんだよ。特に急斜面とかコブを滑る時にはね」
しまった!夏の間に一生懸命プールとかに通ったけれど、この筋肉に関しては意識の圏外だった!ううう!しんどい!
 レッスンの最後の方になってやっとパラレルでの練習。ここでは徹底的に外向傾を作るためのドリルを行った。一番特徴的なのは、山側のスキーを上げて谷側のスキーだけで滑る練習。こ、これも・・・さっきの半制御と一緒で、太股の内側の筋肉がし・・・しびれる~~!
 実際のコブを滑るレッスンは行わなかったけれど、僕は大満足だった。これからスキー場に行く度に、これらのドリルを準備運動代わりにやってから難しい斜面に挑めばよいのだなと思った。それと普段からモモの内側の筋トレをやろう。
 結局何でもそうだけど、大事なのは基礎だね。基礎から始まって基礎に還るのだ。あるいは、時々振り返って基礎を確認してから次のステップに向かうのだ。ありがとう、角皆君!素晴らしい教師を得て、僕はとってもしあわせだよ。

 この数年間を振り返ってみて、角皆君は、僕のスキーの実力を最短距離で導いてきてくれた。その過程においては、一見足踏みするように見える練習も要求したが、それらはすべて後になって効果を発揮してきて、無駄もなくモレる要素もなく、スキーの王道を進ませてくれた。
 そして、さらに思うことは、とどのつまりスキーの技術とは、緩やかな斜面であれ、急斜面であれ、整地であれ荒れ地であれ新雪であれコブ斜面であれ、すべてひとつのテクニックから枝分かれしているということである。それはひとことでいうと“コントロール”である。
 コントロールという言葉は、制御という言葉に訳されるように、通常抑えるとかブレーキをかけるとかいうマイナスの概念とつながりやすい。ところが、コントロールは本来「自分の意のままに操る」ということであるから、「いつでも意のままにブレーキをかけられるという安心感のもとに思い切って加速する」という意味も含まれるわけである。

 さて、僕も空いている時間に杏樹の面倒を見た。今回は2歳になった彼女と楽しくソリ遊びが出来た。1年経つと子供というのは見違えるようになるものだ。最初は白馬五竜スキー場のとおみゲレンデのふもとの鐘のある丘からチマチマとソリで滑り降りるだけであったが、しだいに悪ノリした僕は、一般のゲレンデに進出し、杏樹を前に乗せて重心を左右に移動し体を傾けて、ボーゲンのようにターンを繰り返しながら、それなりのスピードを出して滑った。杏樹は大興奮!娘達も、
「パパのソリ、スゲえ!」
とあっけにとられている。ホホホ、どんなもんだい!
 ただ、滑るのは楽ちんなのだが、ソリを曳いてゲレンデを登るのがかなり重労働。これだけで汗が出てくるよ。出来れば杏樹を降ろしてひとりでリフトに乗って上から滑ってくれば、遠慮しないでターンしながら超高速で滑って楽しいだろうなあ・・・これでコブだって滑れちゃうぞ・・・おっとっとっと・・・それでは意味ないのだ。
 29日の晩は、ペンションのカーザビアンカにおいて親戚一同で夕飯を食べた後、地下の居酒屋“おおの”で大いに盛り上がった。ここにはキッズ・コーナーもあり、子供もゆったりと遊べるのだ。

お袋のいない大晦日と新年
 大晦日と正月は、初めてお袋が家に居なくて淋しかった。親父が入院したり亡くなったりしても、お袋だけは必ずこの家にいたからね。僕が毎年白馬から帰るとお袋が待ち構えていて、神棚の掃除と松飾りを指示する。きちんとしきたり通りにやらないと厳しく直すように言う。うるせえなあとも思っていたが、今回は指導する人間が側にいないのがなんとも淋しいなあ。
 その代わり、白馬から30日のお昼頃群馬の実家に帰った後、1月3日に東京に戻るまで、僕は毎日お袋のいる施設に通い、何時間もお袋の元で過ごした。
「ちゃんと神棚は掃除したかい?」
なんて心配している。
「大丈夫だよ。松飾りだって、いつも通りきちんとやっているよ」
「そうかい・・・それならいいけど・・・」
 こんな風にお袋と向かい合って一緒にいることなんて普段ないから、なんだか照れくさい。子供の頃はお袋が大好きで、いつもべったりいたのに、大人になってからは電話だってあまり話すことがない。妻なんか見ていると、彼女の母親と何十分でも話し込んでいるが、男というのは、あんな風には出来ないからね。
 お袋は、ひとりでどんどん話していると思うと、いつの間にか眠り込んでいる。僕はノートパソコンを開いたり本を読んだりして過ごす・・・と、また何事もなかったかのように、いつの間にか目覚めていて、さっきの続きから話し始める。また沈黙が生まれ、また話し出して、僕も普通に相づちを打っている。また沈黙・・・のんびりのんびり時が流れていく。こうした空間も、ある意味、しあわせな空間だな。
 ただ、お袋はすでに88歳。所定の脳内出血は収まったとはいえ、ここの血管が破れたということは他の所も破れやすいのは事実だし、いろいろな器官にもそれなりに問題がある。トータルで見た場合、決して楽観出来る状態ではない。今の内に出来る親孝行はしておきたいと思うが、東京に戻ってきてしまうと、フットワーク軽く頻繁に顔を見に行くというわけにもいかない。うーん、こんな時は、祈るしかないなあ。

 4日から新国立劇場では仕事始め。びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」の合唱指揮を担当する。びわ湖ホールはなつかしい。かつてはびわ湖ホール専任指揮者として、声楽アンサンブルの起ち上げに従事した。声楽アンサンブル初代メンバーのオーディションにも立ち会い、開場前にレパートリー作りの練習を行い、オペラ公演においては、当時音楽監督であった若杉弘さんのアシスタントとして、現場の責任者であった・・・といえば聞こえが良いが、小間使いのようなこともいろいろやった。
 それが2001年9月から新国立劇場合唱団指揮者になってからは、びわ湖ホールと両立するわけにはいかなくなり、遠のいていたのだ。今回は、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部、それに新国立劇場合唱団の3団体の合同を束ねる。
 それと、新国立劇場「魔笛」公演の合唱練習も始まった。また9日土曜日と10日日曜日は、東京バロック・スコラーズのロ短調ミサ曲公演に向けての合宿があった。それらのことも詳しく書きたいところだが、随分長くなってしまったので、次の機会に譲ろうと思う。



 


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