熊本の震災に思う

三澤洋史

熊本の震災に思う

 4月17日日曜日のカトリック関口教会の10時のミサ。今日の説教を担当した三田一郎(さんだ いちろう)助祭は、興味深い話題から入っていった。
「今回のような熊本を中心とした大きな地震があると、人々は必ずといっていいほど、どうしてこのようなことが起こるのか?神様は何をしているのか?などと聞きます。でも、私はあることを言います。
この地球の表面を支えている地殻は、約15キロほどの深さだと言われます。その下にはドロドロと灼熱したマグマがあります。
最近、宇宙飛行士からの映像などで見ることがありますが、無重力の空間で水を撒くと、水は丸くなって空間にぽっかり浮かびますね。宇宙に浮かぶ地球が丸いのも、それと同じ原理です。つまり、ドロドロと柔らかいマグマの表面にリンゴの皮よりもずっとずっと薄い地殻が乗っているだけなのです」
 この三田一郎助祭は、実は高名な物理学者でもある。経歴を紐解いてみると次のようである。
1969年プリンストン大学大学院博士課程修了。Ph.D。ロックフェラー大学準教授などを経て、1992年より名古屋大学理学部教授、2006年より神奈川大学工学部教授。
「B中間子系でのCP対称性の破れの理論」で1993年度井上学術賞、1997年度仁科記念賞、2002年度中日文化賞、2004年J・J・サクライ賞を受賞。2002年紫綬褒章受章。
という風に素晴らしい経歴の持ち主である。著書も「CP非保存と時間反転、失われた反世界」( 岩波書店)と、僕にはちんぷんかんぷんである。
 そんな物理学者が、あろうことか聖職をめざし、現在ではカトリック名古屋教区助祭であるが、東京大司教区に出向扱いとして、僕が聖歌隊の指揮をしている10時のミサには必ず出席していて、時々こうして福音書朗読の後の説教をしてくれるのである。三田助祭はミサ後に「科学と神」という講座を開いている。彼は互いに反発し合っているように見える科学的考察と信仰とをつなげようという使命を持っておられるのだ。

 さて、その三田助祭の言いたかったことは次のようではないだろうか。我々人間は、そんなフワフワとした世界に生きているのだ。なのに、その上に家を建て文明を築いて、その状態が永久に続くと勝手に信じ込んでいる。地震が起きると、どうしてこのようなことが起こるのかと問うのは無知の故だし、神様は何をしているのかと問うのは傲慢故だ。
 この説教を聞きながら、僕は最近文藝春秋で読んだある記事を思い出していた。それはJAXA宇宙飛行士として国際宇宙ステーションの中で142日間暮らした油井亀美也(ゆい きみや)氏の手記であった。「宇宙から見た地球は脆かった」というタイトルのこのエッセイの中で油井さんはこう語っている。
大気の層は、膜のように、あまりに薄い。地上では無限だと感じていた空気がこの程度しかないのなら、しっかり対処しないと地球の環境を壊してしまうことを実感できました。地上にいるときは、地球は母なる大地で何をしても許してくれそうな存在に思っていましたが、実際は小さくて脆(もろ)い。宇宙から見たら、そういう感覚になりましたね。
(文藝春秋5月号216ページ)
 要するに、地球は上から見ても下から見ても脆い存在だということだ。そんな環境の中によく人類が住めるな、と、逆に僕達の生存が奇蹟にすら感じられないか?だから、どうしてとか問う前に、そもそも、朝になったら太陽が昇り、今日も1日の生活が始められることに感謝しなければならない。それすらが非凡なことなのだから。

 と、書いた後で、自分で矛盾するようなことを言う。熊本での相次ぐ大地震の後、天候が全国的に荒れた。昨日17日日曜日も、ミサの後新国立劇場に来るまでの間、新宿近辺では暴風雨が吹き荒れていた。救急車の音が近づいてくるので何かなと思ったら、高島屋の向かいのL-Breathというスポーツ用品の店のビルの垂れ幕が強風に煽られてバタバタと引きちぎられそうに激しくはためき、いまにも通行人の上に落下しそうだ。白っぽい雲でどんよりと覆われている空の中を、より低い黒雲が驚くような速さで駆け抜けていく。
 大都会の真ん中でこんな光景に遭遇すると、迷信に慎重な僕でさえ、「神様が怒っているのではないか」と思わず感じてしまう。しかしながら、それを理性で打ち消すのも正しくないように思えるのだ。それは通常の動物的本能であって、みんなが自然に感じるのだったら、もしかしたら真実の暗示ではないか?
 とはいえ、3.11もそうだったけれど、熊本での犠牲者のひとりひとりが、各々の罪の分だけ罰せられたなんて僕は決して思わない。世の中そんな単純ではない。むしろそんな風なら、すぐに結果が出てしまって、人間は神から信仰を強要されているようで窮屈だ。むしろ、善良な人でもとばっちりで犠牲になるだろうし、悪人でもまんまと難を逃れるのがリアルな世の中だ。

 しかしながら、現代の有様をカメラを引いて遠くから俯瞰し、近年の日本にどうしてこのような大災害が頻発するのか、という疑問を投げかけたなら、やはり今の日本のあり方に、どこか誤った要素があるのではないかと思っても不思議はないだろう。
 たとえば、東日本大震災の時、福島第一原子力発電所の事故を見ていたドイツは、即刻、原発の廃止を決めたが、何人かのドイツ人と話していると、恐らく大多数のドイツ人が、原発事故を起こした当事者である日本で、次々と原発の再稼働が始まっているのを、驚きと不信の目を持って見ているらしい。
 今現在、九州では震源地から遠くない川内(せんだい)原発は、あの地震にもかかわらずまだ動いている。今回の地震では、震度7の後さらに本震が来て、もはや余震だか何だか分からないほどに揺れ続けているという、実に想定外の事態が起こっているのだ。あんなにも断層面で土地がずれ、土砂災害が起こり、ひどい建物の崩壊が起こっている。津波が来なかったのが不幸中の幸いだが、地震の爪痕の凄さは、東日本大震災にも劣らない。
 そんな中で、今後、川内原発の直下で巨大地震が起こらないと誰が断言できよう?ドイツでは、こんな日本のような火山性の脆弱な地盤でないのに、原発廃止の決断をした。彼らから見たら、こんな地震国で、平気で原発政策を進めている日本の呑気さは“狂気の沙汰”だと映っているに違いない。

 では、何故そうなっているのだろうか?それはやはり経済最優先の社会だからではないだろうか?経済を大切にするのはいい。けれども、モラルよりも人の命よりも何よりもお金の方が大事という社会は実に危険である。
 原発のことだけではなく、全ての面において、
「本当は、こうあるべきなんじゃないか?」
とか、
「本当は、こうであってはいけないんじゃないか?」
という声を無視して、こちらの方が儲かるからという行動原理のみで突き進むあり方を、僕達日本人はもう一度見直さないといけないのではないだろうか?
 経済が発展できるのだって、今日のような平穏無事な社会が明日もその次の日も続いていくという大前提があってのことだろう。それが崩れるということは充分あり得るわけだし、僕達人間は、そうしたことも含めて天地の胸先三寸の元に運命を預けているのである。
 その感謝と謙虚さを忘れたところに、災害はやってくる。今のような情報社会では、熊本での災害の様子は即座に日本全国に知れ渡る。つまり、どこで起こっても、それは日本人全体の問題となるのである。だから、熊本での災害は、もしかしたら、僕の思い上がりのせいかも知れないのだ。

人間よ、おごり高ぶるな!
人間よ、謙虚になれ!

僕は、この災害で命を落とした方達すべての魂のために祈ります。
それと傷をおわれた方達、住まいを追われて避難生活を余儀なくされている全ての方達のためにも祈っています。

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