「ローエングリン」に明け暮れる日々とパリ

三澤洋史

「ローエングリン」に明け暮れる日々とパリ

 新国立劇場では、「ローエングリン」の合唱音楽練習に明け暮れている。とにかく、あらゆるオペラの中で最も合唱の分量が多い作品であることは間違いない。やってもやっても終わらない。特に男声合唱は果てしない。
 「ローエングリン」は、1997年の新国立劇場開場記念の特別公演として、ヴォルフガング・ワーグナーを演出家に迎えて公演して以来、しばらく上演されなかったが、2012年に、マティアス・フォン・シュテークマン演出による新しいプロダクションが制作され、今回はその2回目だ。2012年の時には、愛犬タンタンの健康の具合が芳しくない中で音楽稽古をやり、タンタンが死んでしまった悲しみの中で立ち稽古を進めていった。あの頃の悲しみが練習をつけていると心に甦ってくる。
 前回は、脳裏に焼き付いているバイロイトの夢のような響きに、新国立劇場合唱団がなかなか近づいて来てくれないのに、立ち稽古がだんだん迫ってきて、とても追い詰められた気持ちであったが、今回は、前回の経験者も沢山いるので、初回の出発点のレベルが高く、前回よりは平穏な気持ちで練習を進めている。
 しかし油断は禁物。この「ローエングリン」の合唱をどう仕上げるかは、今シーズンの合唱指揮者としての僕の最大の賭である。

 この音楽稽古が28日まで続くと、立ち稽古は5月4日から始まる。その間の数日間、僕はパリに行ってくる。4月29日金曜日に日本を脱出して、5月2日月曜日に、東大音楽部コールアカデミーOB会で組織した合唱団を指揮して、マドレーヌ寺院で、自作の「3つのイタリア語の祈り」を演奏する。そして5月3日にパリを発ち4日早朝に成田着。そしてそのまま、午後からの「ローエングリン」の立ち稽古に出席するという強行軍。

 「聖フランシスコの平和の祈り」を含むこの作品で、僕は、シャルリ・エブド事件や、同時多発テロのパリの空に平和への祈りを響かせたい。オーバーに言えば、その演奏会場にテロリストがなだれ込み、彼等の銃弾に倒れるようなことがあっても、平和を訴え続けたい。まあ、出来れば平和も祈り、そして無事にも帰ってきたい。
 このパリ旅行であるが、僕は合唱団の一行と離れて、モンマルトルのウィークリーマンションに妻と二人で泊まる。二人の娘を留学させたパリという街は、僕達夫婦にとっては、優雅に旅行するという感じではないのだ。僕も本当は、パリで生活するのが夢だった。だから滞在中は、朝モンマルトルの丘をお散歩して、それからバゲットを買って部屋で食べたり、日常的な生活をたとえ数日間でもしたい。おいしいチーズやワインを堪能したい。高級レストランではなくスーパーで買ってね。こんな我が儘を聞き入れてくれた合唱団には本当に感謝している。
 来週の更新日である5月2日月曜日は、まさにその演奏会の当日。もしかしたら、原稿が1日くらい遅れるかも知れませんが、パリからのレポートを送ります。楽しみにしていてね。

お袋のお見舞いと読書

 4月20日水曜日。午前8時40分。長女の志保が自転車で孫の杏樹を保育園に送っていくので、一緒に家を出る。僕が月極で契約している分倍河原駅前の駐輪場は、杏樹の通っている保育園とは真逆の方向だけれど、志保の自転車と並んで僕もマウンテンバイクを走らせる。
 杏樹は、じーじが一緒についてくるので嬉しいらしい。志保の自転車の上で上半身だけ踊りながら歌を歌ってはしゃいでいる。保育園で杏樹にバイバイしようとしたら、走って来てギュッと抱きついてきた。また、バイバイ。また抱きついてきた。3回も!保育園は楽しいけれど、じーじとは離れたくないらしい。今朝は、僕の全身からいつもよりやさしいオーラが出ていたからかも知れない。なんといっても、これからひいばあちゃんのところに行くんだからね。
 彼女たちと別れたあと、僕は国立市をほぼまるまる横切って駐輪場に向かった。今日は、「ローエングリン」の音楽練習はなく、「アンドレア・シェニエ」公演が夜7時からあるだけ。本当は、新国立劇場合唱団のテニス・クラブが午後からあって、久し振りに行きたい気持ちがあったけれど、グッと我慢した。僕は久し振りに日帰りでお袋のお見舞いに行くんだ。

 武蔵野線から埼京線に乗り継いで大宮駅まで来た。駅構内の本屋でかねてから買いたいと思っていた本を買う。本屋大賞をとった宮下奈都著の「羊と鋼の森」(文藝春秋)だ。そして、高崎線に乗り込んだ。今日は、電車にばかり乗るだろうから、1日で読み終わるだろうな。
 何年か前、スキーに凝り始めた頃、親父が死んでひとりぽっちで住んでいたお袋が淋しいだろうと、何度か実家に帰ってそこからスキー場に行ったのを思い出す。前の晩の新国立劇場の練習の後、真夜中近くに実家に着き、次の日そこから中里スキー場に在来線でトコトコ行って、1日滑り、また実家に帰ってお袋と夕食を食べながらいろいろ話し、もう一晩泊まって仕事場に行ったっけ。
 その時、行き帰りの電車では必ず読書をした。あの頃は五木寛之の「親鸞」を読んでいた。今はガーラ湯沢に行くにも新幹線なので、行き帰りで読んでしまうような時間はない。というか、スキーと読書がセットになっていると思ったけれど、もしかしたらお袋を訪ねるのと読書がセットになっていたのかも知れない。


羊と鋼の森


 新町歌劇団のような仕事で群馬に行くとなると、新幹線を使ったり、在来線でも指定席をスイカで取るけれど、プライベートの時は、なんだかそう出来る身分ではないような気がして、在来線の一般車両に乗る。それに、新町駅からタクシーに乗るのも気が引けるので、倉賀野から八高線に乗り換えて群馬藤岡で降りた。1時間に1本あるかないかの超ローカル線なので、倉賀野で30分近く待った。
 お昼前にはお袋の所に着くだろうと呑気に構えていたら、もう12時半。腹が減ったが、群馬藤岡の駅前を降りたら、何の店もないのであせった。幸い、一件だけラーメン屋が開いていた。やったあ、飢え死にしなくて済む(オーバーな!)。ところがそのラーメン屋がとてもおいしかった!みなさん、藤岡に行ったら必ず立ち寄って下さい。手打ちのふぞろいな麺の支那ソバ的な味わい。 「本家 風の子」といいます。

 結局、お袋のところに着いたら1時を過ぎていた。読書が進んだわけだ。お袋は昼食を済ませて寝ていたが、ちょうど介護士さんが来てトイレに連れて行ってくれたので、そのまま車椅子に乗ってホールに行き、しばらくそこで過ごした。髪を切ってもらってお風呂にも入れてもらってさっぱりしていた。それだけで、なんだか僕も嬉しくなってくる。ありがとう、施設のみなさん達。
 そしてまたいつもの昔話。しかし、毎回思うんだけれど、昔のことは本当によく覚えている。ひとつひとつの情景が、まるで昨日の事のように明晰に脳裏に焼き付いているようで、少しの曖昧さもなく鮮やかに描写される。これで認知症があると言えるのかと思う。
 しかし・・・最近のことになると・・・うーん・・・かなりぼんやりしているし、妄想が話の中に紛れ込んでくる。しかし、これも・・・素晴らしい創作力だ!妄想のストーリーの見事さに驚く。
 施設のみんなで、リハビリのためにタオルをたたむことを行っているらしい。お袋は、体に麻痺もないし、施設の中では軽い方だから上手にたためるというので、みんなから誉められていた。それが心地良かったのだが、新しく加わった人に上手な人がいて、賞賛の矛先を持って行かれそうなのだろう。どうもその人をライバル視しているようだ。
「タオルをたたむコンクールがあるんだよ。それでね、あたしを出し抜こうとして、審査員に付け届けしたりしている人がいるんだ。あたしは、その人だけには負けたくないから、練習しなければ・・・」
 コンクールは多分ないと思う。それから、その人は付け届けしたりしないし、審査員はいないと思う。それにしても、コンクールという設定や審査員がいて判定するという創作は凄いな。もしかしたら、音楽家の僕の前だからコンクールと言ったのかな。でも、自分の言っていることを信じ切っている顔をしているから、話を作っているという意識はないのだろう。
 いずれにしても、脳出血によって左側の空間認識力が失われているお袋のリハビリのためには、タオルをたたむ動作はとても良いと思われるので、
「それは、一生懸命練習した方がいいよ」
と力づけてあげた。
「でもね、その人はきっと悪い人ではないよ」
とも言った。お袋は、とても穏やかで、
「ここでは本当にみんな良くしてくれて、感謝だよ」
と言っている。少なくとも今日は、家に帰りたいと切羽詰まって言ったりしなかったので、ほっとした。
「また来ておくれよ」
と素直に言う。忙しいから無理して来なくていいよ、なんて遠慮して言わない。正直で子供のようで可愛い。僕のこと待っているんだ。なるべく頻繁に来てあげようとあらためて思った。

 夜までに新国立劇場に戻らなければならないので、携帯電話(まだガラ携)の駅スパートで調べたら、なんと八高線で小川町まで行けば、東武東上線に乗れるんだ。それで一本で池袋まで急行で行けることが分かった。しかも早い。
 八高線はなつかしいな。国立音楽大学声楽科の生徒だった頃、群馬からの帰り道は、群馬藤岡まで親父の車で送ってもらい、拝島から西武線に乗り換えて、玉川上水駅の下宿まで帰ったっけ。電化されていなくてジーゼルで、しかも単線なので、待ち合わせ時間も長く、果てしなく時間がかかったものだ。
 久し振りの八高線。今でもジーゼル。山間ののどかな風景や畑仕事をしている人達の姿が、ゆっくりと近づいて来ては過ぎ去って行く。児玉、寄居と過ぎて、思ったよりもずっと早く小川町に着いた。それから池袋までの東上線の道中の方が長かった。よく志木第九の会の練習に行くが、志木や朝霞台って、結構都心に近いんだね。

「羊と鋼の森」の爽やかな読後感

 結局、東武東上線に乗っている間に「羊と鋼の森」を読み終わった。お袋のお見舞いにふさわしい本であった。読後感が爽やかで、希望に溢れた小説。調律師の物語である。文体は平易で読みやすく、ストーリーにも荒唐無稽なところはひとつもない。でも、内容は平凡でも月並みでもない。本屋大賞を取るような小説って、これまでにも何冊か読んだが、芥川賞や直木賞をとるような内容と違って、ちょっと地味で通好みのものが多い。

 この小説の中に、僕は、後生大事にとっておけるような、とっても素敵な言葉を見つけた。主人公が尊敬している調律師の板鳥宗一郎に、調律師としてどんな音をめざしているか訪ねた時、板鳥は、小説家原民喜(はら たみき)が自分のあこがれている文体について語った言葉を引用した。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

 文体という言葉を音という言葉に置き換えてみると、それが板鳥の作り出すピアノの音だと著者は語るが、僕には、まさにそれこそが自分のめざしている音に感じられる。自分の音にこだわる音楽家は、言葉で表したら、みんなこんな音をめざしているのではないだろうか。とはいえ、実際にはそれぞれみんな違う音になっちゃうのかも知れないけれど。
 ということで、まあ、意地悪に言えば、どうとでもとれる原民喜の文章ではあるが(笑)、「懐かしい」とか「甘えているよう」とか「夢のよう」とかいう言葉が、明晰さやきびしさなどと並べられているのがいい。
 とにかく、この文章だけでなく、この小説には、職人が職人であることを超えるための“なにか”とか、アーティストが一流になるための“なにか”とか、すごく大事なことが書かれている。とてもポジティブで、勇気と希望をもらったよ。

ポール・ルイスというピアニスト

 さて、「羊と鋼の森」を読んでしまった後、初台に辿り着くまで、僕は、ポール・ルイスというピアニストの弾くベートーヴェンの初期のピアノソナタのいくつかをi-Podで聴いた。調律師の物語を読んだ後だったので、特別な気持ちで接することが出来た。レコーディングとなったら、調律師も、ポール・ルイスのために精魂込めて調律したのだろうな。


Paul Lewis


 このピアノソナタ全曲集を、僕は親友の角皆優人君からただで送ってもらったのだ。ある日、彼からメールが入った。以下、そのままコピペして引用する。
三澤君、Paul Lewis のベートーヴェン全集を聴く気はありますか?
なぜなら、不思議な縁から全集が手元に二つ揃ってしまったからです。

じつは最初に買ったものの28番3楽章に音飛びがあって、それをメーカーに云ったら、新しいものを送ってくれました。そして、前のは返さなくていいんだって。
だから、28番の3楽章だけはちょっと音飛びがあるけれど、他はすべてOKの全集です。
もしまだ持っていなくて聴く気があるなら、すぐに送りますよ。
わたしはかなり好きな演奏です。
全曲を比較するとシフの方が上のように思いますが、それにしても素晴らしい演奏です。
比較しないで聴くなら、とても好きな全集です。
すぐ次のメールが入った。
追伸です。
  結局、新しい方の全集でも28番には音飛びがありました。
  きっとすべてにあるのでしょうね。
次は僕が彼に宛てたメール
角皆君のブログを読んで興味を持っていました。
もし、いただけるのなら超喜びます。
是非お願いします!
> 結局、新しい方の全集でも28番には音飛びがありました。
> きっとすべてにあるのでしょうね。
笑っちゃうけど、本当は笑えないね。
音飛びをチェックしないで発売してしまうなんて無責任だね。
では。
 あはははは・・・ということで、買おうと思っていたベートーヴェン全集をまんまとタダで手に入れた。持つべきものは友だねえ。スキーのレッスンもしてもらうし、CDも送ってもらうし、なんと便利な友・・・あ、そんなこと言ってはいけない。角皆君に何か困った事が起きたら、今度は命を張っても彼を守らねば。そして、彼にも、
「持つべきものは友だねえ」
と言ってもらわねば借りは返せない。

 今この原稿を書いている時点で、初期のソナタの何曲かと、中期からは「ワルトシュタイン・ソナタ」、後期から「ハンマークラヴィーア・ソナタ」などを聴いている。感想としては、素晴らしいという他はない。こんなピアニストが欲しかった。溌剌としていてエネルギッシュだけれども、同時に歌心に溢れ繊細・・・とはいえ、屈折しているわけでもわざとらしいわけでもない。
 シフは頭脳派だけれど、彼はもっと自然派。流れが全て自然なのだ。基本的には、とても美しい音を持っている。しかも様々な表情によって沢山の音色の引き出しを開く。テクニックは秀逸。でも、ポリーニのように、「ここからは技巧の披露会」という風にターボをかけたりしない。全て音楽的必然性からテンポを選び、必要に沿って細かいパッセージを卓越した技巧で弾く。それだけなのだけれど、なまじ技巧がある人には、この悟りに到達するのは案外難しいのである。
 凄いなと思ったのは、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」終楽章のフーガを、最後まで全く飽きさせることなく聴かせてくれたこと。バッハのフーガと違ってやや拡散的で、ちょっと捉えどころのない場所もあるが、全てのフレーズに必然性を持たせ、興味深く聴かせてくれた。大好きな第3楽章の内面的な美しさにも感動できた。
 逆に、うーん・・・と頭をひねるのは、「悲愴ソナタ」冒頭の和音が長いこと。ん?・・・まだ?て、いう感じ。次の和音も・・・・まだ?。こういうところはちょっと作為的。あまりに名曲だから、「何かしなければ」という気持ちが出たか?でも、その後のアレグロの疾走感は小気味良い。第2楽章の「青春の痛み」も胸を打つ。彼には健全な感情が豊かに波打っている。

 この人の一番の長所を挙げる。それは、ベートーヴェンのユーモアを理解出来ること。そして、それを自分の表現の中に組み込むこと。CDのジャケットには、自分の写真が載っているけれど、中のCDの一枚一枚のパックには、異なった時代のベートーヴェンの絵が描かれている。それが、どれも彼になんとなく似ているのだ。ということは、彼はジャケットの写真で、わざと似ているように表情を作っている。口の結び方とか、眉毛の形とか、瞳の感じとか。
 それは、ジャケットだけではなく、演奏にも表現されている。ベートーヴェンは、真面目一辺倒の人間のように思われているけれど、実は、特に初期のピアノソナタなどには、随所にユーモアがちりばめられていて、それが彼の楽想の独創性につながっている。
 たとえば2番のイ長調のソナタ(Op.2. No.2)を聴いて声を出して笑ってしまった。第1主題の32分音符からしてユーモラス。そして32小節目から出てくる速い3連符のパッセージが、ソナタの均衡を自ら壊すほどハチャメチャな雰囲気で弾かれる。しかし、それがこのソナタの諧謔的な性格を決定していく。
 僕は、たとえば第8番交響曲の第2楽章など、ベートーヴェンが音楽の中に表現するユーモアについてはよく知っていたし、それを、同じくユーモアに溢れたバーンスタインなどが指揮する時に、浮き彫りにされることを評価していた。そういうアプローチは、バックハウスもケンプも、他のピアニストもあまりしていない。その点においては、少なくともポール・ルイスは過去の巨匠を軽く凌駕している。さて、32曲は、そう簡単には聴けない。これからじっくり聴いていこう。

「君の膵臓をたべたい」と草食系男子について

 お袋のお見舞いの日の「羊と鋼の森」の読後感が良かったので、調子に乗って、本屋大賞第2位という、住野よる著の「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」(双葉社)を買って読んだ。今僕にたまっている仕事は、文化庁のスクールコンサートの編曲や、ミュージカル「ナディーヌ」のオーケストレーションなど、家でないと出来ない事ばかりなので、外出中に音楽を聴いたり読書が出来るのが嬉しい。


君の膵臓をたべたい

 感動するという意味では、「君の膵臓をたべたい」は、第1位の「羊と鋼の森」を抜いている。「ローエングリン」の合唱音楽稽古に向かう京王線の中で読み終えた僕は、乗り継ぎの明大前のホームで泣いてしまった。誰も知り合いが通り過ぎないことを祈りながら。まだ時折脈絡なく発症する花粉症に涙が混ざって、顔中ぐしょぐしょになってしまった。
 やばい!若者同士の恋愛小説なのに、この小説にはこんな61歳の老人をもウルウルさせる力がある。つまり心の琴線に触れるものがある。人と人とが人生で魂を交差させ、互いに相手をかけがえのない存在として必要とする、究極の出遭いがある。

 とはいえ、終わり近くのどんでん返しと、クライマックスがくるまで、僕は、正直言って、ずっと腹を立てながらこの小説を読んでいた。なんだこの主人公の男は!草食系にもほどがある。なにい?女の子に誘われて、何気なく旅行に付き合っただと?なにい?一緒に泊まっただと?それなのに、自分がその子のことを好きなんだかなんだかよく分かっていないだと?ふざけんじゃねえ!

 高校生の頃を思い出してみると、そのう・・・なんていうか・・・性衝動というものが嵐のように吹き荒れていて・・・いや、僕だけではない。まわりだってみんなそうだったけれど、10代の男子なんてまるで“けだもの”のようじゃないか。だから、たとえば、そんな風に旅行になんて誘われたら、
「え、まじ?もしかして・・・その気あんの?」
と思うのが普通だろう。
 首筋がフワフワッとくすぐったくなるだろう。そこで、ノコノコついて行ったりしたら、当然行くところまで行っちゃうじゃないか。それが分かっているから、その前に、本当にそうなるにふさわしい相手なのか、とことん吟味するだろう。それほど好きでないまま行くのは、結局相手を傷つけることになるから、断らなければと思うだろう。
 要するにさあ、あらゆる意味で慎重になるだろう。なのにこいつは、たいした考えも決心もないまま、自分を誘った女の子について行くんだ。だいたいね、女子じゃないんだから、“ついて行く”って事自体が気にくわないな。男だったら、自分で誘え。そして自分で責任を持てっつーの!
 若い男子の性衝動は、僕がこの歳になってみると、決して悪いだけのものではないと思う。だから男は、女子を清らかなマドンナのように崇めるわけだし、だから自分が騎士になったつもりで「命賭けて守らなければ!」という聖なる義務感にかられるわけだし、だから男は・・・・たぶん女子よりもずっとロマンチストなのだ。それに、僕の場合は、自分がそうした本能に翻弄されるのを許せなかったので、自分を律する必要性を感じ、教会の門を叩いた。おおっ!性衝動は、宗教にまで昇華するのだ。
 ところがよ、もしかしてひょっとして、現代の男の子が、本当にこんな風に性衝動も希薄で、女子に対して無関心であるなら、逆に今の女子は可哀想だなあと思ってしまう。
「君をぜったい離さない!」
なんて言ってもらえないんだろう。
「どっちでもいいよ」
なんていうのは哀しいじゃない。ん?べつに、馴れてる?うーん、もっと哀しい!
 オペラの主人公達を見よ。みんな激しく恋に落ちて、みんな激しく嫉妬して、みんな激しく苦悩し、絶望して、みんな激しく死んでいくか激しくハッピー・エンドになっていくではないか。それに引き替え、主人公の男よ、なんでお前はさしたる気持ちもないまま、死の病(やまい)にかかっている女の子と、無防備に中途半端に付き合っているのだ?


君の膵臓をたべたい-たすき


 しかし、最後まで読み終わってみると、こういう主人公の性格設定だからこそ、あのどんでん返しと結末が映えて、感動を導き出せるかもしれないと気が付いた。結末のインパクトは、オペラに負けずとも劣らない。
 もしかして、それを分かっていて、著者は、主人公のキャラクターとストーリーを組み立てた?だとしたら、凄い才能なのかも知れない。とにかく、泣けます。おじさんのたわごとはともかく一度読んでみて下さい。それで、この主人公について僕と語り合いましょう。

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