新国立劇場合唱団

三澤洋史

新国立劇場合唱団
 「ローエングリン」が終わった。千秋楽の6月4日土曜日。カーテン・コールの閉まった緞帳の後ろで、クラウス・フローリアン・フォークトは、僕の手をしっかり握りながら、まっすぐ僕の目を見てこう言った。
「お願いだ!全員に必ず伝えて欲しいんだ!この合唱団は文句なしに素晴らしい、とね。君が適切な音楽稽古をしているのが分かるし、何より、合唱団員達が君を信頼して、真摯に音楽に取り組んでいるのが感じられる。本番では、毎回、完璧といえる歌唱を聴かせてくれた。僕は、この合唱団と共演できて、本当にしあわせだった!」
 楽屋に帰ると、まだみんな化粧を落としているところで、誰も帰っていない。僕は、急いで、いつもダメ出しや諸連絡を書くホワイト・ボードのところに行き、フォークトのメッセージを書いた。そして最後にこう締めくくった。
「お疲れ様でした。そして、みんな、ありがとう!」
書きながら、なんだか胸がジーンとなった。

 恐らく、あらゆるオペラの中で、間違いなく最も合唱の分量が多い作品。覚えるだけでも大変なのに、テンポの緩急、強弱の変化、音程、ハーモニー、そしてドイツ語の発音及びドイツ語的表現、といった様々なことに留意しながら、長時間演じ歌い通すのは決して楽ではない。
 特に第1幕の男声は、幕が開いた時から舞台上にいて、ただの一度も楽屋に帰れない。1時間立ちっぱなし。たまにはフォーメーションを変えるが、朝礼の比ではない(笑)。事実、気分が悪くなる者も出る。

 しかし、「ローエングリン」の合唱指揮ほど、やり甲斐のある仕事もない。この合唱の響きは特別なので、発声法も特別に作らなければならない。イタリア・オペラのようにガーッと張ってしまうと、この作品全体に流れる高貴で清冽な雰囲気が壊れてしまうのだ。
 テノールは特に、かなり下の音域からファルセットに近い頭声で歌わせ、バスはソット・ヴォーチェ(柔らかい響き)でテノールを支え、響きの統一感を計る。そうやって構築した男声合唱のサウンドの上に、女声は、それに合う音色を重ねる。だから基本は男声合唱。そのノウハウを、僕はバイロイトで、ノルベルト・バラッチュから教わった。
 「ローエングリン」では、そのように「響きを作り込む」という作業が不可欠。僕がそのノウハウを持っていても、それを実現するためには、合唱団にもの凄く高いスキルが要求される。それに充分対応出来る能力を有している合唱団は、我が国では明らかに新国立劇場合唱団のみである。いや、世界的に見てもどうなんだろうな・・・ま、あまり大風呂敷を広げるのはやめておこう。
 とにかく、僕は今、とても誇らしく思っている。新国立劇場合唱団のひとりひとりの団員達よ!僕は、君たちが、真の技術を持った職人artisan(アルチザン)であると共に、感性豊かな真の芸術家artiste(アーティスト)であることに、限りないリスペクトを捧げる。今日まで本当にありがとう!まあ、これからも容赦なくビシビシいきます。

コンサート
 オペラのシーズンは、これで終わり。この後、合唱のない「夕鶴」公演に引き続いて、高校生のための鑑賞教室も「夕鶴」。次のシーズン開幕も合唱のない「ワルキューレ」だから、劇場内でのオペラ公演に合唱団が参加するのは、約半年後になってしまう。
 6月、7月、8月、9月、10月と、まるまる5ヶ月なくて、「ラ・ボエーム」の初日は11月17日。こんなハイレベルの合唱団員達が、みんな食えないのでアルバイトするという。見ていて気の毒だ。

 だが、その間に、コンサートがある。全員ではないのだけれどね。まず、今週末の6月10日金曜日は、長野市のホクト文化ホール(長野県・県民文化会館)で、高校生のための音楽鑑賞会。午前中は屋代高校。午後は長野高校。それと、来週から文化庁主催のスクール・コンサートが始まる。こちらは7校あって、今回は神奈川県がほとんどだから、旅ではなく、早朝家を出て日帰りが多い。
 すでに5月中から、そのスクール・コンサートに先駆けてのワークショップは行われている。僕が司会しながらピアノを弾いて、4人の歌手達と共に、それぞれの学校を回っている。声域の違いによる役柄やキャラクターを教えるため、アリアを一曲ずつ歌ってもらったり、生徒達に発声の仕方のサジェスチョンを与える。
 今度、新町歌劇団のコンサートでも披露する「発声の心得」が大活躍している。この曲を先に聴かせてから、後で“姿勢”“呼吸”“響かせ方”という“発声の3つのポイント”をあらためて丁寧に説明すると、彼ら生徒の校歌の歌唱が見違えるようになるのだ。

コーヒーが冷めないうちに
 またひとつ素敵な本を読んだ。川口俊和著の「コーヒーが冷めないうちに」(サンマーク出版)だ。過去に戻れるという都市伝説を持つ喫茶店で、4人の女性がタイムスリップをする。4つの物語のオムニバスのようになっているけれど、内的にはつながっていて、その構成力は見事だ。
 言えなかった言葉。聴く事の出来なかったメッセージ。人と人との間には、様々な後悔が残る。考えてみると、この世の中に人とのつきあいに本当に長けている人っているのかな?みんな、心のどこかに不器用な部分を持っているし、うまく伝えられなかったとか、分かってあげられなかったとか、もどかしい想いを抱えているのではないだろうか。

 ネタバレすると良くないので、これ以上語らないが、ひとつだけ言っておきたい事がある。直接物語とは関係ないけれど、次の話を聞いてね。
 
 6月3日金曜日。僕は相模原の中央小学校で午前中のワークショップをするため、家を早く出ないといけなかった。一方、妻は、忙しい僕の代わりに、群馬県藤岡市の介護付き施設に入っているお袋のお見舞いに行ってくれることになっていた。
 さらに彼女は、群馬を往復した後で、そのまま孫娘の杏樹を保育園に迎えに行って、寝るまでずっと面倒をみないといけない。杏樹の母親である志保が、二期会の仕事に出掛けて行くからだ。

 朝はみんなバタバタしている。特に2歳半の杏樹なんて、大人が勝手に決めた時間割に沿って動いてくれるはずもない。それでも杏樹は、僕の言うことは案外きいてくれるので、僕は自分の準備と、わからんちんの杏樹の世話にアップアップになりながら、ろくに妻と会話を交わすことも出来ずに、そそくさと家を出た。
 ふうっ、と一息ついたのは、南部線立川行きの電車に乗った時。その時「コーヒーが冷めないうちに」の内容をふと思い出した。そして同時に僕は妻にメールを書こうと思った。ガラ携を取り出し、短い文章を書いた。

そういえば、自分が出掛けるのでバタバタしていて、きちんとお礼を言ってなかったけど、お袋の所に行ってくれてありがとうね。
良い妻で良い嫁だと思います。
気をつけて行ってきてね。
千春に何かあったら、我が家は大変だからね。
 「コーヒーが冷めないうちに」を読まなかったら、恐らくメールは打たなかったと思う。照れくさいし、感謝していることは、なんとなく伝わっているんじゃないか、と勝手に思っていただろう。実際、書いたって書かなくたって、妻の行動は何も変わらなかっただろう。
 でも僕は、この本を読んで何となく、書いておかないと、きっと後悔すると思った。別に、どこかの小説のように、言いそびれたまま妻が帰りの圏央道で事故を起こして死んでしまったら後悔するとか、そういう風に心配したわけではない。そうではなくて、人生の節目節目では、きちんと向かい合って言った方がいい言葉は、躊躇するべきではないと気付いたのだ。それを言わなくても、僕たちの日常は変わらない。少なくとも外見上は。しかし、本当に何も変わらないのだろうか?

 この僕の言葉を覚えておいて下さい。そして、この本を読む人は、読み終わった後、もう一度僕のこの文章を読んで下さい。何故僕がこのことを書いたのか分かるから。これは、そういう小説なんだ。

 妻は、僕のプライベート・メールを公表するのを好まないだろう。なにか僕が自慢しているようにも見えるし、人によっては、こうして「今日この頃」に書くために、そもそもあのメールの文章を書いたのでは、と勘ぐる人もいるかも知れない。
 でも断じてそうではないからね。このことを書こうと思ったのは、まさに今の今だから。ええと・・・現在は、6月5日日曜日午後7時ちょっと前。浜松バッハ研究会の練習の帰りの新幹線ひかり号の中。


コーヒーが冷めないうちに


目くじら社会
 東京新聞6月4日土曜日朝刊の第4面の記事が興味深かった。タイトルは「目くじら社会-なぜたたくのか」というもので、直接的にはインターネット上での「炎上」を扱っているが、その背景にある日本人の不寛容さと、それを煽るマスコミのあり方にまで言及している。

 アグネス・チャンは、児童ポルノの規制に向けての運動をしている。香港出身の彼女のことを「中国人だから嫌い」とか「児童ポルノをなくそうとしているから死ね」と直接言ってくるのはまだいいと彼女は言う。
「アグネスは中国のスパイ」
とか、
「ユニセフ(国際児童基金)の活動で子どもたちから搾取している」
などという根も葉もないことを書かれたり、家族の事でデマを流されたりしているという。

 ジャーナリストの田原総一朗さんは、
「炎上ですか。僕にはたくさんあります」
と涼しい顔で答えている。田中角栄のロッキード事件無罪論を掲げ、リクルート事件を冤罪であると主張し、鈴木宗男(受託収賄罪)や堀江貴文(証券取引法違反罪)の罪に異を唱えたことで、
「殺すぞ」
と脅されたりしてもひるまなかったという。
 読んでいると、田原さんはたくましいなあと思う。ジャーナリストとしてのバランス感覚があり、命を張って主張する覚悟が出来ている。
「今、マスメディアが弱体化してコンプライアンスと言っていますが、違うんですね。クレームが怖いんです。(略)だから、無難になって、テレビが面白くないわけですよ」

 精神科医の岩波明さんの分析は見事だ。
「ここ数年、日本社会では不寛容な人、他人を好んで非難する人が顕著に増えたと思います。その心理は、やはり現実世界での不満足感や嫉妬の裏返しというケースが多いと考えられます。ネットでバッシングする側は、その時、絶対的な権力者になれる。人を裁く快感の味を知ってしまうと、正義感を装いつつも、バッシングすること自体が目的化してしまう。内容は何でも構わないわけです」
 そしてベッキーの例やみのもんたの例を挙げて、非難が人格否定にまで及ぶマスコミの極端な報道姿勢に疑問を投げかける。その背景には、みんなが同じように考え行動するのが当然とする、日本人特有の“同質性の高さ”があると指摘する。そして、そこから外れた人物が、たとえ優秀であっても問題視される日本社会独特の風潮があるという。
その結果、
「無害で面白みのない人物しか表に出られなくなりつつある」
と危惧する。

 そうした行き過ぎた「たたき」を、どうしたら減らすことが出来るかということについて、アグネス・チャンは、
「まずは多様な意見を増やすことだと思います」
と主張する。
「批判が『やり過ぎ』だと思ったら、そう書き込んでほしい。そういう人が増えれば状況は変わるはずです。でも、多くの人は黙っているんですよね」

 この最後の言葉は実に重要だ。何故なら、僕は、子ども社会にこれだけ「いじめ」がはびこっている背景には、異なった意見を持っている人が「黙っている」という事実が確実にあるからだ。
 クラス全員が、ある生徒をいじめたいと思っているわけはない。中には必ず、
「やめればいいのにな」
と心の中で思っている人がいるに違いない。でも、日本人はそれを行動に移さないのだ。何故なら、それに異を唱えることによって、かえって回りから浮いてしまい、次のターゲットになってしまう恐怖感があるから。その恐怖感で結び合っている卑怯な社会。
 大人の社会でもそうだけど、日本人には、みんなで力を合わせれば流れを変えられるというイメージを描くことが不得意だし、そうした成功体験も持っていない。それどころか、さらに自分を守ろうと、自らいじめっ子の側に回ってしまう。いじめに異を唱える勇気よりも、不本意ながらいじめる勇気の方が強いなんて、人間としてかなりゆがんでいるとは思わないか?
 アグネス・チャンの言うように、マスコミのタレントへのバッシングが行き過ぎたと思ったら、「行き過ぎじゃない?」と発言する勇気ある人がもっと出てきたら、日本社会は必ず変わる。
 非難の大合唱の中で、ひとりのNOの響きはかき消されてしまうかも知れない。それでも誰かが勇気を出して声を発したら、近くにいる「同じ思いを抱いている人」には聞こえる。その人たちが声を発し始め、しだいに集まってくれば、聞こえなかった声も聞こえるようになる。そして流れが変わる・・・いや、変わらなくてもいい。多様な意見が混在している状態を創り出す事が出来れば、それで充分だ。少なくとも、批判のみの全会一致よりも何倍もマシである。

 アグネス・チャンは、こうも言う。
「感じるのは、日本人が子どもをしつけるときに言う『人に迷惑をかけるな』という言葉の影響です。(略)でも、私たちは互いに迷惑を掛け合って生きているんじゃないですか。子どもがうるさい。それは迷惑なことですか?年を取れば世話が要ります。それも迷惑ですか?決して迷惑じゃない。みんな大切な命なんですよ。だから、こう言い換えるべきです。『生きているということは、空気を吸うだけでも迷惑なんだ。だからこそ、どう社会に恩返しするか考えよう』と。互いに寛容の心を持ち、支え合いましょう」

 今は舛添要一東京都知事に非難が集中している。桝添さんは、なかなかみんなが望んでいるように涙を流して、
「申し訳ございませんでした。責任を取って辞めます!」
と言ってくれない。するとテレビを見ている視聴者は、それだけで、
「生意気だ!けしからん!」
と憤るし、マスコミは桝添さんを辞めさせようと、いろんな情報を持ち出してきて、ますますやっきになる。事実、彼が辞めるまでバッシングは続くだろう。今では、こんな風に、いつも誰かがターゲットになっている。そして同時に水面下で次のターゲットを探している。

 甘利明(あまり あきら)前経済再生担当大臣が不起訴になったと新聞に出ていた。しかし、今や国民の何割かは、
「甘利さんって、誰だっけ?何をして批判されたんだっけ?」
というくらいの認識ではないか?
 まさにこの不起訴にこそ、マスコミの追求が他のターゲットに移っていき、ほとぼりが冷めて、みんなの記憶から消えてきたのを見計らっての、権力による捜査つぶしの匂いがプンプンするのに・・・・。
 まあ、要するにその程度なのだよ、みんなの怒りって。マスコミに踊らされているだけなんだ。今、甘利さんに怒らなくったって、桝添さんとか、怒りの矛先が他にあるわけだから、誰でもいいんだ。言っておくけど、甘利さんの行った賄賂疑惑の影響力や規模は、桝添さんの比ではないのだよ。桝添さんの罪なんて、小さい小さい。



 


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