愛知祝祭管弦楽団でないと出来ないチャレンジ

三澤洋史

夢は叶う~長野スクール・コンサート
 6月10日金曜日早朝6時。善光寺に向かってお散歩に出る。そう、僕は今長野市にいる。今日は、午前中に屋代高校、午後は長野高校のコンサートがあって、新国立劇場合唱団のメンバー40人が昨日から来ているのだ。6時過ぎに善光寺なんて早いと思うでしょ。
 ところが、境内で合唱団のバリトンメンバーSさんに会って驚いた。お朝事といわれる勤行が5時40分からあって、お坊さんや女性の上人さんに頭を撫でてもらったりしたそうだ。Sさんは、ネットで調べて早起きして行ったのだけれど、6時じゃもう遅いんだって。教会の8時のミサだって早いと思うのに、いやはや仏教には負けますな。
 以前、京都に行った時にも書いたが、僕は仏教では阿弥陀如来が好き。だから、ここも阿弥陀如来が祀ってあると聞いて嬉しくなった。ただね、みんな“ご本尊”だ“ご開帳”だといって有り難がっているけれど、僕にはあまり興味がない。阿弥陀如来というのは、大宇宙にあまねく存在する大神霊であり、そんなちっこい像などには収まらないのだ。


朝の善光寺


 本堂に入ると沢山の僧侶が集まり、海の打ち寄せる波のような読経が響き渡っている。それが巨大な木魚と鐘の音と合わさって、えもいわれぬ音響空間を作り出している。凄いな!ハーモニーがあるわけでもない。それどころか、様々な高さでひとりひとりが唱えているものだから、ある意味トーンクラスター(音の房)だ。これが、西洋音楽のような意味で“音楽”といえるのかどうか分からないけれど、音楽的な空間であることは確かだ。
 その中に身を委ねていると、時間の経つのを忘れ、そして我も忘れる。こんな時には「我を忘れて」いいんだと思った。何も考えずに、見えるもの、聞こえてくるものをあるがままに享受する。何もコメントを入れようと思わず、何も解釈しようと思わず、ただそこにいる。そして5感を全開にして味わう。
 すると・・・むしろ、自分という存在が・・・しだいに研ぎ澄まされていって、ただの“存在”というエッセンスだけとなる。それは同時に、“大宇宙の大いなる存在”とつながっている。いや、本当はつながっているのではなく、一体とならなければいけないのだろうな。もっともっと悟ってくれば、その一体感がさらにリアルになるのだろう。
 お散歩に来たつもりなのに、あまり歩きもせず、瞑想にふけり過ぎた。まあ、別にいいんだけど。やはり、これだけ有名で大きなお寺には、それなりの霊格というか、これまでの数え切れない参拝者達の念の集合と、聖職者達の想いが凝縮されているのだろう。なんとなく全身に、特別な霊気が取り巻くのを感じる。ということで、充実した気持ちで再び歩いてホテルまで帰る。


善光寺本堂

 今日の演奏会は、長野市の県民文化会館であるホクト文化ホールで行われた。午前中は屋代高校。午後は長野高校。曲目は、カルミナブラーナの「おお、運命の女神よ」から始まって、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」とアカデミックにいったかと思うと、長野県の歌「信濃の国」を会場の生徒と一緒に歌ったり、校歌を僕の編曲で派手にしてサプライズで演奏したり、「涙そうそう」や「大地讃頌」そして第九の4楽章の抜粋と、実にバラエティに富んでいる。後半はオペラの名曲の数々。合唱だけではなく、ソリストも合唱から出して、「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」や「カルメン」の「ハバネラ」、「闘牛士の歌」なども演奏する。
 屋代高校、長野高校ともに長野県でトップクラスの進学校だそうで、生徒達のマナーの良いこと!しかも、静かなだけではなく、きちんと内容を理解し味わっているのが感じられて、とてもやり甲斐があった。アンコールでは、かつてアテネオリンピックのテーマソングにもなった、アスリートの悲哀を歌った「栄光の架け橋」を演奏した。
 その前に僕は語る。
「自分の高校生の頃のことを思い出してみると、音楽の道を志すのが遅くて、コンプレックスのかたまりだったと思います。当時は無我夢中だったからそんな風にも考えなかったけれど、苦悩と不安と壁に突き当たってばかりの日々でした。何かに真剣に向かい合えば、必ず苦悩は生まれるし、壁は絶対立ちはだかります。でも、明日の日を夢見て努力を続けていけば必ず道は開ける、あきらめなければ必ず夢は叶う、そう信じることです。そして事実その通りになりました。一度しかない高校生時代、どうか悔いなく過ごして下さい!」
彼らひとりひとりが、この言葉を「砂漠が水を吸い込んでいくように」むさぼるように聞いていたのが分かった。
「今どきの高校生は」とよく人は言うが、きちんとこちらが向かい合っていけば、彼らはみんな心の中に「ほんとうのもの」を求めているのだ。その心の扉を開いてあげるのは、僕たち芸術に携わる者達のもうひとつの使命である。

 午後の長野高校の演奏会には、白馬から親友のスキーヤー角皆優人(つのかい まさひと)君とその奥さんの美穂さん、そして今は上田に住んでいる角皆君のご両親が来てくれた。高校時代、角皆君の家にしょっちゅう泊まりに行ってたから、角皆君のお母さんは、
「あの三澤ちゃん(お母さんはこう呼ぶ)が、高校生相手にああいう事を言うのを聞いただけで、あたしはもう涙が出るよ。こんなに立派になって・・・」
と言ってくれた。まあ、あの当時の僕は、群馬県一の進学校に入学したのに音楽に方向転換して成績は下がる一方だったし、この先、海のものとも山のものとも見当の付かない状態だったものね。お母さんの言葉を聞いてあらためて、
「おお、そういえば僕って本当に音楽家になれたんだね。まじ?あの当時からすれば夢のような話だね」
と思って、ドキドキしちゃった。

愛知祝祭管弦楽団でないと出来ないチャレンジ
 角皆君達と別れてから、僕はひとりで特急しなの号に乗って名古屋に向かった。俗に「振り子電車」と呼ばれるしなの号は、特に松本から先は左右に面白いように揺れる。しなの号のせいではなくて、ルートのせい。山間部をうねるように走るからこうなるのだ。
 トイレに行こうとして立つと、まっすぐに歩くことが出来ない。僕はスキーのボーゲンの要領で、振り子に合わせて腰のくびれ(アンギュレーション)を作り、リズムをとりながら列車の通路を横切っていく。楽しいんだけど、他の乗客から見ると相当「変なおじさん」だったであろう。
 6月11日土曜日は、愛知祝祭管弦楽団で「ラインの黄金」の練習。長野の演奏会で、午前午後とスピーチをして声を使いすぎたのが祟ってか、あるいは今朝方、エアコンが効きすぎて喉にきてしまったか、声帯が思うように鳴らないので、大きな声で歌ってあげられないのが残念だった。それでも、オケにとっては、「8分音符だけ弾いてあと待っているだけ」といったレシタティーヴォ的な部分を歌で補ってあげると、みんな意味が分かって、俄然モチベーションが上がってくる。
 アマチュアのオーケストラでオペラをやる場合、テクニックの問題ではなく、こうした途中の「オケだけでは盛り上がらない部分」にどう必然性を持たせるかが、大事なポイントとなる。そんな時、自分で歌えない指揮者は失格だ。今日は第1場、2場、4場という予定であったが、第2場をきっちり固めた方がいいと判断して、第2場に集中した。
 
 前回までは全般的に下手だったが(笑)、今日は、意味が分かってきたところは、驚くほど上手になったぜ!まだ、それはまだらで、そうでない部分とのギャップは残るが、「可もなく不可もなく」という演奏をまんべんなく高めていく方法と違って、まず僕は、自分の心に響く部分を楽員達に訴える。そして、そこだけでも何が何でも魅力的にする。こうした部分を固め、それをだんだん広がらせていくのが祝祭管弦楽団の練習方法。
 「パルジファル」で証明したように、出来上がったものは、随所にこぼれるような魅力が満載し、それぞれの個所に団員達の熱い想いがこもる。これぞ愛知祝祭管弦楽団ならではの醍醐味!
 ドイツのオーケストラの楽員達でも、恐らく最初はよく分からないで弾いているのだと思う。しかし、彼等は舞台上で歌われている歌詞の意味が理解出来るからね。劇場で繰り返し弾いている内に、自然に内容が分かってきて、その内容に沿った音を出せるようになる。こんな状態にならなければ、きめの細かいオペラ・オーケストラの演奏は不可能。我が国のように、本番の数日前で初めてオケ練習をやり、本番は数回で終了というのでは、よほど自分で予習をしない限り、単語レベルで表情を作るなんて無理。指揮者だって楽員だって、合わせるだけで終わってしまう。
 我が国のオケは、合わせる事にかけては世界一だと思う。だから短期間で格好がつく。それに、東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)が「蝶々夫人」をやる時のように、何度も何度も上演している曲目に関しては、結構細かいところまで表情が行き届いている。
 だが、そうでない演目に関しては、バイロイト祝祭管弦楽団のような、歌詞の意味やドラマの意味に対して痒いところに手が届くようなきめ細かい表情を、楽員ひとりひとりに望むのは、普通に考えたって無理だろう。嘘だと思うなら、ワーグナーの楽劇のどこかの歌詞をドイツ語で言って、楽員のひとりに、
「これどういう意味ですか?これが歌われる時、どういう気持ちで弾いていますか?」
と聞いてみるがいい。ただ、それを分からないのは、楽員の罪ではないよ。仕方ないだろう。ドイツ人ではないのだから。
 だからこそ、僕は愛知祝祭管弦楽団を指揮して「パルジファル」をやったり「リング」をやったりするのだ。テクニックではプロに敵わないかもしれない。でも、僕が丁寧に場面の意味を説明し、ドラマの流れや、それにワーグナーがどんな気持ちでこのフレーズをつけたかを説明し、だからどんなテクニックでどんな感情を込めて弾いたらいいか導いていったなら、我が国でもバイロイト祝祭管弦楽団のような演奏は可能になるのだ。勿論、その為の時間や労力は必要だ。でも、ワーグナーのためだったら、そのくらいやったっていいだろう。アマチュアだからこそ1年だってかけられるのだからね。
 さあ、これから本番までが勝負だ。描写する音楽。表現する音楽。それを噛み砕いて説明し、表現にまで持って行く。どこまでいけるのか誰も知らない。だからこそ、指導者の腕が試されるのだ。誰もチャレンジしたことのない戦い。それを僕はあえて行う。

コレペティ稽古~神髄を探る
 さて、オケ練習のお昼休みに、会場のピアノを使ってフライヤ役の金原聡子さんのコレペティ稽古。練習後は、場所を変えて、フリッカ役の相可佐代子さんとミーメ役の神田豊壽さんのコレペティ稽古をした。コレペティ稽古とはピアノを弾きながら歌手達に稽古をつけること。僕は、ドイツ語とドイツ語的表現、それから、それぞれの場面の表情づけを行う。相可さんも神田さんも一生懸命食らいついてきた。
 こうした稽古を行うこと自体、僕は好きなんだな。それを通して、僕自身もワーグナーの音楽に肌で触れるような感覚を味わっているし、やりながら随所に新しい発見もある。言葉の表情からくるちょっとしたテンポの変化やダイナミックの変化に気付き、オーケストラの指揮に生かせるのだ。つまりワーグナーの神髄を探る旅が出来るのだ。僕は、本当にワーグナーが好きなんだ!

モーツァルト200
 6月12日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団の練習。曲は、聖証者の盛儀晩課Vesperae solennes de confessore KV339とミサヘ長調KV192(186f)。これらの演目や練習に関しては、もう少し経ってから語ろう。また11日に1日声を使いすぎて、声が枯れていたので、あまり歌ってあげられなかったのが残念。
 僕は、自分で歌って口移しのように稽古するのが好きなんだ。ぼくなんかよりずっとうまい新国立劇場合唱団を相手にしても、そのやり方を続けている。それは、バイロイトでノルベルト・バラッチュがやっていたのだ。「なあに、うまくなくったって構わないのだよ。歌うことでダイレクトに自分のイデーを伝えられれば、そっちの方が何倍も能率的だ。みんなも言葉で抽象的に言われるより、ストレスがたまらないからね」
とバラッチュは僕に言ってくれた。
だから、喉の調子が万全でないと辛いね。

週が明けて
 この原稿は6月13日月曜日の午前中に書いている。これから文化庁スクール・コンサートの前触れで、4人の歌手を連れて厚木中学校までワークショップに行ってくる。僕は、おはなしとピアノを担当するのだが、ちょっとダミ声なので、中学生達に申し訳ないなあ。
 その後は、ミュージカル「ナディーヌ」の練習。今晩はナディーヌ役の前川依子さんと、ニングルマーチ役の秋本健さんが来て、放送局の場面を練習する。とても楽しい練習になると思うよ。



 


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