それは愛による戦いである

三澤洋史

早朝の栄(さかえ)歓楽街の風景
 7月31日日曜日。名古屋の栄(さかえ)テレビ塔近くのホテル・トラスティに泊まっている僕は、早朝、名古屋城に向かって散歩に出た。その帰り、栄の繁華街の真ん中を突っ切りながらホテルに戻ろうとしていた。
 すると明らかにそれと分かる派手なミニスカートをはいた女の子が、客と見られるサラリーマン風の背広を着た男と寄り添いながら建物から出てきた。女の子は酔っ払っているみたいにフラフラしながら男の腕にまとわりついている。だが、男は冷静に女に別れを告げる。女は、
「ありがとうね。また来てね」
と男の背中に向かって叫ぶ。男は、何事もなかったかのように、振り返りもせず、まっすぐ歩きながら立ち去っていった。
 まるでドラマを見ているようなその風景に驚きながら散歩を続けると、やや年増の女性がすれ違いざまに、
「お兄さん、一緒に行かない?」
と声をかけてきた。発音からして日本人ではないようだ。浅黒い顔。フィリッピン?ブラジル?僕は無視して歩き続けるが、ああびっくりした!
 凄いな、栄って。だって早朝だよ。今ねえ、午前6時50分。あの女性は土曜の夜に客が取れなかったのかな?それとも、客を送り出した後、もうひと仕事しようと思ったのかな?もう若くないからなあ。あの女性、食えているのかな?この先食えていけるのかな?まあ、大きなお世話だな。
 それぞれの飲食店の前には、大量のゴミ袋が出してある。土曜の夜の大繁盛の残骸のような風景。人々の欲望を呑み込み、これをお金に変換して次の欲望を充足させる大都会の終わりなき循環。その循環を存続させるために欲望を煽る者達、煽られた欲望を鎮めようとしながら、さらに煽られていく客達。大都会という巨大な砂漠。

 うーん・・・朝からいろいろ考えてしまうから、もう朝の歓楽街を散歩するのはやめよう。

ああ39番!
 9月3日土曜日に名古屋モーツァルト200合唱団の演奏会がある。「ナディーヌ」公演の一週間後であり、「ラインの黄金」の一週間前である。なんて建て込んでいることか!今回の演奏会は、金城学院大学のアニー・ランドルフ記念講堂で行われるが、7月30日土曜日のオーケストラ合わせは、その本番会場で行われた。
 金城学院は、山の上に燦然とそびえ立つ有名なお嬢さん学校。中学校から大学まで通しで行く女子は“純金”と呼ばれる。大学はOG会がしっかりしていて、お見合いの相手まで探してきてくれるので、ここに入れば嫁入りの心配も要らないというまことしやかな噂が昔から流れている。
 キャンパスも敷地内の整備も立派。ただ、名古屋からちょっと遠いのが難点。それと心配になるのは、電車で来る人が名鉄瀬戸線の大森・金城学院前駅からランドルフ講堂に辿り着くまでの道が、半数の人は挫折してしまうのではないかと心配になるほどの急な上り坂であることだ。

 他の演目に関しては、また近づいて来たら述べるけれども、自分にとってとても大切なことがある。それは、大好きな39番交響曲が演奏出来ること。僕の最も重要な交響曲が41番ジュピター交響曲であることは以前述べたが、実は最も好きなのは、この39番変ホ長調なのだ。
 序奏の冒頭の和音が鳴り響いただけで、「魔笛」の序曲と同じ音がする。不思議だ!同じ変ホ長調でも、ベートーヴェンの英雄交響曲のように他の作曲家だったら、こうは鳴らないのだ。変ホ長調は高貴さと崇高さの調性であるが、モーツァルトの変ホ長調の曲には、それにいいようのない優しさが加わる。
 序奏の部分が過ぎると、3拍子になり、ソナタ形式の第1主題が出るが、このメロディーのfragileな感じ~すなわち、触れなば壊れそうな脆い雰囲気!こんな音楽は天才でなければ絶対書けないなあ!僕はモーツァルトの全てのソナタ形式の第1主題の中で、この主題ほど心惹かれるものはない。
 この交響曲の木管楽器の編成は変わっている。フルート1本、クラリネット2本、ファゴット2本。つまり常連であるオーボエがいないのだ。普通は、クラリネットがいなくてもオーボエだけはいるのに・・・。
 だからこの交響曲は、他にはない夢幻的な響きに満ちている。特に第3楽章のトリオの、2番クラリネットを伴奏に従えた第1クラリネットのメロディーののどかな美しさ!抜けるような青空の下、どこまでも続く色とりどりの美しいお花畑の道を、馬車でのんびり揺られていくような気分。それをヴァイオリンが、陰影に富んだ和声でそっと包み込む。再びクラリネットのお花畑。くーっ!たまりませんな。
 第4楽章は精力的だが、ときおり急に止まるゲネラル・パウゼが、曲の均衡を破る。その後の転調や、タイミングのズレは、その不均衡の上に新しい均衡を構築する。ベートーヴェンもこうしたことはするが、もっと荒々しくわざとらしく、モーツァルトのように自然ではない。あちらこちら、もの凄く仕掛けがしてあるにもかかわらず、天衣無縫に感じられてしまうのが巨匠の技。
 一方、そんなデリケートな音楽だから、この交響曲を演奏する側に立ってみると、とても難しい。イン・テンポだと全く音楽にならないのだ。そこで、いろいろオケと一緒に試行錯誤してテンポを変えることで音楽の自在感を獲得したいのだけれど、ちょっとでもやり過ぎるともう台無しなのだ。ああっ!だめだ!最初からやりなおし!って感じ。結局は、イン・テンポに聴衆には感じられなければならないのだ。そこがモーツァルトの一番難しいところ。

 でも、本番までに必ずやり遂げてみせる。ニュアンスと陰影に溢れた、とびっきり素敵な39番交響曲を皆様にお届けするからね!

i-Phoneという文化
 ガラ携は戻ってきたけれど、今さらもう戻れない。i-Phoneがあまり便利だから。ここ数年の間に世界はなんて進歩していたんだろう!スティーブ・ジョブズは偉大だ。勿論彼だけの力ではないが、僕が凄いと思うのは、速さや性能の過当競争の渦の中で、それに背を向けた勇気なのだ。
 高いデスクトップを買っても、普通の人々はメールとインターネットだけがあれば事足りていた。性能の向上なんて本当は誰も望んではいなかった。それよりも、どこにいてもインターネットが出来る環境の整備が急務だと、よくぞIT王国の中央に君臨していながら気がついたものだ。
 見たまえ!今や至るところWI-FIがつながるし、仮にWI-FIがつながらなくてもi-Phoneでは簡単にインターネットが出来る。行きたいレストランやお店は、たちどころに調べられるし、今自分が地図上でどこにいるか即座に分かるし、新しい曲の勉強したければ、YouTubeにつなげばすぐ動画が見れるので、指揮者にとってはここをいくつで振ったらいいか、なんていうのも分かる。家族用のLINEで写真や動画も共有できるし、ポケモンゴーも出来る(僕はゲームには興味はないけれど)。

 しかしそれでも、僕がこれまでよりも情報を必要とすることはないだろう。何故なら、情報は単なる情報に過ぎないから。情報と知識は違うんだ。情報をいくら集めても、クリエイティブなものを生み出すための役に立ちはしない。
 僕は、まわりの人達を見ていて思う。彼らは、スマートフォンを持ってもi-Padを持っても、ちっとも賢くも思慮深くもなっていない。情報を自分の周りにちりばめて安心しているだけだからだ。それだけでは駄目なんだ。それを自己の中に取り入れ、咀嚼して完全に自分のものとして、今度は、それを自分からオリジナリティを持って発信できないといけない。それに気がついている人にとっては、必要な情報というのは決して多くはない。むしろ不要な情報に惑わされないようにシャットアウトすることに労力を払うものだ。

 それよりも、ガラ携ではあった“ワンクッション”というものがi-Phoneにはないので、とっても困る。たとえば、メールを書いていて、ちょっと手先の操作を間違えると、まだ途中なのに相手に送ってしまう。電話番号に触れてしまうと、もう相手にかかってしまうので、何度か意味もないのにかけてしまい、あわてて切った。僕からワンギリされた方達には申し訳ない!操作方法よく知らなかったから、許してね。

人間が人間であるためには 
 相模原市の障害者施設における19名もの死者を出した殺人事件に、深く心を痛めている。特に、犯人が「障害者は死んだ方がいい」という考えを持っていたことが、僕には限りなくショックだ。ただ、ここまであからさまではないにしろ、実は「障害者は社会的に見たら不必要な存在だ」と、本音(ほんね)では思っている人というのは、他にもいるかも知れない。
 その事件とは全く無関係に見えることを挙げる。米国では、共和党のドナルド・トランプが人気を得ていて、大統領になってしまうような勢いだ。彼は、「イスラムの人達の入国を拒否する」とか、「日本も我が国が駐留する防衛費を出せ」とか言っているが、その事がアメリカ人にとっては、自分たちの本音を代弁しているといって共感を持たれているようだ。

 この世においては、そうした本音というものが確かに存在する。唯物的世界観しか持たない者にとっては、世界とは弱肉強食であり、限りのある物や地位やお金を互いに奪い合うものであり、働かざる者食うべからざるという実質的なものなのである。お腹がすいた時に、人の物であっても食べたいと思うのが本音。自分がかなわないと思っているライバルが失敗すればいいと思うのも本音。本音は常に、エゴイスティックな気持ちからふつふつと湧き出てくるものだ。
 従って、生産的な行為をすることが出来ず、この先ずっと人に面倒を見てもらう条件下でしか生存出来ない障害者は、社会から見て不要な存在であるという結論が導き出されても不思議ではない。また、米国民を脅かすイスラム教徒と共生していくことなどナンセンスだと、断絶を宣言してしまったら、ある意味楽なのかも知れない。

 しかしそれでは、我々は獣と変わらない。我々人間には、元来もうひとつの価値観が与えられている。戦後、我が国の国民は、国家神道への反省から、宗教から離れて行く傾向があったが、それでもまだ、親から子に伝えられてきた信心や道徳などが残っていた。「正直に生きるんだよ」とか「人に親切にするんだよ」ということを繰り返し親から教わったし、「情けは人のためならず」とか「因果応報」とかいう「ことわざ」も生活の中に根を下ろしていた。しかし、その子どもの世代になり、さらにその子どもの世代になっていく内に、しだいに、そうした価値観が形骸化してきた。

 米国は、“世界の警察”であることをモットーに、世界紛争に積極的に介入し、人々を圧政や不条理な抑圧から解放しようという理想を掲げてきた。しかし、現実には、ベトナム戦争には挫折し、中東において、湾岸戦争からイラク戦争を経て得たものは、イスラム民族からの憎悪でしかなかった。
 その原因として、イラクやクェート及びアラブ諸国の人達には、米国の掲げる理想の陰に、エゴイスティックな本音が見えてしまったのだと思う。また、民主主義のみが素晴らしいというひとりよがりな価値観が先行し、小さなところで彼らの大切にしてきたものを踏みにじってしまっていたのだとも思う。仕事を中断して1日に5回もアラーに祈りを捧げるイスラム教を軽視し、キリスト教の方が合理的だという奢りも、彼らには我慢ならなかったものかも知れない。しかし、それでも、まだ米国には大義があり、理想があった。
 それが、本音だけで行動する国になってしまったならば、米国は本当に獣の国と堕してしまう。むさぼりと差別と閉鎖性とエゴの国となる。何故9.11が起きたのか?何故ISというものが生まれたのか?ということに、「米国のイスラム社会への介入」が無関係ではなかったはずなのに、そこを顧みることを拒否し、相手を一方的に責め立てる立場に米国が立った場合、世界は平和からますます遠のいていく。米国はますます憎まれる国となっていくことで、その混迷の牽引役を積極的に引き受けてしまうことになる。

 文化庁のスクールコンサートで特別支援学校に行くと、いつも心が洗われ元気をもらう。様々な種類の障害を持っている彼らではあるが、一様に心が澄み切っていて、反応がストレートだ。演奏している最中、叫んだり暴れたりする子供達もいるが、それは彼らが僕たちの演奏を全身で受け止めている証拠だ。
 彼らを見ていると、いつも僕はこう思う。彼らはこの世で立派に役に立っている。それは、彼らは、「周りの人が面倒見てくれないと生きられない」という状態で存在しているだけで、彼らに関わる人の徳を高めるという“究極の菩薩業(ぼさつぎょう)”を行っているからである。
 こう考えることが、エゴイスティックな現実主義と対抗する“天からくる価値観”である。というか、ここまで突き詰めて考えないと、「障害者は社会に不要」という考えに対抗することは出来ない。「いのちは皆等しく尊いのである」という考えもいい線いっているかも知れないが、先ほどの殺人者の強いネガティブな考えを振り切る力はない。

 たとえば、誰しも親になってみれば分かるように、子どもなんて実に迷惑な存在である。母親にとっては、あんな痛い思いをして生まれてきた赤ちゃんは、四六時中面倒見続けないとすぐ死んでしまう。もっと育ってきたら育ってきたで、今度は言いたいことを言って親を困らせる。大人になったら、親なんかよりも彼氏や彼女に心を奪われ、勝手に独り立ちして出て行ってしまう。
 一体、この子のためにどれだけの犠牲を払ってきたことか、と、どの親も考える。親なんてお人好しもいいところだねえ。しかし、だからこそ、人は親になることによって天に宝を積んでいるのだ。そのことによって、人を許し、人を受け入れることを学び、無償で与えっきりの愛を学習し、魂の器を広げることが出来るのである。
「星の王子様」でサンテグジュペリは言う。
C'est le temps que tu a perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.
「君が薔薇と関わることで失われてしまった時間の分だけ、君にとってその薔薇はかけがえのないものとなる」(三澤意訳)
と。
 これが天の法である。障害者達は、僕たちが与えっきりの愛の素晴らしさに目覚めるために、天から使わされた存在。僕たちが彼らにどう接することが出来るのか、それを僕たちは問われている。

「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさった、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで王は答える。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたし(キリスト)にしてくれたことなのである」
マタイによる福音書第25章37-40
 障害者達は、僕たちみんなで責任を持って守ってあげなければならない。こうした弱者を守るためには、体を張り命を賭ける覚悟がないといけない。そのためには、単なるロマンチシズムや雰囲気ではなく、しっかりとした価値観を持っているべきだし、その価値観をそれぞれの行動に反映出来るまでに咀嚼出来ていないといけない。

それは戦いである。
愛による戦いである。
人間が人間であるための最後の砦を守る戦いである。

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