中央大学混声合唱団演奏会無事終了

三澤洋史

中央大学混声合唱団演奏会無事終了
 八王子に自転車で通うのが楽しかった。僕の家は中央高速道路国立インターの近くなので、日野バイパスをずっと行けば40分足らずで八王子駅周辺に着く。サイクリングとしては、ちょっと物足りないくらいの道のり。
 モノレールの万願寺駅を過ぎてちょっと行くと、きつい上り坂がある。ここを火野正平さんのようにハアハア言いながら登らなければならないが、逆に帰り道は、まさに「人生下り坂最高!」という気分で、車道を時速40キロ以上でぶっ飛ばす。軽いロードバイクの車体がグラグラする。
 中央大学音楽研究会混声合唱団の練習からの帰り道はいつも夜になっているので、この坂の上から高幡不動あたりの街の明かりが見えるが、この夜景が素晴らしい。特に9月中旬は、満月に向かっていた月が下界を照らしていて、うっすらと見える黒い多摩の丘の稜線が、うるんだ街の明かりと相まってなんとも幻想的であった。このサイクリングをもう出来ないかと思うと、ちょっと淋しい。
 ずっと天気がすぐれなかったので、練習終了後、八王子駅前の学園都市センターの建物を出る時、ドキドキしながら、
「降ってないだろうな・・・」
と、通りを行く人達が傘をさしていないか確かめたのもなつかしい。最初から雨が降っていたので電車で行ったことはあっても、自転車で来て、帰りに降られたことは結局一度もなかった。
 いつも、練習開始時間よりかなり早い時間に着いて、駅の反対側のビックカメラの横のDelifranceというパン屋の喫茶エリアで、サイフォンコーヒーを飲みながらスコアを見るのが習慣になっていた。この店はおすすめですよ。特にカット・ピッツァとカレーパンがおいしい。最近はVie de Franceなどのようにサイフォンコーヒーを出すところが多い。コーヒーがあまりに美味なので、サイフォンを買おうかなといつも思うんだけど、飲んだ後の掃除が面倒くさそうなので、二の足を踏んでいる。

 というわけで、中央大学混声合唱団の演奏会が終わってしまったので、もう八王子に通わなくてよくなったのが淋しいのだ。それほど、僕にとっては練習に通って彼ら若者達と音楽を通して交流するのが楽しかったのだ。とはいえ、別に休み時間に彼らとたっぷり話したわけでもなければ、練習を離れてどこかに飲みに行って大いに盛り上がったというわけでもない。要するに、一緒に音楽に向かい合っているのが楽しかったのだ。
 彼らは、いろんな意味で「そのまんま」だった。バッハのモテットなんかやっていると、音程が下がりそうなところは、まんまと下がるし、アンサンブルが乱れがちなところでは、第1コーラスと第2コーラスが面白いようにズレる。おいおい、いいかげんにしろよ、と僕に注意されると、「いっけねえ!」という顔をする。ヘッド・コーチをしていた大森いちえいさんなんか、
「せっかくマエストロを呼んでいるのに、なんてザマだ!」
とヒヤヒヤしていたに違いないが、いやいや僕にとっては、その迂闊さが可愛かった。
 その代わり、僕に注意されると、もの凄い集中力でもって立ち向かってくる。そのひたむきさがまた可愛かった。モテットでは、少人数ずつ半円を描いて立たせて、アカペラの練習をやった。指揮もしないで自分たちで合わせさせ、ズレてきた時の対処の仕方などを教え、自分たちで危機管理をすることがアンサンブルなんだよと教えた。
 モーツァルトのハ短調ミサ曲では、ミサの歌詞をもてあましている感じだったので、みんなを座らせて、ミサというものについてのちょっとした講義を行ったりもした。まあ、僕だって司祭のようにミサのことを何から何まで分かっているわけではない。みんなに教えたことのかなりの部分は、嘉松宏樹神父からの受け売り・・・つまり最近になって教わったことだ・・・まあ、仮に1日だって先に知っていれば「先人達の知恵」となるのだ。あはははは!

 「こんな若い子達に何が分かる」とたかをくくってはいけないよ。今、僕が持っている知識や見識あるいは認識力の内、二十歳の時にすでに持っていたものというのは決して少なくないからね。それよりも、目を見張るのはその吸収力だ。これだけは、僕たちのようなベテラン(といえば聞こえがよいが要するに年寄り)には逆立ちしてもかなわない。まるで砂漠が水を吸い込むように、僕のひとことひとことを決して聞き漏らすまいと集中して聞いている。そして、その後、彼らの歌は確実に変わる。ああ、若いって素晴らしいと思う。

 そんな若い彼らと共演するアレクテ室内管弦楽団は、プロ集団だが、学生達ととても良い関係を持っている。プレイヤー達は、学生達に親しげに話しかけ、冗談を言い、時にはオケの立場から適切な忠告を与えている。彼ら学生達もリスペクトと信頼感を持ってプレイヤー達に接している。
 モテット第1番Singet dem Herrn ein neues Lied(主に向かって新しき歌を歌え)の練習をしてみて驚いた。オルガニストの渡部聡さんとチェロの岡崎健太郎さん、そしてコントラバスの諸岡典経さんの3人は、学生達と合わせるのは初めてだというのに、適切なフレージングで僕のテンポやアゴーギクにぴったりついてくる。しかも、揺るぎないバロックの様式感に支えられている。
 その他、ハイドンのテ・デウムも、そしてモーツァルトのハ短調ミサ曲も、立派な演奏を繰り広げてくれた。中央大学の学生達は、こんな素晴らしいオケと毎回共演できるのかよ。全く贅沢な環境だ。君たち、ありがた味を知れ!
 ソリスト4人の内3人は、我が新国立劇場合唱団の契約メンバー。それに、中央大学混声合唱団出身で、その後芸大声楽科に進まれて、今は宗教音楽を専門に歌っているテノールの大島博さんが加わって、それぞれのソロの声もさることながら、なかなか他では聴かれない緻密なアンサンブルを聴かせてくれたのが嬉しい限りだ。鈴木涼子さんなんか、今まで彼女のコロラトゥーラを聴いたことなかったので、出来るんかいなと心配してごめんね。どうしてどうして、素晴らしくコロがったじゃないか。

 ゲネプロが終わって本番までの間に、主催者側からあることを依頼された。2重コーラスのモテットでは、オルガンを正面に置き、その両側にチェロとコントラバスを配置するが、その後、テ・デウム用にオルガンを上手側に移動し、細かい配置換えをしないといけない。それに時間がかかるので、その場つなぎにスピーチをしてくれないかということだ。普通の人だったら、そんな土壇場での依頼は断るところかも知れないが、なにせ口から先に生まれてきた僕は、二つ返事で引き受けた。実は、出来ればどうしても聴衆に伝えたいことがあったのだ。
 それは、メイン・プログラムのモーツァルトの作品の前に、モーツァルトが影響を受けた2人の作品を並べることで、感じてもらいたかったことなのだ・・・・つまり、バッハでもハイドンでもなし得なかった、モーツァルトの色彩感についての話なのだ。
 実際、その後の演奏で証明した通り、Et incarnatus estで、岩本麻里さんのソプラノのハイトーンにフルートやオーボエが絡む瞬間の、あの夢見るような美しさをなんと形容しよう。こうした色彩感だけは、モーツァルトの独壇場である。
 それだけではない。Kyrieの冒頭のオーケストラからすでに、ああ、モーツァルトだ!と誰でも分かる、あの独特の愛から愛へと渡っていく“音”がある。その音は(演奏会のスピーチではあえて言わなかったけれど)、ある種の脆弱さと表裏一体となっている。ひとつの木から木彫りの人形を作るように、モーツァルトは自分の表現したい音を獲得するために、削っていく。バッハやハイドンが、ひたすら積み上げていくのとは反対に・・・・。だから、モーツァルトの音楽はスキスキで、人によっては物足りない感じがするだろう。そこにモーツァルトの秘密が隠されている。
 あの強固なCum Sancto Spirituのフーガでさえ、バッハやハイドンだったなら、もっと音を詰めただろう。それを埋めないことで、モーツァルトの宗教曲は、どこか親しみやすくプライベートな感じがする。このプログラミング構成をすることで、別にバッハやハイドンを悪者にしたわけでもないけれど、Et incarnatus estを頂点とした彼の音楽の独創性あるいは特異性が強調された。その意図をもっと明確に示唆できたので、僕はこのスピーチの依頼は、至高なる存在からの贈り物だと思っている。


中央大学演奏会


 ともあれ、本当に楽しいひとときであった。最近は、どの演奏会でも、
「三澤さん、なんだかとっても楽しそうに振ってましたね」
と言われることが少なくないが、最近はねえ、本当に本番中指揮していて楽しくて仕方ないのだ。本当は、そのまま指揮台を降りて、踊り出してしまいたいくらいなのだ。なんて素晴らしい職業なんだろう。こんな良い思いばかりさせてもらっていいんだろうか、と思うんだけれど、僕が楽しく振って、そのことで周りがみんなポジティブになるんだったら、別にいいよね。

ネット文化と流通制度の崩壊
 タッチパネルを発明した人は本当に天才だな。まだ3歳になっていない孫の杏樹さえ、スラスラと使いこなしている。写真や動画のアプリを開け、選択して動画の矢印を押す。操作が人間の本能に沿って行えるため、考える必要がないのだ。指を横に滑らすと、次の写真が現れるし、二つの指を広げると文字でも写真でも拡大できる。
 スマートフォンの普及に合わせるように、社会におけるWiFiの整備には目を見張るものがある。しかもスマートフォンでは、仮にWiFiが飛んでいないところでも、パケット通信で自由にインターネットが出来る。パソコンが、より高速にとスペックの過当競争を行っている間に、こんな小さい画面で、こんなロースペックで、みんなの心をこれだけ掴んだ発想力には頭が下がる。戦艦大和のような巨艦が、あんな小さい航空機にあっけなく撃沈させられるのを見ているようだ。
 i-Phoneもだいぶ使いこなせてきたけれど、特にi-Padが便利で、いろいろ使っている。それにしても、あのサイズとあのノートのような薄さは画期的だ!スマホ同様パソコンよりもずっとロースペックなのに不便な感じはしない。これでは、みんなが飛びつくわけだ。

 僕が一番使うのは、PiaScoreという、楽譜の保存及び閲覧のアプリ。Petrucciというネット上の楽譜サイトから、様々な楽譜をダウンロードして保存している。また、映像や音源に関してはYoutubeだ。急にどうしてもある曲を勉強しなければならない場合や、複数の演奏を聞き比べしたい時には実に便利。CDを買いに、あわてて走らなくてもいいんだものね。しかも行った先のお店で「品切れです」と言われる不安もないものね。

 しかし・・・・これで本当にいいのか、とも思う。これらみんなタダじゃないか。楽譜だって演奏だって、いくらでもタダで手に入る。消費者サイドは楽で便利だけれど、これでは誰も儲からないじゃないか。こんなことしていたら世の中変になってしまうと思うのは僕だけではないだろう。

 昔、貧乏学生だった僕達は、なけなしの金をはたいて、レコードや楽譜、音楽書や理論書、それに様々な種類の書籍を買い求めた。この業界で仕事を始めた頃、やったことのない曲の依頼が来ると、あわててヤマハなどに行ってスコアやCDを買うと、もう、もらうであろうギャラの何分の一かが、すでに飛んでいってしまった。でも、これらの苦労が今の自分の肥やしになっているのは間違いない。
 僕たちが心配するまでもなく、書店やCD販売店の閉店や撤退が相次いでいる。確かに、書店がなくても、amazonのプライム会員になっている僕は、何か注文すると早い時にはその日のうちに家につく。送料もただ。
 でもさあ、書店をブラブラしながら、表紙の素敵なデザインが目にとまり、
「ふうん、こんな本が出ているんか・・・」
とパラパラとめくってみたら、なかなか面白いじゃないか、というのでレジーに持って行って・・・という楽しみがなくなったら、人生なんとつまらないことか。CDもそうだよね。まあ、自分でネットも使いこなしておきながら、両方いいとこ取りしているじゃないかと言われそうだが、とにかく書店やCD販売店がこの世から消えたら困る。

 先ほども触れたPetrucciというサイトはとても便利で、沢山の作曲家のスコアからピアノ譜まで何でも手に入る。i-PadではワンクリックでPDFファイルに変換してPiaScoreに保存できる。i-Bookにも保存できるが、ページを送るのに時間がかかるので、PiaScoreの方がいい。ちなみに僕は有料版を使っている。そっちの方が楽譜めくった時の表示がスムース。

 長女の志保が行ったあるコンサートでは、伴奏ピアニストの横に譜めくりがいたのだが、その人は譜をめくらなかったのだそうだ。ピアニストの前の譜面立てにはi-Padが置いてあり、一方譜めくりの人はi-Phoneを手にしている。2つの機器はBluetoothで繋がっていて、譜めくりの人がi-Phoneのディスプレイを人差し指で横になぞると、同期しているi-Padの譜面は次のページに行く。こうして実にスムースに演奏会が進行していったという。
 うーん・・・・勿論、決していけないことをしているわけではない・・・だが・・・・どうなんだろう・・・そこで使っている楽譜は、きっと購入したものではないのだろうなあ。まあ、Petrucciでも、有料の資料はあるけれど・・・って、ゆーか、そういう問題でもないけれど・・・なんで僕はそれに抵抗感を感じるのかな?
 一方で、指揮者の立場としては、演奏会の最中にスコアをめくらないで済む方法ってないかなと思っている。左手でスコアをめくる時に、やや集中力が途切れるのだ。だからといって、即、次の演奏会でi-Padを使う気にはならないなあ。

 そういえば、関口教会のミサの最中、ニケア・コンスタンチノーブル信条(信仰宣言)を唱える時に、みんなは聖堂内に置いてある典礼聖歌集の裏表紙に貼り付けてあるコピーを見ている。僕は、その日で使う聖歌だけをコピーしてスクラップブックにはさみこんでいるので、典礼聖歌集を使わない。いつもミサ曲を演奏しているので、ラテン語ならば唱えられるのだが、日本語はどうも自信ない。
 先日、神父の説教の最中に、iBookの中に中央協議会のホームページからPDFにしてダウンロードしたニケア・コンスタンチノーブル信条と使徒信条が入っていることを思い出した。急いでカバンから出して・・・と思ってカバンを触ったけれど・・・・おっとっとっと・・・・ちょっとそういう雰囲気ではないなあ。やっぱり聖マリア大聖堂でi-Padを開くのは不謹慎な感じがする。

 もうひとつ驚いたことがある。やっぱりタブレットだけでは物足りず、キーボードが欲しくなった僕は、i-Padでも使える小型の無線キーボードを買ってきた。それをつないでi-Padで練習している内に、
「まてよ、これを一太郎とかで書けたら、そもそも旅行先にノート・パソコン持って行く必要がなくなるな。この『今日この頃』も、i-Padで書けるかも・・・」
と、思い立ち、一太郎をネット上で探したのだが、一太郎はこうしたタブレットで“閲覧できるもの”はあっても、書類を作成するようにはなっていない。残念!
 それより驚いたのは、WordやExcellが、Apple Storeになんと「無料で!」出ているのだ。あんな高価なソフトが!そこで半信半疑でダウンロードして、使ってみた。うーん・・・使える。しかし、通常あんなに足下を見て高価で売りつけるMicrosoftが、何故タブレット用のOffice製品をタダにするのだ?分からん!
 試しに、作ったファイルを外部に持ち出そうとしたが、もともとUSBやSDカードなどのインターフェースを一切拒否するi-Padだから、メールに添付してパソコンのアドレスに送るしか方法がない。しかし、「メールに添付」という項目がどこにもない。いろいろ探したら、Outlookをインストールして、そこに添付するしか方法がないようだ。うーん・・・Outlookをインストールして使ってもいいのだが・・・こんな風に芋づる式にどんどん引きずっていって、どこかのタイミングでお金を出させる魂胆かな。

 かつては、これらのタダ乗りは拒否される風潮だった。買ったソフトを他人のパソコンにインストールさせたりするのさえ厭われる雰囲気だった。だが、世の中変わってきた。タダの文化はしだいに浸透してきている。それに乗る者、逆に乗れなくて衰退していく者がいる。それは、通常の流通制度を根本から脅かしているが、それを仕掛けた者達は、その流通制度崩壊後の、新しい需要と供給のシステムを構築するビジョンを果たして持っているのだろうか?
 もしそれを誰も持っていないとすると、社会は恐ろしいことになる。もう誰も、お金をかけて新しい本を作らないし、新しい楽譜を作らない。新しく録音してCDを制作するには膨大なお金がかかる。でも、利益が得られないのが分かっていたら、誰がわざわざそんなことをするだろうか。
「僕たちの前には、すでに沢山の作家や作曲家がいる。それらがタダで手に入るのだからもう充分ではないか!新しいものなど要らない!YoutubeもPetrucciもあるんだ!」
こうしてタダに慣れた消費者は、新しい芸術や作品を拒絶する。だから、今に生きている作家や様々な芸術家達は、その生息する居場所を失う。そして文化は消滅していく・・・・。

 僕が無知だから、こういう心配をするのだろうか?誰か僕に教えて欲しい。新しいシステムが生まれつつあるのだから、それにみんなが乗れば、社会はまたそのシステムで動いていくんだよ、と、誰か僕を安心させて欲しい。

   

 


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