僕の読書の秋始まる

三澤洋史

今日この頃
 6月最初の「ローエングリン」公演を最後に長いバケーションに入っていた新国立劇場合唱団が、やっと活動を再開し、「ラ・ボエーム」と京都公演の「フィガロの結婚」の音楽練習が始まった。夏休みの後で新学期が始まった気分。指揮台からザーッと眺めると、みんなの顔がなつかしい。
 今劇場内は「ワルキューレ」(合唱なし)の上演中。同じシーズン内に「ジークフリート」もある。ワグネリアンは盛り上がっているだろうが・・・僕も誰にも負けないワグネリアンなんだが・・・合唱団員達の事を思うと気の毒で仕方ない。
 僕自身は、この夏の間に、ミュージカル「ナディーヌ」を上演したり、愛知祝祭管弦楽団の練習と本番をこなしたり、中央大学混声合唱団に通ったりしたけれど、数ヶ月間何も仕事がなくて、音楽を離れたアルバイトをしていたという団員は少なくない。バスの団員は、今でも夜中に土木作業員の仕事をしているという。厳しいオーディションを経てきたエリート集団なのに・・・・。

 高崎では、来年7月にまた群馬音楽センターで上演する「おにころ」のための合唱練習が始まって、10月3日月曜日の午後の「ラ・ボエーム」練習後に新国立劇場を後にして高崎に向かった。来年もまた良い公演にしようと決意を新たにした。

 10月9日日曜日は、カトリック関口教会(東京カテドラル)に一日中いた。朝8時のミサには、これまで指揮者がいなかったのだけれど、僕が聖歌隊指揮者に赴任してから、やはり8時のミサもおざなりには出来ないと思い、今日僕が指揮して8時のミサに指揮が入る前例を作った。
 ここに至るまでには周到な準備が必要だった。8月に、二晩に渡って指揮者養成講座を聖マリア大聖堂で開催し、現在僕のアシスタントをしてもらっているSさんを除いて6名の参加者の中から試験をし、2名の新しい指揮者を迎え入れた。その2名の新指揮者は、その後の10時のミサの中で、交代して聖歌を指揮し、僕とSさんはその都度アドバイスを与えている。
 将来的には、僕も含めた4人でシフトを組んで、8時にも10時にも指揮者を導入、同時に聖歌隊のメンバーには8時の方にも行ってもらって、両方充実できるようにしていくつもりだ。

 ということで、8時のミサを指揮し、そのまま10時のミサも指揮し、その後の聖歌隊の練習を約1時間つけた。お昼過ぎに、妻が孫の杏樹を連れて関口教会に到着し、お弁当を一緒に食べてから、2時半からの東京教区主催の子供ミサに出た。
 妻は数年前まで子供ミサの演奏メンバーの一員としてオルガンを弾いていたので、知り合いもいたし、立川教会からも子供達と共に指導者達が来ていた。子供ミサは予想をはるかに超えて、僕の胸に何かをもたらした。聖マリア大聖堂にフルート、ヴァイオリン、ギター、ハープ、打楽器などの音が響き合い、「アーメン・ハレルヤ」などが歌われるのを聴くと、かつてこの曲の作曲家である末吉良次さんと一緒に群馬の教会で大きな声で歌っていた学生時代を思い出したのだ。あの頃、僕はギターを弾いていて、すぐそばにはまだ結婚していなかった妻がいた。

 あれから随分経ったんだな。まるで放蕩息子のように教会から離れていたけれど、こうして一日中教会にいて3度もミサを受けていても、ちっとも退屈ではない。むしろ、とっても心が安らぎ、充実している。
「ああ、神の家にいるんだ」
としみじみ思う。

 杏樹は、ミサの間ちっともじっとしていなかったが、聖体拝領の時だけは、祝福を受けられるのが嬉しくて、妻に抱っこされながらおとなしく列に並んだ。
「お孫さんですか?さっきミサで指揮していたのとは全然違う顔をされてますね。もう可愛くて仕方ないって感じですね」
と、何人かの信者さんに言われた。

竹下節子さんの本
 10月後半に、比較文化史家でミュージシャンでもある竹下節子さんがパリから日本にやって来る。彼女のことは、以前「今日この頃」でも書いたが、来週僕は彼女とお会いすることになっている。また10月30日には、真生会館での14:00からの「現代の霊性を学ぶ」シリーズ講座「信徒の霊性」の講演に行くことになっている。
そこで、せっかくだから彼女の最近の著書を読んでみようと思った。

「キリスト教の謎~奇跡を数字から読み解く」(中央公論新社)2016年4月10日初版発行
 実に知的興味の尽きない本である。この本は、全部で13章から成り立っており、それぞれの章で1から13までの各数字にまつわるエピソードをとりあげている。第1章は一神教について、第2章は二元論について、第3章は三位一体について、第10章は十戒と十字架について、第13章は十三日の金曜日について、という風にである。
 こんな風に書いたら、普通は題材に事欠かない章があるかと思えば、あまりぱっとしない章やネタに苦しい章が出来ても不思議はないのに、それが全く感じられず、しかも分量的なバランスも良い本に仕上がっているのは驚くばかりだ。
 その背景には、長年培ってきた豊富な知識と、それをまとめ上げる知性の高さがある。つまり、ある章は歴史的背景をベースに語り、別のところでは神学的見地から筆を進める。高度な題材を扱っていながら、俗的な題材への親しみを感じさせたり、その様々なアプローチには舌を巻く。


キリスト教の謎

 信者のみならず、キリスト教に少しでも興味があるならば、必ずや楽しめる本であると断言する。信者にとっても、「へえ・・・」と声を出してしまうくらい、知らなかった情報に満ちている本。一読を薦めたい。

 また、ちょっと古いが、2010年に出た「陰謀論にダマされるな!」(ベスト新書)は、心底楽しい本である。といっても、プライム会員である僕が、またまたAMAZONで頼んで、おととい届いたばかりで、今この原稿を書いている時点では、グルッと目を通しただけで、きちんと読んでいない。


陰謀論にダマされるな!

下に掲げる「誰が音楽をタダにした?」の記事を書くために、そっちを読み返していたからね。
 目次の一部に目を通してみただけで、どうです皆さん?読んでみたくてたまらなくなるでしょう?


目次から

誰が音楽をタダにした?
 僕の「オペラ座のお仕事」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の発売日に、一緒に発売した本がある。僕の本の編集者である坂口玲実さんがやはり編集を担当したもので、スティーヴン・ウィット著、関美和訳「誰が音楽をタダにした?(巨大産業をぶっ潰した男たち)」(早川書房)である。
 黄色い分厚い本で、決して読みやすい文体ではない。内容も、無駄な部分を全て省いて三分の一にまとめてくれたらどんなにいいだろうと思う。なにより、僕のあまり興味のない90年代アメリカのロックやラップ音楽中心に語られているので、最初は飛ばし読みをしていた。しかし、ここで語られている内容はあまりにも衝撃的だ。先週も書いたばかりだが、僕が心配している「タダの文化」の仕掛け人が誰なのか、あますことなく描かれているからだ。


誰が音楽をタダにした?


 思い返してみよう。その昔、僕たちは、レコードを友人に貸して、友人がそれをカセット・テープにダビングして返してくれることに、ビクビクしていなかったかい?何故なら「それは犯罪だ」と教えられていたから。
 レコードとカセット・テープの関係は、次第にCDとMDの関係に代わり、さらにCD-Rに代わっていった。それによって、音楽ファイルは劣化することなく、買ったままの状態でコピーすることが可能になった。パソコンの普及がそれを後押しした。
 そうなるとCD会社側も黙ってはいない。CDにはコピー・ガードがかかるようになった。でも、そうなったらなったで、またいたちごっこが始まった。友人は僕にコピー・ガードを外す方法を教えてくれたし、パソコン・ソフトのCDをCD-Rに焼いて僕にくれた。でも、それはいけないことなんだという罪悪感は常につきまとっていた。

 ある時、びっくり仰天することが起こった。世の中にi-Podというものが出現したのだ。それは、音楽ファイルがコピーされるということを前提として市場に現れた商品であった。平行して、新しく市場に出回った全てのCDからコピー・ガードが消えた!僕は、勿論i-Podに飛びついたけれど、その反面、大きな失望を感じた。何に対して?
 それは、こんなにあっけなくモラルって崩壊するもんなんだ、という失望感であった。「コピーしてはいけない」というモラルは、とどのつまりは、企業の利益のために生まれたものなのだ。その企業は、新しいタイプの機器を普及させることが、自分たちの利益を生み出すと分かるやいなや、手のひらを返すように市場の常識をも変える。
 さらに、音楽配信というシステムを確立させることで、CDの存在そのものも危うくなってきている。そう遠くない将来、紙の書籍や楽譜やCDのような記録媒体が市場から消えると言っている人もいる。すると、書店やCD販売店などが街から消えるということなのか?
 それが、新しい文化が発展するための移行期的現象であればいい。でも僕には、どうもそうした変化が、文化そのものの衰退を促しているような気がしてならないのだ。そんな危惧を抱いている最中にこの本を読んだ。そして、その危惧はますます大きくなっている今日この頃である。

 この本は3つの話題の集合である。mp3を産み出したドイツ人の科学者の話、鋭い嗅覚で音楽の新しいジャンルを作り、次々とヒット曲を生み出し、世界的な音楽市場を独占した大手レーベルCEOの物語、それに、インターネットの海賊王で、市場最強の違法ファイル流出源となった、ある田舎の工場労働者の話だ。
 それぞれはバラバラな話なのだが、村上春樹の長編小説のように交互に現れ、絡み合って語られる内に、この本の主人公は(「ニーベルングの指環」の主人公が「権力への欲望」であるように)、それぞれの人間ではなく、「無責任なエゴイズム」であることが分かってくる。
 つまり、今世の中に蔓延している「タダの文化」は、それが将来に渡って産み出すであろう問題や混乱に対し、誰も何も配慮していない・・・今の自分にとって良ければそれでいいという、刹那的エゴイズムの集積なのである。それによって文化が衰退しようが消滅しようが、誰も知ったことではない、という事実が突きつけられて、恐怖で身が震える。 そしてそれこそが、アメリカがこれまで旗手を務めてきた“極端な資本主義”の結果であり、サブプライム問題やリーマンショックやなどの諸問題と同根なのである。

 mp3を開発したカールハインツ・ブランデンブルクという人間は、断じて悪人ではない。むしろ彼の情熱そのものは、科学者として尊敬されるべきものかも知れない。音楽ファイルのデータを12分の1に圧縮することを求められた彼は、音響心理学の専門家であるエバハルト・ツビッカーの助けを借りて、どんな鋭敏な耳でも聞き分けられないような方法で、データを圧縮することに成功した。
 彼は、人間の耳の(というか脳の)構造的な欠陥を利用した。一番わかりやすい例を言えば、オーケストラでシンバルが鳴った直後の他の楽器のデータを減らしても人は気がつかない、とかいう事である。
 ブランデンブルクとチームを組んだコンピューター・プログラマーのベルンハルト・グリルは、「神の耳」を持つ男と呼ばれ、微分音を聞き分け、子供と犬にしか分からない周波数に反応した。そうした人達の手によって、驚くべき聴覚への配慮を伴って、mp3は「音楽的に」データ圧縮を成し遂げた。

 しかし・・・僕には、そのことに対して「職人的な観点から」納得がいかないのだ。僕から見ると、彼らは何かおかしい。それだけ素晴らしい耳や技術を持っているのに、彼らはそれを「人々の耳をあざむくために」使っていると思えるからだ。
 たとえば、卓越した料理人ならば、普通全力をもって、
「この店の料理は、他ではけっして食べれない極上の味がする」
とお客が思うような絶品を作り出そうとするだろう。ところがブランデンブルク達がその才能と情熱を賭けて行っていたことは、料理にたとえて言えば、
「どこまで安い材料を使って(あるいは添加物でも化学物質でも何でも使っていいから)、人々が極上の料理だと勘違いするものを作れるか」
という事への挑戦であるのだ。

 ちなみに、僕はi-Podに入れるファイルとしてはWAVE以外は受け付けない。mp3も、appleとしてはデフォルトでコピー・ファイルとして奨励しているAAC(これもブランデンブルクが開発した)も、一回聴いて使わないことに決めた。「神の耳」だかなんだか知らないけれど、こんなものを聞き分けられないではプロの音楽家とはいえない。ゴーマンかまして言えば、「神の耳」以上にならなければプロの音楽家にはなれない。その上で、聴衆がいちいち気付こうが気が付きまいが、最高の音楽を作り出し提供するのを義務としているのだ。だから「お客を馬鹿にするな!」と言いたい。
 老舗の店の常連が、ある時板前に、
「どうしたんだい?味が落ちたね」
と見破ったなら、“手抜きした行為自体”を恥じるのが職人の良心だろう。でもブランデンブルクが恥じるとしたら、見破られたからだろうな。そういうことが、昨今の建設業者や賞味期限を偽る食品業者の態度と同じで、僕は許せないんだ。

 それよりも、僕はCDが、16ビットでわずか700MBのファイルの中に、1時間以上もするシンフォニーを押し込めているのさえ納得がいかない。mp3はおろかCDでさえ、ファイルを作る時点で不可聴音域と言われている高音や低音を平気でカットしているが、それらは確かに“音としては”聞こえないかも知れない。だが、聞こえているのだ。音のふくよかさや、艶や、厚みや、輝きや、豊かさとして。
 だから本当は、音楽媒体は少なくともDVDに代わるべきだと思っているが、今の流れをみると、そうはいかないだろうなあ。映像の世界では、やっとDVDでは画像が粗いのにみんな気が付いてきて、ブルーレイというものが出てきたというのに・・・。

 さて、ブランデンブルクの予想をはるかに超えて、mp3は音楽市場の中で大きな役割を果たすものとなった。そこに暗部も生まれた。いや、もしかしたら、その暗部が、アメリカにおける音楽市場を牽引してきたともいえる。すなわち、海賊版(海賊ファイルといった方がいいのか)の普及である。
 別の物語は、工場から廃棄直前のCDを盗みだし、それをmp3に変えてインターネット上で配信した者の話である。それはmp3が何故ファイルを圧縮しなければならなかったかという事とも関係している。すなわち、当時の電話回線のインターネット環境では、ネット配信するのに圧縮が不可欠だったからである。
 ある不正業者は、お金を払って契約すれば、どの音楽ファイルでも無制限にダウンロード出来る約束を顧客と取り付けていた。そうして配信してくるファイルに、正規のCDからmp3にコピーしたものなどあるはずがなく、余ったCDを処分する粉砕機を扱う工場労働者からの盗品を拠り所としていたのだ。その中には、まだ発売していないものも少なくなかった。おとといラジオで初めて流れたばかりの曲がもう配信されている、ということすらあった。だからこそみんなが飛びついたともいえる。
 こうした土壌が90年代のロックやラップ音楽を中心に築かれていったのだ。だから、2001年の終わりにi-Podが発売されたのは時代の必然だったのだ。この本の後半にはスティーヴ・ジョブズが何度も登場する。彼の時代を読む能力は素晴らしいが、彼も音楽産業に群がるオオカミの内のひとりである。次の文章は、本文からの引用である。
CDはもう終わった。これからはi-Podだ。(略)だれでも一歩家の外に出ると、i-Podに白いヘッドフォンをつないで頭を揺らしながら走っているランナーにぶつかりそうになった。
・・・・だからi-Podは海賊版でいっぱいになっていた。
本当の問題はアップルではなかった。mp3プレイヤーはいずれだれかが作っていたはずだし、優れたデバイスを作ったからといって非難される筋合いはない。本当の問題は一般大衆だった。法を破っていたのは消費者だ。i-Podにあれだけのおカネを払うくせに、音楽業界には一銭も落とさなかったのだから。ほとんどの人はファイルシェアを違法だと理解していないようだった。
一般人はアホか。
(247~248ページ)
 今の若者達は、良いものを知らない。スマホにヘッドホンをつないで聴いている音楽の音質はどうだろう?i-Phoneで動画を撮るとMOVというファイルで保存されるけれど、それがLineなどのネット上に公開されると、自動的により劣悪なmp4に変換されている。コンビニでまずいフライドチキンを食べていると、舌が馬鹿になって、本当に美味しいものの味が分からなくなるぞ。その点では、イタリア人は凄い。彼らの添加物の入ったものを食べない態度は徹底しているからな。

このように文化は間違いなく衰退している。僕はそれを深く憂う。

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