胸キュンオペラ「ラ・ボエーム」

三澤洋史

胸キュンオペラ「ラ・ボエーム」
 新国立劇場では、「ラ・ボエーム」の立ち稽古が進んでいる。合唱が入るのは第2幕と第3幕の冒頭だけ。演出家粟国淳(あぐに じゅん)さんの第2幕が好きだ。舞台上には、パリの街並みがいくつかのパネルになって両側に配置されている。それは可動式であって、曲のタイミングで移動すると、映画のアングルが変わるように街並みの景色が変化する。
 それに合わせて、たとえば真っ直ぐに歌っていた群衆が次のタイミングでは斜めになっているという風に街並みと共に群衆のアングルも変わる。つまり舞台全体の景色が一瞬にして変わるわけだ。物売りの屋台が移動し、群衆が行き交い、子供達が走り込み、おもちゃ売りのパルピニョールがやって来る。そうやってクリスマスイヴの恐ろしいほどの喧噪を巧みに映し出している。
 それらは勿論、行き当たりばったりではなく、全てコントロールされている。そうでなければ、ソリスト達が群衆の隙間からさり気なく登場することも出来なければ、たまたまそこを通り過ぎた若者を眺めるミミにロドルフォが気づき、
「誰を見ているんだ?」
と嫉妬の眼差しを向ける、などという絶妙なタイミングも生まれない。

 だから、この演出の立ち稽古は大変なのだ。実に手間がかかる。ほとんど一人一人の曲に合わせて動き出すタイミングや移動の導線を決めていかないと、互いにかち合わせしてしまったり、逆に舞台上に誰もいない空間が生まれてしまったりするのだ。
 そして最も大事なことは、それらを“歌いながら”行うということだ。動きのある音楽のところは舞台上でのアクションも大きいから、余計合わせるのが難しい。でもただピタって合っているだけでもつまらない。ひとりひとりの表情が生き生きとしていて、言葉も立っていて、ズレるギリギリくらいまでのびのびと歌いながら、「でも合ってる!」というのが理想。
 衣装も舞台装置も含めて、ある意味保守的ともいえる演出ではあるけれど、「ラ・ボエーム」に読み替えなんていらないし、僕たちが欲しいのはドラマの中身の濃密さやリアリティだ。その点では、主要キャスト達の作り出す演技はみな自然だ。
 ロドルフォのジャンヌーカ・テッラノーヴァもマルチェロのファビオ・マリア・カピタヌッチも、彼らが日常生活でやっている身振り手振りがそのまま演技になっている。歌も、日常生活そのままのセリフにメロディーがついている。それを、イタリア人指揮者のパオロ・アリヴァベーニがキビキビしたテンポで束ねている。

 フツーの「ラ・ボエーム」を、どこにもないほどのハイ・レベルで観たいという人は、是非新国立劇場に足を運んで下さい。まさに“青春まっしぐら”という感じの胸キュンオペラ。ロマンチストの男子は必ず泣けます。蓮っ葉のムゼッタも最後はいいひとになるし、子供っぽい男達の友情も楽しい。
11月17日木曜日から30日水曜日まで5回公演


関口教会聖歌隊に指揮者が5人
 カトリック関口教会(東京大司教区カテドラル)では、11月6日日曜日、2人の聖歌隊指揮者が正式にミサ・デビューした。前にも書いたけれど、僕は夏に聖歌隊指揮者のための講習会を二度に渡って行い、3人の指揮者を選び出した。それで10月中はミサの中で交代して一曲とか二曲だけ指揮させていたが、遂にミサ全体を指揮したのである。特に、8時のミサには、これまで指揮は付いていなかったのだが、10月中は、僕とアシスタントのSさんとが交代で指揮をして一般会衆に慣れてもらって、これからは8時と10時のミサの両方を合計5人でシフトを組んで回していくのだ。

 普通の聖堂だったら、ミサに指揮者なんて要らないのだが、東京カテドラルの聖マリア大聖堂は特別なのだ。あれだけ大きい聖堂に加えて、大オルガンが会衆席の後ろの2階にあり、聖歌隊席はその反対側の祭壇の脇にある。聖歌隊席にある電気オルガンでも演奏できるけれど、一度あの素晴らしいイタリア製オルガンの音が天上から降り注いでくるように響くのを聴いてしまったら、もうどんな困難を伴っても、これでミサを進めていきたいと誰しも思うだろう。でも、指揮者なしだと、あまりにズレズレで祈りどころではないのだ。
 一度8時のミサに行ってみて驚いた。こんなにズレているのに、みんなそういうものだと思っている。なんとかしなければと思ったのだが、指揮者の人材がどうしても足りない。そこで、講習会をはじめとしていろいろ努力して今日に至っている。

 だから本当に嬉しい。6日の日曜日は、10時の新幹線(本当はもっと遅くてもいいのだけれど、鰻を食べたいので)に乗って浜松バッハ研究会の練習に行かなければならないけれど、8時のミサには出られるので、Uさんの指揮を見届けて、多少のアドバイスを与えてから関口教会を後にした。後からの報告で10時のIさんも良かったとのこと。
これから関口教会聖歌隊のイノベーションは一気に進みますよ!

クラウソラス路上ライブ
 浜松バッハ研究会の練習を終えて浜松駅に帰ってきたら、駅前で路上コンサートをやっていた。遠くから響いてくる歌声がきれいだったので、近くに行ってみた。女性二人組で、ひとりはギターを弾きながら、もうひとりはキーボードを弾きながら歌っている。
 声の質が似ていることもありハーモニーがとても美しい、思わず引き込まれて終わりまで聴いてしまった。歌だけでなくギターもキーボードも上手。二人とも可愛い。特にキーボード弾いている子は美人。CDを売っていたので買おうかなとも思ったけど、チラシだけもらって帰ってきた。
Claiomh Solais~クラウソラス~という不思議な名前のユニット。



名前で索引したらアイルランド語で「光の剣」とか「輝く剣」を意味し、アイルランド民話の中に出てくる剣のようだ。
いいな。頑張ってね!応援しているよ。

ああマイルス!
 本屋でたまたま見つけた小川隆夫著「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと」(河出書房新社)という本に夢中になった。マイルスの本はいくつも買っているし、この著者の「マイルス・デイヴィスの真実」(講談社+α文庫)も持っているが、この本は特別だ。何が特別かというと、この本には、著者小川氏がマイルスと直接会って会話した内容が全て収められているからだ。

 いくつかの要因(偶然も少なくない)が重なって、小川氏は特別に何度もマイルスの家に行って、個人的に話を聞くことが出来た。ひとつは彼が整形外科医でありながら、ジャズのジャーナリストでもあるということ。彼は、手術した股関節の状態が思わしくないマイルスを診察し、リハビリのメニューを彼に与え、マイルスからマイ・ドクターと呼ばれていた。
 それを逆手にとって、彼はマイルスが家にいるであろう時を見計らって、
「ディス・イズ・ユア・ドクター」
と名乗って電話をかけ、彼からいろいろ話を聞き出すことに成功する。

 まったくあり得ないような展開だが、マイルスは不思議と小川氏の申し出を拒否しないどころか、むしろそれを喜んでいる風でもある。そろそろ潮時かなと思って帰ろうとすると、
「今度はいつ来る?」
などと聞き、
「また電話しろよ」
などと言ってもらえるのだから、普通に考えれば“かなり可愛がられていた”と言っていいのだろう。
 それでは小川氏はマイルスと友達のように打ち解けた関係になっているかというと、全くそんなことはない。彼はいつもマイルスの前では極度に緊張している。うっかりなことを聞いて、
「もう二度と来るな!」
と言われるのではないかといつも怖れている。
「So what ?(だから何だ?~曲名にもなっているマイルスの口癖~)」
などと言われると、縮み上がってしまう。

 こんな風にマイルスは、ぶっきらぼうで気まぐれな一方で、時々とてもやさしい一面を見せる。姉のドロシーに、
「お客様にお水しか出してないの?ジュニアはダメねえ」
なんて言われたりしているし、時には一番下の息子のエリン(奥さんではなくて、かつての彼女の子供)が居候していたりする。
「ブレッドは?」
とエリンが父親に訊ねる。
「バゲットがあっただろ」
「昨日食べちゃった」
「サワードウは?」
「少し残ってる」
なんていう、ありきたりの親子の会話を小川氏の前でしていたりする。

 しかし、彼はたいていの場合ひとりだ。小川氏との対談の中でのマイルスの周りには緊張感と同じくらい孤独感が漂っている。晩年の彼の身辺には、付き合っている女性の影が感じられないし、基本的にひとりの生活を好んでいるように見える。
「エリンはいないんですか?」
「アイツは出ていった。二十歳だから独立すべきだ。近くに住んでるけどな」
その言い方が少し寂しそうに見えたのは勘繰りすぎだろうか、と小川氏は言う。


Miles Speaks

 ある時、マイルスは小川氏にこう漏らす。
「30年間トップを走ってきて疲れていた。自分じゃそんなつもりはなかったが、周りがオレをそういう存在にしてしまった。常に注目され、期待されている。『マイルスなら次はどんなことをするんだろう?』ってな。そんなことをいわれ続けていたら、誰だって心配になってしまうだろ・・・・オレだってモンスターじゃないんだからI am not a monster」
信じられない言葉だ。こんな言葉を、身内ではなく小川氏に漏らすマイルスが孤独でないわけないだろう。

 マイルスの私生活の様子が細かく描き出されている。
「なにが飲みたい?オレンジ・ジュースか?」
と聞かれた最初の出遭い以来、マイルスはいつもペリエを飲んでいる。ホテルに泊まっている時には、気を遣っていることを気付かれないように、わざわざ別室に行ってルームサービスを注文してくれるが、きまってチキンだ。彼は、どうもチキンばかり食べているようだ。糖尿病を患っていたからカロリー制限をしているのかも知れない。あるいは単にチキンが大好きだからだろうか。お酒もたまにしか飲まない。
 話をしながらよく絵を描いている。それが、とっても不思議な絵なんだ。女性の筋肉をデフォルメした絵だ。奇妙に長細く、抽象画のようでもあり、デザイン画のようでもある。でも、その絵を見ているとマイルスの音楽そのものだと気付く。
 彼の音楽には、いろいろタイトルが付いているし、特に「ビッチズ・ブリュー」以降は、横尾忠則なんかの風景を連想させる絵でジャケットが飾られているが、彼の音楽は、実はそんな情景など何ひとつ表現してはいない。とはいいながら完全に抽象音楽でもない。そのギリギリのところにマイルスの音楽の神髄があるところが絵とそっくりなのだ。

 ある時、びっくり仰天する光景に出くわした。ロースト・チキンを食べた後、マイルスは、水の入ったグラスに入れ歯を入れた。上下の総入れ歯だという。
入れ歯を外した顔をまともに見てはいけない気がして、しばらくの間、ぼくは窓の外に目をやっていた。ポリデントのような錠剤が溶けて、水の中で発泡している。それが収まるや、入れ歯を口に戻し、平然とこう語った・・・・・・。
うわあ、こんなこと書いていいのだろうか?でもまあ、本人はもう故人だし、誰も訴えてくる人はいないか。逆に言えば、そのくらい孤独な晩年だったのかも知れない。

 マイルスは、過去を振り返らない男と言われるが、昔の事はささいなことに至るまで本当によく覚えている。それで、マイルス・ファンの間で定説になっていた事柄をあっけなくひっくり返すのがたまらなく面白い。
 たとえば、「カインド・オブ・ブルー」に代表されるモード・ジャズにおいて、キャノンボール・アダレイの起用はミスキャストではないか、キャノンボールはモードを理解していないのではないか、というのが批評家も含めた一般的な意見であった。でも、マイルスはこう言う。
「キャノンボールを加えることで、それまでのハーモニーとは違うものが出せるし、この六人ならプリミティヴではあってもクリエイティヴな音楽が演奏できる」

 アルバム「マイルス・イン・トーキョー」に収められているテナー・サックスのサム・リヴァースも、コルトレーンが辞めてウエイン・ショーターが起用されるまでの間のつなぎとして位置づけられ、ミスキャストのレッテルを貼られていた。その彼のことをマイルスはこう回想する。
「あのころからリズム・セクションがすごいことになったんだ。オレのソロが終わって、サムのソロになる。すると、オレのときよりフリーなビートで演奏しているじゃないか。それでトニー(・ウィリアムス)にいってやった。『オレのときも同じようにやれ』とな」
「サムは期待以上だった。最初から二ヶ月くらいの約束でバンドに入れたが、ウエインがダメならヤツをなんとしても残そうと考えていた」
ところが、参加をしぶっていたウエイン・ショーターが急転直下加わってきたので、マイルスは最初の約束通りショーターを起用する。
 勿論、その後のマイルス・バンドの歩みを見る限り、それが正解に違いない。しかし、マイルスの言葉を聞いてからサム・リヴァースを聴くと・・・なあるほど・・・このプレイをマイルスは面白がっていたのか、と彼の許容量の広さにあらためて驚く。前衛的あるいは奔放という意味ではサム・リヴァースの方がウエイン・ショーターよりも上だ。トニー・ウィリアムズのドラム、ロン・カーターのベース、それにハービー・ハンコックのピアノという水も漏らさぬ黄金トリオと共に演奏するには“場違い”というレッテルを貼られていたサムは、場違いどころか、もしかしたら、このバンドの焚き付け役を果たしていたのかも知れない。
 彼をそのまま使い続けていたら、それはそれで面白いものにはなったのだろう。ただ、あの限りない試行錯誤の時代の後、「ビッチズ・ブリュー」のワールドを構築することはサム・リヴァースには難しかったのではないか。そう考えると、遅かれ早かれショーターは起用されただろうという結論に落ち着く。それが運命だったのだ。

 この本を読んでいて、なるほどなと思ったことがある。マイルスの会話の中にしょっちゅうでてくる「スペース(間)」という言葉だ。

「そしたらバード(チャーリー・パーカー)が、『(ディジー・ガレスピーを)真似するくらいなら、どうやれば自分の個性が表現できるか考えろ』っていうじゃないか。『オマエはスペースを生かしたフレージングにいいものがあるから、それに磨きをかけるべきだ』」ってな
「そのころで驚いたのがセロニアス(・モンク)だ。スペースの使い方と、不思議な響きのコード進行には心底参った。セロニアスのスペースの使い方は、オレのソロのスタイルに大きな影響を与えた」

 まさにスペースの使い方がマイルスのスタイルの最も個性的なところだ。普通のプレイヤーが、テクニックを披露しながら沢山の音を使って空間を埋めようとするのに逆らって、マイルスは吹いていない時の空間を大切にするのだ。
 それはクラシック音楽の演奏でも当てはまる。本当に一流の演奏家は誰でも独自のスペースの感覚を持っている。もしかしたら、スペースこそが演奏家の一流と二流を分ける鍵なのかも知れない。

 その他、いちいち取り上げていると、この本と同じくらいの文章量になってしまうほど、僕にとって大切な内容の詰まった本である。
やっぱりマイルスはタダものではなかった。

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