今年の読響第九

三澤洋史

師走!
 師走って、どうしてこんなに忙しいのだ?毎日が矢のように飛んでいく。まあ、僕にとっては、白馬行きが近くなってきて嬉しい部分もあるのだが、暮れに東京を離れるまでにやらなければならないことが多すぎて、てんてこまいなのだ。

 今日12月19日月曜日は、午後から新国立劇場で「カルメン」と、夜は「蝶々夫人」の合唱音楽練習。今年最後の練習だ。そのあと今週は、読売日本交響楽団の第九が、サントリーホールで20日火曜日及び21日水曜日と2日続きであった後、22日木曜日に大阪に行って、大阪フェスティバル・ホールで公演があり、そのまま大阪泊。
 次の23日金曜日早朝、大阪を出て名古屋に行く。10時から東海市芸術劇場で愛知祝祭管弦楽団による「ワルキューレ」の練習。その後17時から、同じ場所で引き続き講演会。「ワルキューレ」の物語と音楽を語り、ライトモチーフの分析などを主としてオケ団員向けに行う(ワーグナー協会の人達や一般の人達も聴講可)。その晩の深夜に帰宅すると、翌日24日はもうクリスマス・イブ。
 関口教会(東京カテドラル)でのクリスマス・イブのミサは、17時、19時、22時、0時とあり、一夜明けて25日は午前10時からある。僕は、0時だけアシスタントのSさんにやってもらうが、あとは全て指揮をする。25日は10時のミサの後、そのまま午後に、池袋の東京芸術劇場で第九。
 それで26日に最後の第九演奏会をオペラシティで行うと、次の27日から白馬に行く。ふうっ!これを全部元気にこなさなくてはいけないのだ。しかも、白馬に行くまでに疲れ切ってしまっては本末転倒・・・いや、仕事的には本末転倒でもないのだが、やっぱり体調絶好調で初スキーに臨みたいじゃないですか。
それで30日まで滑って、暮れと正月は群馬で過ごす。ああ忙しい!

今年の読響第九
 読売日本交響楽団の今年の第九の指揮者はマルクス・シュテンツというドイツ人。解釈には随所で独創的なものを見せる一方で、さすがドイツ人だけあって、発音などにも深く踏み込んでくれて、新国立劇場合唱団の言葉のクォリティが上がったのが嬉しい。

 とはいえ、発音に関して言えば、僕にとっても合唱団にとっても新しい基本情報はほとんどない。自慢ではないが、ドイツ語の発音に関して言えば、僕は、バイロイトで合唱音楽指導スタッフをしていた時代以前にも以後にも、ずっと研究し続けてきているので、あらゆるケースにおいてブレはないのだ。
 現にシュテンツ氏は、
「凄いな、ここまでクリアなドイツ語は、ドイツの合唱団でもなかなか聴けないよ」
と褒めてくれた。その上で彼は、
「これは、僕の個人的趣味なんだけど」
と断った上で、vor Gottなどを「フォル ゴット」ではなく、フォア ゴット」と発音させる。僕は納得して、団員達にそれを告げる。

 戦後から最近に至るまで、舞台上で発音されるドイツ語のありかたも随分変わってきた。ワーグナーの楽劇でも、rはどんどん巻き舌をしない傾向にあるが、僕は、よりクラシックなベートーヴェンでは、意図して巻く方を選択している。
 それでも、語尾のerでは、日本における一般的ドイツ語発音のように「ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル」とはやらないで、「ダイネ ツァウバー ビンデン ヴィーダー」と発音させている。これがドイツでは一般的だから。
 ところが、er以外、すなわちwirのirやvorのorでは、現代でもrは巻くことが多い。特にバイロイト祝祭合唱団では他のところより保守的で、irやorはかなり速いテンポでもきちっと巻かせている。それをシュテンツ氏は巻かない方向で発音させているというわけだ。
 それ以外のところでは、シュテンツ氏は、僕が日頃練習でみんなに要求していることを、ダメ押ししてくれるので嬉しい。
「Freudeのfrはもっと前から時間かけて巻いて。eudeのオがビートの上にくるように。それからschönerのschは、もっともっと長く、しかも力を入れないで柔らかく。シューーーーーーって感じで」
 僕が口を酸っぱくして言っていることを、本場のドイツ人の口から言ってもらえると、みんなも、
「あ、やっぱり三澤の言うことは本当だったんだな」
と思って、よく言うことを聞いてくれる。
 ピアノ稽古の時には、いくらなんでもやり過ぎじゃないの?と半信半疑だった団員も、実際にオケの豊かな響きの中で歌ってみると納得するし、僕もコンサートの本番で客席で聴いていると、schönerなど、しなやかでかつ立体的に立ち上がってくる子音に感動を覚える。なんだかんだ言っても、ドイツ人がドイツ音楽をやるのは自然だなあ。
 僕は、指導者として、もっと遠慮せずに自分の信じてきたことを徹底させてもいいんだなあ、と勇気をもらった。かなりやっているつもりでも、ドイツ人から見たら、まだまだなんだから。

 ソプラノは、今年も去年に引き続いてアガ・ミコライ。前にも書いたけれど、彼女は熱心なカトリック信者で、滞在中でも毎週カテドラルのミサに通っている。12月18日日曜日は、横浜みなとみらいでの公演で、ゲネプロが12時からなので、どうするの?って聞いたら、
「土曜日の18時からのミサに行こうと思うの」
と言うから、
「あ、あのね。土曜日の夜は、いつもの大聖堂ではないんだ。地下の小聖堂なんだけど・・・・」
と躊躇しながら言うと、
「いいわ、それでも」
と言うのだ。
「24日のイブには必ずいくからね」
と子供っぽい目をキラキラさせて語る。来年の新国立劇場「フィガロの結婚」では伯爵夫人を演じることが決まっている。

 アルトは、僕のお気に入りの清水華澄ちゃん。あの、ソプラノとテノールの高音にはさまれて潜りがちなアルトの声部が、彼女だとバッチリ聞こえるぜ。テノールはデイヴィッド・バット・フィリップというイギリス人。会うのは初めてだけれど、美しい声の正統派。そしてバスは妻屋秀和さんと、最強メンバーだ。
 読響も、毎年うまいと思うけれど、またひとつクォリティが上がったと思う。みんな音程が良いので、ハーモニーがぴったり合う。木管楽器の音色は夢見るようだし、弦楽器には厚みやうねりがある。このオケと時々共演できるのは嬉しい。

関口教会のクリスマス
 関口教会の聖歌隊指揮者になってから2年の時が経った。そして、今年3回目のクリスマスを迎える。その前まで、クリスマスは、家族水入らずで迎えるあたたかい楽しみの時であった。それが2年前から、立川教会に通う家族からただ独り離れて、夕方5時から深夜まで及ぶ4回のミサを指揮する、奉仕に徹するクリスマスへと変わった。
 でも、それによって僕の心に新しいものが生まれた。それは、お生まれになったユダヤの王を求めて、東の国から“ただ捧げるために”やって来た3人の博士達の心境が、より理解できるようになったことだ。

 長い長い道のり、博士達は、お金も遣っただろうし、果てしない労力を使って幼子のところに辿り着いた。それはしかし、何かを得るためではなかった。そうではなくて、反対に、黄金、乳香、没薬という高価なものを捧げるためにはるばる来たのだ。まさに「踏んだり蹴ったり」・・・いやいや「いたれり尽くせり」・・・うーん、これもちょっと違うな。とにかく、お人好しの代名詞みたいな行為。
 でも、こうした「与えっきり」の人生には、魂の奥底からの真の歓びがあるのだ。そして、その歓びは、信仰を持っていないと決して得られないものなのだ。

 立川教会のミサに家族みんなで参加した後、家に帰ってきて暖かい部屋でご馳走を囲むイブの晩は、落ち着いて静かで、僕は毎年しあわせを噛みしめていた。そして食事の前には、
「また来年もこうしてみんなで集まることが出来ますように」
とお祈りしてから食べ始めた。
 おいしいチキンや、シャンパン、ワイン、そしてクリスマス・ケーキが、アドヴェント・クランツの4本立ったキャンドルに照らされていた。そのキャンドルは全部高さが違っていた。待降節第1週目から灯されたキャンドルは、もう根元しかなかった。

 宗教は、人をしあわせにするものだと信じていた。僕は、家族の真ん中に信仰があるから、その幸福感を味わっていたと思っていた。でも今、そのクリスマスイブの晩の団欒を離れて関口教会に奉仕する僕の姿は、まわりの人達にはどう映っているだろうか?
 しかし・・・しかしである。僕は、不思議なことに、なおいっそうしあわせなのである。しかも、よりいっそう神の家にいることを感じているのである。僕には博士達の気持ちが分かる。飼い葉桶に寝かせられている幼子イエスをしみじみ眺め、
「主よ、とうとう来ました。そして、この黄金、乳香、没薬と共に、自分たちの人生を捧げます」
と感激に打ち震えながら語った博士達の想いを、僕も持つことが許されているのである。

 それで、ひとつの告白をする。
このクリスマスを機に、それまで立川教会に籍を置いていた自分は、関口教会に信者としての籍を移すことにした。家族と離れてである。

 妻は、
「教会の維持費が分散するじゃないの」
と冗談に言ったが、僕が移籍することはむしろ喜んでくれている。だって、関口教会の聖歌隊指揮者になるまでの僕は、立川教会にだってろくに行っていなかったし、関口教会に行くようになってからは、日曜日の午前中で空いている時は全て関口教会に行くのだから、実質的には変わらない。
 それよりも、関口教会に通うようになってから、僕がより信仰深くなったことを、妻は傍から見ていて誰よりもよく知っている。まあ、離れるのは籍だけで、信仰者としては以前から見たら比べものにならないくらい分かり合っているといえる。
 夫婦が同じ信仰で結ばれているって素晴らしいことだね。魂の奥深いところまで共有できるってことで、今頃何を言うと言われそうだけれど、結婚って良いものだね。そして、結婚で彩られた人生って、なんて満ち足りているんだろう。

 関口教会聖歌隊は、音楽的にも組織的にもまだまだ未来に可能性を秘めているが、僕はここに骨を埋めるつもりで頑張ることにした。自分の人生を終えるまでの最後のライフワークである。典礼の音楽がどうあらねばならないか、自分なりの答えを追求していきたい。

 そういうわけで、今年のクリスマスイブどうしようっかなあ、と思っている人は、僕が指揮している関口教会に足を運んで下さい。信仰を強要なんて絶対にしません。でも、人生の岐路に立っているあなた、悩みをかかえているあなた、そうでなくて、とってもお気楽に生きているけれど、でもなんか物足りないなあと思っているあなた。ただフラっと来て、終わったら帰ればいい。でもね、聖マリア大聖堂の浄化された空間に居るだけで、あなたの中のなにかが変わると僕は信じているよ。

メリー・クリスマス!

落ちぶれた親分と情けない子分
 オスプレイの墜落事故で、あれだけ大破しているのに「不時着」だと言い張り、あげくの果てには、
「住民の事を考えて浅瀬に不時着したのだから、感謝されるべきで表彰ものだ」
と、在沖縄米軍トップのローレンス・ニコルソン沖縄地域調整官は言っている。しかも、こぶしで机を叩きながら、
「県は政治問題化するつもりか」
と怒りをあらわにした場面もあったという。あきれてものが言えない。

 日本人だったら誰しもこれを理不尽に感じるだろう。でもこれは、日米安全保障条約がある限り永久に続く問題だ。そもそもこの日米安保条約は、戦争に負けた日本に対して、戦勝国であるアメリカが、愛と博愛的精神をもって提案した条約だ。
 まあ、分かり易く言えば、太っ腹でやさしい親分が、
「今後は俺が守ってやるから子分になれ」
と言ってくれて、日本は子分にしてもらったのである。

 ところが日本は、その後アメリカの兵力という庇護の元で、軍事費に大きな予算を取られることなくまんまと経済成長を遂げ、元来優秀な国民だからどんどん発展し、世界の中でも注目される国になってきた。
 一方、米国はといえば、“世界の警察”を名乗って、あちらこちらで戦争を仕掛けてきたけれど、ベトナム戦争は挫折するし、イラク戦争でもしかるべき結果を残せなかった。結局のところ、博愛精神が発揮されて勝利に酔う戦争はひとつも経験できなかった。それどころか、でしゃばりな米国が余計なことをしたせいで、世界は混乱に陥っているのだ、という目で世界から見られている。経済的にも、サブプライム問題やリーマンショックなど、短絡的資本主義のせいで国力がガタ落ちになってきた。今や米国は、まさに「神々の黄昏」状態なのだ。

 つまり、子分が育つ間に親分は落ちぶれてきたのだ。人間、落ちぶれてくると、みみっちくなってくるもんだ。トランプ氏は、こう言って大統領になったのだ。
「日本がやられた時にはアメリカが守るべきなのに、アメリカがやられた時には、日本は何もしなくていいんだぜ。これって不公平じゃない?」
 もともと不公平に決まっている。だってそれが米国のヒューマニズム故の選択だったのだから。かつては良識ある人達が沢山いて、それがアメリカン・ドリームを作り上げていたのだと思う。でも現在では残念ながら、この国のヒューマニズムは廃れた。みんな自分の身の回りのハエを追うことに必死で、それどころじゃないのだ。
 だから、現代の米国民の大多数は、日本の防衛について、
「お前たちはずるい。俺たちの元でのうのうとしてやがって」
という風に捉えて、むしろ悪意さえ持っているのではないかな。先のニコルソン氏の発言は、そうした日本と米国との温度差を背景にしてなされたものだと思う。このことを僕たちは認識しておくべきだ。
「お前ら、守ってもらっていて、偉そうな口をきくんじゃねえ!」
ということなんだ。

 さて、落ちぶれた親分がみみっちいことを言い出したら、もう子分にとっては潮時ですよね。これ以上アメリカにしがみついていても、良いことは全くない。ニコルソン氏のように理不尽なことばかり言われ続けることになるし、米国人は甘ったれた日本人に対し、ますますシビアな視線を浴びせるだろう。
 はっきり言ってしまうと、将来的にはふたつの選択肢しか待っていない。つまり、何も日本人のためにならない“米軍のための米軍”が日本に居座り続け、さらにその経費を負担することを日本が強いられるか、さもなければ、米軍が日本から完全撤退してしまって、日本が完全に丸腰状態になってしまうか。
 どっちに転んでも、このままいくと、僕たちの街に米国のオスプレイが墜ちてくるか、あるいは極東のどこかの国のミサイルが墜ちてくるか、どちらかが起きる。そして、その日は遠い将来でもない。トランプ氏が大統領になったその日から、僕たちはその心配をしなければならない。

 ひるがえって我が国の中を眺めていると、何をやっているんだろう?あのさあ、カジノ法案なんかが、国民の意見を完全にスルーして、あんなに簡単に決まっちゃっていいのかい?カジノって、はっきりいって大規模な賭博だろう。以前、スポーツ選手が賭博にハマって捕まって、マスコミがよってたかって非難したけれど、それとはケタ違いのことを国ぐるみでやろうとしているんだぜ。
 国も偽善者だね。経済効果っていうけれど、大勢の人が理性を失ってギャンブル依存症になって、場合によっては生活破綻を呼び込んでいくような事を奨励するってことだよ。それで、そこからふんだくったお金で、国や自治体が潤うことをもくろんでいるのでしょう。
「ふっふっふ、おぬしもワルやのう」
「何をおっしゃいますか。お代官様こそ」
「うわっはっはっは!」
と、どうみても悪人に思えて仕方がない。

 今は、政府が何かを判断する時に、善悪の概念がなさ過ぎるんだよ。もう金もうけと、自分の利益ばっかり。トランプ氏を批判できない。そのくせ、国益を追求するには外交力がなくて、ロシアのプーチン大統領に対して、しっかり自分を主張できない。中途半端に仲良くなろうとしておしまい。結局、仲良くもなれていない。ああ、どっちに転んでも情けない。
 カジノ法案に話は戻るけれど、どちらか筋を通して欲しい。賭博は悪なのか善なのか?悪だったら、個人の賭博だけでなく、競輪競馬もボートレースも全部禁止。反対に善だと思うなら、個人の賭博は自己責任ですべて自由。

   

 


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