人生で発見を忘れるな

三澤洋史

今日この頃
 「カルメン」公演が快進撃を続けている。以前述べたように、フランス語をネイティヴとするカナダ人指揮者イヴ・アベルがキビキビしたテンポで全体をまとめ上げてくれるので、締まった公演になっている。やっぱり、オペラに指揮者は大事だなあ。
 ミカエラ役の砂川涼子さんが好演。ミカエラは、演じる人によっては、ホセの母親にすり寄りながら、ホセと一緒になりたい狡い女と見えてしまう時もあるのだが、彼女で見ると、純情で清らかな女性に感じられて、素直に可哀想だなあと思う。
 同時に「蝶々夫人」の練習が合間を縫って行われている。合唱団には、各演目に必ず初めてそのオペラ参加する新人がいるが、再演のプロダクションでは、稽古回数が少ない一方で、経験者達がなんなく立ち稽古で動けるため、パッと見には出来ているように思われ、
「はい、では次にいきます」
と進んでいく。その陰であわてている新人は気の毒だ。でも、みんな頑張っている。

 さて、そんな忙しい日々にも休日はある。しかし僕の場合、この時期のほとんど全ての休日はスキーに捧げられる。通常だったら、1月23日月曜日にコンシェルジュに送るはずの今週の更新原稿も、そのために一日遅れた。
 その日は、スキーに行っただけでなく、その帰りに高崎に途中下車し、夜の「おにころ」の稽古に出て、深夜に国立の自宅に帰ったからだ。「おにころ」の合唱団のみんなと会うのは、年が明けてから初めてなので、今更ながら、
「明けましておめでとうございます!」
と言って練習を始めた。アシスタントの初谷敬史(はつがい たかし)君が、よい指導をしてくれて、みんな少し上手になっている。

 そんなわけで、みなさん原稿の到着が遅れてしまって申し訳ありません。さらに申し訳ないことに、今週の記事は、ほとんどがスキーの話題です。スキーに興味がない人には重ねてごめんなさい!

スキーという行(ぎょう)
 1月18日水曜日。雲ひとつない快晴のガーラ湯沢スキー場。明るい陽ざしに目を開けていられないほど輝いている銀雪。しかしながら、残念なことに260万ダラーをはじめとするコブ斜面の充実している南エリアが開いていない。それでも、北エリアには、唯一のコブ斜面であるスーパー・スワンがあるので、今日はそこで徹底的にコブに挑戦する。


ガーラ湯沢北エリア

 まず、恐る恐る踏み込んでみると、ほぼ新雪。ほぼ、という言い方をするのは、30センチくらいの新雪なんだけど、その下にコブが隠れているのだ。つまり、表面はフワッとした新雪でも、その下には間違いなくデコボコで堅いコブがあるので、足を取られる可能性がある難しい状況。
 一度慎重に滑り降りて、次に同じ所に来てみたら、さっき滑ったシュプールがきれいに残っている。そのシュプールは、自分の体重によって圧力がかかっているので、少なくとも新雪ではないから滑り易い。こうして、何度かシュプールの上を滑り降りる内に、どんどん溝が作られていって、だんだん残ったところがコブらしくなってきた。万歳!自作のコブが出来てきたぞ!それで途中から決心した。今日はこの自作コブでバンクターンの練習をするんだ。
 ということで、コブ作り&バンクターンの練習に明け暮れた。ただね、自分で作ったコブは滑りやすいと言われるが、必ずしもそうでないなあ。というのは、最初に作ったシュプールが、おっかなびっくり描いたものだから、回し込み過ぎて上下につぶれたS字形。何度かその上を滑る内にスピードが出てくるが、そうすると、溝の深いところでガツンと止まるようになってしまい、ターンがスムーズにいかない。
 それで、途中でまた何カ所かコブを作り直した。良いコブを作るためには、これはこれで、そのための技術がいるんだね。あとで自分が滑り易いコースになることを逆算して、シュプールを描く配慮が必要なんだ。ということで、もう少し縦長のSが出来た。
 このスーパー・スワンというコブ斜面では、左側は整備されていて人工コブが出来ていて、レッスンなどもしている。でも、僕の滑る右側の端は、何故かほとんど誰も踏み入れてこないので、僕は落ち着いてマイ・バンプス(自作コブ)で練習することが出来た。
 一体何回スーパー・スワンを滑ったのだろう。高速クワッド(4人乗り)のリフトが速いので、どんどん上に戻ってどんどん滑り、午前中2時間以上、全く休みなしでぶっ続け。お昼に一度2.5キロの下山コースを猛スピードで降りてハンバーグ・ライスを食べ、午後はまた2時間ぶっ続け。ここばかり集中して滑った。とにかく、僕の、僕による、僕のためのコースで、終日心ゆくまで練習できたって、凄くない?


スーパー・スワン


 1月22日月曜日。またまた南エリアが閉じている。あれかなあ。平日で人が少ないので、圧雪などの整備をしてリフトを動かす経費を節減するため、わざと開けないのかなあ。しかも今日は先日と打って変わって荒れた天気。寒いし吹雪。横なぐりの雪が頬にぶつかってくる。笑顔を作ったらほっぺたがバリバリっとひび割れしそうなほど。
 まあ、いいや。神様が、
「また今日もスーパー・スワンで練習三昧の一日を送れ」
と言っているのだと解釈して、2度ほど中央エリアのジジという中級斜面でウォーミングアップしてから、再び北エリアのスーパー・スワンに向かった。

 この日のスーパー・スワンは、先日とは全く違うコンディションで、最初に踏み入れた時は、数十センチの深雪。うわっ、とハマりそうになったが、2年前のニセコで新雪レッスンを受けた時に教わった、
「新雪が深くなったら、ほとんど直滑降かと思うくらいの浅いターンをします。上下動がスピード・コントロールの役目もします」
という言葉を思い出して、雲の上にいるような浮遊感を味わった。
 処女雪に踏み込んでフワフワするのが面白いので、コブ作りは後回し。あっちこっち固まってきてからコブを作ったが、なんだかグチャグチャしてきたから、バンクターンにこだわらずにテキトーに滑った。

究極的な遊び感覚
 僕ってさあ、高校時代までは、スポーツなんて大の苦手で、体育の授業をどうやってさぼろうかばっかり考えていたというのに、どうしてこの歳になってから、こんなスキーになんかハマッてるんだ、とつくづく思う。
 だってね、また今日もスーパー・スワンでまるまる2時間、一度も休憩を取ることなく滑り通せたんだよ。自分でも不思議。9時40からジジを滑り出して、11時くらいに一度、このへんでセンターに戻ってコーヒーでも飲もうかなあって思ったんだよ。でもね、コブ斜面を滑り降りると、すぐに、
「もう一回!」
って思うんだ。楽しいのと、それからいつもちょっとだけ後悔が残るから。
 コブを完璧に滑り降りることってない。落ち着いて滑り降りたとしても、
「もうちょっとスピードアップ出来たのでは?」
という疑問が湧いたら、可能性は無限だ。それで、スピードをちょっと上げるだけでも、難易度はぐっと上がるし、体に感じる衝撃もハンパじゃなくなる。だから、後悔にも果てがない。
 休もうかと思った時、
「あと一回だけ滑ってからコーヒー飲もうっと!」
と思いながら、繰り返し滑って、気がついてみたらもうお昼になっていた。

 それで、お昼を食べて食後にコーヒーを飲んで、約1時間の休息時間。普段の僕なら耐えられない時間だ。何故なら、妻や娘達はよく知っているけれど、僕がひとりの時、何もしないでぼんやりしていることなどない。いつも時間を惜しむように、というか、何かにせき立てられるように、本を読んだり勉強したり、パソコン相手に原稿を書いたり、ネットで何かを調べたりしてしまう。
 でも、スキーをしている時だけは、なんにもしないでいられるんだ。きっと、スキー場に来ただけで、僕の頭は瞑想モードになるのだと思う。コーヒーを飲みながら、窓から眺める雪景色をボーッと眺めているだけで、時間が経っていく。

 午後は1時から滑り始め、例の「もう一回!」が果てしなく続いて、最後に下山コースを誰にも抜かれないスピードで駆け抜けて(って、ゆーか、ほとんど人がいない)、JRガーラ湯沢駅と一体となったセンターのカワバンガに着いたら3時15分だった。
 これだけ集中出来るのは、僕の生涯の中で音楽とスキーだけ。たとえば、他のことだったら、これだけしたら一休みして、と計画を立てて、時にはその計画もこなせなかったりする。きっと音楽もスキーも、僕にとっては特別なものなんだ。果てがない。子供が徹底的に遊ぶような“究極的な遊び感覚”で出来るものだからだ。
 それと、こうして書いているのは、もう24日火曜日の朝だけど、あれだけ滑ったのに、さしたる筋肉痛もない。不思議だよなあ、僕の体。だったら、子供の時、もっとスポーツ万能だってよかったのに・・・・。

 あのう、ちょっとだけ自慢させてください。この2日間のマイ・バンプスのお陰で、最後の方は、ひとこぶ1ターンのモーグル選手みたいにターンがつながって、ちょっと見、上村愛子みたいになってきたよ。
 元はと言えば、テレビで上村愛子のモーグルを観て、
「ああいう風に滑りたい!」
って思って、スキーにのめり込んでいったのだから、実に感無量!
もちろん、上村愛子よりはずっとゆっくりで下手っぴいだけれどね。

スキーの極意(外向傾、外足加重、スネベロ)
 しかし、いつも驚くのは、年末の角皆優人君のレッスンが、とっても役に立っていること。彼はいつも、その時その時の僕に一番欠けていることや、これからの僕が必ず必要になるテクニックを教えてくれる。しかもそれは、決してコブだけに特化したものではなく、最も基礎的な技術であると共に、優れたスキーイングのための普遍的テクニックなのだ。

 スキーの極意とは、とどのつまりは徹底した外向傾と外足加重に尽きる。特にコブを滑る時には、どんな体勢にあっても必ず上半身は谷を向いているべし。これは頭では分かっていた。でもね、今言うと笑い話なんだけど、昨年角皆君に指摘されるまでは、谷の方を向いているつもりが、なんと顔だけ向いていた!そうではなくて、肩が水平に下を向いてないといけないので、腰のところで“くの字”になるんだ。
 これって、慣れないと結構辛いのだよ。体をよじって雑巾を絞るような意識になるのだ。でも効果は抜群で、コブに振り回されて「おっとっとっと!」と思っても、何が何でも肩水平と思うと、それだけで体勢を立て直せるのだ。
 それにね、この体勢にならないと出来ないことがあるんだ。それは、ターンの途中でスキーのテール(しっぽ)を使って円の外側に掃くこと。これはバンクターンには必須の条件だし、整地においての極端な急斜面でも、外向傾の体勢を保ちながら、テールで掃いてショートターンを繰り返せば何も怖くない。

 また、特にターン後半でしっかり外足で重力を受け止めて、それから抜重を行う外足加重の徹底も大事。なんとなく両足に乗っているままだと、次の切り替えがうまくいかない。外足加重こそは、きちんと自分の意識で行うこと。それが出来れば、どんな荒れ地でもブレることがない。
 バンク・ターンではそれに加えて浮いた内足の板を外足に合わせることも行う必要がある。深いバンクを外足がクルッと回って、油断している内足と×印にトップが重なってしまうからだ。今回も人の作ったバンクを滑った時に、最初に×印になって転倒してしまった。すぐに、あ、そうだ、と思って、意識して内足をどんな時でも外足に合わせるようにしたら、二度と起こらなくなった。

 同じように大事なことは、スネでブーツの前のベロを押す足の角度と姿勢。そのことによって常にスキー板のトップに圧がかかるが、だからといっていつもつま先に体重をかけろということではないよ。カカトに体重がかかるターン終了でも、この体勢は維持するべし。
 これを徹底させると、スキー板のトップが自分のつま先の延長のように感じられ、スキー板全体に自分の神経が行き届くようになる。高速で整地を疾走する時も安心感があるし、コブの中で板をさばいていく時も、自分の体の一部のように感じられてくるのだ。

人生で発見を忘れるな
 人間、進歩している時というのは、「昨日の自分よさようなら」という風に、どんどん過去を否定していくんだね。最近まで、コブ斜面の真っ只中でうろたえていたり、新雪に埋まって身動きが取れなかったりした自分が懐かしいほどだ。新しいテクニックによる新しい体勢。その体勢によって、自分の前に見えてくる世界の変化。スキーそのものへの認識の変化。
 そうやってめまぐるしく変化していくのに、肝心の自分自身の意識が、その変化に追いついていなかったりする。同じ斜面を、怖がりながら滑っていた昨日の自分をまだ愛していたりする。何故なら、怖いと思う感覚はそのままスリルだったりして、逆の見方をすれば魅力でもあるんだ。ハードなジェット・コースターがそうであるように。
 自転車で急カーブを回るのに、体を倒して頭まで斜めにすると、とっても曲がった感じがするだろう。俺イカしてるって思うだろう。でも本当は、上体を起こしてくの字型の外向傾で曲がった方が、はるかに安定性が高いし、より鋭いカーブを描くことが可能なのだ。つまり、そっちの方が上級だし、明らかにクール。
 クールだけどつまんないという気持ちも分かるのだが、その安定性は、もっと難易度の高いことをやるために必要不可欠なのだ。そうやって人はどんどんより高いステージをめざしていく。

 人はよく歳を取った音楽家を巨匠と呼び、長年の経験を尊んでくれる。若い頃、同じ事を言ってもみんなが聞いてくれなかったのに、今僕が何か言うと、みんな「はい」と聞いてくれる。特に日本は「年寄りが生き易い国」。
 だが、老いは、それだけではむしろ退化を招く。記憶力は間違いなく若者に劣るし、目も悪くなるし、基礎体力も落ちる。だから敬われていい気になっていると、デビューしたてで経験もない若手指揮者に優に抜かれている。
 そうした危機に自分も陥っていたのに気がつかないで呑気にうぬぼれていた。そんな時に、僕はスキーに出遭い、人から教えを受けて、この歳になってから「発見し進歩するもの」に出遭った。
 同時に、そのことによって、これまでの指揮のテクニックに疑問を持ち始め、冷静かつ客観的に眺めてみて、まだまだ改善の余地があることを発見し、矯正して今日に至っている。スキーに出遭わなかったら、大変なことになっていて、しかも、もっと悪いことに、そのことにすら気がつかないで歩んでいったであろう。その意味で本当にスキーには感謝している。

 発見という言葉は英語でdiscover、ドイツ語でentdeckenで、共に「覆いを取る」という意味だ。またオカルトという言葉があるが、それはラテン語のocculere(隠す)の過去分詞occulto、すなわち「隠されたもの」という意味だ。
 我々の人生は宝探しであり、世界はオカルトに満ちている。それらの覆いをひとつひとつ取り、新しい真実を探し当て、新しい認識を得ていく中に、人生の歓びや生き甲斐がある。それを知らない人は、人生の真の意味を知らない。
 「明日の自分」が「今日の自分」と違った者となることを恐れてはならない。どんなに歳をとっても、人間は新しく生まれ変わることが出来るのだ。

今の僕にとって、孫の杏樹のキラキラと好奇心に満ちた瞳が、一番のライバルだ。



 


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