「オテッロ」初日

三澤洋史

「オテッロ」初日
 イタリア語の先生に「オテッロ」の最終稽古を見せた。彼女は、他のおおかたのイタリア人がそうであるように、ヴェルディは「アイーダ」まであればいいと思っていて、「オテッロ」と「ファルスタッフ」は、あまり好まない。
 でも、今回のキャスティングとプロダクションで見せれば、もしかしたら考えが変わるかなと期待したのだが、演奏のレベルには讃辞を惜しまなかったものの、
「やっぱり、あたしダメだわ」
と、次の日のレッスンで言われてしまった。
「なんで?最初の嵐の始まり方とか、カッコ良いでしょ」
と言っても、
「何故、耳に残るアリアがないの?それに美しくない!」
と言うから、僕は、
「『オテッロ』の音楽は『美しい音楽』ではないかも知れないが、『良い音楽』なんだ」
と反論した。
「なるほど・・・」
「それに、『何かを表現する音楽』で、常にドラマと分かち難く結びついている。これまでのオペラの作り方だと、アリアが始まった途端にストーリーは止まり、主人公の心情が美しいメロディーに乗せて歌われていたが、『オテッロ』ではその境目がない。音楽は表現に奉仕するために、意図的に単純な美しさに背を向けたのだ。
たとえばね、第2幕の冒頭は、ミファソファー・ミファソファーというモチーフで始まる。これはただの要素であって、美しくもなんともない。このモチーフに乗って、イアーゴはカッシオに『デズデーモナの所にお願いに行きなさい』と言い、親切そうに送り出す。その直後に、同じモチーフが半音上げられ、しかも最強音で演奏され、『行け、そして俺の想いを遂げるがいい!』と、悪意に満ちた彼の本心を歌う。引き続き有名な「クレード」で邪悪な信仰宣言をする。
こういう風に、音楽はドラマに徹底的に奉仕するけれど、それは音楽の持つパワーがあってこそなのだ」
これだけのことをイタリア語で説明するのって、とっても骨が折れる。

 ヴェルディの音楽の受容に関しては、日本人の方がはるかにフレキシブルだ。イタリア人のヴェルディに対する評価は、真っ二つに分かれている。すなわち「アイーダ」までの作風しか受け入れずに、最後の「オテッロ」と「ファルスタッフ」を完全否定する人と、逆に、この2つのオペラこそ、ヴェルディの辿り着いた最高の境地と絶賛する人で、中間はないと言っていい。
 しかし、イタリア人というのは、ある意味凄いな。それだけ“うた”というものが彼らの中で根付いているという証である。“うた”のないオペラはオペラではないということなのだ。これは、理屈で説明して分かる分からないの問題ではなく、彼らの肌の感覚のようである。だから、僕がいくら説明しても、永久に平行線。
「話せば分かる」
などというのは幻想で、考えは違うけれど、そのままで僕たちは相手の立場を尊重する。それが「分かり合う」ということだ。
 まあ、そうはいっても、「オテッロ」が不滅の名作であることは、好みの問題を越えていて、真実だと思うんだけどね・・・・。

 さて、いよいよ初日の幕が開いた。指揮者のパオロ・カリニャーニは、キビキビしたテンポでオケを操っていくし、オテッロ役のカルロ・ヴェントレの体当たり的な歌と演技が、聴衆を引き込んでいく。前にも書いたが、イアーゴ役のウラディーミル・ストヤノフの蛇のような眼と、あたりの様子を伺いながら巧みに人の心を操っていく狡猾な仕草が見事だ。
 ただ、残念なのは、彼に対してそんなにブラボーの嵐となるほどではないなあ。みんな見る眼がないなあ。まあ日本だけではないのだが、聴衆は強い声で歌い続けることでオペラチックに(悪い意味で)悪を表現することを好むのか?それじゃあつまんないんだよ。ヴェルディが、自分の作風を変えてまでも描きたかったものが、ストヤノフの中にあるじゃないか。それに気付いて欲しいんだけど・・・。

これも、好みの問題じゃなくて真実なんだけどな・・・・。

 シェイクスピアの戯曲は、人間の脆さをこれでもかと赤裸々に描き出す。嫉妬にとらわれ、しだいに壊れていく英雄の心の過程を微細に渡って表現していく。ヴェルディは、生涯にわたってシェイクスピアを尊敬し、これに曲をつけることを望んでいた。
 若い時に「マクベス」を作曲した彼は、これに力不足を感じ(実際は傑作となっているのだが)、その後シェイクスピア原作のオペラを作っていない。しかし、「アイーダ」後の15年にわたる沈黙の後、もはやなにものにも束縛されることなく自主的に創作した2作は、他ならぬシェイクスピア原作であり、そのために彼はこの作風を必要としたのである。
 やはり凄い音楽だ。ワーグナーの影響を受けているのは確かだが、出来上がったものは、独自のワールドを持っている。ヴェルディは、最終的に歌唱の表現力を信じ、メロディーのインパクトを捨てない。それ故、歌手達には、良い声だけでなく、細かい心理を描き出すテクニックと感性と、なにより深い知性とが要求される。

騎士団長殺し
 村上春樹の新刊「騎士団長殺し」(新潮社)を読んだ。変な題名だなあと思っていたが、まさか、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」で、冒頭に殺され、最後にドン・ジョヴァンニを地獄に落とす、例の騎士団長を指すとは思わなかった。
 ちなみに僕たちは一般的に騎士団長ではなく騎士長と呼んでいる。実は、恥ずかしながら、この役については、何の疑問もなく“騎士長”という名前で納得しつつ今日まできてしまった。それが、このタイトルに軽い違和感を覚え、初めて原語であるcommendatoreというイタリア語を辞書で引いてみた。
commendatore:
1 (イタリアの勲位)コンメンダトーレ;コンメンダトーレの保有者 
2 (一時的)聖職禄の保有者 
3 (女性名詞の場合はcommendatorice)『古』称賛(賛辞)を送る人 

はあ、って感じでしょう。意味が分からん。そこで、その近くにある単語を調べてみたらcommèndaという女性名詞がヒットした。

commènda:
1 修道院長などの空位の禄の、一時的な聖職禄(の保有)
2 『史』(中世騎士への)終身の禄
3 (イタリアの勲位)コンメンダトーレ
下位のcaveliereと上位のgran ufficialeとの中間の勲位

 この2番及び3番が当てはまるのだろう。下位のcavaliereとは、cavallo(馬)から来た言葉で、「馬の乗り手」すなわち「騎士」の意味。それよりは位が上だから騎士長と言われているわけだ。
 しかし、村上春樹氏は、それをあえて「騎士団長」とこだわってタイトルにしている。騎士団というものがあって、それの長ということか。でも、どうして「騎士長殺し」ではいけないのかな。そこに彼のこだわりがあるのか。うーん・・・よく分からん。

 おっと、小説の内容に入る前に、タイトルだけでこんなに書いてしまった。急いで読書感想文を書かなければ・・・しかし、別に評論家ではないのだから、そんな詳しく客観的な批評を書く必要はないよな。
 考えてみると村上春樹の小説を読むのは久し振りだ。一応主な作品はみんな読んでしまって、エッセイや翻訳本をのぞくと、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(文藝春秋)が最後に読んだ小説かな。

 僕が一番好きなのは、彼の文章だ。たとえばこの「今日この頃」を書くような時にも、彼の文章を手本にしているといってもいい。僕は難解な文章は嫌いなのだ。特に、知ったかぶりや、自分の知識をひけらかすような難しい言葉ばかり使う文章は敬遠する。その点、村上氏の文章は平易ですらすらと読みやすい。それでいて、どんな複雑な事柄でも、きちんと描写し、読者に伝わる。こういうのがプロだと思う。
 さて、ストーリーに関してだが、日常的な事から入って行って、いつのまにか荒唐無稽な村上ワールドのラビリンスにハマりこんでいくいつもの手法。村上氏って、どんなに歳を取っても、主人公は、なんとなく自分に自信がないような30代なんだね。それでいて適当に女性にモテる。この点に関しては、彼のほとんどの作品において堂々巡りというかオルゲルプンクト(保持低音)のようだ。そして、おきまりの性描写。これって、本当に必要なのかなあ、といつも思う。とにかく、電車の中で読んでいる時に、隣の人に覗かれたら恥ずかしいので、やめてよ!

(ここからネタバレあり。ネタバレを好まない人はこのくだりを読み飛ばして下さい)

 ちょっとネタバレしてしまうが、最後に奥さんとヨリが戻って元の鞘に収まるという、これまでにない解決に、少なからぬ安堵感を覚えた。村上氏が歳を取ったせいか?いやいや、むしろそういう結末を必要としていたのだろう。
 「1984」の創作のモチベーションに、オウム真理教の地下鉄サリン事件が影響を与えているように、「騎士団長殺し」には3.11の大震災が影を落としている。すなわち、破滅、喪失感と、そこからの回帰の物語ともいえる。
 冒頭の、北海道から東北への絶望的な車旅と、施設に入っている老画家の留守宅での孤独な生活、そして、謎の「メタファー通路」の果てしない道や川や渡し守や、読んでいるだけで閉所恐怖症になる洞窟。その末に見えた希望。この小説そのものを、「奥さんから別れを宣告され、やがてヨリが戻るまでの魂の葛藤の物語」という風に単純化してしまうつもりもないけれど、3.11と重ね合わせて考えると、最後に“絶望からの再生”に辿り着く骨組みが作者の手の内にはあったのだろう。

(ネタバレを好まない人は、ここから読んでね)
 では騎士団長を殺すということはどういうことか?よく分からない。でも、無理に分かろうとしなくてもいいのだろうな。それでも僕たちの潜在意識はしっかり受け止めているのだ。
 この小説を読み終わった晩、不思議な夢を見た。目が覚めたと瞬間に完全に忘れてしまったのであるが・・・。しかしながら、とってもスピリチュアルな夢だったことは確実で、心は満たされていて楽しい気持ちで目が覚めたこと。そんな夢を3日間立て続けに見た。
 村上文学が、どこまで“意図的に”僕たちの魂を揺さぶっているのか分からない。あるいは、ただ単に、思わせぶりなアイテムを、当てずっぽうにパッチワーク的に組み合わせて、何か意味ありげに見せているだけかも知れない。
 でも、そんなことはどうでもいい。僕が自分の潜在意識を村上文学によって揺さぶられているのは確かなのだ。その意味では、村上春樹本人が意識しようがしまいが、彼という人間の中に、何かが潜んでいることは確実なのだ。
だから僕は村上文学を読むのがやめられないわけ。

で、結局Speed Chargerに決めました!
 親友の角皆優人(つのかい まさひと)君から、素晴らしい試乗レポートが届いた。僕が来シーズンに向けて新しく購入しようと思っているスキー板は、K2のスピード・チャージャーSpeed Chargerというモデルだが、角皆君が今度ターボ・チャージャーというモデルに乗ってくるので、それを待ってから決めてもいいんじゃない?と言ってきたので、報告を首を長くして待っていたのだ。

以下、角皆君のメールを、本人の了解を得てそのまま掲載する。

  今日、ターボチャージャーに乗ってきました。
  素晴らしいスキーです。
  固いフラットバーンを小回りするなら、最高と信じられます。
  でも、スキーのトップ幅がとても広いのです。129cmもあります。
  だから、コブでは弾かれやすく、とても苦労すること間違いなし。
  まずは、スピードチャージャーとターボチャージャーの特色を書いてみます。

1.スピードチャージャー
  *重くてどっしり
  *カーヴィングが大得意
  *スピードに強い
  *大回りが得意だけれど、小回りもなかなか
  *滑っている時に重さは気にならない
  *コブも深くなければなかなか良い

2.ターボチャージャー
  *軽くて快活
  *カーヴィングが大得意
  *小回りが得意
  *大回りでハイスピードになると板がたわみすぎる
  *コブは苦手

  ‥‥ということで、来シーズンはスピードチャージャーが良いでしょう。
  白馬に来たら、ぜひわたしのターボを履いてください。
  ただ、云っとくけど持ち運びでだいぶ重くなるよ。
  ヴェロシティとは5キロ近く違うかも。
  取りあえず、滑っていないときはいつも重いです。
  でも、本物のスラロームやリーゼンスラロームスキーは同じかもっと重いから。
 さすが専門家の意見は違うよな、と思わせるレポートだ。僕なんかみたいに、ただ雰囲気だけで書くのとは雲泥の差。それよりも、こんなの聞くと、もう今シーズンは終わりだと心に決めたのに、もうスキーがしたくなってきたよ。スピード・チャージャーで大回りした時の加速感と安定感は、今でも体が覚えているのだ。
  夏、白馬に来たら、できるだけ一日一回くらいは逢いましょう。

  美穂が三澤君たちを連れて行きたいお店をリストアップしています。
1.カッパ亭(本物のカッパ伝説のある建物で、今は喫茶店)
1.蛍(電気の通っていないそば屋・おいしい)
1.おやき村(山の奥の奥にあるおいしいおやきとお蕎麦の店)
1.いろは堂(世界一のおやき屋/これから山下君の個展をやるところ)
*芸術に興味のあるオーナーで画廊として使える別棟がある。
1.サウンヅズライクカフェ(Sounds like cafe)とてもおいしい洋朝食屋。

これ以外にも、まだまだ良いところがあるので、楽しみにしていて下さい。
 あはははは、このメールの返事としてね、僕は、
「あのね、言っておくけど、遊びに行くんじゃないからね。作曲にいくのがメインなのだからね」
と書いたけれど、もちろんのこと、一日中何もスケジュールがない大自然の中で、作曲し、散歩やトレッキングをし、画家の山下康一君と角皆君を交えて対談をし、そして、美穂さんが紹介してくれたお店には全部行っちゃうさ。

もう僕は、青空の中を銀色に輝く雲がゆっくり動いていく真夏の白馬を夢見ているよ。

ハンチンコーチ
 3歳の孫娘の杏樹は、何に対しても、
「なんでこうなの?」
と訊く。
「もっと遊んでいたい」
「でも、もう夕方になったから暗くなってきたでしょ。おうちに帰らなくては」
「なんで夕方になると暗くなってくるの?」
「太陽が沈むからだよ」
「なんで太陽が沈むと暗くなるの?」
「太陽はとっても明るいんだ。太陽があるから昼間は暗くないんだよ」
「なんで太陽は明るいの?」
「太陽は燃えているからね」
「なんで太陽は燃えているの?」
こうなると、もう神さまが登場するしかない。
「それはねえ、神さまがそう作ったからだよ」
「なんで神さまはそう作ったの?」
「知るか!神さまの心なんて分かるわけないだろ」
「なんでじーじは神さまの心が分からないの?」
神さまの心が分からないと言われては、信仰の根幹に関わる問題だ。困った。

 ところが最近、特効薬を発見した。杏樹がなにか悪さして、
「どうしてこんなことしたの?」
とこちらが訊ねると、よく、
「ハンチンコーチだから」
と、誤魔化すために訳の分からないことを言う。

 ある時、また「なんで」が果てしなく続いて、いつものように、
「なんで神さまはそう作ったの?」
まで辿り着いてしまったので、やけっぱちになって、
「ハンチンコーチだから」
と答えたら、
「ふうん・・・」
と妙に納得して、突然会話が終了したのだ!


ハンチンコーチ


 やったあ!凄いぞ、ハンチンコーチの威力!万能薬。これで全て解決。しかし、それによって、今度は杏樹が、
「ハンチンコーチだから」
と言った時、
「そんなこと言って誤魔化すんじゃありません!」
と怒れなくなってしまった。

 そういえば、杏樹の母親の志保が杏樹くらいの時、僕はよく寝かしつけながら、即興で物語りを作っておはなししていた。
「その時、地の精グノームの親分が出てきたんだ。その親分の名前は・・・ええと・・・」
言葉に詰まった時、志保がとっさに、
「ニングルマーチ!」
と叫んだ。
「そう、その通り!ニングルマーチだ」
「え?ホントにいるの?ニングルマーチ?」
いるわけねーだろ、おめーが言ったんじゃねーか、と思ったが、そのまんまトボけて、
「それでね、ニングルマーチはね・・・」
と話を続けた。志保は、自分で言い出しておきながら、すっかりニングルマーチの存在を信じてしまった。
やがて20年近く経ってから、ニングルマーチはミュージカル「ナディーヌ」のメイン・キャストのひとりとなった。

 今度は、ハンチンコーチを主人公にしたミュージカルを書いてみようかな。「ハンチンコーチの冒険」とか、あるいは、「ハンチンコーチVSニングルマーチ~親子2代の対決」とかね。

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