熱にうかされた「ワルキューレ」

三澤洋史

和歌山駅内のドトールにて
 6月12日月曜日午前9時過ぎ。この原稿を、JR和歌山駅内のドトールで書き始めた。昨晩、愛知祝祭管弦楽団「ワルキューレ」演奏会の後、打ち上げを途中で失礼して22時29分の新大阪行き「のぞみ」に飛び乗り、新大阪駅近辺のホテルに一泊した。
 打ち上げでは、角皆優人(つのかい まさひと)君夫妻をはじめとして、みんなと話したりスピーチしたりでバタバタしていたため、新大阪のホテルに着いてからコンビニに行って、バーボン・ウィスキーと氷と炭酸とおつまみを買って、深夜に独りで部屋飲みし始めた時点で、やっとフーッと一息ついた感じ。
 バーボンって、なんでチューインガムみたいな味がするんだと思いながらも、心は満たされていた。クールダウンをしようと思いつつも、頭の中では、まだ「ワルキューレ」がグルグル回っていた。だれか止めてくれえ!

 今朝は、7時33分新大阪発の「くろしお1号」に乗って和歌山まで来た。道中、i-Podでサンタナの「スーパーナチュラル」を最初から通して聴いた。「ワルキューレ」を頭の中から消し去るためだ。なかなか出て行かないからね。
 うーん・・・僕は、これまで聴いたアルバムの中では「スーパーナチュラル」が一番好き!それにしても、El Farolを聴くと、どうしていつも泣けてきちゃうんだろう?悲しくて泣くのではない。でも、なんか、なつかしくて・・・しあわせで・・・もしかしたら前世の記憶を呼び覚ますものがこの曲の中にあるのかな?僕がラテン音楽が好きというのも、前世と関係あるのかな?
 そんなわけだから、僕がサンタナとかラテン音楽が好きだからといって、みなさん、
「三澤がいいと言っているから、これは聴く価値がある」
とか勘違いしないで下さい。これはね、バッハがいいとかワーグナーがいいとかマイルス・デイビスが聴く価値があるとかいう客観的評価とは違って、僕のまったく個人的趣味の世界。だって、サンタナの音楽って、客観的にみたらダサいもの。しかも、その中で僕の好きな曲は、特に土着の匂いがするサンバっぽい曲なんだ。

 和歌山駅に着いて、大きなスーツケースの中から、今日のスクール・コンサートで使う荷物だけ取り出して、今晩泊まるホテルのフロントにあずけた。新国立劇場合唱団のメンバー達は昨晩からこのホテルに泊まっている。それで、集合時間の10時までまだ時間があるので、こうしてドトールで原稿書いているというわけ。

ホテル・グランヴィア和歌山の一室
 ドトールの後、合唱団のみんなと合流して、一緒に東海南中学校まで行く。これを「とうかいみなみ」と読んではいけない。「ひがしかいなん」なのだ。5日間続きのスクール・コンサートの初日。
 中学生なので、小学生よりは控えめな反応だけれど、素直でおっとりしていて、とてもやりやすかった。先日、4人でワークショップをやっただけでも驚いてくれたけれど、30人の合唱に目を丸くしていた感じ。大規模なコンサートに引けを取らないやり甲斐のある仕事。

 今は帰って来て、静かな午後のひとときをホテルの一室で過ごしている。昨日の今頃は「ワルキューレ」を指揮していたんだと思うと不思議な気がする。あれも同じ僕なんだよなあ。あの、異常に高揚した、一種のトランス状態の自分。昨日のことなのに、もうずっと昔のような気さえするんだ。

熱にうかされた「ワルキューレ」
 オーケストラは、熱にうかされたように演奏していた。聴衆が固唾を呑んで聴いているのが背中から感じられた。指揮しながら、僕は、ジークリンデが可哀想で仕方なかった。そして、父を想うブリュンヒルデが痛ましく、いとおしくてたまらなかった。
 それらの浮き彫りにされた感情を、僕はその瞬間その瞬間、オーケストラで丁寧に描いていた。ある時は、大鉈(おおなた)を振るようにドラマの方向性を指し示し、無理矢理大通りを整備する。
「これは、こういうドラマなんだあ!分かったか!」
という風に強引に。そうかと思えば、ある時は細かい筆で微細画を描くようにオケのバランスを注意深く操っていく。
 わざとアンバランスな金管楽器の咆哮を許すかと思えば、歌手の朗誦を浮き立たせる為に、もうほとんど鳴ってないだろうと思うようなオケにもっと小さくと要求した。シンフォニーでは考えられないバランス感覚。しかし、ワーグナーの楽劇は、中庸で上品な絶対音楽とは全然違うのだ。

 ドラマと音楽との融合。口で言うのは簡単だが、これを実行するためには、180度ともいうほどの発想の転換が必要だ。しかし、「ワルキューレ」を指揮しながら、あれえ?これと似たようなことを最近やっているなあ・・・と、ぼんやり思った。一体どこでだっけ?ああ、そうだ。全然違うんだけど、東京カテドラルでミサを指揮している時と似ているんだと気が付いた。ミサの流れ、会衆の祈りの気持ちの気の流れ。それに音楽が寄り添い、祈りを飛翔させていくあの感覚。それと似ている。
 似ているのは、音楽が最優先ではないこと。マエストロが一番偉いのではない。そんなことは忘れなければいけない。それに、過度に神がかってはいけない。なにか自分が特別な者であるかのように勘違いしてはいけない。謙虚になってエゴをゼロにしていくこと。そうすると、無私になった時に見えてくるものがあるのだ。その意味で、礼拝の音楽を奏でることと、ドラマを音楽で奏でることは、真逆のように見えて案外近いと気が付いた。

危機感を超えて
 愛知祝祭管弦楽団に熱気があるのは分かっていた。しかし今度ばかりは、熱気が崩壊を呼び空中分解する可能性が大いにあった。「ラインの黄金」に比べて倍も曲が長い上、1年を3ヶ月も割る、わずか9ヶ月の練習期間。じっくり時間をかけて、オケのみんなに指導動機やドラマと音楽との関わりなどを説明しながら練り上げていくという理念が果たして達成出来るのかという不安があった。でも、それが出来ないなら、この団体の存在意義がないのだ。
 それに加えて、「ワルキューレ」は、技術的な面だけでも「ラインの黄金」とは比べものにならないほど難しくなっている。たとえばビオラとチェロだけ見ても、プロだって演奏不可能じゃないかと思うほど難しいパッセージの連続。これをアマチュアで演奏するなど無謀そのもの。
 しかし、それらのことに対する危機感は、僕のみが抱えていたわけではなく、すでに団員のみんなが共有していたのだ。最後の3週間は、土日連続の練習が続いたけれど、次の週に来る度に俄然うまくなっていたのに驚いた。
 指揮者というのはペシミスティックでね、今ここで自分の手でやらせたものしか信じないところがあるから、自分の手を離れた一週間の間に進歩が見られるというのは、予想外に(失礼)嬉しいものだよ。

スキーと水泳~指揮法の奥義
 角皆君が、公演終了直後に楽屋に飛び込んできて、こう言った。
「三澤君がスキーと水泳をやっていなかったら、こういう音楽にならなかったね」
まさにその通りだと思う。
 もし僕の肉体が今ほど強靱でなかったら、自分から出てくる発想も、もっと消極的なものになっていたに違いない。ワーグナーの音楽そのものから発する、あの爆発的なエネルギーに対峙するためには、中途半端な体力では決して持たないのだ。

 それに、もうひとつ重要な事があるのだ。僕は9日金曜日の夜から名古屋入りしたが、その日の午後、柴崎体育館に泳ぎに行った。クロールを800メートル、平泳ぎを300メートル。その間にキックだのストロークだのの練習で、合計1500メートルくらい泳いだ。
 僕がその日集中したのは、クロールでリカバリーした手が入水し、腕を水が通り抜けていく感覚を味わうこと。そして、伸びきった手の先に瞬間体重をあずけるようにして、体幹を整えた後、手のひらを曲げ始めてストロークが始まるが、その時ひじ全体に水の圧力を感じる感覚を味わうこと。それが本番を控えた僕には最も大事だったのだ。これこそ、ワーグナーの感情の洪水を感じながら、オケにそのレガートを伝えていく指揮の腕の運動の秘密なのだから。。
 僕の指揮の運動が、もし他の人のそれと違っている点があるとするなら、まさにその動きである。この動きをもって僕は自分独自のオケのサウンドを作っているのだ。そして、その場合の運動の支点となるのは「肩胛骨」なのである。水を掻ききった腕を、ポケットから手を抜くように上げるのは、肩胛骨からだ。そのまま肩胛骨によってリカバリーの腕を前に送る。レガートする時の僕の打点までの運動は、まさに肩胛骨からなされている。
 一方、打点から後、オケの響きを導く運動は、ひじの独特な動きに依っている。これも肩胛骨が裏から支えている。カラヤンは、それにプラスして、胸のチャクラから気を発散している。
 指揮の運動自体は腕が主体になるが、それを支えているのは勿論体全体だ。僕は、腕の運動と連動して、適当に上体をひねりながら水泳のZ軸を感じつつ足の重心移動を行っている。ひねりは、あらゆる運動にとって最重要な要素。スキーのターンの切り替えにおけるウェイトシフトとも共通している動きだ。
 実際、僕の意識は、音楽的フレーズと共に心の中でゲレンデを描き、ターンをしている。楽想に合わせて、整地を大きくロングターンする時もあれば、細かく厳しいコブを究極的なショートターンでさばいていく時もある。
 僕は、ワーグナーの大管弦楽の様々な表情に対応して、あたかもニセコの広大で変化に富んだゲレンデを滑っているように、指揮のモードをスイッチしていく。モードは実際に意識して変えていくのだが、最終的にはボーダーレスに、つまり天衣無縫に感じられるように柔軟に行えるようトライする。
 なかなかそこまでいくのは楽ではないんだけどね。しかしながら、こうした意識を持つようになってから、僕の指揮は劇的に変わったのだ。それは、結果的に何に向かう?それは、ストーリーテリングをきめ細かく行うことに回帰していくのだよ。

予言そして運命
 スキー、水泳、カラヤンの動きの研究、そして楽劇を指揮すること・・・こうしてみると、全てが僕の人生の中でつながっているのが分かる。その発端は・・・・と探っていくと・・・54歳の誕生日の時に、妻が僕に内緒で病院の健康診断を予約したことにさかのぼるのだ!
 それで血糖値が高いことが発覚し、食事制限と運動を開始したのだ。もし、僕がダイエットしないで、スキーに出会ったとしても、きっと筋肉痛になって長続きしなかったであろう。お散歩をし、自転車に乗り、足腰を鍛え始めたちょうど良い時に、再び角皆君とのスキーを通しての交友が始まったし、それからいろいろなことが連動するように僕の回りに起こって、現在まで来ている。

 実は、それよりもずっと前にそれは予言されていたのだ。まだ僕が40代だったある夜、夢の中にお坊さんのような人が現れて、ニコニコしながらこう言った。
「君はね、53歳で死ぬんだよ」
 このお坊さんは、多分僕の守護霊だと思う。僕は彼の言うことを何の疑いもなく素直に信じた。そして自分は53歳で死ぬんだと単純に思っていた。だからといって53歳の間中、死に怯えて暮らしていたわけではなかった。
 でも、正直言って54歳の誕生日の日、僕は、
「あれ、生きてるじゃないの。あのお坊さん、嘘ついたのかな?そうにも見えなかったけどな・・・・」
と思った。

 しかし、今から思い返してみると、その日を境に、僕の人生は劇的に変化していった。その前の自分の古い人生は死んだといっても差し支えないほど・・・。そして、角皆君とは再び密な親交を結び、フィジカルにも強くなっていく。スキー場に行くと、昔、スキーなんかするとは思っていなかった時代に夢で現れた風景を、デジャブで見たりすることが頻繁に起こった。
 その一方で、まるで憑き物が取れたように、様々な欲望が僕の心から抜け落ちていった。昔よりも生き方において僕の過ちは少なくなり、昔よりもちょっとばかし信仰深くなり、カトリック東京カテドラル関口教会聖歌隊の指揮者になり、自分の音楽の中に祈りの要素が強くなり、愛知祝祭管弦楽団は行列の出来るオケになって今日に至っているというわけだ。
 人生って、どこまでが自由意志なんだろう?どこからが天からの導きなんだろう?恐らく、その両方なんだろうけれど・・・でも、あの夢の予言を思い出すと、どうしても、こうしたことがある程度、決められていたような気がしてならないんだ。
だから、つまりね・・・僕はきっと「神々の黄昏」までは、走り続けなければいけない運命にあるんだ。

悲劇の中の生命のきらめき
 さて、「ワルキューレ」に話を戻そう。この物語では、主人公達はみんな不幸になっていくのだ。フンディングなんか、よく考えてみると、何も悪い事していないのに、彼が出てくる直前にあの強烈なフンディングのライトモチーフが流れただけで、何か彼がとんでもなく悪人のように感じられてしまうね。
 それで聴衆は、あんな悪い奴なんだから、妻を寝取られたって殺されたって仕方がないと思わされてしまうのだ。なんという音楽の力よ!長谷川顕さんが、圧倒的なパワーで演じてくれた。本当は、とってもいいひとなのに・・・。

 フリッカの相可(おか)佐代子さんも、怒ってばかりの役で気の毒だったね。ワーグナーによってとっても嫌な女として描かれているフリッカだけれど、考えてみたら、自分には子どもがいないのに、外に9人のワルキューレやヴェルズング族などという、おびただしい子供達を作って得意になっている夫のヴォータンを見ていて、あのくらいの怒りで済んでいるのが不思議なくらいだ。

 ジークムントは、ずっと恵まれなかった自分の境遇を語る。この人も何をやってもうまくいかないのだ。危機の時に助けてくれると約束された剣をせっかく引き抜いたのに、約束した本人によって反故(ほど)にされちゃんなんてあんまりだよ。ジークリンデも望まざる人と無理矢理結婚させられて、抑圧された人生を送ってきた。
 しかしこの楽劇の凄いところは、そうした不幸なふたりの境遇の中で、真実がきらめく瞬間のまばゆさだ。ふたりに愛が芽生える瞬間。そして彼が剣を抜く瞬間のあの法悦感!くーっ、たまりませんな!片寄純也さんもカッコよかったけれど、清水華澄ちゃんは、その瞬間叫び、そして号泣した!僕も一緒に泣いちゃったよ。彼女の素晴らしい演技力。素晴らしい芸術家!
 ブリュンヒルデは、あまりに父親を愛している故に、父親の命令に背いてまでも、父親の本心を遂げようとする。それを責めたら可哀想でしょう、と思うのに・・・。彼女は、不本意ながらジークムントの前に立ち、死の宣告をする。でも、ジークムントのジークリンデへの想いにほだされ、何が何だかわからなくなってしまう。この瞬間が僕は大好き。
 その直後、彼女は、
「分かったわ、いいわ、あなたは生きるのよ!あたしパパに逆らっちゃう!」
と決心を変える。この瞬間に真実に触れる。生命のきらめきに触れる。基村昌代さんの迫真の演技と圧倒的歌唱!
 ヴォータンは、そんな娘を責める。そして過酷な罰を与える。本心では、そんなにまで自分のことを想ってくれた娘が可愛くて仕方がないのに、なに意地張ってんの?男のプライドってヤーね!もっと正直になればいいのに。
 とにかく、自分の手で眠らせておいて、その直後に眠ってしまった娘への切々とした想いを語るんだから、いい加減にしてよと言いたいところだけれど、音楽があまりにも素晴らしいので、この終幕に心を動かされない者はいないだろう。
 青山貴君。よくやった。第2幕の長い独白の部分は、直前に僕の家で行ったコレペティ練習が効いて、歌い過ぎずにきちんと語りに徹してくれたね。


主役達

 こういう風に物語を追ってくると、ストーリーそのものは、ネガティブに発展していくけれど、その要所要所に垣間見せる「真実」の部分が感動的なのだ。指揮者の僕に託された任務は、自分に溺れずに、このドラマのひとつひとつを丹念に描き出していくこと。あとは、物語が自分で語ってくれる。それを信じること。これこそがワーグナー演奏の極意であり、指揮する側からすると醍醐味でもあるのだ。ワーグナー指揮者とは、最高のレベルでの裏方的意識を持つ指揮者のこと。

みんなみんな、ありがとう!
 ホヨトホーのワルキューレ達もみんな頑張ってくれた!あんなバラバラなアインザッツってないよな。ワーグナーの意地悪!でも、よく出てくれたし、動きも良かったよ。6人のハーピスト達、スティア・ホルンの奏者達、管楽器の各ソリスト達、それから、特にイングリッシュ・ホルンとバス・クラリネットという、ワーグナーの不当なほどのえこひいきの楽器奏者達のソロも、みんなみんな光っていた。
 また、
「なんだ、そのペラッペラなカミナリの音は!」
とか、
「ヴォータンがローゲを呼ぶ時の槍の音は、そんなチャッチイ音じゃないんだよ!」
という僕のワガママな罵倒にも耐えていろいろ音色を試行錯誤してくれた打楽器奏者達、それに第2幕第4場の「死の告知」の2人のティンパニスト達。みんなみんなありがとう!

 何といっても喝采を送りたいのは、熱血暴走コンサート・マスターの高橋広さん。第2幕途中では、先に暴走されて僕がおっとっとっと、と付いていかざるを得なかったが、第2幕ラストでは、僕の方が、
「おらおらおら、行くぜい!なんだ何やってんだ、早く付いてこい!」
とけしかけてやったぜ。あははははは、ざまーみろ!・・・・って、どーゆー指揮者や!えーと、そんなやり取りも実に楽しかった。ピロシ君、ありがとう!
 それと佐藤美晴ちゃん、いつも素敵な舞台を作ってくれて、本当にありがとうね。特に、今回は舞台美術も照明もとても生きていた。最後のブリュンヒルデの炎に包まれる場面なんか、聴衆が泣いてくれた何十パーセントかは、照明のお陰だろう。

 最後に・・・やっぱり佐藤悦雄さん。悦雄さんの名前の通り、僕にワーグナーという悦楽を与えてくれて本当にありがとう!最初に「パルジファル」やりませんかと持ちかけてきた時は、頭おかしい人かと思ったけれど、案外マトモな警察官でした。
 こんな風に、みんなに支えられて、今年の「ワルキューレ」も無事終了しました。各幕終了直後の客席からの大きなブラボーの声は、みんなで分け合って味わおうね。

今ね・・・ホントはフヌケになっているんだけど、そんなことも言ってられない。関西の子供達が、目をキラキラさせて待っているんだ。頑張らねば!


「ワルキューレ」終演

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